【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第12分科会 被災地における女性への支援と保護~伝えられなかった真実~

 2011年3月21日、被災から10日目の宮城県南三陸町は、生死がわからない家族捜しの人、遺体安置所に、毎日新しい情報が飛び交い、そして悲嘆にくれる多くの住民であふれていた。その中で、熊本県職員の医療班として赴き、まだ保健面の支援の手が入っていない避難所や被災した自宅で生活する方への訪問活動を行った。私たちの滞在期間は、わずかに8日間だけ……。



東日本大震災の発生から10日目の宮城県南三陸町への
被災地派遣をとおして

~被災地に必要な保健活動とは何か、行政の立場で、県職員と
して、保健師としてできることは何かを考えた私の8日間~


熊本県本部/自治労熊本県職員連合労働組合・熊本県玉名地域振興局 上土井まゆみ

1. はじめに

 派遣の指示を上司から受けて何日もなく、心もせかされたような気持ちのまま、南三陸町に入った。
 県職員の医療班として、蒲島知事のエールをいただき、第1陣としての出発であったが、不安が心には渦巻いていた。医師1人、薬剤師1人、本庁との連絡役も兼ねた事務職2人、運転士2人、そして私たち保健師4人である。熊大からの応援として、精神科医1人も同行し、総勢11人は、先発隊4人が熊本から持ち込んだ公用車2台に分乗して(1班、2班の編成あり)、被災地での活動を行った。
 ここで報告できることは、3月21日から28日までの、わずか8日間の活動をとおして感じたことであることを前置きしておきたい。被災地は刻一刻と変化し、そのニーズも変わっていくものであり、本当に派遣活動がスタートした初期段階での現状であることも付け加える。

2. 派遣まで

 何より有効だった情報は、東北で生活する仕事関係者からの具体的な下記の助言というか、メッセージだった(あえて、伝えてくれた言葉のままで記載する)。
・自分の身は自分で守ること
・食べ物は持参して被災地の食料を消費しないこと
・できるだけいろんな物資を持ち込んで救援すること
・派遣に対し、被災者は心から感謝していること

3. 被災地の現状と活動の実際

 派遣されたものの、南三陸町役場は職員の半数を欠いていたこともあり、行政組織は破綻に近く、派遣スタッフの受け入れもままならない現状であることが初日にして感じられた。
 保健医療面の要となる役場保健師も被災者であった。
 この混線したような被災地の中で、私たちができることは医療班としての活動もさることながら、被災者救援に今必要な求められる支援を、被災地の本部の手足となって実施することだと、まずもって熊本スタッフは意思統一したことを印象深く覚えている。
 私たちがまず指示を受けた活動は、海側の被害のひどい地域の避難所や自宅損壊を免れた自宅生活者を訪問し、健康面への支援であった。
・問 診
・血圧測定
・食糧事情の確認
・早急な医療の必要者等の把握(本部に情報提供)
・必要物品の搬送(医療品にかぎらないすべての生活物品を含む)

 数ヵ所の県からの派遣職員、全国各地からのボランティア、そして多くのマスメディアが早朝から夕暮れまでひしめく南三陸町の被災地本部ではあったが、若い自衛隊員の救援活動の力強さと、厳寒の中でも淡々と活動される後ろ姿に感動した。彼らは1ヵ月以上の滞在が命じられていた。
 そして、よく見ると、一緒に火を炊いたり、配食を手伝ったり、高齢者の布団片付けを手伝う被災者がたくさん存在した。本部を離れた小規模な避難所になればなるほど、被災者が避難場所で中心になって活動していた。
 被災者の実態はさまざまではあるが、行政の支援が届かない2日間、零下に下がる気温の中で、安全な水と食べ物を地域の仲間と寄り添い待ち続けていたことも、健康相談の中で話してくれた。
 “行政の救援を信じて待つ”と言う多くの被災者の言葉に、胸が熱くなった。
 果たして、私は“国民の信頼の的となる行政支援”の一翼として活動できたのか今も答えは出ないが、できることを精一杯やった気はする。
 東北の田舎の良さをもった南三陸町は、コミュニティーの力があり、地域の体力を感じた。
 私は、今自分が住んでいる地域で、このような災害に見舞われたとき、こんなに励まし合い支え合う仲間がいるのだろうかと、何度も自問した。
 もちろん、被災者の中には、多動や奇声を発するために集団になじめない家族を持ち、車上生活をおくる世帯もあった。「私たちは、わがままをしていると思われているから、配食や救援物資を受け取りづらい。」と、相談してくれた母親には、避難所の裏口から人目を避けて、彼女が持てるだけの救援物資を渡した。
 障がい者は、避難場所でも難民になってしまいかねない現状を目の当たりにした。
 ふりかえると、私が活動の場で、よく耳にした言葉は次のようなものだった。
・水が来たか。 
・食べ物が届いたか。
・電話が通じたか。
・ガソリン、電気、ガスが来たか。
・家族と会えたか。

 「疲れた」「休みたい」「誰か変わってやってほしい」等、暖房も照明も不十分な日々の生活に不平を言う人があまりいなかった。
 小さな子どもから高齢者まで、みんな我慢して、決められた避難所のルールに従って生きていることが、だんだんわかってきたところで最終日となった。

4. まとめ

 派遣に行った私の方が、励まされているような気がした8日間は、瞬く間に終わった。
 そこで私が学んだこと、強く感じたことは、被災地に決められたマニュアルはないが、ライフライン、食料、情報伝達機能の改善で支援活動は大きく変化していくため、柔軟な支援体制が大事であるということだ。
 そして、何より家族の安否を気にしながら、それでもけなげに避難所での仕事をこなしている一見元気そうなすべての被災者を含めて、全部の人へのサポートが必要なことを忘れないようにしたいということだ。

5. おわりに

 避難所の多くの方々から、「どんなかたちでもいいから、この現状を、あなたの見たままを熊本に帰ったら熊本の人に伝えて欲しい。」と伝言された。
 私は十分な活動はできなかったけれど、被災地を離れた後もできる被災地支援活動として、この約束だけは守りたいと思っている。
 現在の新しい勤務地で、依頼された被災地活動の体験報告依頼は、すべて受けてお話ししている。
 そして、今も、これからも、私の方が被災者の方々からたくさんのエールを送られたことを、深く心に刻みたい。