【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 強烈な労働組合バッシングを経験した大阪市職が、市民とともに公共サービスのあり方を考えるため、まちに出てまちの真の姿を知る取り組みを始めた。東成区今里地域における防災まちづくり活動への市職組合員の参画は、緒についたばかりではあるが、「役所の人」では見えなかった地域の「感覚」を少しづつ吸収しつつある。本論では、この約3年間の取り組みについて振り返る。



労働組合と地域との協働による防災まちづくり
~大阪市東成区今里地域における大阪市職・市労連の取り組みより~

大阪府本部/大阪市職関係労働組合・都市整備局支部 山添 克裕

1. 活動にいたる背景と経過

(1) なぜ労働組合が地域の防災まちづくり活動に?
 2004年秋頃からの、「職員厚遇問題」に基づく大阪市職に対する強烈なバッシングは、これまでの市職運動のあり方を問い直す契機となった。
 大阪市職では、2006年に市職市政改革推進委員会を発足させ、その委員会のもと、現場組合員の日常の問題意識をもとに議論を行う場として、まちづくりなど4つの課題別ワーキングチームを設け、約1年間かけて議論を行ってきた。そして、その取り組みから「区や現場への分権は市民への分権を伴わないと意味がない。」「市民との協働は市民との共同作業を通じて確かなものとなる。」という2つの原則を導き出し、「ワーキングチームの研究活動と地域集会における市民協働の取り組みを結合して、市民とともに公共サービスのあり方を考える『場』づくりに挑戦する。」ことを確認した。
 この方向性をもとに、これまでの4ワーキングの成果を発展・継承する形で、「みつやまちづくりゼミナール」など5項目の具体的な取り組みを進めることとし、この中で東成区今里地域における防災まちづくりの活動への参画についても確認がされた。
 こうして、「対当局」という内向きな組合運動から一歩踏みだし、組合員が地域の防災まちづくり活動に関わり、市民とともに汗を流すことで、「市民」対「市の担当者」という関係性では見えてこなかった、まちの真の姿を知る取り組みがスタートした。

(2) 私たちが“踏み出した”まち
 私たちが“踏み出した”東成区の今里地域は、大阪市の東部に位置する下町の住宅街である。まちなかには、戦火をまぬがれた老朽木造住宅が、細い路地に面してびっしりとはり付いて存在している。一方、まちの中央部には大阪から奈良に至る「暗越奈良街道」が通り、その沿道においては歴史的で落ち着いたまちなみが形成されている。
 ここでは、まちのさまざまなコミュニティが共同して地域防災に取り組むことを目的に、今里連合振興町会と社会福祉協議会を中心として、女性会、老人会、子ども会など、約200人で構成される「今里地域防災会議」という組織を結成している。同会議の防災意識は市内でも屈指の高さであり、かねてよりさまざまな活動が行われてきている。


