【論文】

第34回兵庫自治研集会
第1分科会 「新しい公共」と自治体職員の働き方

 地方分権の推進は、市民自治から始まる。最小の自治の単位である。そのための“これからの行政のまちづくり”とは、を考えたい。



三池炭鉱閉山から15年、廃坑跡から未来が見えた


福岡県本部/大牟田市役所退職者の会 吉田 迪夫

1. はじめに

 1997年3月に大牟田の基幹産業であった三井三池炭鉱が閉山した。企業城下町特有の地域経済への影響は並大抵のものではなかった。人口減などは、最盛期からすると実に約七万人がこの大牟田の地を離れたことになる。特に、労働者人口の激減が、大牟田の未来社会に大きな影を落とした。
 三池炭鉱閉山は、予測されていなかった訳ではなく、やがて来る閉山の時にむけたまちづくりの取り組みは確かにあった。それが、残念なことに他都市の事例に学ぶことなく第三セクターによるテーマパークの立ち上げとなり、第三セクター事例を検証することもなくテーマパーク経営にタッチしたがために、経営難で第三セクターは倒産した。
 戦後復興から再生という形での生活と経営基盤の整備ということでの社会資本の整備までは、確かに、行政のまちづくりとしての効果は上がっていた。しかし、その後の高度成長からバブル崩壊、さらに今日までの行政のまちづくりは成果を上げているとは言い難く、「行政のまちづくり」ということから『市民と行政との協働によるまちづくり』に切り替えなければならなくなっている。
 そんな現状から、マスタープランには「市民と行政との協働」という文言が散りばめられるようになった。流行言葉ではなく、これからのまちづくりには市民と行政との協働が不可欠であり、そのまちづくりに関しても、これまでのように公共事業に直結するものではなくなっている。
 新しいまちづくりの時代が幕を開けたというよりも、新しい時代を作るための協働型社会に向けた施策づくり、ルールづくりがスタートする、というようにまちづくりの本質が変わってきた。形そのものを発想するまちづくりではなく、形と容をつなぎ合わせるコミュニティ全体の資質を求めるまちづくりに変化している、というよりも自治の原点に立ち返ろうとする人間復元のまちづくりになりつつある。

2. 近代化遺産を生かしたまちづくりのスタート

 大牟田の事例を交えて提案したい。企業城下町特有の基幹産業の繁栄によってまちの運命は決まってくる。それが、今では大手企業ですら安穏としておられないほど市場化の波は大きなうねりを生じさせている。そんな現状から、企業城下町も新たな発想によって脱皮しなければ自治の自立などあり得ない。
 石炭産業の歴史そのものが「負の遺産」というイメージは今でも強く残っている。そんな中で、教育委員会生涯学習課の「近代化遺産を生かしたまちづくりシンポジウム」をスタートさせた。単なる一過性のイベントにしないための綿密な仕掛けと仕込みを試みた。
 このシンポジウムで仕掛けたのは、まずは大牟田市の石炭産業の歴史が「負の遺産」と言われ、大牟田市史やマスタープランという長期事業計画の中から「石炭のあったまち」という表記すら消そうとする雰囲気の中で、逆転の発想からまちづくりには歴史が大事であることを訴える事であった。
 大牟田は、明治維新以後の日本の近代化を石炭エネルギーによって支えてきた。日本初のコンビナートも形成し、石炭資源からいろんな商品を生み出す基礎をつくった。そんな大牟田の歴史を遡らせ、日本が近代化を推し進めていく中で重要なまちであったことを明確にすることで、自分たちのまちに誇りを持って欲しいと願った。幸い地域には、その産業遺産群が数多く残されており、そこにソフト事業を加味させることで、産業遺産群を風化させずに風格を持たせることができないかと考えた。具体的には、石炭産業史というものを語り継ぐ人たちにスポットを当て、その語り部たちの記録映像を残すことを目指すもので、このシンポジウムの発言集を基に政策予算として要求したいという考え方があっての仕掛けであった。
 そんな企業城下町の中に、一筋の光が見えてきた。それは、三池炭鉱の産業遺産群が国の重要文化財の価値があると評価されたことである。そんなことか そんなことで地域経済は潤わない との声が聞こえてきそうだが、単なる産業遺構が歴史的価値を持っただけでは、確かに地域経済に影響はない。観光資源としての売り方も有るのだろうが、それが市民にとって望むものなのか、大牟田のまちづくりも新たなチャレンジの時を迎えた。

