【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第5分科会 医療と介護の連携による地域づくり

 大分県では県民の手による条例づくりの取り組みが行われている。出発点にあるのは「障がいは本人や家族の責任ではない。社会の責任で支えよう」という思いだ。発足から1年、「だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会」は1000人以上の障がい者や家族の声を集めた。その声をもとにした条例案づくりは始まったばかりで、行政や議会への働きかけもこれから。“手づくり方式”とも言えそうな条例づくりについて報告したい。



条例をつくる
「だれもが安心して暮らせる大分県条例」づくりに関わって

大分県本部/大分県地方自治研究センター・理事・在宅障害者支援ネットワーク・事務局長 小野  久

1. 条例づくりの必要性

 地域で障がいがある人やその家族はどのような思いで暮らしているのだろうか。それを私たちはどれくらい知っているのだろうか。
 障がいがある人たちが関わった重大事故や殺人事件などが起きたとき、あるいは財政問題と絡めて「障がいは問題だ」と考える傾向があるような気がする。自治体の担当者も、障害福祉の担当になってはじめて「障がい」の問題に直面する人が多い。「2、3年経ってやっとわかるようになったら異動になる」とはよく聞く話である。
 私自身、12年前にボランティア的立場から障がい者や家族の相談や地域福祉に関わることになったが、多くの母親が「一度は子どもと一緒に死のうと思ったことがある」と話す姿に衝撃を受けた。「うちの家系にはこんな子はいない」という夫の親、その妻を支えることができない夫、「制度がない。予算がない」で終わってしまう行政の窓口―すべてを親、特に母親と本人が背負わなければならない現実がそこにあった。
 そして今、様々な変化は見られるようになった。妻と一緒に子育てをする夫は増え、行政の中にも「困っている人を切り捨てることはできない。どうにかできないか一緒に考えよう」という担当者が出てきた。そして、「障がいを親と本人の責任にしてはならない」という考え方も広がり始めている。障がいがある本人による介護事業等の起業や公共的機関への働きかけも増えてきた。
 しかし、それはまだ一部でしかない。多くの障がいがある人や家族が今なお苦しんでいる。昨年6月4日に結成された「だれもが安心して暮らせる大分県条例をつくる会」(以下、県条例をつくる会)は、そのことを県民全体の問題として考え、「だれもが安心して暮らせる」地域にしていくことが必要だと考え、条例づくりを開始した。
 もちろん、千葉県をはじめとする条例を制定した自治体の取り組み、国連における「障害者の権利に関する条約」の制定、政府における制度改革推進会議の取り組みなど、様々な取り組みが私たちの取り組みに影響を与えている。しかしそれだけではない。県条例をつくる会は、徹底して障がいがある人と家族の声を大切にすることにした。だから取り組みは、アンケートと聴き取りから始まった。


2. 条例づくりの進め方

(1) 声を集める
 アンケートを開始したのは昨年9月。アンケートづくりにも時間をかけた。何度も議論を繰り返し、改善を繰り返し、最終的にはA3用紙1枚を二つ折りにしたとてもシンプルなものとなった。内容は記述中心で、「体験したいやな事、悲しくなったこと、困ったこと」、「今不安に感じていること」「地域や周りの人にお願いしたいこと」等とともに、「今までうれしかったこと」、「助けられた事」なども聞いた。

