【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」


神戸空襲を忘れない
<いのちと平和の碑>設立にむけて

兵庫県本部/神戸空襲を記録する会・代表 中田 政子

1. 神戸の空襲

 1941年12月の真珠湾攻撃から、アジア・太平洋戦争が始まりました。その僅か5ヵ月後1942年4月には神戸に最初の空襲がありました。その頃日本の人たちは、未だ強い国日本と信じていましたから、アメリカ軍の飛行機が日本の上空を飛ぶことすら想像できなかったのです。この時、兵庫区に焼夷弾が落とされ、1人亡くなりました。
 1944年8月には、マリアナ諸島が占領され、グアムやサイパンから大型爆撃機B29が神戸の上空にも飛来し、写真撮影などの偵察飛行をするようになりました。1945年2月4日に、B29による焼夷弾攻撃が兵庫区、長田区にありました。この空襲は3月以降本格化する市街地への焼夷弾攻撃の実験的性格を持っていました。
 3月10日に東京、12日に名古屋、14日に大阪そして17日に神戸でした。大都市への低空からの夜間焼夷弾攻撃で、主に兵庫区、長田区を中心とした神戸の西部が被害にあいました。この日はアラレを伴った北風が強く吹いていました。木と土と紙でできている日本の家屋は、焼夷弾により焼き尽くされ、その炎は逃げ惑う市民の群れに襲い掛かりました。運河にかかる大輪田橋附近では、一晩で500人も亡くなったと言われています。橋の下が安全と逃げ込んだ人たちの命を、水面を走る油脂焼夷弾の炎と旋風が奪いました。
 5月11日には、本庄村にあった川西航空機甲南製作所とその周辺に高性能爆弾を投下しました。これは、武器製作工場をねらった精密爆撃作戦といわれますが、当時の灘区役所も直撃を受け、職員が何人も亡くなりました。未だ神戸市ではなかった御影町、本山村、魚崎町、住吉村などにも大きな被害がありました。
 6月5日は、3月の空襲で焼け残っていた中央区の一部と須磨区の一部に焼夷弾が投下されました。朝から晴天のこの日、午前7時過ぎB29の編隊はあっという間に上空を埋め尽くし、「ザーッ」という音とともに焼夷弾が雨のように降ってきました。これで神戸市のほとんどが焼け野原になってしまいました。『火垂るの墓』で取り上げられているのは、この日の空襲のことです。主にこれらの空襲を神戸大空襲と呼んでいますが、空襲はこれだけではありません。ほとんど毎日のように、空から攻撃を受けていたのです。8月14日まで続いたのでした。この他にも神戸港沖の機雷投下や模擬原爆も投下されたのでした。
 1950年に兵庫県土木課が発行した「復興誌」のよると神戸市全体の空襲の死亡者は7,423人となっています。私たちの資料では、8,000人を超えているとしています。このようにはっきりした記録もないまま放置されている歴史の一面を、きちんとした形で若い世代に伝えることのできる場を神戸の街に作って欲しいと考えて、行政に訴え続けてきました。今、やっと行政が私たちの声に耳を傾けてくれるようになりました。

2. 地獄の大輪田橋 母からのバトン

 私の母は、1945年3月17日の空襲にあいました。1歳10ヶ月の赤ん坊を背負って、母は追い迫る炎から逃れ、兵庫区の運河にかかる大輪田橋に逃げていきました。そこは、橋の下に隠れようと逃げてきた人たちで一杯でした。コンクリートでできた橋の下に隠れれば、運河の水もあるし大丈夫と多くの市民は考えたのでしょう。しかし、油脂焼夷弾の炎は水面を走り、橋の下に逃げた多くの人が蒸し焼きになってしまいました。橋の下に隠れる間もなく母は炎に包まれ、恐ろしい旋風に飲み込まれ、気を失ってしまいます。気がついたときには、死体の山に囲まれた全身大火傷の自分と虫の息の赤ん坊でした。もう一度爆風が起こりました。母はまた気を失います。……九死に一生を得た母は、医師にお腹の子どもは諦めなさいと告げられます。ヨチヨチ歩いて、片言を話していた可愛いさかりの娘はどこに飛ばされてしまったのか、遺体を捜すこともできず、お腹の児も殺されてしまったのかと悲しみにくれたことでしょう。しかしある日、お腹の赤ん坊が「生きているよ」とお腹を蹴りました。戦争は終わり、苦しい疎開生活の中、私が生まれました。
 父が若くして病気で亡くなり、心の支えをなくしていた母に空襲体験を書くことを勧めたのは、私たち子どもでした。それをきっかけに、母は神戸空襲を記録する会のお手伝いをするようになりました。戦前戦後の物のない時代をひたすら主婦として、生き抜いてきた母にとって、「神戸空襲を記録する会」という集まりは、カルチャーショックの連続で楽しそうに見えました。慰霊碑を兵庫のお寺に建立し、空襲体験集の出版もお手伝いし、教育ビデオにも出演しました。それも15年ほどすると、突然病気で亡くなってしまいました。私は、当然のことのように母がしていた会の雑用をお手伝いするようになりました。
 その間、空襲を記録する会を支えてくださった世話人の方がたが、立て続けに亡くなっていかれました。前代表も病に倒れ、弱気になっていかれました。「あんたが、代表をしてくれるのが一番いい。それかこの震災と戦後50年を期に止めるかだ」と言われました。でも、瓦礫の中から「続けよう」と言ってくれる仲間がありました。1995年3月17日神戸空襲合同慰霊祭を開催し、JRもまともに動いていない中、150人もの参列者がありました。人びとは、忘れないのだと思いました。忘れられることではないのだと気付かされました。
 震災2年後代表が亡くなり、代表を引き受けることになりました。いつも悩み、戸惑い、投げ出したい思いの中、もう代表を引き受けて15年が過ぎました。母が記録する会に在籍した日々を越えてしまいました。体験者じゃない、歴史を研究したものでもないただの主婦が一体何が出来るのか? 小学校や中学校を空襲体験者と共に訪問しています。体験していなくても、つらかった人の思いを伝えることができるということ。一生懸命生きた命が繋がって今の自分の命があることを子どもたちに伝えたい。自ら死んではいけない! 生きたくても生きられなかった命のあったことを忘れてはいけない 本当に伝えたいのはこのことです 争ってはいけない、力の強い者が小さい弱い者を脅して物を奪ってはいけない。皆同じ命だから、お互いに大切にしよう

 神戸市から大倉山公園に土地を提供していただくことが決まりました。私たちの力で『神戸空襲をわすれない ―― いのちと平和の碑 ――』を来年建設しようとしています。そこには、私たちが1978年以来集めてきた空襲で亡くなった人達の名前を刻みます。僅か1,500人ほどのお名前が解っています。8,000人以上のお名前のためのスペースを用意します。この空白が若い人たちに、どんな時代だったか想像してもらえることを期待しています。命の意味を平和の意味を考える場所にしたいと願っています。思いのこもった僅かなお金が集まって、碑になりますようにと心より願っています。どうかご協力よろしくお願いします。


完成イメージ(大倉山公園)