3. 胸を張って、出身地は大牟田と言えない歴史があった

 記録映像の取り組みを政策予算で上げるにしても、まずは、生涯学習課の予算要求が基となる。生涯学習課へ政策予算として要求してもらうようにお願いしたが、「負の遺産」と言われる石炭産業の歴史に対し、これまた、前例のない記録映像というものの製作である。これまでのまちづくりを探っても前例がない。担当課としては気乗りのしない取り組みである。
 シンポジウムの取り組み成果については理解しているものの、政策予算になると財政課及び企画調整部、そして助役等を説得しなければならない。さらに最悪なことは、組織論ではなく個人のまちづくり論にすり替わっていることである。しかし、この取り組みなくしては大牟田市の再生はないと信じてきた。諦めることができず、異動先の石炭産業科学館の政策予算として要求した。そこから新しいまちづくりへの挑戦が始まった。
 1997年から約3年かけて政策予算を要求し続けた。政策予算を要求した年は、担当部長から「なぜ、こんな厄介なものを政策予算として要求するのか、議会にしても、三井鉱山も理解しないし、各団体も反対意見を述べる。市民の支持を得られるとは思えないから予算要求を取り下げるように」と言われた。
 それでも「予算は取り下げない。再度検討して欲しい」とお願いすると、日を置いて今度は「調査費を100万円ほど付けるので、それでどうか?」という話に変わる。「それでは、近代化遺産を生かしたまちづくり連続事業の趣旨に沿わないので今年度の政策予算にならないのなら、来年度にまた政策予算として要求します」と啖呵を切ってしまった。
 そして、次年度、今度は担当部の次長から「昨年政策予算で提出してダメだったものを、今年度予算要求してもダメなので予算要求から外すように」という話がある。確かに昨年予算要求してダメだったものが、簡単に新たな企画書に作り替えて通るとは思わないが、「例えば、今の担当部長、次長では変わらないかもしれないが、異動で部長と次長が変わったら、政策予算への理解も変わるかもしれませんから政策予算は出し続けます」と、意見を述べた。その年度の政策予算も、当然の如く予算化できない。
 そして3年目を迎え、今年もダメか、と諦めていた年度末の三月初旬に予算化されたとの連絡が入った。この3年間というのは、企画書を書き換え組織内のいろんな部署の人たちに私なりの思いを伝えた。そして、組織内に理解者を増やそうと努力した。組織内における協働によるまちづくりである。

4. 行政のまちづくりには時間を要する(「費用対効果」という地域経営論)

 行政職員として悲哀を感じるのは、自分に合った仕事と出逢えた、と思っても異動という問題が付きまとう。志半ばで仕事を離れる。本当の意味の専門職は育たない。また、まちづくりを通して行政改革の意味と意義を感じるのだが、それすらも改革心や冒険心につながるとは思えない。民間企業とは違って、行政の改革の原因は地域社会にある。それは、直接自治体職員が掴むしかない。それをしないと作られた社会情勢というものに翻弄される。政治家のパフォーマンスによって自治は後退する。
 そうした社会情勢を作り出すことのできる政治家とマスコミは、群集心理を有効に効果的に使って世論を操作する。しかし、それでは多くの市民の心には響かない。心は逆の道を辿る。無関心と政治離れである。それは、選挙という形で数値が証明している。
 今の社会情勢を捉えもう一つの見方として、まちづくりに関して言えば公共事業は、財政的にも、社会資本の整備ということからも、これまでの公共施設等の建設というものについては限界である。いわゆるまちづくりはハード事業ではなくソフト事業に変わっているということである。このことは随分と前から語られたことだが、「公共サービス」というものの捉え方に大きな違いがある。
 その違い知るキッカケとなったのが、近代化遺産群の保存にかかる整備事業というものである。単なる箱物の保存整備だけでなく、このまちの住民たちの声を記録映像(こえの博物館事業)として残し、近代化遺産群にソフト事業を組み込んでいくことで、建物に風格を持たせる必要があるとの論議を深め、そのためにいろんな形での取り組みをスタートさせてきた。
 石炭産業科学館の歴代事務局長と事務職員でつくる「こえの会」が、まちづくりのボランティア活動を展開しながら記録映画「三池終わらない炭鉱の物語」の上映会を、毎年3月30日の閉山の日(まちづくりの日と呼んではいる)に大牟田市内で上映している。
 石炭産業科学館勤務当時は、夕張市と田川市とドイツのレックリングハウゼン市との子どもたちの絵画交流等にも取り組んだ。文化会館と市民活動組織との共催で「文化的な視点で地域社会を紡いでいく」という文化活動等を通した近代化遺産群とのコラボレーションを展開し、大牟田市役所の主任主査会の会長をしている時は「大牟田の宝もの100選」という出版物を作成し、まちづくりのための基礎を整備していった。まちづくりには歳月をかける必要がある。地域力を支える市民のまちづくり熟成度を上げるための歳月は、大牟田の場合、三池炭鉱閉山から15年という歳月を経て、ようやく歴史というものの大事さを感じさせるためのまちづくりの成果が表れてきた。この15年間という歳月の中で、まちづくりを継続させている「人」の存在に気付いた。
 しかし、それがこれまでのようなまちづくり人であるかといえばNOである。そのまちに住む普通の住民なのである。普通の人が普通のことのように、自分たちが生きて歴史を語る。その歴史の中に、苦難とも言える時代を生きてきた人たちの生き生きとした輝きに溢れた顔を見ることができる。それが、結果としてはまちの輝きになる。

