【自主レポート】

第33回愛知自治研集会
第10分科会 自治体から発信する平和・人権・共生のまちづくり

 豊田市は、自動車産業を主体に、製造業を基盤とした産業構造をもち、そこには日系人をはじめとする多くの外国人労働者が就業しています。しかし、その雇用環境は、リーマンショック、そしてトヨタショック以降、大変厳しくなっています。本稿では、不安定な立場におかれた日系人をはじめとする外国人労働者の現状を改めて認識し、行政や関係機関が、セーフティネットとしてどのように対応すべきかを模索します。



豊田市における日系外国人労働者の現状


愛知県本部/豊田市職員労働組合・執行委員長 足立 潔重

1. 豊田市の国際化の現状

 豊田市は、愛知県の三河地方に位置し、1951年、挙母(ころも)市として市制施行しました。その後、1959年に現在の豊田市に市名変更し、また1956年から2005年にかけて、都合6回の市町村合併を経て、現在に至っています。また、この間、1998年には県下最初の中核市に移行しました。面積は、2005年の周辺6町村との大規模合併の結果、愛知県の6分の1に相当する約918km2で県下1位、また人口は約42万4千人(2010年7月現在)で、名古屋市に続き県下2位となっています。
 日本社会全体として、少子高齢化が進み、人口の減少時代を迎え、労働力人口の減少による社会活力の低下への懸念が現実のものとなってきました。1980年代末の深刻な労働力不足を背景に、1990年に「出入国管理及び難民認定法」が改正され、日系人に対して国内での就労に制限のない「定住者」資格が与えられ、デカセギと呼ばれる外国人労働者が増加してきました。一方で、就労を目的とする南米からの日系人やアジアを中心とする研修生・技能実習生の受入れが進み、徐々に法的な枠組みが拡大され、1990年にはそれまで外国人研修生の受入れが困難であった中小企業にも外国人研修生受入れの途を広げました。さらに、1993年には、研修活動により一定水準以上の技術等を修得した外国人について、研修修了後、研修を受けた企業等と雇用契約を結び、実践的な磨きをかけられるようにする「技能実習制度」が創設されました。この制度の創設以来、制度を活用できる職種が逐次拡大され、また、滞在期間の延長等の措置が講じられるなどしています。
 豊田市は、トヨタ自動車を主体とする、世界有数の自動車産業の集積地として発展をしてきました。自動車産業は、この間に国内での生産拡大とともに、海外への製品輸出や全世界からの部品調達、海外拠点での生産、販売等、世界的な拡大を続けてきました。その過程において、自動車産業の関連企業等で働く日系人を始めとする外国人住民が増加し、また、ビジネスを目的とした海外からの来訪者も増加しており、地域の国際化が進んでいる状況です。一方では、前述の「出入国管理及び難民認定法」の改正による外国人住民の急増に伴い、言葉の問題を始め、労働、教育、医療等生活のあらゆる場面において様々な課題が顕在化してきています。この間、外国人の集住地区では生活ルールや習慣の違いなどに起因するトラブルや治安の悪化などがさらにクローズアップされるようになってきました。
 豊田市の人口推移は、高度経済成長期以降、一貫して増加傾向が続いており、過去10年間の増加率は7.3%となっています。これに対し、外国人人口(外国人登録者数)の推移は、さらに強い増加傾向を示しており、過去10年間の外国人人口増加率は、96.2%と、2倍近くとなっています。また、2008年時点の外国人人口実数は16,800人で、全市人口の約4%を占めています。
 こうした背景から、豊田市においては、国際化に係る計画として、2001年に長期ビジョンに基づいた国際化施策を展開し、国際化時代に対応した人づくり、まちづくりの推進を図ることを目的に『グローバリゼーションの進展を社会の活力とすることのできる産業文化交流都市の実現』を理念として掲げる「豊田市国際化推進大綱」を策定しました。さらに、2003年度には、豊田市国際化推進大綱の具体的、重点的取り組みを明確にするために、「豊田市国際化施策推進計画」を策定しました。さらに、2007年には、国内外を問わず市内在住・来訪者の人々のくつろぎの場及び国際交流の拠点として「とよたグローバルスクエア」を整備し、(財)豊田市国際交流協会(TIA)による運営を行っています。



