【自主レポート】

第33回愛知自治研集会
第10分科会 自治体から発信する平和・人権・共生のまちづくり

 旧群馬県多野郡藤岡町においては、関東大震災直後に、朝鮮半島出身者に対する虐殺事件の一つである「藤岡事件」が発生した。本レポートでは、行政文書である藤岡町役場文書に残された検視調書などを紹介し、地域に残された歴史史料の重要性とその積極的な活用について啓発すること。また、その記録が例え地域にとって不名誉なものであっても、客観的事実を直視し、継承することの重要性を指摘することを目的とする。



藤岡町役場文書に残された「藤岡事件」
行政文書に残された朝鮮人虐殺事件

群馬県本部/藤岡市役所職員労働組合 櫻井 孝

1. はじめに

@ 藤岡町役場文書
 藤岡市史編さん事業が完了した2001年5月に、当時教育委員会総務課市編さん係に所属し、原始・古代・中世通史編の編纂を担当していた筆者は、嘱託職員のK氏より「大正十二年 東京付近 大震火災ニ関スル書類」と題する旧藤岡町役場の文書綴りを預かった。
 この文書綴は、40年ほど前に行われた旧藤岡町役場庁舎解体工事に際し、職員が焼却処分しようとしていたものを、近くの小学校に教諭として勤務していたK氏が、職員の許可を得て保管していたとのことであった。
 氏は退職後藤岡市史編纂に携わり担当の近代・現代編にこの史料を利用したが、事業完了後この文書綴を財保護課に異動が決定していた筆者が、前述の経緯と共に託され、現在市教育委員会で保管している文書綴である。
 なお「藤岡事件」とは、関東大震災直後から発生した流言蜚語を背景に、主に関東地方で発生した朝鮮人虐殺事件の一つで、当時の多野郡藤岡町、現在の群馬県藤岡市で発生した事件のことである。本稿においては、朝鮮半島出身者に「朝鮮人」或いは「鮮人」と表記している部分も多くあるが、史料の記述をそのまま用いたためのもので、他意のないことを予めご理解いただきたい。


2. 藤岡町役場文書の概要

A 群馬県発行震災関係の冊子

 本史料に綴じられた文書は1923年9月2日、つまり関東大震災の翌日より8日までの「震災ニ関シ各書記夜勤表」と題する役場書記の夜勤割当表から始まり、翌年8月20日の多野郡長発給、町村長宛の「震災被害並救護施設概況送付ノ件」と題する文書まで、約1年間の150種類余りが676ページに綴じられている。震災被災地への救護団派遣や、義援金品の徴募など被災者救援に関する文書、被災地に住む親類縁者の消息確認や、救済のため入京する際に必要な、身分や目的の証明の依頼書や証明書の写し、被災者やこれを受け入れた藤岡町民に対する白米の廉売や、被災者の就職斡旋に関する文書、公共交通機関の運賃の特例についての通知など、被災者の生活支援に関する書類。震災後の世情不安、主に朝鮮人暴動に関し各方面から発給された治安維持に関する文書や、藤岡事件で殺害された人々の死亡者引渡書や検視調書、殺人犯として逮捕起訴された犯人たちの弁護料領収書など、多岐に及ぶ文書が綴じられている。
 なお、市教育委員会では合併前の各町村の行政文書綴を複数保管しているが、本書のみが関東大震災という特定の出来事に関連する文書のみで綴じられており、震災への対応が当時の行政にとっていかに特異なことであったかを物語っている。またこの文書綴の中には、群馬県が関東大震災への対応を詳細にまとめ発刊した「関東大震災ニ際シ活動概況」と題する小冊子と、臨時震災救護事務局が発行した「震災被害竝救護施設の概況」と題する小冊子が綴じ込まれている。これら冊子の奥付は発行日が大正十三年三月三十一日とされており、震災発生から短期間でまとめられたもので、震災直後の様子を知るうえで極めて貴重な史料と言える。