5. 組織の知的財産を生かした自前のまちづくりのために(人事政策)

 最近よく“マネジメント”という言葉が行政の中から聞こえてくる。行政に対する改革論議としての効率的な行政運営と成果主義というものの導入であり、その延長線上に人事評価がある。この流れを都合よく考えると、新しい行政改革の柱というニュアンスになりそうだが、果たして、行政における“マネジメント”とは企業的な発想を参考とすべきなのか、という疑問が湧かないだろうか。
 そもそも行政の場合は、3年から4年おきには定期異動によって仕事が変わる、ということは評価基準に関しては4年ぐらいのスパンとなる。職員一人ひとりが同じ内容の仕事をしているのなら評価もし易いが、地域と関わる職員に関しては、その地域状況も加味しなくてはならないし、地域への効果具合も評価の対象となる。大牟田の事例で述べたように15年の歳月をかけてようやくひとつの成果が表れる。その成果が、果たして全体の成果となるのか、それからでも十数年かかるかもしれない。
 そのようなまちづくりのトータル的なことを、どう評価していくのか? 異動後に成果を上げた時点でその担当課にいた職員が評価される、ということも起こりかねない。また、業務外においてボランティア活動してきた職員をどのように評価するのか? さらに、地域社会への貢献という視点から市民活動組織等と協働して取り組んできたこと、それが、行政の都合から言えば厄介なもの、それをどう評価していくのか? それが、本当なら市民と行政との協働によるまちづくりだろうし、まちづくりマネジメント能力というものなのではないか。
 まちづくりの効果は、前段にも述べているようにジンワリと地域社会や住民の方たちの心に届き、自分たちにできるまちづくりへの参加へと動きが現れることを評価とすべきである。人の心音を計るモノ差しがあればよいのだが、それがないから「費用対効果」も、「人事評価」も評価基準がない。行政の存在意義が違う方向に向かっている。市民と行政との協働ということになると職員と市民、行政と家庭というように点と線の接点部分でもある地域社会、公共の場というところへ、多くの住民が意識を向け、市民としての義務と責任を認識してもらえる場に立ってもらうことが重要となる。
 費用対効果・人事評価について、もっと本音のところでの組織内での議論が必要だろう。例えば、組織の管理能力に優れた職員が評価は高いのか、地域への貢献度の高い職員が評価は高いのか? そのことは、これからの行政のまちづくりを語る上でも大事な論点になる。
 これからの行政のまちづくりには「市民と行政との協働」が不可欠であるとの共通認識は出来るものと思われる。その協働には「立場の違い、意見の違い」など乗り越えた合意形成に向けた努力の過程が大事となる。対立したままなら争い事なのである。協働は、対話が基礎となる。そういう意味で、行政と公務員の存在は公共の場には無くてはならないものなのである。
 その地域にある資源というもの、地的資源(歴史・文化・技術・農産品等)・知的資源(知恵・知識等)・治的資源(市民自治等)で人と組織と団体等を結ぶ、そのためのマネジメント能力が公務員に必要となる。自治体職員を人件費即ち歳出の固定経費と論じ合っている間は、地域は何ひとつ変化していかない。
 公共の場に参加する市民の意見や思いは多種多様である。その多種多様な意見が合意形成できるように、お互いが努力し、その時点における合意点を見出すためのコミュニケーションを深めさせることができるのが自治体職員である。「公共サービス」も縦割り思考で論じていても意味がない。行政と地域の“際”で議論しないと本質が見えない。例えば、福祉関係については地方自治体の独自性が求められるようになったが、自己負担と福祉サービスの内容を吟味する必要がある。どこまで公共サービスという輪を広げるのか? 生活者の視点で、公共サービスの本質を見極めたいものである。