(2) 寄せられた声
 集める声の目標数は、千葉県や熊本県の実績を踏まえ、800事例とした。しかし、反響は予想を超えた。これまでに寄せられた声は1,000人以上、事例数にすれば2,000件を超えている。内容も予想を超えた。
知的障がい
・息子をこのように産んだことをせめてしまう。息子が当たり前に暮らせる社会になるのか…いじめられないか、独りぼっちにならないか、いろいろ心配。
・「障がいを持っている子とうちの子(同年齢の子)を遊ばせたくないから来られては困る」と言われました。
・相談するところがない、訴えても改善されない。
身体障がい
・ぞんざいな言葉づかいをされる。
・視力障害者に対してまともにみてくれない。
・見た目で分からない内部障がいは、分かってもらえないことに対する悩みがある。
精神障がい
・対人恐怖があり、親なき後暮らしていけるのか不安。
・病気の弱みにつけいれられ、高額な買い物をさせられた。
・親の育て方が問題と言われ、とても苦しんだ。
・この子には、私より長生きしてほしくない。他の家族に迷惑はかけられません。
発達障がい
・きもちわるいものをみるように避けられた。
・家に帰ってからのことを先生に相談しても「あんたら家族の問題なのだから」と言われ、対応してもらえませんでした。
・子どもには子どもの言い分があるはずなのに「この子には聞いても無駄だ」といっさい聞き入れてもらえなかった。
・きょうだい児に関してですが、学校で障がいのある子と必ずペアにされる。
・できれば一ヶ月でも息子より長生きしたいです…残酷な切ない願いです。
高次脳機能障がい
・この世から早くいなくなって死にたいという気持ちになって何回も自殺したけれど死ねなかった。
・世間(地域・社会)から疎外され、声をかけてくれず、通知もこない。
・病気のことを理解してもらえず「障がい者のくせに肥満体」と言われる。
・就職できないことがつらい。
重度心身障がい(重複)
・受け入れ場所が少なく、自宅で過ごすことが多い。同世代の人と接していろいろなことを楽しんでこそ生きている証だと思う。
・災害など緊急時に誰が駆けつけてくれるのかも分からない。
教育について
・校区の公立幼稚園から「責任を負いかねます」と入園を断られた。
・進級や進学のことを考えるときは、上にあがっていく喜びよりも次はどうなるのだろうという気持ちのほうが正直、大きい。
・障がい児就学前相談のとき同席した医師から「残念ですが…息子さんは。残念ですが普通学級では…。残念ですが…」と「残念」という言葉を繰り返した。息子は残念な子ではない。

(以上、条例をつくる会ニュースレター「わたしもあなたも」第5号より)

 以上のように、福祉関係者でも初めて耳にするような深刻な事例も含めて、多くの思いが寄せられた。これをどのように条例に反映させるのか、弁護士や大学の研究者などと当事者・家族などでつくっている「条例づくり班」は“勉強会”を重ねている。

(3) これからの取り組み方
 これまで6回の勉強会を行った「条例づくり班」は、7・8月に集中的に作業を進め、条例案を作り上げる予定だ。その条例案を、行政や県議会、福祉団体等に届けて意見を聞き、協力を求め、話し合いながら条例化への道筋を探っていくというのが、県条例をつくる会のこれからの取り組みの計画である。まさに“手づくり”というしかない、試行錯誤を前提とした条例づくりだ。
 当初から当然、「福祉団体や県行政、県議会などへの働きかけを行い、前もって協力を取り付けた方がいい」というという意見もあった。しかし、「一人一人の声から出発したい」という参加者の思いの強さがその声を上回った。そして今、たくさんの声の集積を前にして、「その思いは間違っていなかった」という思いが共有されている。
 とはいえ、各方面の反響は未知数だ。今は、地域にとって本当に必要な説得力のある条例案を作り上げることに全力投球中。できあがった条例案を手に、条例づくりに向けた新たな一歩が始まることになる。