2. 外国人集住地区 保見ケ丘

 保見ケ丘は、豊田市の西部に位置し、豊田市における外国人集住地区として、全国的にその名を知られています。2009年5月時点の、保見ケ丘の外国人登録者数は4,299人で、豊田市全体の外国人登録者の約4分の1が保見ケ丘に居住していることとなります。また、保見ケ丘の外国人比率は約49%に達し、全国で最も外国人の集住率が高いコミュニティのひとつとなっています。さらに、保見ケ丘に居住する外国人の9割以上がブラジル籍であることも特徴となっています。
 保見カ丘は、1970年代後半から、住宅都市整備公団(現・UR都市機構)、愛知県などにより住宅団地として開発、入居が開始され、公団住宅(現・UR賃貸住宅)、県営住宅、戸建分譲住宅等からなる大規模住宅団地として発展してきました。


≪保見ケ丘全景≫


 1980年代後半頃より、自動車関連産業等における労働力不足を背景に、多くの外国人労働者が豊田市に移り住むようになりました。自動車関連企業等は、保見ケ丘の主に公団住宅を社宅や寮として借り上げ、そこに外国人労働者を住まわせることで、徐々に外国人の集住が始まりました。そして、1990年の「出入国管理及び難民認定法」改正により、新たに日系人に対して国内での求職、就労、転職に制限のない「定住者」資格が与えられるようになると、日系人が加速度的に増加しました。当時は、いわゆるバブル景気の末期であり、先に保見ケ丘に移り住み、短期間に所得を得た日系人が、さらに新たな日系人を呼び寄せ、またこれらの人々を頼ってさらに多くの日系人が移り住むといったように、連鎖的に保見ケ丘への集住が進むこととなりました。
 当初は、家族も含めてコミュニティに溶け込もうとする意欲のある人々も比較的多かったとされていますが、それでも、文化や生活習慣の違いに起因する、ごみの出し方や騒音、違法駐車等の生活マナーに関し、日系人と日本人住民とのトラブルは次第に顕在化してきました。さらに、日系人の意識も、日系人としてのアイデンティティが薄れ、日本人住民との関わりに無関心、あるいは関わりを拒む風潮へと変化してきました。このことは、滞在期間が長期となっても、子どもたちがなかなか日本語を理解できない等の課題を引き起こしました。
 豊田市においては、地縁組織である自治区がまちづくり全般に大きな役割を果たしており、こうした課題に対し、保見ケ丘に存在する4つの自治区は、「日系人との共生」を標榜し、協力して対処してきました。しかし、高度の集住による日系人比率の高まりにより、自治区活動による課題解決は限界に達しつつありました。そのような中、1999年には右翼団体と一部日系ブラジル人青少年との衝突が発生、この模様は報道にも大きく取り上げられ、保見団地の名称は全国に知れ渡ることとなりました。それ以降は、地元自治区、NPO法人、UR都市機構、県、市等の連携した取り組みにより、事態は改善の方向に向かっています。特にNPO法人については、2000年頃より日系人児童生徒の学習支援や青少年の自立・就労支援、日系人と日本人住民との相互理解の促進に向けた取り組みを展開しています。



3. 日系外国人労働者を取り巻く環境

 日系外国人労働者の労働環境については、当初は、有期とはいえ直接企業に雇用された労働者の比率が高かったとされていますが、いわゆるバブルの崩壊により経済環境が厳しくなると、直接雇用は少なくなり、派遣労働など、より不安定な雇用形態の割合が急増してきました。この間も、自動車関連産業等の業績そのものは堅調に推移していましたが、日系人、日本人を問わず、こうした派遣労働者の安価な労働力を雇用の調整弁として利用することで成り立ってきたといえます。また、仮に日系人労働者に正規雇用への道が開かれたとしても、社会保険や年金の負担が増え、手取り収入が減ることを嫌い、あえて不安定雇用を選択する労働者が少なからずいることも事実です。こうした状況に対し、1998年3月に、日系人労働者を保見団地に居住させている請負業者のうち地元、行政に協力姿勢を取っている事業者により「保見団地日系人雇用企業連絡協議会」が設立されました。
 一方で、豊田市国際化施策推進計画等に基づき、行政としても日系外国人労働者に対する支援等を目的とした事業を実施してきました。例として、市民課において、2003年度より、外国籍住民が豊田市民としてあるいは地域社会の生活者として快適に暮らすことができるように、外国人登録窓口(豊田市役所市民課)と外国人雇用者(雇用主)を結ぶ目的で、年間に数回、外国人雇用企業に宛て情報誌「メルハバ」を発行しています。
 ところが、労働者とその家族を含む日系人を取り巻く状況は、2008年秋のリーマンショックを契機とする世界的金融危機により、大きく悪化しました。特に豊田市においては、2009年度予算において、トヨタ自動車をはじめとする自動車関連企業の業績悪化に伴う市税の減収が400億円規模に上り、加えて200億円近い還付金が必要となるなど、かつて経験したことのない緊縮財政を余儀なくされる事態となりました。この、トヨタショックとも形容される地域経済の悪化が、不安定な立場にあった日系人労働者を直撃し、現実に、派遣労働者として働いていた多くの日系外国人労働者が2008年秋以降失職しました。しかし、こうした状況は日系人だけでなく、日本人の、同様に不安定な雇用形態で働いていた多くの労働者にとっても同様であり、愛知県における有効求人倍率が、2008年度平均で1.27倍であったものが、2010年6月時点で0.56倍となっていることからも、厳しい状況が推察されます。
 豊田市としては、特に2008年秋の世界的金融危機に伴い、日系外国人労働者への緊急対応を実施してきました。