2. 第1段階 市労連・市職による地域の防災まちづくりへの参画

(1) 地域とともに学ぶ防災まちづくり
① 地域フォーラム「地域防災を考える~市民協働で考えるまちづくり~」
 2007年9月1日「防災の日」。今里地域で防災まちづくりに取り組む市民の方々と大阪市労連との協働の第一歩として、「今里防災ウォーキング」と題したまち歩きと、それをもとにした「防災ワークショップ」を開催した。
 これは、今里地域防災会議の中心メンバーである今里町会の方々と、市労連のメンバーがともに今里のまちを歩き、「外の目」でいざというときの避難ルートの安全性の検証を行うものである。コーディネーターにまちづくりコンサルタントである(有)プランまちさとの岩崎俊延さんを招き、4班に分かれてまちあるきとワークショップを行って、まちの気になる点や魅力を感じた場所をマップにまとめた。
 その3週間後の土曜日に、大阪市労連主催の地域フォーラム「地域防災を考える~市民協働で考えるまちづくり~」を東成区民ホールで開催した。会場は多くの地域住民と組合員などで埋め尽くされ、改めて当地域の「防災」に対する関心の高さを実感した。
 フォーラムは、大阪人間科学大学の片寄俊秀教授による講演と、住民・コンサルタント・研究者・組合役員など、多彩な顔ぶれによるパネルディスカッションによって構成された。
 このフォーラムで確認されたものは、「労働組合が地域の防災まちづくりに今後とも参画していくこと」のみであったが、このフォーラムで講師やパネリストから提起された意見は、今後の活動においてヒントを与え続けていくものとなった。
② 東京・横浜の防災まちづくり事例に学ぶ
 2008年3月、活動の具体的な展開を考えるにあたって、今里町会の方と市労連メンバーで、東京・横浜で防災まちづくりに取り組む2つのまちを訪れ、実際に活動されている方からお話を伺った。
 東京都墨田区向島では、「路地尊」という、雨水の貯水機能を持ったストリートファニチャーを設けている。そして、当地の防災まちづくりは「路地尊」の名とともに全国的に知られている。先述の地域フォーラムの講演において片寄教授から、「今里に路地尊をつくってみないか?」と呼びかけがあり、師の人脈をもとに交流が実現した。
 一方、横浜市西区西戸部においては、私たちが訪れる1年ほど前から、横浜市の支援制度を活用して町内に雨水の貯水タンクや、せせらぎの設置などを展開している。こちらへの訪問は、今里の活動に参加している市職組合員が、行政マンの人的ネットワークをもとに、横浜市役所の協力を得て実現したものである。
 訪問先としてこの2つのまちを選んだのは、防災まちづくり活動に歴史があって全国的に有名な地域と、今まさに活動が本格化しようとしている地域の両方の話を聞くことが、これからの今里での活動を考える上で重要と考えたからである。また、この2つの地域には、防災まちづくりの啓発と、いざというときのための生活用水の確保を目的として、「水」に着目して防災まちづくりにとりくんでいる共通点がある。
 この見学行では、いずれの地域も「防災」という堅いテーマを、活動では実に柔らかく表現されていることに感心した。また、活動している人から多くのパワーいただいて帰阪した。
 なお、この活動を境に、組合の参画主体が市労連中心から市職中心へと引き継がれた。
③ 今里での防災まちづくりの展開を考える
 市労連のメンバーにとっては、「路地のまち今里」においても「路地尊」をつくることを意識して、この見学行を企画していた。しかし、同行した町会の方からは意外な意見を聞かされた。「『路地尊』は戦時中の『防火用水』を思い起こさせる。その時代を知る方々には不評ではないだろうか-」
 私たちには思ってもみない言葉であったが、これがまちで暮らす人の「感覚」なのであろう。もっとも、こうした「感覚」を得て蓄積することが、この一連の活動で得るべきことであるということを、これによって再認識することができた。そして、後日に何度か地域の方と市職のメンバーで今後の活動について話し合いを行い、次のような方向性を確認した。
 「防災『機能』の向上だけを追い求めた取り組みでは、盛り上がらずにいつか行き詰まる。東京と横浜の活動から感じるキーワード『楽しさ』『美しさ』『まちの文化を大事にする』は今里でも必要である。」という基本認識とともに、「横浜で見た『せせらぎ』のように、子どもたちが、遊びながら防災まちづくりに触れあえるような環境づくりも必要ではないか」というものであった。
 この「せせらぎ」とは、横浜市西区西戸部地域で見せていただいたもので、地下に貯めた雨水を井戸で汲み出し、せせらぎ状の水路へ流すという、大がかりなストリートファニチャーである。横浜市の支援を受けつつも、多くが住民の手によって施工されており、そのプロセスもあって地域へのインパクトは高く感じられた。そして、「今里にもこういったものが必要ではないか」というのが、横浜への見学に参加した者の共通認識となった。
 とはいえ、適当な設置場所が今里に用意されているわけではないし、当然、設置にはそれなりの費用も必要となる。インターネットで検索すると、そういった公益活動への助成制度も用意されているが「活動目標がしっかりとしていない段階から、既製の助成制度に乗ることは望ましくない」という片寄先生の助言もあった。熱が冷めないうちに形にすることも大事だが、せせらぎ作りを目的化するのではなく、「せせらぎを作る」という共通目標を通して、小さな活動を積み上げていくという、プロセスが重要であるという結論に至った。

