【自主レポート】

被爆地ヒロシマにおける放射線影響研究所の役割

広島県本部/放射線影響研究所労働組合


 厚生労働省管轄下の事業所で、公務員労働者ではない放影研職員の置かれている現状、また放影研の寄附行為「平和目的の下に、放射線の人体に及ぼす医学的影響およびこれによる疾病を調査研究し、被爆者の健康維持および福祉に貢献すると共に、人類の保健福祉の向上に寄与すること」を実現するための自治体との関わりを模索するために、放影研の設立目的、歴史的背景、現状、課題等を提起します。

1. ホーエイケン?

 「放影研」(ホーエイケン)という言葉の響きからオリンピックなどのテレビの「放映権」や「来来軒」のような中華料理店などに間違えられたとか、冗談のような話もほんとうにあるのですが、放影研とは日米共同の研究機関「財団法人放射線影響研究所」の略称で、広島と長崎に研究所があります。放影研を英語でRERF (Radiation Effects Research Foundation) と言いますが、かつてのAtomic Bomb Casualty Commission 略称ABCC(エービーシーシー)の方が地元の年配の方には知られているようです。
 一般の診療所ではなく研究所ですので、あまり市民の方々の目に触れることが少なく、また、広島研究所は市内の小高い山の頂上にあって、かまぼこ型の建物なので、「ここは何をするところ?」と思われる方や、「そんなところにそんな建物があることすら知らなかった」という方が広島市民にも多いのではないかと思います。
 まず、広島・長崎にある放影研を知っていただくことから始めたいと思います。

2. 2種類の原子爆弾

 皆様ご存知の通り、1945年、人類史上初めて原子爆弾が実戦に使用され、8月6日広島と9日長崎がその標的となりました。その原爆は、爆発しながらきのこ雲を巻き上げ、約7,000度に達した火の玉から放出される爆風と熱線が人や建物やそこにあるすべてのものを焼き尽くしてしまいました。広島では約11万4,000人が、長崎では約7万人が直接被爆により死亡しました。
 生き残った人々は原子爆弾から放出された放射線を浴びて、後々までも影響を与える障害を負うことになりました。
 このような惨禍をもたらしたのは、広島に落とされたのはウラニウム爆弾で通称「リトルボーイ」と呼ばれ、長崎に投下されたのは「ファットマン」と呼ばれたプルトニウム爆弾です。なぜ広島と長崎で違う爆弾が落とされたか、それはアメリカで製造された2種類の原爆を実験的に異なる場所に落としてその人的、物理的破壊力を調べるために使用したということでしょうか。もっと深いなぜを追求すると話が横道にそれますのでここでは言及しませんが、ただ言えることは、爆弾の種類が違えば、放出されるガンマ線と中性子線の量も違うので、人体への影響にも差が出るかもしれないということです。

3. 日米合同調査団

 終戦後、占領軍として日本にやってきた米軍がこの新兵器の効果について無関心であるはずもなく、いち早く原爆の被害状況を調査するため、専門家による調査団を派遣してきました。これには日本の専門家も参加し、いわゆる「日米合同調査団」が結成されました。この調査団に日本から90名もの医師が参加しました。
 日本の調査団が加えられた理由は、資料収集のためには日本の参加なしには目的が達成出来なかったからでしょう。調査の資料として最も重要なもののひとつである被爆初期の資料は、被爆直後からの救援救護と調査に従事した日本の陸海軍や大学、民間医療機関がすべて手に入れていて、9月はじめに進駐してきたアメリカ側としてはそうした急性期の資料は日本側から手に入れるしかなかったのだと考えられます。

