【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」

 北方領土問題の歴史的経緯



北方領土問題の歴史的経緯


北海道本部/全北海道庁労働組合連合会・根室総支部 松田 正弘

1. 北方領土問題とは?

 北方領土問題とは、第二次世界大戦の末期、日本がポツダム宣言を受諾し、降伏の意図を明確に表明したあとにソ連軍が北方四島に侵攻し、日本人島民を強制的に追い出し、さらには北方四島を一方的にソ連領に編入するなどし、ソ連が崩壊してロシアとなった現在もなお、北方四島を不法に占拠し続けていることを言う。
 一言で言えば北方四島の領有権を巡る外交上の問題である。
 北方領土問題の解決は、日ロ両国間の最大の懸案事項。日本政府は、北方四島の帰属の問題を解決してロシアと平和条約を締結することにより、日ロ間に真の友好関係を確立するという方針のもと、粘り強くロシア政府との領土返還交渉を行っている。(出典:北対協HPより)

(1) 北方領土の領有権の主張
 無主の土地を他の国家に先立って実効的に支配することにより成立。外国の領域であったものを強引に取得したものではない領土であること。(出典:北対協・北方領土ハンドブックS46)
 ①島の発見及び②引き続きその地域で正当に主権を行使しているか?③他の国が異議を唱えていないかが問題。
 ① 記録からすれば「発見」はオランダ人。北千島はロシア人。北方領土は日本人。
 ② ロシア人は第二次世界大戦後(1946)北方領土に初めて移住。日本人は日ロ通好条約(1855)以前からアイヌと交易(松前藩が実効支配)。アイヌとの同化政策もあり、終戦時まで五~六世代に渡り「日本人」のみが居住、開拓し主権を行使していた。
 ③ ②の時点までロシア含め他国の異議なし。反対に終戦後不法占拠したロシアに対し、日本は現在も異議を主張し続けている。(出典:「変わる日ロ関係」安全保障問題研究会)


(2) 現在の北方領土(約17,000人)
 ク リ ル地区~択捉島6,900人
 南クリル地区~国後島6,700人
        色丹島3,200人
 歯舞群島(国境警備隊員のみ)
 当時の北方領土(17,291人)
 択捉島 ~3,608人
 国後島 ~7,364人
 色丹島 ~1,038人
 歯舞群島~5,281人


2. 領土問題の歴史的経緯

北方四島の開拓(出典:「日本の領土・北方領土」根室市・北対協ほか)
1635年:松前藩、蝦夷島探検。世界で初めて国後島からシュムシュ島まで北方の島々の地図を作る。
1644年:徳川幕府、「正保日本国図」(正保御国絵図。北方四島が地図上で明記された世界最古の地図)編纂のため北方四島に渡航。松前藩が「国後」「択捉」など39の島々の地名を明記した地図を幕府に献上。
1711年:コズィレフスキーら一行が千島列島の最北端・シュムシュ島とパラムシル島をロシア人として初めて探検する。
1721年:ロシアの探検家が作成した地図には北方領土の島々が「オストロワ・アポンスキヤ」(日本の島々)と明記されている。
1737年:シュパンベルグがクリル列島に沿って南下、三陸沖から下田に達する。
1766年:イワン・チョールヌイが南千島を調査、択捉島に初めて渡来、ウルップ島にロシア人居住地を作る。
1789年:クナシリアイヌの蜂起(倭人の圧政に耐えかねたアイヌの反乱。倭人71人殺害、松前藩が首謀者37人のアイヌを処刑)
1785年:幕命により最上徳内が択捉島、ウルップ島を探検する。
1792年:アダム・ラスクマンが根室に来航し通商を求める。幕府はロシア勢力の進出に伴い「鎖国」を理由に通商を拒否、近藤重蔵、間宮林蔵らを国後島、択捉島や樺太に派遣し実施調査を行い地域の防備に努めると共に択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防ぎこれらの島々を統治する。出典:外務省「我らの北方領土」
1794年:ロシア、ウルップ島に流刑移民等58人を送りロシア基地を再建、ロシア占領下に置かれる(出典:北対協・北方領土ハンドブックS46)
1798年:近藤重蔵・高田屋嘉兵衛、択捉島にて漁場を開き行政府を置く。近藤重蔵が「大日本恵登呂府」の標柱を建てる。
1803年:ロシア政府がレザノフを団長とする使節団派遣。幕府は長崎で半年間軟禁の上、国書も進物受け取りも拒否。部下のフボストフが報復行為として樺太、択捉などの日本人居住地を襲い放火・暴行・略奪をする。
1811年:国後島に来たロシア艦艦長ゴローニンを捕らえ松前に拘禁する。
1812年:高田屋嘉兵衛が国後島海上で捕らえられる。
1813年:ゴローニン・高田屋嘉兵衛交換釈放。
1814年:若年寄植村正長から下知状が出され、日露の国境を択捉以南とシムシル以北とし、その間を緩衝地帯とする。
1821年:「アレクサンドル1世の勅命」(「ウルップ島までの島々と港湾における商業・漁業並びにあらゆる産業はロシア国民のみが従事できる」として、それらロシア支配下にある島々への外国船の接近・停泊を禁じる)。この勅令は択捉島以南にロシアの主権が及ばないことを明確に示している。
1853年:ロシア使節プチャーチン(全権代表)が長崎に来航し長崎奉行に国書を提出。樺太と千島の国境を定めたいと幕府に申し入れる。この際、ニコライ1世がプチャーチン提督にあてた訓令で「交渉の最重要目的は通商上の利益であり、鎖国を理由に交渉が拒否されないように。国境画定問題を持ち出せば日本は交渉に応じるはずであり、その際ウルップ島をロシアの南端(択捉島を日本の北端)と述べて構わない」と指示する。これは交渉当時、ウルップ等にロシアの、択捉島・国後島に日本の支配が及んでいた事実として双方が認めていた。

