憲法の行く末 ~いま、何が必要なのか~(後編)

相模原事件

もう一つ、例を挙げよう。

2016年7月26日、相模原の知的障害者施設で、19人もの入所者が殺害されるという、実に痛ましい事件が起きた。容疑者は、「ヒトラーの思想が降ってきた」などと話していたという。

大量殺人と言えば、テロやヘイトクライムを思い浮かべるが、この事件はそのいずれとも異なる。テロは、社会に恐怖を与えることで、人々を操作し、政治目的を達成しようとする、言わば大規模な脅迫だ。しかし、今回の容疑者は、政府に要求を突き付けているわけではなく、障害者の殺害自体が目的であった。

また、ヘイトクライムは、特定の人種や民族等に対する蔑視感情や憎悪に基づく犯罪だ。アメリカの黒人差別や同性愛差別などが典型とされる。今回の事件は、一見、障害者差別に起因するようにも見える。しかし、容疑者の言動は、障害者への差別や憎悪といった不合理な感情や衝動ではなく、一貫した論理に基づくもので、ヘイトクライムとも性質が違う。

今回の事件から連想すべきは、多くのメディアが指摘するように、ナチスの優生学だろう。優生学とは、人間の生を、国家や社会にとって有意義なものとそうでないものに分別し、後者を排除しようとする思想だ。

米本昌平さんは、著書『遺伝管理社会』の中で、「ほとんどのドイツ人が、ナチス時代の十二年余の長きにわたって、しかもこのときだけ発狂していた」というのは、およそ不合理な解釈であり、「優生学の大規模な社会的適用が狂気によるものではない」ことを踏まえ、「悲劇を成立させてしまった真の原因を摘出してみせる」必要があると述べている(同書26~28頁)。ここで指摘されたように、優生学が厄介なのは、それが不合理な感情論や狂気がもたらしたものではなく、合理性を突き詰めた発想だという点だ。

経済発展や軍事的勝利など、狭い視野に基づく目的を至上命題としたとき、「足手まとい」に見える生はいろいろある。ナチスは、障害者を「国家の発展のために排除されるべき生」と位置づけ、虐殺したのだ。今回の事件では、容疑者が精神疾患による措置入院の過去があったため、措置入院の厳格化や施設の警備強化に注目が集まりがちだ。しかし、事件の背景には、優生学的な思想がある。この悲劇を二度と繰り返さないためには、こうした思想にどうむき合っていくかが問われねばならない。

この点、良識ある市民からのコメントには、「人の命はすべて尊く、いらない命はありません。優生思想は誤っています」といった論調が多いように思われる。しかし、「重度の障害者は、人の手を煩わせるばかりで何の生産性もなく、コミュニケーションすらできない。そんな人に価値はない」と考える人にとっては、何の説得力もないだろう。そもそもの「人の命はすべて尊い」という価値観を否定しているからだ。優生学を克服するには、「そんな発想は不合理だ」と非難するのではなく、その合理性をさらに突き詰めた時の結論とむき合うしかない。

障害者を排除すれば、障害者の支援に充てていた資源を、他の国家的な目標を実現するために使えるだろう。しかし、それを一度許せば、次は「生産性が低い者」や「自立の気概が弱い者」が排除の対象になる。また、どんな人でも、社会全体と緊張関係のある価値や事情を持っているものだ。タバコを吸う人、政府を批判する人なども、社会の足手まといとみなされるだろう。国家の足手まといだからと、誰か一人でも切り捨てを認めたならば、その切り捨ては際限なく拡大し、あらゆる人の生が危機にさらされてしまう。

そうした危険を回避するためには、国家的な価値に基づく「人の生の選別・序列」そのものをやめる必要がある。つまり、「個人の尊重」という価値を、他のあらゆる国家的価値に優先させねばならない。

ドイツではナチスへの反省から、憲法(ボン基本法)の冒頭に、「人間の尊厳」が規定されるに至った。先ほどみた日本国憲法第13条が「個人の尊重」を謳うのも、個人を切り捨てて行く危険を踏まえたものだ。

 

おわりに

2012年末の自民党選挙公約の背景にある生活保護バッシングには、「役立たず」を排除しようとする思想があるだろう。また、相模原の事件は、感情的な差別行動ではなく、ある種の「合理性」や「理性的判断」に基づく排除が、個人の尊重という理念を破壊してしまうことを示している。今見た二つの例は、私たちの社会が、「個人の尊重」という価値を根付かせることに失敗しているかもしれないことを示唆している。

このように言っても、排除されるのは所詮ごく一部の人であり、自分には関係ないと思う人もいるだろう。しかし、「個人の尊重」の問題は、近い将来、全ての人の生活に深く関わってくる可能性が高い。

プライバシー権の研究者たちは、今後、個人の遺伝情報についての深刻なプライバシー問題が生じるだろうと予測している(参照、山本達彦「ビッグデータ社会とプロファイリング」論究ジュリスト18号・2016年)。

遺伝子情報の解読が進み、高度に発展した情報処理技術を使えば、巨大なデータベースをつくることができる。個人の遺伝子から、「この人は犯罪を起こしやすい」、「この人は会社に貢献しやすい」、「この人は組織での仕事にむかない」といったプロファイリングができるようになる。企業や国家は、遺伝子情報を収集して、雇用や許認可の場面で利用するようになるかもしれない。場合によっては、遺伝子情報による生の選抜が行われる恐れすらある。

「そうなっても、私は優秀だから大丈夫」と思う人もいるかもしれない。しかし、将来、どのような遺伝子情報に基づき排除が行われるのかは、あらかじめ予測することは困難だ。私は大丈夫、と思っている人でも、思いがけない遺伝子が、社会から排除されるきっかけになるかもしれない。

遺伝子情報の蓄積も、ビッグデータ社会の進展も、極めて便利なプラスの側面があり、それを押しとどめることは難しいだろう。しかし、そうした技術発展には、見過ごせない負の影響がある。それを最小限に食い止めるには、「個人の尊重」という理念を社会により強固に根付かせるしかない。生活保護訴訟や相模原の事件を踏まえて、「個人の尊重」という理念を理解し直す作業は、見かけ以上に重要である。

衆参両院の憲法審査会での議論が、「個人の尊重」という憲法の理念を見直し、根付かせるきっかけになることを祈らずにはいられない。

 

 


首都大学東京 教授 木村 草太 (きむら そうた)首都大学東京 教授 木村 草太 (きむら そうた)
1980年、横浜市生まれ。東京大学法学部卒業、同助手を経て、現在、首都大学東京法学系教授。専攻は憲法学。著書の「憲法の急所(羽鳥書店)」は「東大生協で最も売れている本」「全法科大学院生必読の書」と話題に。