4. 長期的調査研究のためABCC設置

 この調査は1945年9月8日から始まりましたが、その報告書が当時のアメリカ大統領トルーマンに提出されました。これを受けて1946年11月にトルーマン大統領は原爆による後障害の調査研究をするよう、学術団体であるアメリカ学士院・学術会議に指示して、1947年3月に放影研の前身の原爆傷害調査委員会ABCCが設立されました。
 ABCCで行う研究は単に戦争だけでなく、平和産業その他にも関係があるので、軍部の業務ではないというのが学士院に委ねられた理由のようです。この学術的中立精神は今もなお引き継がれています。
 1948年からは厚生省管轄の国立予防研究所が参加して、日米共同研究という形で原爆被害者についてさまざまな調査が行われました。もっとも、実質はABCCが主体であり、予算面でもほとんどを米国側が負担していました。
 ABCCの設立目的は、被爆者について原爆放射線の健康影響を長期的に調べることにありました。当時の日本は連合軍の占領下にあり、原爆投下を落としたアメリカが、被害者である被爆者を調べるということで、多くの批判や反発があったのは事実です。
 対象者をジープで学校などに迎えに行くとか、嫌がる人を無理やり連行したとか、拒否したら軍法会議にかけると言われた人もいるとか、人権無視の調査として、市民の目に映ったことは想像がつきます。また調査だけして治療はしないことへの批判もあり、それらが市民感情を傷つけABCCに対する反発につながったことでしょう。

5. ABCC日本人職員

 こうした不幸な時期のあったことは、ABCCの後を継ぐ私たちとしては心より申し訳なく思います。その一方で、私は先輩から、ABCCの日本人職員がどのような思いで仕事をしてきたかを聞いたことがあります。敗戦国日本において、また原爆が落とされたヒロシマの地にあって、ABCCの設立目的は、来る次の核戦争のための防衛戦略の一環であるとか、アメリカのもとで働くABCC職員は非国民のように言われることもあったそうです。
 しかし当時の日本で珍しかったヘルパーやソーシャルワーカーが生活支援などをしたりしながら受診の協力を求めたのは、被爆者の援護につながる調査研究だと信じていたからです。被爆者に何が起きているかを調べることと、対象群として被爆していない人に受診を求めたことは、個人への還元と被爆者全体への貢献になると使命を持っていたからだそうです。決してABCCは不要な存在だったとは思わないと話していました。
 そんな思いが通じた対象者は、現在もなお、放影研へ健診を受けに来てくださっています。
 ある日本人研究員は「原爆で何が起こったのか、風呂敷をかぶせたようなままで終わらせてはいけない。日本人自身が、自らの身の上に起きたことを知るべきだ。その一心で研究を続けた」と話していました。苦労の多い仕事の中で働く姿に、日本人の凛とした姿勢を見たような気がしました。
 アメリカ人からの差別に対する敗戦国日本のたたかいは、日本人の労働組合の立ち上げ時の、まさに血のにじむような闘争であったと伝え聞いています。余談ですが、放影研には「外食」と「日食」という名前の食堂があります。外人専用の食堂と日本人専用の食堂の名残なのですが、なんだか人種隔離政策みたいで、戦後の敗戦国日本の縮図のようなものを感じます。

6. 財団法人へ改組

 ABCCの歩みとは裏腹にアメリカの経済情勢は悪くなる一方で、経費のほとんどをアメリカに頼っていたABCCが必然的にその影響を受けるようになりました。ベトナム戦争の戦費のために赤字も急増し、国際収支も大きな赤字を出してドル不安を引き起こしました。時代は違いますが、今現在もまたイラク戦争のあおりを受けて、今年の春先から突然アメリカ側の大幅予算削減の打診があったりして、放影研全体に激震が走りました。放影研にとってアメリカが起こす戦争は対岸の火事ではなく、一気に押し寄せる津波なのです。
 アメリカは日本側に予算の分担を求めましたが、日本政府の対応はアメリカ任せで、はっきりした態度をとりませんでした。
 そこで労組は、地元関係団体の協力や国会議員らの支持を得て、厚生省と外務省に向けて行動し、ABCC再編闘争を行いました。きっかけはそれまで1ドル360円だった固定相場制から現在の変動相場制への切り替えで、円切り上げによる賃金の切り下げと、合理化阻止を打ち上げ、労組の生活防衛闘争からABCCの法的地位の問題に運動を広げて、ABCC問題に火をつけました。そしてマスコミや世論も盛り上がり1974年に原子爆弾被爆者援護法案が4野党でまとまり国会に上程され、その年日米政府間交渉でABCCを放影研に改組されることが決定しました。その結果1975年4月、それまでアメリカ主体だったABCCが日米折半の財団法人放射線影響研究所として生まれ変わり現在に至っています。