(2) 外の目で防災まちづくりを考えてみる
① 防災まちづくりフィールドワーク
 これからいよいよ協働による防災まちづくりを実践するにあたって、改めてまちのことを深く知るために、2008年6月に大規模なフィールドワークを実施した。今回は、今里町会の方々をはじめ、ボランティアで協力いただいているコンサルタントの方々、大学教授や大学院生、市政調査会の研究員、そして市職組合員など約30人が参加した。
 そして数日後には、フィールドワークに参加した市職組合員を中心として、今里でどのような防災まちづくりの展開が考えられるかを検討するワークショップを2回行った。フィールドワークで「たんけん」と「はっけん」ができたので、次は「ほっとけん」という流れだが、地域の防災まちづくりを「よそ者」だけの視点で考えてみるおもしろさだけでなく、「よそ者」であっても、主体性を持って地域の活動に参画するためには、これが重要なプロセスであると考えた。
 ワークショップでは、密集市街地の防災課題の“定番”ともいえる「いえ」や「みち」の改善提案が多くあったが、特徴的だったのは、「井戸などの『水源』の復活・再認識が必要」という案であった。というのも、フィールドワークの際、今里のまちの方々の多くが、水路や池や井戸など「水」にまつわる話をされていたため、印象が強かったものと思われる。しかしこれで、今里に「せせらぎ」を作ることへの“必然性”のようなものを見いだせたようにも思えた。
② 活動をまとめた冊子づくり
 ワークショップの成果を地域のみなさんにも伝えたいが、「提案」というのも差し出がましいので、その“出力”方法には工夫が必要であった。そこで、ちょうど活動開始から約1年が経つことから、これまでの活動をまとめた冊子を作成することとし、そこに「まちづくりのアイデア集」として“控えめ”に掲載することとした。
 「アイデア」は、次のような3タイプで整理した。①「まちの中に防災まちづくりの大切さを広める活動の提案」…イベントや広報、シンボリックなものを設けることなど。②「地震被害を小さくするための修復型まちづくりの提案」…建物の補修や路地を広く使うためのルールづくりなど。③「災害から早期に復興するための事前の“約束ごと”の提案」…避難生活期間における協定づくりなど。
 「よそ者」の私たちとしては、「このアイデアが、今後のまちづくり活動のヒントになれば…」という願いを込めて、2008年12月に今里町会へ相当部数を配布させてもらった。


3. 第2段階 市職メンバーによる「ゼミ」のような取り組み

(1) 防災まちづくりのアプローチを変えてみる
① 防災まちづくりとまちの歴史研究の関係
 これまでの私たちの活動の過程で、まちづくりコンサルタントである地域計画研究所(現在は「地域プラン研究所」)の高橋滋彦氏の協力を得ることができた。高橋氏は、「地域のまちづくりを盛り上げるには、まちの歴史などシンボリックな『背景』が不可欠」と言う。そこで、2009年より高橋氏をアドバイザーに迎え、「防災まちづくり」という目的は持ちつつも、今里のまちの歴史的なシンボルを掘り当てる取り組みを進めるため、市職組合員が中心となって「よそ者」による“ゼミ”的な活動を始めることとした。
 なお、この活動を始めたことには、前述した本来の目的以外にもいくつかの理由がある。一つは、せせらぎを作ることだけが活動の目的になってしまうと、それが行き詰まれば活動全体がストップする恐れがあり、それを避けるため。そしてもう一つは、まちで活動の中心を担っているのは町会の役員方であり、彼らは防災以外にも、さまざまな地域の活動に日々奔走されている。一方の市職メンバーにも同じことがいえるため、“付かず離れず”ではなかなか活動が進展しない。そこで、市職のメンバーが学生のように、地域との“緩やかな”関係性のもとで活動を持続的に行うことで、今里のまちから「まちづくりのムーブメント」を絶やさないようにしたかったからである。
② 「小字」からまちの歴史を探る
 「ゼミ」では、高橋氏の提案により、まちの中から消えてしまった「小字」を探りあてることから取りかかった。小字名は「田」「畑」や「浦」「沼」など、地勢を表していることが多く、小字の位置が現在のまちの中に復元できれば、昔の土地の形態が見えてくるからである。そして、それが今後まちづくり活動を展開する上での、地域の歴史的なシンボルとなることを期待した。
 この活動には、かなりの時間を要すると考えていた。しかし、大阪市政調査会の研究員である西部均氏の登場により、あっさりと今里の全ての小字の位置が判明することとなった。西部氏は、歴史地理学の研究者であることから、この手の作業は朝飯前のようだ。
 復元を試みたのは小字だけではない。市職のメンバーが、古い地図や献資料を探し出して、今里の昔の姿を掘り下げる取り組みも行っている。会合では、昔の今里の姿に思いをはせながら、古い地図や資料を囲んでワイワイやる、といった雰囲気だ。そこでは、これまでに発見された昭和初期の地番図に、今里の現況図を重ね合わせてみたりもした。すると、曲線的な道の多くは水路と一致し、いくつかの場所では、池の形状を残したまま宅地化が図られているなど、まちの基本的な形状は、今でも大きく変化していないことが理解できた。
 なお、ここでも、西部氏が私たちの活動に全面的に協力してくれたおかげで、いろいろな発見に至ることができた。なかでも、このあたりは水路・池が多かったことに加え、旧大和川水系のいくつもの分流が今里交差点の付近で合流しているなど、今里のまちはかつて「水郷」であったことが分かった。そう言われると、以前のフィールドワークで見つけた井戸には、今でも美しい地下水を満々とたたえていたことを思い出した。

