【要請レポート】

第34回兵庫自治研集会
第6分科会 地域での子育ち支援

1995年からの日々を経て今


兵庫県本部/はらっぱ保育所代表 前田 公美

 私たちは、1995年1月17日、これまで体験したことがないような事に遭遇しました。
 それから16年経って東日本の惨事を、映像を通じてみることになるとは思いもよらないことでした。今、その日から1年半経って、被害にあわれた人々、町々が生き抜こうとしている姿を、映像を通じて、或いは生の声を聞くことによって感じています。かつて私たちが体験してきたことを、そして今の私たちをお伝えすることで何らかのお役にたてればとの思いで報告したいと思います。


 2007年6月30日、はらっぱ保育所の新しい園舎が完成しました。1995年1月17日の阪神淡路大震災で建物を失ってから12年以上の月日が経ってのことでした。

 はらっぱ保育所は1979年に数人の大人たちによって始められた小さな保育所です。初めの10年はスタッフの家の1階に在りましたが、近隣の問題と手狭になったことで、1軒の古い民家に移転しました。私たちだけでは家賃の負担が大きかったので、2階には助産所をするグループが入りました。助産所と保育所、なんて素敵な組み合わせだろうと思いました。それが、1989年の2月のことでした。そしてその通り互いに助け合い、刺激し合い、それぞれの活動を広げて行くことができ、たくさんの大人や子どもと出会うことができました。子どもも幼児から高校生まで、この場を必要とする様々な年齢の子がやってきました。保育所というより大きな共同の家という感じで賑やかに楽しく過ごしていました。

 その家があの日なくなりました。建ってはいたけど、その建物を修復するには、1,000万円以上かかると言われ、しかも建築には建築資材の入手困難、交通事情等により、いつ取り掛かれるかも分からないということでした。大家さんと相談し、一刻も早く保育所を始める為に、安く早くできるプレハブでの再建を決意しました(耐用年数10年といわれていたのでそれまでには建て直すつもりでした)。安いといっても普通の家と違います。費用もかかるので各方面の有志の方から頂いた義捐金を大家さんに手付金として渡しました。
 建物ができるまでの2ヶ月あまりの間、比較的安全なスタッフの家で子ども達を預かりました。子どもが3人から10人へと増えるにつれ屋内だけでは過ごせず、隣の市の交流のあった保育所へ遊びに行かせてもらいました。近くの公園は仮設住宅が建っていたり、資材置き場になっていたりで遊ぶ空間もなく、その上街はほこりっぽく、大型車がひっきりなしに行き交い、子どもたちを屋外で安心して遊ばせられなかったのです。被災地外に出ては、大人も子どももホーッと息をついだことを覚えています。
 そうしてその年の4月6日、やっとプレハブの建物ができ、水もガスも復旧しない状態でしたが保育が再開できました。よくそんなに早く始められましたね といろいろな方から言われました。確かに我ながらよく頑張ったなと思います。しかし、震災のその日は、あーこうやって終わるのかぁと、もう1度やれるとは思えない建物の姿、町の様子でした。そんな茫然自失とした状態でしたが、ともかく子ども達の安否を確認せねばなりません。子どもたちは幸いなことに皆、無事でした。次に私たちが皆無事でいることを周りの人たちに伝えようと思い、保育所のお便りを出しました。その折に今の状態を教えてほしいと保護者に返信はがきも同封しました。
 そういう行動を起こした私たちに次々と無事の確認と共に支援の手が差し伸べられました。たくさんの私たちの「はらっぱ」を心配してくださる方々の存在を知りました。早く開けてね、無くさないでという声かけとともに物心両面に渡る応援は自分たちのできることをしようという思いに向けてくれました。自分たちにできることは、子どもたちを守るということでした。大きな震災で怖い思いをし、不安の中にいる子どもたちにこれ以上悲しい思いをさせたくない、このまま別れてしまえば、子どもたちの心の中に地震とともに悲しい別れだけが残ってしまう、そういう思いをさせたくない、だから一刻も早く再開するのが私たちの役目だと思いました。そういう必死な思いが早くの再開へと向かったのだと思います。子どもたちを連れてまだ壊れたままの建物や更地の広がる近所を散歩していると、行き交う人たちがみな顔をほころばせるのでした。子どもの姿は周りの人たちにとっても希望なのだと日々実感しました。

