【自主レポート】

第33回愛知自治研集会
第8分科会 地方再生とまちづくり

木造建造物の保存修理の意義とまちづくりに
活かすための課題
―― 大分県国東市「重要文化財 泉福寺仏殿」
   の全解体修理から ――

大分県本部/大分県地方自治研究センター・地域活性化専門部会 藤本 啓二

1. はじめに

 重要文化財の大型木造建造物を保存修理し、伝えていくとはどのような営みなのか。またその遺構を活用しまちづくりにつなげて行くことの課題とはなにか。20年間バトンをつないで重要文化財の指定を受け、3年間をかけて復興した国東市の泉福寺仏殿の全解体修理の取り組みを振り返る中でその意義と課題を検討したい。

2. 泉福寺の住職

 国東市の泉福寺は、開祖から数えて第469世(代)の住職が管理する曹洞宗の禅宗寺院だ。この寺院の歴代住職は、創建以来『泉福禅寺住帳』などによると、原則一年の任期であった。明治に入り独住制(住職が1人で永年に渡りその任に当たる)となってからは、今日で第9世となる。現住職は言う。1年間の任務は、住職が寺で過ごす生活費や伽藍の維持管理経費を負担することを意味する。歴代住職は、私財を投げうち人脈を頼りに開山堂に祀られた九州曹洞宗の名僧であり、開祖の無著妙融禅師の菩提と法灯を今日まで守り伝えてきたのだ。

3. 行政担当者

 「文化庁建造物課主任文化財調査官」。非常に長い職名を持つこの人物は、簡単にいうと、日本全国の歴史的な建造物を事前に調査して、まず最初に評価する任務に当たる。国東市の名物文化財課長は「いわば地方の行政職員からすれば閻魔大王みたいな人だ」と言ったことがある。その調査官に、大分県教育庁文化課と国東市教育委員会文化財課の担当者で何度も何度も仏殿の再評価、再確認のお願いに行った。その間、国が全国各地で行った江戸時代の社寺調査も行われたが、禅宗様(唐様)建築の泉福寺仏殿は、正しい価値や評価が十分に認められることはなかった。もはや重要文化財の指定は困難かと、関係者一同あきらめかけていたところ、その閻魔大王より関口欣也先生をご紹介いただいた。「横浜国立大学名誉教授の先生がおられるから、この先生に一度調査してもらったらどうですか」と。禅宗様建築の大家であり古建築学会の重鎮であるその老学者は、6月と7月に蒸し風呂のような仏殿の屋根裏にもぐり、丹念に図面をとり境内周辺をくまなく歩き、寺院秘蔵の文献を読み調査した。かくして学術雑誌『仏教技術』に発表された「豊後泉福寺の禅宗様仏殿」は、泉福寺仏殿の価値を余すところ無く伝え歴史的な評価を公にされたのであった。
 関口欣也先生による泉福寺及び仏殿の価値と意義は、おおよそ次の4点に集約される。
① 泉福寺は、丘陵の麓に開かれ、谷の下方から階段状に惣門、山門、仏殿、本堂(法堂)が中軸線に沿って並ぶ禅宗寺院特有の伽藍形態を成している。このような配置は、中国南宋の時代に盛行する禅宗文化の影響を受け国内に建立される中世の曹洞宗寺院の典型である。
② 禅宗様仏殿としては、九州で最古。曹洞宗寺院では西日本で唯一現存する仏殿である。
③ 泉福寺秘蔵の木版本『宏智録』6冊(国重要文化財)は、ひたすらに座禅する黙照禅を宗風とする曹洞の法を継承した中国宋代の高僧宏智正覚(1091~1157)の語録で、薄い唐紙に刷られた『宏智録』は、伝えによれば中国宋代の高僧芙蓉道楷の法衣とともに道元が日本へもたらしたもので、彼が京で亡くなった後、弟子の詮慧に託され、さらに無著に伝えられたもの。
④ 『正法眼蔵抄』31冊(県有形文化財)は、道元の著作『正法眼蔵』75巻の最も古い妙録であり且つ注釈書として宗門では名高い根本文書といえる。伝えによれば寺宝として古くから開祖無著の墓塔を祀る開山堂に安置され、堂外不出とされてきた。 
 関口先生の調査成果が公表された後、文化庁建造物課の主任文化財調査官も自ら現地調査に来て、蝉しぐれの中、蒸し風呂の仏殿に潜られた。名物課長は言う「私どもからしたら、調査官が閻魔大王様からお地蔵様に変化をされたような気持ちになりました。」。泉福寺は、2001年11月14日に国の重要文化財に指定された。翌年、地元住民や檀家などの寺の関係者が多く参加した国指定記念講演会で、当の文化庁調査官は「……閻魔大王みたいな者と紹介されておりますけれども、文化財は基本的にきちっとした価値付けができれば当然きちっと指定をして、保護・活用していくことをお手伝いしております。たまたま泉福寺の仏殿につきましては、……ひとえに関口先生のご調査と、それからその後の発表された泉福寺の仏殿に関する論文で、きちっと仏殿の評価をしていただきました。文化庁としても、こうして価値付けがなされた段階で、国の重要文化財に指定することとなりました。繰り返しますが、関口先生による、泉福寺仏殿だけではなく、その背景にある歴史に関するご研究の賜物だと言っていいかと思います。……泉福寺仏殿については、曹洞宗の九州地方おける禅宗の建物としては最古、また仏殿としては唯一のものであるというわけでして、そういう点が高く評価されています。」つまり、文化財としての評価は、学術的な調査研究によって、正しく物件の歴史的な価値が資料を基に立証され確認されていることが極めて重要で、まず最初に要求されることとなる。この事前調査や評価に関わる取り組みへの行政のサポートは、大学や研究機関及び国・県の指導も含めて欠くことのできないものといえよう。この修理事業に携わった地元の文化財行政の歴代担当者は、市文化財課の課長が3人(代)。担当者は6人(代)。県文化課の担当官は8人に及ぶ。彼ら彼女らが、20年間バトンをつなぎ仮設の覆い屋や部分修理などの応急措置を講じ、希望を絶やさず2004年から2007年に及ぶ全解体修理へと導いたのだ。