1855年:日魯通好条約(下田条約)締結。択捉・ウルップ島間を日露の国境と画定、樺太はこれまでどおり境界を設けないこととし国境画定は円満合意を得る。
1859年:クリミア戦争の敗北からムラヴィヨフ提督が全樺太の領有を要求し日本が拒絶。ロシアは樺太への入植に力を入れ、全島の実効支配化に着手。結果、樺太に住む日ロ両国住民間にトラブルが頻発する。

1875年:明治新政府、樺太全体のロシア化を懸念し「樺太・千島交換条約」成立。シュムシュ島からウルップ島に至る18の島々(千島列島=クリル諸島)が日本領となる。
1884年:アイヌの色丹島への強制移住(大半が病死)
1904年:ロシアが陸軍を大増強し、朝鮮と南満州の支配権を強めたことから危機感を持った日本は国交断絶を通告、日露戦争勃発(日本は宣戦布告前に攻撃を開始(奇襲攻撃)、日本軍優勢のまま停戦し講和条約へ。※戦時国際法で成文法上、開戦の前に宣戦布告を義務付けられたのは日露戦争後の1907年「開戦に関する条約」以後)。

1905年:米ルーズベルトが仲介、日露講和条約(ポーツマス条約)調印。北緯50度以南の南樺太が日本領となる。
1941年:日ソ中立条約調印。
 第1条~両国間の平和友好関係維持、領土の相互不可侵。
 第2条~一方が第三国より攻撃される場合、他方は中立を守ること。
 第3条~1941年4月25日の批准日より5年間の有効期間を持つ。
1941年:英米共同宣言(大西洋憲章(抜粋))
敗者による「復讐」という戦争の悪循環を断ち切ることを目的に制定。1945年の「国連憲章」に引き継がれ、国際ルールとして定着する。
 ① 両国は領土的その他の増大を求めず。
 ② 両国は関係国民の希望と一致せざる領土的変更を行うことを欲せず。
1942年:連合国共同宣言(※大西洋憲章に賛意を表した署名国。ソ連も含まれる)
1943年:カイロ宣言(米・ルーズベルト、中・蒋介石、英・チャーチル)※三大同盟国による日本に対する将来の軍事行動協定。日本の侵略を阻止し罰する為であり、自国のために何らの利得をも欲求するものに非ず。領土拡張の何らの念をも有するものに非ず。第1次世界大戦以後、日本が諸外国より奪取・占領した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力または貪欲により日本の略取したる一切の地域からの駆逐が定められる。(出典:外務省「我らが北方領土」)
1945年:ヤルタ協定(ソ連・スターリン、米・ルーズベルト、英・チャーチル)
 1. ソ連が、ドイツが降伏し、かつ、欧州における戦争が終了した後の2~3ヶ月で次の条件の下、連合国に味方して日本に対する戦争に参加すべきことを協定する。
 2. 1904年の日本の背信的攻撃により侵害されたロシアの旧権利が回復されること。
  ① 樺太の南部及びこれに隣接するすべての諸島がソ連に返還されること。
 3. 千島列島がソ連に引き渡されること。※三大国首脳はこれらソ連の要求が日本が敗北した後に実行されることで合意する。(出典:外務省「我らが北方領土」)

