性虐待を理解するために

家族からの深刻な被害、どう克服したか

 

ここに、読み終わったばかりの1冊の本がある。「私の中のわたしたち 解離性同一性障害を生きのびて」(国書刊行会)。著者の中南米系米国人女性、オルガ・R・トゥルヒーヨさんが、子ども時代の壮絶な性虐待と、どのようにその経験を克服したかを述べた本だ。重い内容であるにもかかわらず、人柄を感じさせる冷静でしかも温かい語り口で、一気に読み終えた。

 

トゥルヒーヨさんは、9月30日から2日間、東京都内で開かれた「第20回全国シェルターシンポジウム」で基調講演をした。翻訳されたばかりの本書も、その会場で購入したものだ。明るい目をし、時にユーモア交じりに語った内容は、あまりに過酷な体験だった。

 

3歳の時に父親によるレイプが始まり、のちに兄たちやその友人らからもレイプされ続けた記憶を、彼女は自分の中に作り出した分身たちに担わせ、記憶を閉じ込めることで生きのびた。そのような精神状態を示す「解離」について、彼女は講演で、幼い時の自分の写真を示しながら繰り返し語った。被害を受けている自分を別のどこかから見ているような感覚、解離の状態の時に特徴的な、じっと見つめる(stare)目つき。

 

 

周囲の人たちとの交流が持つ重要性

 

一方で強調したのは、家族との関係が最悪であっても、愛情にあふれた隣人や教師らとの交流が決定的に重要だったことだ。隣人たちは、幼い彼女を注意深く見守り、声をかけ、ハグし、彼女の存在には価値があることや、成長する喜びを感じさせた。彼女は会場に向かい、「専門家でなくても、それはみなさん一人ひとりができることなのです」と語りかけた。

 

解離は、彼女にとっては生きのびるための「創造的な」手段だったという。成長して弁護士になった彼女は、子ども時代の被害体験を思い出すことはなかった。だが、幼少時には不可欠だった「解離」が、大人になった彼女の生活、人間関係、健康を損なうことになる。

 

そこから、本当の自分を取り戻すためのもう一つの壮絶な戦いが始まる。著書の後半は、治療過程の詳細な記述にあてられている。ここでも、精神科医だけでなくパートナーや職場の人々との人間関係が決定的な役割を果たしている。上司や同僚とのやり取りが具体的に書かれていて、職場に彼女と同じような課題を抱えた人がいる場合、どう対応したらいいかのお手本のようで興味深い。

 

私たちはこの本を読むことで、性虐待がどれほど深刻な影響を被害者にもたらすか、被害から立ち直るために重要なことは何かを理解することができる。そこには、繰り返し被害に遭うことで、それを決して望んでいるわけではないのに、自ら加害を誘うような行動を取ってしまうことも含まれる。

 

シンポジウム会場で開かれたサイン会で来場者と握手するトゥルヒーヨさん

 

 

公訴時効の期間が短すぎる

 

今年6月、日本では、刑法の性犯罪規定が制定以来110年ぶりに大幅改正され、法定刑が引き上げられるなどした。だが、積み残された課題がたくさんある。その一つが、性犯罪の公訴時効だ。

 

刑事訴訟法では、強制性交等罪(以前の強姦罪)は被害から10年、強制わいせつ罪は7年で時効を迎える。だが、トゥルヒーヨさんの事例からも明らかなように、子ども時代の被害に本人が対応できるようになるまでに長い年月がかかることは少なくない。大人になってからの被害であっても、長期間にわたって自分の胸の内だけに封じ込めていた事例は珍しくない。

 

シンポジウムで報告した大阪大学大学院教授の島岡まなさんによると、フランスの刑事訴訟法では、成人への強姦の時効は20年、未成年時の強姦の時効は成人してから20年(38歳まで)であり、さらなる延長も検討された(法案は国民議会で廃案に)。島岡さんは、性犯罪の公訴時効の撤廃または停止が必要だと主張している。

 

 

加害が起きる社会構造を変えるには

 

トゥルヒーヨさんが著書でも講演でもふれていない重要な論点が、一つある。なぜ加害が起きたのかだ。父親の家族に対する激しい暴力の背景には、男性優位の家父長的思考、それを許す社会構造があることは間違いない(移民への差別もあるだろう)。妻や娘、さらに息子たちも自らの所有物であると見なし、絶対的に支配しようとする。それは、この父親だけの問題ではない。程度の違いはあるだろうが、日本の社会にも根強く巣食っている。だからこそ、DV(ドメスティックバイオレンス)防止法の施行から16年たってもDV被害は一向に減らないのである。

 

なぜ、彼女がこの点にふれていないのかは推測するしかない。法律家らしく、自らの体験など事実として確かなことしか記述しなかったのかもしれない。だが、起きてしまった性被害への理解と被害からの回復の支援だけでなく、被害を減らすことが必要だと考えるなら、避けては通れない課題だ。ここから先、何が必要なのか、どのように行動すべきかを考える作業は、私を含めてこの本を読んだ一人ひとりに課せられている。

ジャーナリスト 林 美子(はやし よしこ)

2016年まで朝日新聞記者。労働やジェンダーの分野を中心に取材、執筆活動を続ける。早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員。