3. 藤岡町役場文書に記された藤岡事件

B 自警団組織に関する文書

(1) 自警団の組織と関係文書・藤岡事件の発生
 藤岡事件の発生する二日前の9月3日には、主に京浜地方で朝鮮人の一部が、井戸に毒を投入し、放火や爆発物の投擲などの不逞行為を行っているが、警察官の多くが被災地に出向しており、警備が手薄となっているため、在郷軍人分会員・消防組員・青年団員などで自警団を組織し、警戒にあたるようにとの通達が発せられ、藤岡町や周辺の村々においても自警団が組織された。しかし、自警団の組織や活動について積極的行動を指示した文書はこれのみで、以降発せられた治安維持に関する行政文書は、殆どが行き過ぎた警戒の方法や制裁を戒めるものであった。
 しかし、自警団員をはじめとする市民の緊張はますます高まり、ついに9月5日、警察が新町の砂利会社などで雇用していた朝鮮人14人の安全確保を依頼され、留置場に保護していることを聞き付けた藤岡町の自警団が、これらの人々の即座の引き渡しを求め13人を総代に交渉を行った。しかし藤岡警察署では、折から署長が不在で即座の引き渡しは無理であるとしてこの申し出を拒否したが、自警団側はさらに強硬に引渡を要求し続けた。そしてこの間にも多くの群衆が警察署に集まり、これらのひとびとの興奮はいよいよ増大し、ついに警察官の制止を振り切って留置場に保護していた朝鮮人に対し暴行・虐殺に及んだ。さらに、翌6日には、日野村の自警団が朝鮮人3人を藤岡警察署に連行したとの情報を得た藤岡自警団は警察署に押しかけ、このうち一人を殺害し、同日藤岡町内で発見した別の二人も殺害し、警察署の備品や公文書を破壊焼却した。
 以上が藤岡事件の経緯であるが、これらは、警察資料や新聞報道などをもとにした記述であると思われ、藤岡市史通史編には、根拠となる史料の明示はなく、藤岡町役場文書にもわずかに検視調書に事件の簡単な概要の記載が見られる部分もあるが、例えば警察が朝鮮半島出身者を保護する経緯や、日野村自警団が3人を連行したこと、そのうち難を逃れた2人の消息など事件の詳細に関する記録は認められなかった。


(2) 死亡通知書・検視調書
C 殺害された17人の死亡通知書(藤岡警察署長発 藤岡町長宛)
 前述のとおり、藤岡事件の発生から集結までの経緯について直接的に記した報告書・復命書などの行政資料については藤岡町役場文書には見当たらない。また、藤岡事件発生後に発給された各種行政文書においても、この事件について触れている文書も殆見当らず、むしろこの事件の詳細な記述を避けるかのような印象さえ受ける。
 但し、こうした中にも行政事務執行上必要な文書や、公私の別が明確でないが本史料に綴じ込んであった文書から事件を断片的に知ることができることもある。
 Cは、藤岡事件で殺害された人々の死亡を藤岡警察署長から藤岡町長に宛てた死亡通知書である。死亡者通知の件と題するこの書類には、藤岡事件の被害者の数が17人であることが明記されており、Dに示すような17人分の検視調書が添付されていた。検視調書には、被害者の人相や着衣・携行品などのほか、死亡の場所・年月日時・死亡の原因・死傷の方法・死体及び創傷の状況などが記載されていた。それらの記述内容を具体的に紹介すれば、人相・着衣・及び携行品については、被害者の身長・毛髪や体型・着衣・携行品の有無や内容などが記されているが、携行品については、一人が銀側の懐中時計を携帯していたのみで、他の人々は携行品を所持していなかった。また本籍・住所・身分・職業・年齢などは、16人については「本籍・住所・身分・職業・氏名不詳の朝鮮人」と記されているが、一人については朝鮮半島での出身地、通称の日本名、年齢とともに、住所不定朝鮮人と記されていた。なお銀側の懐中時計を所持していたのもこの人であった。さらに、死傷年月日時については、前述の藤岡事件の概要で紹介したとおり、3人については9月6日で、その他の14人は5日となっており時間についてはいずれも午後8時〜12時となっている。
 また、死傷の原因・死傷の方法についてはほぼ同様の記述で、「九月一日震災后警察力ノ足ラサル処へ京浜地方ニ於テ不逞鮮人跋扈シ内地人ニ迫害を加ヘタル流言蜚語ニ惑ハサレタル民衆ガ鮮人ニ対スル殺気漲リ群衆襲撃シテ死ニ至セルモノナリ」と事件発生の経緯を簡単に記載している。また、死傷ノ方法についても、「保護室ニ検束中ノ鮮人ヲ留置場ヨリ引出シ多数ノ者ガ日本刀棍棒鉄砲竹槍ソノ他凶器ヲ以テ殺害シタルモノナリ」と無抵抗の状態にあった人々を虐殺した事実が記録されている。
 また、死体及び創傷の状況の欄には、被害者の遺体のあった場所やそのときの状況、致命傷やその他の傷などが具体的に報告されている。この中で、死亡していた場所についての記述は、17人中13人が警察署内の留置場前となっているが、二人が警察署前の火の見櫓脇、一人が警察署前成道寺六童(ママ)尊前となっており、残りの一人については死亡していた場所の表記はなかった。また、死体に残された創傷も具体的に記されており、例えば「右頸部中央ニ於テ巾四仙迷、深サ頸動脈ヲ切リ頸椎ニ達ル刺創ノ外手足顔頭等ニ棍棒ヲ以テ殴打セルカ如キ殴創」などの生々しい状況が報告されている。そして、遺体の引取人については、「藤岡町役場町長代理ニ引渡タリ」としているものが殆どであったが、氏名が明記してある遺体については「引取人ナキニ付」との記述が加えられている。
 このように死亡者通知書及び検視調書については、藤岡町役場文書の中では事件の状況が直接的に記載されているものの、その内容は決して多くを語っているとは言えない。しかし、例えば検視調書の表
現が、氏名が判明している1人については、創傷の大きさなどの表現が「三寸四方」などとなっており、他の人々の「巾四仙迷」などの表現と異なっていたり、なによりも事件直後に作成された検視調書には、一人を除いて氏名 不詳の朝鮮人(鮮人)としているが、現在成道寺に造立されている通称「鮮人受難の碑」には、被害者17人全員の氏名が刻まれている。そしてこの中には、検視調書で唯一氏名・出身地が判明している被害者の氏名が見られないうえ、なぜ被害者17人の氏名が判明したかを示す記述もないなど、いくつかの疑問が残されている。これらの解明には、警察・司法史料及び同年代の旧多野郡下の村々の行政文書の調査などにより解明されなければならない課題となっている。