(1) 豊田市多文化共生推進協議会
 2001年に豊田市在住外国人の受け入れ態勢整備等を目的に設置された、豊田市多文化共生推進協議会において、情報の共有や対応策の協議を実施しました。特に派遣労働者の失職は、それに伴い住居の喪失や子どもの教育など多方面に影響が及び、複合的な対策が必要となることから、事業所、人材派遣会社、自治区、NPO、学校、警察、国際交流協会、国・県・市関係機関が参画する協議会で、2008年度中だけでも3回の協議を行いました。

(2) 外国人就労支援相談
 ハローワークと協力し、外国人の就労における悩み相談や求職相談会を、月1~2回実施しました。2008年10月から2009年9月までの相談件数は、269件にのぼります。

(3) 緊急雇用創出事業
 2008年10月以降に失職し、失職時点で豊田市に住所を有していた人を対象に、豊田市が有期で雇用するもので、19人が雇用されました。

(4) 求職者のための日本語講座、就労支援セミナー
 大学、国際交流協会との連携により、外国人失業者を対象に就職につなげるための日本語教室を開催し、136人が修了しました。2009年度は、NPOに委託し、日本語講座と就労支援セミナーとして開催しました。

4. 課題と今後に向けての方向性

 日系外国人労働者がおかれた現状は、日本の労働施策の問題点、また経済界が労働力の重要性をいかに軽視し、ないがしろにしてきたかを如実にあらわしていると言えます。小泉構造改革路線の元、貧富の差が拡大するとともに、派遣労働という極めて不安定な雇用形態を、景気の動向によって企業が安易に労働力を調整できる調整弁として利用することが是認され、そこに、もともと安価な労働力として企業活動を下支えしてきた外国人労働者が組み込まれてしまいました。そこで労働者に必要とされるのは就労に必要な最低限のスキルであり、十分な日本語学習の機会や生活基盤の保障は与えられませんでした。そして、世界的な金融危機により日本の経済が大きく落ち込むと、真っ先に切り捨てられるのは派遣労働者であり、外国人労働者です。もともと生活基盤の脆弱な外国人労働者は、住居も失い、日本語学習も不十分なことから再就職もままならず、かといって滞日期間が長期にわたる人ほど、年齢などの面からも、帰国して故国で再スタートすることのリスクが大きく、帰るに帰れないといった状況となっています。さらに青少年の不就学や、こうした外国人住民を受け入れる地域コミュニティの疲弊など、労働問題の枠を超えて、根の深い社会問題と化しています。
 前項で触れたとおり、豊田市としても緊急対応を実施してきましたが、問題の背景が複雑であり、即効性のある有効策を打ち出すことは困難です。逆に中・長期的な視点で課題解決を図っていかなくてはならないと言えます。
 まず必要なのは、外国人住民を市民として受け入れていく体制を、社会全体で再構築することが必要です。単に労働施策だけではなく、社会保障、住宅、教育などを有機的に連携させていかなければなりません。また、外国人労働者を雇用する企業の側にも、さらなる理解を求める必要があります。そして、受け入れる側の体制が整うことを前提として、外国人労働者、またその家族にも、社会の一員としての意識を持ってもらうことが重要と考えます。
 日本経済は、徐々にではありますが回復基調を描き始めています。少子高齢時代に入り、日本が今後とも持続的に発展していくためには、外国人住民が地域の一員として生活する基盤を確立することで、社会的な活性を引き出す必要があります。労働は社会の活性化に最も重要な要素であり、単に外国人労働者のみでなく、日本人を含むすべての労働者が不安なく働くことができる環境を整備していくことが望まれます。