【論文】
1. はじめに 沖縄県読谷村は、沖縄本島中部の西海岸に位置し、人口約38,000人、面積が35.17平方キロメートルの村である。沖縄戦時、米軍の沖縄本島最初の上陸地でもある。写真-1は、南隣の嘉手納町上空から斜めに写した航空写真であるが、住宅密集地と広々とした空間が広がる地域とに大別できる。その広々とした地域のうち、農地整備を施した地域以外が米軍基地であり、現在村土の約40%を占める。
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2. 読谷村における米軍基地の変遷 図2~4は、読谷村における米軍基地の変遷を時期をくぎって示したものである。図-2は、占領時(1946年11月20日頃)のもので、村土の約95%が米軍占領地である。米軍は沖縄本島上陸後、読谷村全域を占領し、戦後も村民は自らの村(土地)に帰ることが許されず、収容所生活を続けなければならなかった。村民の帰村へ向けた嘆願と、米軍の占領政策・戦災復興政策により帰村が許されたのは1946年8月のことであった。「郷土読谷ノ建設ニ挺身」するために結成された「読谷山村建設隊」*は、理想郷・読谷の再建を目指し、居住が許された字波平と高志保の一部地域に入り、村民の帰村準備を始めた。同年11月20日に第一次移動の約5,000人の村民が故郷読谷の地を踏んだ。その後、字楚辺、大木、座喜味、宇座、渡慶次、瀬名波の各一部地域が居住許可となりそこの住民はそれぞれの地へ移動したが、中には米軍の再度の強制接収により再移動を余儀なくされるなど、村民は生活の場を求めて幾多の変遷をたどることになった。沖縄戦を生き延びた約1万4千人が住むには、米軍基地の存在はあまりにも大きく、少しずつ返還を勝ち取り、自らの住む地域を確保する必要があった。*注 読谷山は読谷村の古称。1946年12月読谷村に改称した。 |
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図-5は、現在の軍用地と返還軍用地を示している。未だに村土の約40%を米軍基地が占める。
*注 正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」という。 |
3. 米軍撮影航空写真と読谷における米軍基地の跡地利用 米軍が撮影した写真が読谷村の戦後処理・跡地利用に如何に役立ったかを、事例をとおして見ることにする。写真-4は、1945年1月3日に米軍が撮影した読谷村とその周辺の写真である。村の中央には日本軍が米軍を迎え撃とうと造った読谷山(北)飛行場がある。 写真-5は、米軍上陸8か月後、1945年12月10日撮影のものである。北飛行場が拡張され、海岸線には米軍によって「ボーロー飛行場」が造られている。さらに、もともと集落や畑地だった地域がブルドーザーなどで敷きならされ、米軍物資の集積所となっている様子が窺える。よく見ると、両飛行場には戦闘機や爆撃機、輸送機などが駐機していることがわかる。12月10日現在でこうした情況にあり、村民の帰村が許されなかった理由とされた。
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4. ペリー提督と長浜ダム建設 写真-7は農業用ダムとして建設された長浜ダムである。このダムは村内にあった米軍の不発弾処理場の跡地利用としてできた。沖縄戦のときに米軍がB-29などの大型爆撃機から落とした爆弾はすべてが爆発したわけではなく不発弾として残ったものがあった。沖縄本島の各地からそうした不発弾を集めてきて、現在の長浜ダムの上流の地域で爆破処理をしていたのである。不発弾処理をすると、砲弾の破片が飛んできて屋根をぶち抜いたり、畑をしている人たちの周辺に落ちたりと、とかくいろんな事件・事故が勃発した。そこで読谷村民は「不発弾処理場を撤去しよう」という運動に立ち上がった。 1853年にペリー提督が琉球にやってきた。ペリー提督というと浦賀にやってきて江戸幕府に開港(開国)を要求し、翌年下田に来て条約を結んだ人と、日本史の中でも有名な人物の一人である。 |
5. 米軍機密資料を『読谷村史戦時記録』の編集に活かす 米軍はどれだけの情報をもっていたのか、そのことを知ることのできた米軍の機密資料を独自のルートで入手した。表紙には、「機密 アメリカ合衆国太平洋艦隊及び太平洋地区軍 沖縄群島 沖縄群島情報・告示第161-44号に対する第2補足情報 1945年2月28日付」とタイトルが刻まれているものである。それを翻訳し、『平和の炎』第8集として刊行した。 内容は、まず沖縄本島及び離島の日本軍の施設図、本島内の地域防衛図、守備隊配置図等の図面をもとに詳しい解説が施されている。次に伊江島、那覇、読谷山(北)、嘉手納(中)、牧港、与那原の各飛行場に関する詳細な写真を分析し、さらに糸満、本部町渡久地、那覇の街を航空写真から分析している。また、本島南部の橋の位置を詳説した図表を掲載している。続いて、慶良間列島、久米島、粟国島、渡名喜島、伊是名島などの離島を詳細に分析している。そして表が読谷村のカラー地図、その裏が同地域の航空写真(白黒)という別刷りが付録として付いている。 日本軍の施設図では、日本軍の配備と、飛行場・トーチカ・地下貯蔵庫などの位置が示され、さらに、各種のマークや点線などを用いて説明が書きこまれた日本軍飛行場の航空写真と続く。陸橋の位置図では、紙面横に付された一覧表があり、「長さ×幅×高さ(フィート)」「スパン(張間)」「種類」(石橋、鉄筋コンクリート造りかなど)「備考」「代替橋」の項目がある。徹底した調査ぶりに驚くばかりであるが、上陸地点に選定した読谷村に関する情報はさらに緻密なものであることに驚愕した。 図-7が別刷り付録の読谷村の地図(オリジナルはカラー刷り)である。米軍は読谷村からの上陸を決定していたことがこの付録図から読みとれる。1万分の1の縮尺で一辺が200ヤード(約180メートル)の正方形が網の目のように並び、それぞれにアルファベットが記され、AからYまでの25のマスがひとくくりとなって(一辺が1000ヤードの正方形となる)、そこに4桁の番号が付いている。これにより、攻撃ポイントが正確に把握できるようになっている。また航空機用に用いることが想定されているためか、「磁北」*点が設定され、地球の自転に伴う方角の修正や角度数値の読み方が詳細に付記されている。 米軍の上陸地点の浜には「ビーチグリーン№1」「ビーチレッド№2」などと書き込まれ、地名は沖縄語の古称で表記されている。 海岸線防衛のためのトーチカや無線通信所、高射砲や機関銃隊の配置など、地図に書き込まれた情報は多岐にわたり、上陸作戦を前に詳細な分析の結果だということがわかる。 こうして日本軍側資料だけでなく米軍側の資料によっても、読谷村に配備された日本軍の様子を知ることができた。その上で村民の体験談を聞くことになり、その理解を助けたと同時にその裏付けとなった。 この機密資料の他にも、沖縄県公文書館がアメリカ国立公文書館から入手した2,000枚余の写真や、インターネットを活用して独自に入手した米国人マジェウスキー氏らの提供写真などが「戦争編」の編集発刊に寄与した。 |
6. おわりに 読谷村では米軍基地を取り戻し、そこに平和的な跡地利用をすることを「平和行政」と位置づけてきた。村民は意識するしないにかかわらずその「平和行政」を担ってきたのである。村民と行政とが協動してむらづくりが進められてきた。 |