1945年:8月8日ソ連、日ソ中立条約を破り対日参戦
8月15日 日本ポツダム宣言受諾(日本の主権は本州・北海道・九州及び四国、これらの近辺の小島に限る)。第2次世界大戦終戦。
8月18日 ソ連、占守島に上陸開始。日本軍の武装解除をしながら南下する。
8月28日~9月5日 ソ連軍、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を軍事占領。

9月2日 日本、ミズーリ号上にて連合国への降伏文書に調印、太平洋戦争が終わる。
9月19日 ソ連、翌20日よりクリル諸島と南樺太の領土宣言。
12月1日 根室町長・安藤石典が北方領土を米軍の保障占領下に置いて欲しいと連合国軍事司令官マッカーサー元帥に陳情する。
1946年:ソ連、樺太南部・千島列島・択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島をソ連邦憲法及びロシア共和国憲法通用地域とし、土地、所在資源など国有化、自国領に一方的に編入を宣言する。ソ連民間人が初めて北方領土に移住する(日本人宅に同居。日ソ両国民の混住状態が2年ほど続く)。

1951年:サンフランシスコ平和条約
日本は南樺太及び千島列島に対する領有権を放棄する(島名を列挙しなかったために日本国内でも議論となったが、元々北方四島は日本固有の領土であるとの立場からである)。

1956年:日ソ共同宣言調印~第9項に「日ソ平和条約締結後に歯舞群島・色丹島を返す」旨明記される。
1956年:9月「日ソ交渉に係る米国覚書」
「米国は歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものであるとの結論に達した」(出典:外務省「我らが北方領土」)

2006年:クリル諸島社会経済発展連邦プログラムを閣議承認。2007~2015年にかけ、四島のインフラ整備に約800億円を投じる計画が進められ現在に至ります。
2007年:国連総会において「先住民族の権利に関する国際連合宣言」採択。日本政府は賛成票を投じた。(賛成114、反対4(オーストラリア・カナダ・ニュージーランド・アメリカ(いずれも旧植民地で多数の先住民族人口を持つ国)、棄権11(ロシア他)、欠席33))
※宣言は、自己決定権、平和的生存権、知的所有財産権、文化権、返還・賠償・補償権、教育権、土地権、資源権等々広範な権利を先住民族の権利として規定する画期的な内容となっている。法的拘束力はないが、国際的な法律基準として国際世論が出来る。
2008年:「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」(衆参本会議)~アイヌ政策を推進し、総合的な施策の確立に取り組んでゆくこととなっています。
(出典:北海道アイヌ協会HP)


まとめ

 ロシアは「ロシア人が最初に島を発見し開拓した」「ヤルタ協定でロシアに引き渡されることになっている」「日本がサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には国後島と択捉島も当然含まれる」との理由で一方的に自国領としています。
 日本政府は、「1855年の日ロ通好条約で国境が決められてからずっと日本の領土である」「ロシアは自国領を広げるために戦争はしないというカイロ宣言に違反し千島を占拠している」「サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には元々日本の領土である北方領土は含まれない」との考えからロシアとの交渉を続けています。
 領土紛争は世界の歴史から見ても100年戦争といわれるが、我々一人ひとりがこの問題について正しく理解し、北方領土問題の原点であるこの地域から日本の立場を粘り強く主張していくことが重要であるといえます。