憲法の行く末 ~いま、何が必要なのか~(前編)

 

7月の参議院選挙の結果、改憲に積極的な勢力が衆参両院の3分の2を占めた。憲法改正の発議に必要とされる国会議員の人数が、数の上ではそろったということだ。今のところ、改憲勢力とされる各党の間に、どの条文をどう変えるか、という点で合意があるわけではない。しかし、憲法改正が発議される可能性は、これまでに比べ高くなったのは事実だろう。

憲法は、国家権力の濫用を防ぎ、国民の権利を実現するための法である。その機能を強化する改憲ならば、国民の幸福につながる可能性もある。しかし、現在の改憲論議には、見過ごせない歪みがある。それは、憲法改正それ自体が目的になっていることだ。

憲法の意義からすれば、「憲法改正」は、現在の国家の現状の問題点を踏まえ、今よりも権力の濫用を防ぐにはどうしたらよいか、今よりも国民の権利をより実現するにはどうしたらよいか、と考えて提案されるべきことのはずだ。つまり、憲法改正は、何らかの課題を解決するための手段である。にもかかわらず、改憲派の中には、政策的必要性などおかまいなしに、どこでもいいから、とにかく憲法の条文を変えたい、と言わんばかりの姿勢が目立つ。

例えば、自民党は、7月の選挙公約に「憲法改正」の節を設け、「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」の基本原理を堅持するとした上で、「国民の合意形成に努め、憲法改正をめざします」と宣言する。この公約は、どこをどのように変えるべきかを全く示さずに、「合意がとれれば、どこでもいいから改正したい」というものになっている。典型的な本末転倒な主張だ。

また、おおさか維新の会は、保育園から大学院までの教育無償化のための憲法改正を主張し、一定の注目を集めた。しかし、現行憲法でも、教育無償化は禁じられていない。それを実現したいなら、法律をつくり、予算をつければ済む話だ。この点について、同党は、政権交代などがあっても覆されないように憲法に明記する必要があると説明した。ただ、改憲は、衆参両院の3分の2、つまり、主要政党間の合意が存在することが前提になる。国会内でそれだけの合意が獲得できるなら、憲法に明記しなくても、そうそう覆されることはないのではないか。

さらに、憲法改正には国民投票の手続きが必要になる。2007年に衆議院法制局が行った試算によると、国民投票の実施には850億円の費用がかかる。それだけの予算があるなら、むしろ、それを教育無化や奨学金に振り分けた方がよいだろう。おおさか維新の会は、公務員給与削減をはじめとした税金の無駄減らしをアピールポイントにしてきた政党だ。わざわざ多額の費用のかかる改憲という方法で教育無償化を実現しようとする主張は、同党らしからぬ姿勢だ。これでは、どこでも良いから改憲したいという姿勢に迎合しているだけではないか、という疑念が生まれても仕方ない。

こう考えると、7月の選挙で示された改憲提案は、憲法の文言を変えること、それ自体が自己目的化している印象を受ける。それは、あまりにも不合理だ。

今の日本でなすべきは、憲法を読み直し、その価値を社会に根付かせることではないか。国民の誰もが安心して暮らせる社会になっているのか、重大な人権を見過ごしていないかを問う必要がある。これは、一部の人の自己満足のための本末転倒な憲法文言変更よりも、遥かに切迫した課題だ。この点について、検討してみたい。

 

生活保護訴訟

まず、今、全国で行われている、生活保護基準の切り下げの違憲性を訴える裁判について検討しよう。

憲法25条1項は、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障し、この権利を実現するため、生活保護法が制定されている。同法は、生活困窮者に、その状況に応じ「生活扶助」「住宅扶助」「教育扶助」などの8項目の扶助を支給することとし、扶助の基準額は厚生労働大臣により決定される。

この生活保護基準が、2013年5月16日、2014年3月31日の2回にわたり変更された。生活扶助は、世帯人数や年齢によっても基準が異なるから、切り下げ幅は状況によるが、基準額は平均6・5%も削減され、状況によっては10%も給付額を切り下げられた。原告弁護団は、この切り下げが制度始まって以来例のない大幅削減だと指摘している。

そもそも生活保護基準は、経済指標や国民生活の状況についての専門的な判断を尊重して決定すべきものだ。2013年1月、社会保障審議会の生活保護に関わる基準部会は、基準の引き下げに慎重な姿勢を示していた。そうした専門家の判断を無視してまで切り下げるべき事情はあったのだろうか。

厚労省は、消費者物価指数(CPI)をもとに、生活扶助以外の扶助で賄うべき品目や、NHK受信料などの生活保護受給世帯では支出の生じない品目を除いた、「生活扶助CPI」という独自の指標が下がったことを根拠としている。しかし、消費者物価指数が下がった主な原因は、薄型テレビやパソコンなどの高額電化製品の価格の下落とも指摘されており、そうした商品をほとんど買い換えない生活保護受給者からすれば、物価の下落による恩恵はほとんどないだろう。他方で、生活扶助の算定において、とくに重視される生鮮食料品などの物価は上昇している、との指摘もある。物価の動きだけでは、専門家の判断を無視するだけの根拠になり得ない。

他方で、切り下げの背景として指摘されているのが、2012年末の衆議院総選挙の公約だ。自民党はこの選挙で、「生活保護費の給付水準1割カット」を公約した。当時は、生活保護に激しいバッシングが浴びせられており、同党には、この公約が世論で支持されるという感触があったのだろう。実際、この公約への批判は自民党支持者を切り崩すこともなく、選挙では自民党が大勝し、政権与党に復帰した。

しかし、十分な根拠もなく生活保護基準を切り下げれば、生活保護受給者は「最低限度」の生活ができなくなる。そして、「最低限度」の生活を否定するということは、その個人の生を否定すること、「お前は死ね」と言っているに等しい。

そう考えると、政権与党が生活保護費のカットを公約し、それが安易に実現してしまう事態はかなり深刻である。その公約に強い批判が巻き起こらなかった背景には、生活保護受給者は「怠けているだけではないか」とか、「役立たずだから当然だ」という風潮があるだろう。多くの人が出口の見えない不景気にさいなまれている現状では、経済的な弱者に支援の手を差し伸べるよりも、彼らを排除する方向に流れやすくなる。

しかし、「怠け者」や「役立たず」を排除しようとする態度は、極めて危険だ。一人でも「役立たず」だという理由で排除することを認めれば、「生産性が低い」と看做された個人をどんどん排除することにつながる。

憲法13条は、「すべて国民は、個人として尊重される」と規定している。生活保護をめぐる状況を改善するには、憲法の「個人の尊重」の理念を、もう一度、見直す必要があるだろう。

 

(後編に続く…10/31更新予定)

 


首都大学東京 教授 木村 草太 (きむら そうた)首都大学東京 教授 木村 草太 (きむら そうた)
1980年、横浜市生まれ。東京大学法学部卒業、同助手を経て、現在、首都大学東京法学系教授。専攻は憲法学。著書の「憲法の急所(羽鳥書店)」は「東大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。