D 検視調書(氏名が判明した唯一の被害者の検視調書・伏字部分は被害者の氏名)

(3) 弁護料領収書
E 弁護料領収書(伏字部分は被告の氏名)
 藤岡町役場文書の中で、藤岡事件に直接関係している文書として弁護料の領収書がある。
 当時の日本は、現在と同様に法治国家であった。従って、殺人を行った者は官憲により逮捕拘留され、法の裁きを受けなければならない。藤岡事件では9月19日から検挙が始まり、36人が起訴された。そして11月に前橋地方裁判所で懲役25人、執行猶予10人、無罪一人の判決が言い渡された。17人もの無辜の人々を、残酷な方法で殺害したという凶悪な犯罪にしては、今日の人権意識では余りにも軽い判決とも言えるが、このことについて現在の基準で言及することは適切ではないと考える。
 なお、前橋地方裁判所の第一審の様子は新聞報道されている。見出しには「血の着いた棍棒竹槍や日本刀などを立て掛けて物凄くも厳しい法廷」とあり、公判での様子が報道されているが、事件の動機などはみな曖昧で、中には酒に酔った勢いで射撃したり、男の意気地で後には引けず斬り付けたりした。などの申し立てがあったという。
 ところで、この領収書については宛名が藤岡町区長となっており、或いは自警団が関係した事件であるということで、弁護料を公費で支出したものかとも思えるが、実は弁護料の領収書については、他に1件別の弁護士事務所が発行したものも綴じられていたが、こちらは個人宛てとなってその扱いの差に疑問が残る。また、弁護料の領収書とは別に、「藤岡殺人騒擾被告事件ニ関スル家族慰安寄付金領收書」と題する、藤岡町役場町長代理助役名の領収書書式が残っており、行政として殺人事件被告人の家族への心遣いがあったことを知ることができ、このことから類推すれば藤岡事件は自警団という半ば公の機関の組織的な暴走により発生したことと考えられていたとが想定され、そしてそのために被告人(犯人)への同情からこのような扱いとなっていたと言えるのではないだろうか?
 もしこのことが当をえていれば今日の人権意識からはまことに信じられないことではあるが、今日の価値判断で当時の事件を判断することは、歴史を直視する上からは適切ではない。しかし、無辜の人々への虐殺行為が正当化できるものではないことは当然で、現在の我々はこうした過去の過ちを直視し、その経緯を冷静に分析し、その事実を語り継ぐことが必要不可欠である。そのためには「藤岡町役場文書」のように、淡々と事実を記述した行政文書の分析が重要である。


4. まとめに代えて

F 追悼供養のようす
 関東大震災後の各地で発生した朝鮮人虐殺事件については紛れもない事実で、藤岡地域においても、大変残念なことに、無辜の17人の尊い命を奪った藤岡事件が発生したことは事実である。こうした事件に関し、多くの場合被害者の人数をめぐって様々な論争が成されてきたが、地域によっては、ここにレポートしたような地域の行政文書が残されている可能性もある。
 身近な地域の先人たちが起こした過去の恥ずべき行為を、改めて見つめ直すことは決して愉快なことではないが、これを乗り越え、行政文書など客観的な史料を分析し、事件を冷静に直視しなければ、本当の意味での反省にはならない。国では、内閣府中央防災会議において、「災害教訓の継承に関する専門調査会報告」として関東大震災についてのかかる事件や流言蜚語についての分析・調査報告がなされ、文化庁においても、負の歴史遺産についての文化財指定に言及している。地域においても、ここに紹介した藤岡町役場文書のような歴史史料の保存と積極的な活用の中で、不幸な事件を直視し、その事実の継承を図らなければならないと考える。
 毎年9月には日朝友好連帯群馬県民会議が主催し、連合群馬藤岡地協、藤岡市などが参加し、藤岡事件を現在に語り継ぎ、被害者の追悼供養を行うための集会が、被害者が埋葬された成道寺で行われている。しかし、長い時の流れの中で、この事件が現在の藤岡市民に周知されているとは言い難い状況にあるのが事実で、改めて事件についての啓発の必要性を感じている。
 最後に、藤岡事件において異郷の地で無念の最後を遂げた朝鮮半島出身の方々に深い哀悼の意を表し今回のレポートを終わりたい。