4. 現場監督

  「文化財建造物保存技術協会九州支部 泉福寺仏殿修理事務所所長」この大変に長い肩書は、仏殿を含む平成の大修理を担当した文化財保存修理専門の現場監督だ。修理前、仏殿の状態は悲惨だった。屋根や柱などの建築部材は、雨漏りや経年の腐敗により損傷が著しく、応急措置として仮設の覆い屋を設け仏殿全部をトタンで覆い隠していた。「あと数年遅かったら建築部材の全てを取り替えねばならなかったかもしれない。逆にもう数年修理が早ければ毀損した多くの部材を腐食から守りもっと多くの古材を残せただろう。」監督は修理の苦労をこう語った。工事は、3年間続いた。大工さんなど人工数は延べ3,000人に達した。今では、建物が古くなると壊して新しいものを建て替えるが、江戸時代まで、あるいは戦前までと言って良いかもしれないが、古い建物が傷んだら資源を無駄にせず、使える木材を利用しながらうまく修理し残していくことが基本的な建築の方法だった。仏殿が今日まで、当初の様式を留め伝えられた理由だ。仏殿は室町時代の柱を江戸時代の元禄に根継ぎしたものが多くあった。平成の修理でも再利用できる柱はすべて、腐朽した木材と樹種や生育環境も同じ国産の松材で根継ぎした。古材はできるだけ生かし、傷んだ部分は切り取って新しい木材を埋め込んで修復している。仕上げには、台鉋がまだ室町時代にはないので、手鉋を用いている。3年間、現場監督は、近代建築が主流となり、古式の木工技術を体得する大工さんも少なくなっている中で、境内に設置された仮設のプレハブに常駐し、現場を指揮し施行技術にたいして決して妥協することなく、時には深夜まで解体調査結果を基に修復の図面や材料加工の検討を行った。その日は突然訪れた……2006年の夕刻、監督は境内で図面を取り終え外にいた大黒様(住職の妻)に挨拶した直後、そのまま脳梗塞で倒れた。幸いにも大黒様のその後の迅速な対応で救急病院へ搬送し、一命を取り留め後遺症も残らずにすんだ。その日から約1年間、闘病生活が続いたが、彼は見事に現場に復帰し仏殿の修理の偉業を成し遂げた。竣工式の日、感謝状を読み上げる住職が最後に一言いった。「長生きしてね」。竣工式に参列した多くの関係者はみんな笑った。