7. 調査研究成果

 ABCCでは疫学調査がメインです。その調査対象集団とは、1950年に国勢調査の付帯調査として被爆者の実態を把握する調査が行われましたが、この調査票の中から抽出されました。284,000人の被爆者から主要研究計画が設定されています。
 これらの調査研究の結果、白血病とか、その他のガンが被爆していない人よりも多く発生しているということが、明らかになりました。またガン以外にも甲状腺疾患・副甲状腺疾患・原爆白内障・心筋梗塞・慢性肝炎・子宮筋腫等も被爆していない人よりも多く発生しています。
 また被爆者の受けた放射線量の評価も重要な研究テーマです。1950年代に行われた大規模な面接調査により、一人ひとりについて被爆時の場所や建物の中で被爆した場合はその構造に関する記録が集められました。これによって被爆した人たちの多くについて放射線量が計算されています。どのくらいの放射線量を浴びると、病気が発生するか、というような研究がなされ、これらの情報に基づいて、原爆およびその放射線により被爆者に何が起こったかを詳しく調べ、後世に残すことが私たちの使命です。
 日米で行なわれてきた業績は世界の学界に広く知られており、得られた調査結果はすべて公開され、放射線防護基準の重要なデータとして放射線被曝の線量限度を国際的に決める上で最も重要な貢献をしています。また、チェルノブイリ原発事故など世界各地で発生している放射線被曝による被災者への医療協力や、1999年9月の東海村臨界事故時における迅速な医師の派遣など、これまで蓄積された知識を積極的に社会に還元する努力も行っています。

8. 被爆二世調査

 現在放影研では、主に被爆者を対象として調査研究をしてきましたが、被爆二世に関しては、以前から染色体異常や発達障害など遺伝についての調査がありましたが、これまでの調査では、放射線による影響は特に見られませんでした。しかし現在、被爆二世の世代がいわゆる生活習慣病にかかりやすい年齢にさしかかってきたことから、生活習慣病と遺伝的影響との関係について調査を行っています。被爆二世集団88,000人の中から、広島・長崎両市またはその周辺に住む被爆二世の方を選び出し、約24,000人の方々に郵便調査を行い、希望される場合には健康診断を受けていただくというもので、生活習慣病と放射線の影響を調査する研究計画です。

9. 課題その1・脆弱な財政基盤

 これらの重要な役割を担いながら、放影研で働く私たちは大きな課題、問題点を抱えています。放影研は、「日米交換公文」によって、財政も含め「日米折半」で運営管理すると定めています。放影研の財政はこの「日米折半」体制で運営されていますが、予算のドル立て送金のための為替変動や日米いずれかの財政事情により運営費が変わるという脆弱な基盤に立脚しています。為替の影響は甚大で、円高時でのドルベースの目減りは、折半体制維持のために日本側も減額しなければならないということを意味します。
 1993年以降米国が打ち出した大幅予算削減策の影響を大きく受けている上に、また2004年春、米国予算大幅削減案が浮上するなど安定した財政状況には程遠い現状です。そして米側資金の送金が不定期であるために、私たち職員の賃金さえ支払いが危ぶまれる事態におちいる場合があり、事実、日本側の立替えにより支払われたこともあります。その上、職員の補充についても日本の予算定数の制約があるため職員数は年々減少し、現行事業の維持さえ困難になる恐れがあります。このような状況は、放影研で働く私たちの雇用と生活を脅かす大きな問題となっています。