(2)  歴史研究の成果を防災まちづくりへ
 その後、今里のまちの方々を招いて、市職メンバーと西部氏で研究した「今里のまちの歴史」について発表しつつ、まちの方から昔の姿について話しを伺った。すると、地域の南側にはかなりの湿地帯があって、大正年間に干上がって宅地化が図られたことなど、さまざまな“証言”が得られた。
 そして、2009年11月には、「今里地域のB級遺産を探る」と題した、通算4度目となる大規模なフィールドワークを実施した。今里のまちの方々とともに、昔の地形図と現況図を照合しながら、まちにかすかに残る“水郷の面影”を探して歩くというものだが、その際、住民にも積極的にインタビューを行うなど、これまで以上にまちとの“関わり”と“広がり”を意識して取り組んだ。
 12月には、今里小学校で行われた地域のもちつき大会に、市職でブースを出展した。小字を記した昔の今里の地図を広げ、来場者に「うちの家の小字は何だ?」とやってもらいながら、昔の今里についてあれこれ教えてもらおうというのが目的だ。また、蓄音機で昭和の名曲を聴かせる活動をされている大阪市史編纂所研究員の古川武志さんを招き、市職ブースの横で実演をしていただき、ブースへの“集客力アップ”も図った。このとき、おばあさんが、わざわざ家に戻って昔の写真を持ってきてくれたことがとても印象深い。
 また、もちつき大会の際には、私たちの活動紹介と、昔の写真や資料の提供を呼び掛けるビラを配っていたのだが、後日これを今里町会の方々の手によって、全戸に配布していただいた。
 これらの取り組みにより、歴史研究は深まりを見せるとともに、私たちの活動が、わずかながら今里地域の中に広まりつつあるように感じられてきた。


4. わたしたちの取り組み「これまで」と「これから」

(1)「せせらぎの模型」がどうしてできたのか
 さて、第1段階の項で説明した「せせらぎをつくる」という目標について、本物の完成にはまだまだ時間を要すると思うが、設置候補地である広場(児童遊園)の「模型」が一足先(2009年春)に完成した。これは、せせらぎづくりを具体的にイメージするための素材として作られたものであるが、その作成のプロセスが意義深いので紹介したい。
 模型を作るためには、まずは広場の図面が必要となるが、そのためには測量から行わなければならない。市職メンバーには土木技術職の者が数名いるため、実地測量から図化までは可能だ。しかし、測量には機器が必要となる。そこで、今里町会の役員に測量機器のリース業を営んでいる方がいたため、それを無償で貸してもらうことができた。そして、最後は模型づくりであるが、この取り組みの中心メンバーである町会長が、マンションのモデルルームなどにある、あの「模型」の製作業を営んでいることから、材料代も含めて無償で製作してくれたのだ。
 これだけの面々が揃ったこと自体が奇跡とも言えるが、かくして、広場の立派な模型は、誰も過度な負担することなく、もちろん公費や組合費を使うことなく完成したのである。ほんの些細な出来事ではあるが、これが巷で流行している「協働」の姿ではないだろうか。

(2)「これまで」と「これから」
 これまでの活動で地域から得たものは多い。地域の「感覚」と役所の「理論」は全く違っていて、まちに受け入れられるものと受け入れられないものを、地域は「肌」で理解していること。そして、「自分たちのまちさえ守れればいい」という考えではなく、活動を周辺へ拡げる必要性を真剣に考えていること。これらは、「役所の人」として地域と「相対する」関係の中では知り得なかったことであり、「自治体労働組合」という“曖昧”な立場で地域と関わり、地域と同じ目標に向き合って活動してきたからこそ、得られた成果であったと考えている。
 「防災」といえば、ガードを固くすることだけに陥りがちな課題である。しかし片寄教授は言う「いいまちづくりが防災の基本」だと。この今里での活動は、それを体で感じて学ぶことができる活動であり、今後も「防災」ではなく「防災まちづくり」を、「成果品」よりも「プロセス」を重視して取り組みを進めたいと思う。
 最後になったが、私たちのこのような活動を受け入れてくれた今里地域に感謝したい。