5. 地元住民

 仏殿の修理工事を進める中で、最も難航したのが屋根の復元方法であった。解体の結果、仏殿は江戸時代、茅葺き屋根であったことが分った。それ以前は板葺きであろうと思われるが痕跡は不明。したがって、重要文化財の修復としては、その価値を損なうことなく確かな証拠をもとに可能な限り原型に復す立場から、文化財保護行政サイドとしては茅葺き屋根が望ましいとの方針を示した。しかし、地元からは、茅葺き屋根では葺き替えなど維持管理が大変だとして、銅板葺きで修復できないかとの案が出された。最終的な方針を決めるのは、地元の所有者であり管理団体だ。「形あるものは壊れる。ごく自然な現象。だれも止めることはできない。」原型のまま保護するなど不可能であり、意味はない。地元関係者の中から出てきた言葉であった。事業着手から約1年が過ぎ、茅葺きか銅板葺きか結論をだす日が訪れた。その日、市、修理事務所、地元の役員関係者は、全解体が終了した仏殿に集まった。まず現場監督から、解体調査で分った仏殿建築の技術や修理履歴が詳細に解説され、その歴史的価値や重要性が改めて報告された。この日、議論に多くの時間を費やす必要は無かった。参加者はみな、物言わぬ仏殿がその体内に刻み込んできた歴史の重みに圧倒され、仏殿本来の姿である茅葺きで残すことを全会一致で決定した。
 仏殿の修理に着手してから新たな問題も浮上した。泉福寺は、山間斜面の中に伽藍が形成されているので、有事の際の消火活動に必要な水利がないのである。もちろん消火施設もない。せっかく平成の大修理で復興した木造建造物も消火施設がなければ、灰燼に帰すことになる。特に仏殿は、旧来の茅葺き屋根に復元するため、火災に遭いやすい。実はこの消火施設についても仏殿の修復と同様、これまで長い間、地元も行政も懸案事項としてきた課題であった。仏殿の完成を前にして、再び地元と負担金の問題や防災事業の内容を協議検討することになった。最終的には地元関係者と住職の英断で、貯水槽と自動放水銃合計6基を含む防火施設の設置を仏殿の修理と同時平行で着手するに至った。