 再開して子どもたちと過ごすようになり、私たちが心にかけたことは、去年した行事をいつもと同じようにする、毎年していることをする ということでした。無くなったものにくよくよせず今あるものを大切にいつもと同じ顔で、出来うる限り子どもたちの時間を豊かにしようと思っていました。無くなったものが多すぎたからです。
 そして、せっかくある場所を保育所の子どもたちだけでなく、地域の子どもたちに使ってもらえるようにしたいと思いました。一時預かりを積極的に受けました。地域の親子に保育所を遊び場として提供しました。子どもたちの遊ぶ場に仮設住宅が建っていたり資材置き場になってたり壊れたりでなくなっていたのは相変わらずでした。そして大型車は益々がんがん行き交っていました。とりわけ障がいを持つ子や小さな子にとっては行き場が無くなっていました。そこで、はらっぱの保育の少ない土曜日にお絵描き教室を開催することにしました。はらっぱの子たちだけでなく、芦屋や西宮に住む小学生や中学生の子たちとその親で講師の方に来てもらって始めました。放課後のクラブ活動の代わりにもと思っていました。それからずーっと続いている「ゴリラのお絵かき教室」です。
 震災をきっかけに始め、今も続いている催しにはもう1つ大切な催しがあります。毎年1月17日前後の土曜日に「あの日を想って」と称して、炊き出しや小さなライブなどを行っています。震災のあった翌年の同じ日、何か1人でいられなくて何とはなしに、はらっぱの庭に集まり火を焚いて過ごしたのがきっかけで、翌年の1997年から始めています。人に施してもらったあのなんともいえないありがたみを思い出すためにという思いで炊き出しをし、壊れた街で心に沁みた音楽を聴き、あの日を想うという気持ちだけを伝えるような催しを行ってきました。
 初めの10年は、ともに被災した者同士が心を寄せ合う集まりでしたが、ここ何年かの集まりは、“伝える”ということを意識した集まりになっています。特にプレハブから現在の建物になってからは、見た目にも何も無くなってしまったのです。私たちが伝えなくてはと思っています。あったことを伝えるとともに防災への準備も伝えていきたいと思っています。
 参加する地域の方がたも初めの頃は、おじちゃんおばちゃんが多かったけれど、この頃は、子どもづれの若い家族が増えました。防災への準備の中で最も大切なのは、人とつながることだと思っています。私たちが今、こうしていられるのも大丈夫かとたずねて回ってくれた人が居たから。だから近所でのつながりは大切だよ、といろいろな催しを通じて伝え、つながる機会を提供したいと思っています。東日本の震災以降、津波を想定した避難訓練も始めました。それも隣接する震災復興住宅を避難場所とさせていただき3階へと駆け上がる訓練をしています。
 はらっぱは認可外の保育所です。公費は一切受けることなく、公からの支援もなく保育所を再建し、運営してきました。だから、そういう訓練にしてもこちらから掛け合い協力を得て行います。隣の住宅の方々も子ども達のことを大切に考えて下さって協力してくれます。そこに本当の意味でのつながりがあるように思います。

 先の震災にあって、私たちは個人で行っていた保育所をNPO法人を取得して法人で運営するようになりました。NPO法人は阪神淡路大震災をきっかけにできた非営利を掲げた法人です。私たちもこの震災で多くの方々に支えられたことに応えていくため、続けていくために法人になろうと決心しました。それにはやはりNPO法人だと思いました。NPO法人になってから更に地域の子どもたち、親子を支える活動を深め広げてきました。保育所というものは預かっている子どもだけでなく地域の親子を支えるものだという思いは以前から持っていたのですが、もっと積極的にイベントを様々に組み、建物と同じように壊れてしまった地域のつながりを結び直したり、新しい関係を作る場になろうと思ってやってきました。子どもたちが健やかに育っていくためには、人と人との豊かな結びつきが何より大切なことだと感じているからです。私たちの法人の目的は「子ども達の健全育成」です。子どもたちが育つために大人たちがつながっていることほど大切なことはありません。そして子どもを真ん中にすることにより、大人たちもつながりやすいと思っています。だから「子どもを真ん中にしたつながりを目指して」を当法人のキャッチフレーズにしています。小さな保育所の中に豊かな人と人との関係を築き、それを地域の中に広げていこうとしています。

 今、私たちの町は一見何もなかったかのようになっています。まだある空き地、ここに住んでいた人たちがいたこと、大きな災害があったということを忘れない、そしてどうやったら生き延びていけるかを考えていくことが残った私たちのすべきことだと思ってきました。でも、今回の震災を契機にもっと根本的な生き方をも問われているように思っています。それを考え、問い続けることがこれからの私たちの為すべきことかと思っています。