3. 基本にある考え方

 この条例づくりの根っこにある「障がいは社会がつくる」という“社会モデル”の考え方は、決して一部の考え方でも、先進的な考え方でもない。世界的には、むしろ常識となっているものだ。というのも、2006年に国連で採択された「障害者の権利に関する条約」が“社会モデル”にもとづいているからだ。この条約は日本も調印している。しかし批准はまだされていない。関連国内法が未整備のためだ。とはいえ、2011年に改正された障害者基本法はその考え方を取り入れた。ただ、その受容は決して十分とは言えないように思われる。
 だから、生活の場ではさまざまな不都合が生じる。つい最近も、新しくできたばかりのJR大分駅で車椅子を使用する人が、トイレに約30分間閉じ込められるという“事件”が起きた。自動ドアの内側の開くボタンが、車椅子からでは届かない高い場所にあったためだ。
 このようなとき、担当者側は「法律に基づいてつくったから問題ない」と言う。「だから責任はありません」ということがその趣旨だろう。しかし問題は、責任の所在ではなく、建物を作る、設備を作る場合の基本的な考え方にこそあるのではないだろうか。
 “社会モデル”の基本は、障がいがある人が障がいがない人と同じように社会参加できるということにある。そのためには“合理的配慮”が必要だと考える。面と向かって目に見える差別をすることはもちろん差別だ。それは“直接差別”という。一般的な対応により異なる結果を及ぼすことも差別に他ならない。それは“間接差別”という。これに対して、そうしなければ普通に暮らせないことをしないこと、これを“合理的配慮の欠如”と言い、してはならない差別と位置づける。これが“社会モデル”にもとづいたとらえ方になる。
 つまり、障がいがある人が公共交通を利用して、市役所に行って手続きを済ませ、銀行に行ってお金を送り、レストランに行って食事をする。これが当たり前にできるように、スロープを付け、音声案内を設置し、ATMを使いやすくし、車椅子の通路を確保する。これが“合理的配慮”であり、これをしないことが“合理的配慮の欠如”ということになる。
 この“合理的配慮の欠如”を差別だと国内で初めて定義したのが千葉県条例だった。ただ、国連でも、千葉県条例でも「過重な負担にならない範囲で」という但し書きが付いている。しかし、それでもこのような原則を確認しあうことは、社会の考え方、あり方を根本から変えるものではないだろうか。そして、このような形で言葉の「やさしさ」を、具体的な社会のあり方に位置づけることで、私たち自身のあり方も変わるように思われる。
 条例づくりのなかで「障がい者にやさしい社会はだれにもやさしい社会だ」という声が出された。“社会モデル”にもとづいた「必要なことをしないことも差別だ」という考え方が広がれば、社会は大きく変わるだろう。


4. 条例づくりの意義と地域、そして自治体

 県条例をつくる会は、実は条例そのものを目的にしていない。世話人会などでよく言われることは「条例をつくる過程が大切だ」ということと、「条例をつくったあとが大切だ」ということ。
 「条例をつくる過程が大切だ」ということは、障がいがある人や家族の現実を知らずにつくる条例では意味がないということだ。だから知ること、現状の課題を共有することを大切にする。それは、人のつながりになり、地域のささえあいにつながる。その地域のつながりとささえあいをつくることが何より大切なのだという考え方が、その根っこにある。
 「条例をつくったあとが大切だ」ということは、条例という“決まり”を作ったことは終わりではなく出発点だということ。問題は、それによって地域をどう変えていくか、どんな地域をつくっていくかということにある、という考え方だ。条例づくりでつながった人たちが、条例ができたから元に戻るのではなく、その中でつくられたネットワークを、その後の「だれもが安心して暮らせる」地域づくりに活かしていこうという発想だ。
 条例づくりの取り組みのなかで、「地域で苦しんでいる人がいたら、自治体に求めるだけでなく自ら動いていこう」、「自分自身が地域を支える一人になろう」という人たちが生まれてきている。自治体の側からすれば、このような市民の動きを見過ごしてはならないだろう。
 これまで「協働」が言われ続けてきたが、実現にはさまざまな障壁があった。条例づくりの取り組みは、市民の側から自発的にその障壁を取り除こうという動きにも思える。その背景には、高齢化、過疎化する社会のなかで、行政まかせ、他人まかせにしていたのでは、自分たちの地域を守れない。一人ひとりの安心を確保できなくなっているという現実がある。だったら自ら動こう、主張もするが汗も流そうという人たちが間違いなく増えている。
 条例づくりは、「障がいは個人と家族の責任」というこれまでの障がいに対するとらえ方を「障がいは社会の責任」という“社会モデル”のとらえ方に根本から変えようという取り組みであるとともに、自治体に対して「もっとアンテナを張り巡らせて、市民との協働を進めてほしい」という県民の側からのアピールでもあるだろう。県民も、行政も、議会も、これからの地域社会を一緒に考え、一緒に行動していく契機になる条例づくりに発展していくことを心から願っている。