6. 住 職

  「この度、法縁熟し、本年11月12日 午前10時より、開山忌及び開山堂並びに佛殿落慶の法会を修行させて頂く事に相成りました。」平成の大修理が完了し、関係者に配られた案内状である。その年、泉福寺住職第469世(独住9世)の無着成恭老師は、次の私信をしたため全国の無著派の末山(末寺)や法灯を汲む禅僧へ送った。
 「ご存知と思いますが泉福寺は、日本曹洞宗無著派の根本道場と言われ、明治維新の廃仏毀釈(神仏分離)までは曹洞宗九州総本山として修行僧を育てていたと記録されています。……したがって、宗門の中ではアウトサイダーとして実践してきた私にはこの寺の住職資格はありません。けれども先住、稲井令弘老師からのご推薦と御本山総持寺からの再三の特命に負けまして、最終的には口約束ながら適当な方が見つかるまでの三年という約束で……書類にハンコを押したのでした。さて、それから約束の3年が過ぎて4年経ってしまいました。それはこれから述べる復興工事の連続だったからです。その工事も来年2008年3月31日で完了することになりました。できることならその日に退董すると決意しています。……実は私が一番心配していることはお金の問題ではありません。曹洞宗にとって、とくに九州の曹洞宗にとって、もちろん無著派にとって、これだけの由緒ある寺がこのままでは滅びてしまうのではないかという危惧です。……七堂伽藍を先代の稲井老師と、私とで一応ととのえ、座禅堂を残すのみとなりました。あとはこの泉福寺を、現代に生きた宗教を問う拠点にできるかどうかということです。……全国に広がっている無著禅師の法を受け継ぐ人法、伽藍法その他、泉福寺の来し方行く末、日本仏教の将来に心痛めている方々、以上のことをよろしくお願い申し上げます。独断で申し上げましたが、これは私の遺言と受け取っていただいて結構です。お寺とは何をする所か? 住職とは何をする人か? そういうことを考え実践する拠点に、泉福寺をして欲しい。これが私の最後の願いです。」 
 この私信から1年の後、平成の大修理が完成の日の目を見た頃、無着老師は再び仏殿の竣工写真を同封した書簡を再び先の関係者へ宛てて送った。
「泉福寺住職の特命を受けてから四年経ちました。住職をしてみて、これでは先住の稲井さん、さぞ大変だったろうなあと思いました。まず、住職が住むところ、台所、便所、風呂場など(簡単に言えば使用禁止の状態)。稲井老師御夫妻がここで生活なさっていたのかと思うと涙なしにはおられませんでした。従って私の仕事は庫裏の改築から始まりました。つづいて、台風による倒木が山門の屋根を破壊しました。その修理工事。つづいて、最大の難関、佛殿の解体復元、平行して開山堂覆屋の雨漏りによる屋根瓦の前面葺き替え、昭堂の解体復元、渡り廊下の建て替え、防災設備等の完備等、工事はまだ続いていますが私の体力も限界ですので、佛殿復元が完成した段階で私の名前で行うものとしては最後の落慶法要を昨年11月12日させていただきました。……すっかりお礼が遅れてしまいました。……お礼申し上げます。ありがとうごさいました。ついでながら、泉福寺は曹洞宗の九州総本山と言われていたという由緒のある寺ですから、九州中の僧侶の方々の情熱で、再び人間を打出する、道場として機能してくれればいいなあと思っています。お寺の任務は、建物をたてることではなくて、そこを道場として、どんな人間をつくるかということだと思います。国宝とは建物ではなくて、その国に住む人間そのものです。私はそう思いながら復元工事を眺めていました。」 泉福寺仏殿の修復は、先代の稲井令弘老師により準備が進められ国の重要文化財となった。稲井老師は晩年、癌を発症したが91歳で亡くなる前年まで、地元檀家の葬儀を住職として努めた。亡くなる前年、泉福寺を下山され伊豆の禅院に隠居されたが程なく死去。復興した仏殿を再び見ることはなかった。稲井老師もまた3年の約束で本山から派遣されたが、19年間の長きに渡り泉福寺住職を務めた。後を継いだ無着成恭老師は、修理工事を実施され、その他の堂塔とともに平成の大修理を成し遂げ見事に泉福寺を復興した。住職のバトンリレーもまた、20年を要したのだ。無着老師は、現在もなお、泉福寺の住職である。

7. おわりに

 多くの文化財建造物は屋外にあるため、永い年月の間に老朽化あるいは損傷を受ける宿命を持っている。したがって、数十年あるいは数百年に一度、建物の部分修理や全解体修理を行い、伝統技術とともに将来を見すえて継承し、子や孫の代へ守り伝えてゆかなくてはならない。文化財建造物の修復は、単なる有形遺産の保護だけではなく、建物に集う多くの一般市民や建築にたずさわる職人、また建物を活用し守る人が生み出す無形の文化遺産を育むための極めて重要な事業だ。 
 住宅は、人が住まなくなると途端に傷むが、古い建物も例外ではない。身近な生活の中に古い建物が生きづき、その魅力に人が集い使われ続けるためには、行政とも連携し地域と一体となって保存と活用に取り組んでいく必要がある。地域に固有の伝統的な建物が残り、往時の人々の息づかいまでが聞こえてきそうな魅力的な町は、どこにでもある近代的な町並や集落とは違い、どこか人を引きつけ住む人の心を豊にしてくれる。伝統的な古い建物は、郷土の豊な歴史と文化を育む大切な遺産であり、地域づくりに欠かせない資産であるということを今一度認識し、歴史のある建造物を活かし、地域の文化をさらに発展させる努力を怠ってはならないと思う。「……これだけの由緒ある寺がこのままでは滅びてしまうのではないかという危惧です。……これは私の遺言と受け取っていただいて結構です。そういうことを考え実践する拠点に、泉福寺をして欲しい。これが私の最後の願いです。……情熱で、再び人間を打出する、道場として機能してくれればいいなあと思っています。お寺の任務は、建物をたてることではなくて、そこを道場として、どんな人間をつくるかということだと思います。国宝とは建物ではなくて、その国に住む人間そのものです。私はそう思いながら復元工事を眺めていました。」この無着老師(現泉福寺住職)の言葉を地域に暮らす我々がいかに受け止めるか。文化資産の活用と言う点では、地域に点在する全ての寺社に共通する課題であろう。