10. 課題その2・移転問題

 築後50年余りを経過した広島の研究施設は、老朽化が進んでいます。2001年3月の芸予地震でも大きな被害が出ました。また、現在の狭隘な施設では、長年被爆者の方々からいただいた生物試料や、被爆二世健康影響調査の生物試料を保管する場所を確保することも困難な状況にあります。生物試料は放影研にとって財産であり、また歴史の貴重な遺産であり、将来にわたっての確実な保管が重要です。今、移転は避けて通れない問題です。米側が移転費を出さないために移転が実現しないという「日米折半」体制の問題点がここにもあります。1993年当時設計段階まで進んだ移転構想が凍結状態のままです。広島市は移転先の候補地を確保しておりましたが、話は進展していません。これまでに、広島県のがんセンター構想にも絡んだ経緯もありましたが、がんセンター構想そのものが白紙撤回となってしまいました。自治体においても広島県知事・広島市長からも厚生労働大臣に放影研の移転を要望し、移転構想には関心を持っていただいている状態です。
 放影研問題を「被爆者医療福祉の充実」として被爆者援護法案に盛り込み、被爆者特別措置法改正案の付帯決議として可決され、1994年被爆者援護法が成立し、第40条に放影研を法制化しました。放影研の移転対策の推進についても明文化しております。同じ援護法の付帯決議にある原爆死没者慰霊施設の設置については実現を果たし、広島・長崎で日本の国立の施設として完成しております。次は放影研の被爆者援護法・付帯決議の実行を求めていきたいと考えています。

11. オープンハウス

 放影研では常に一般見学者を歓迎していますが、特に8月5日6日(長崎では8月8日と9日)の2日間は施設の一般公開として「オープンハウス」を開催し、研究員や職員が総出の取り組みをしています。地元市民の方々や8・6の平和行動でヒロシマに集う全国からの来訪者をお迎えしております。例年2日間で約700名の見学者があり、今年もテーマは「見たことないもの見せてあげる」と題して、研究員職員一同で、来訪者に研究の説明し、質問にもお答えできる体制を整えて好評を博しました。子どもたちにとってもキッズコーナーのようなお楽しみも取りまぜて学習できるようにしています。

12. 私たちの願い

 ヒロシマの原爆ドームは1996年、世界遺産として登録されました。これは被爆都市として大変意義深いことですが、同時に「ヒロシマやナガサキに行けば放射線被曝に関する最高の知識が得られる」と考えている世界の被曝者の思いを忘れてはいけないと考えます。
 私たちの願いは、原爆被爆者の保健医療に貢献することと、これまでに得られた知識や経験を基に、放射線被曝者に対する治療や健康調査の専門家を育てて、21世紀の世界のヒロシマ・ナガサキとしての役割を担うことです。

13. 被爆者の尊い犠牲忘れない

 来年被爆60周年を迎えます。今、被爆者は約27万人と言われています。被爆者の高齢化が進み、平均年齢が70歳台に乗った今、被爆者への援護・福祉はもう先送りできないところまで来ました。しかし、現実には今もなお被爆者健康手帳の申請や原爆症の認定の申請が相次いでおり、また在外被爆者の手帳申請の課題もあります。60年という歳月は、一言で言うにはあまりにも長過ぎます。一時も忘れられなかった原爆の惨禍。高齢化を迎えた今、待ったなしの瀬戸際に被爆者が立たされていることを、私達は直視しなければなりません。改めてあの戦争はなんだったのか、何をもたらしたのか、私たちは歴史の検証を今一度しないといけないのではないでしょうか。
 最後に私たちは核兵器による惨禍が2度と繰り返されないことを願うとともに、被爆者の尊い犠牲の上に、多くの人々の放射線被曝に関する安全が守られていることを、決して忘れてはならないと考えます。