【論文】

第35回佐賀自治研集会
第9分科会 平和と共生のために、自治体は……

 佐世保といえば「海軍とともに発達した街」であり、現在も「米軍と自衛隊に依存した街」というイメージが通り相場となっている。しかし、明治初期に「人口3,000人の村」であり「郡代役所」が置かれたほどの行政の中心地が「寒村」であったのだろうか。
 近年、佐世保の中世から近世にかけた歴史研究が進められるとともに、佐世保の近代にいたる長い歴史の空白が埋められようとしている。この郷土史研究の成果の上に立って佐世保の戦後史を見直してみることは、佐世保の現在と将来にとって重要なことではないだろうか。
 県北の中心となった佐世保の都市形成の経過を考えることは地方自治という観点から見ても必要なことと考える。
 以下、終戦から現代までの佐世保の変遷を「軍事基地」を中心に据えながら考察してみる。



作られた「海軍の街・佐世保」の虚構
―― 敗戦からの都市形成を考える ――

長崎県本部/長崎県地方自治研究センター・研究講師 篠崎 正人

はじめに

 佐世保といえば「海軍とともに発達した街」であり、現在も「米軍と自衛隊に依存した街」というイメージで、佐世保市の成り立ちを記したものにも「人口3,000人の寒村」が海軍のおかげで発展した、というのが通り相場となっている。しかし、明治初期の「人口3,000人の村」であり「郡代役所」が置かれたほどの行政の中心地が「寒村」であったのだろうか。
 近年、佐世保の歴史、特に鎌倉時代(中世)から江戸時代(近世)にかけた歴史研究が進められるとともに、佐世保の近代にいたる長い歴史の空白が埋められようとしている。
 この郷土史研究の成果の上に立って、今一度佐世保の戦後史を見直してみることは、佐世保の現在と将来にとって重要なことではないだろうか。
 県北の中心となった佐世保の都市形成の経過を考えることは地方自治という観点から見ても必要なことと考える。
 以下、終戦から現代までの佐世保の変遷を「軍事基地」を中心に据えながら考察してみる。

1. 軍事都市の終焉と米軍進駐

 1945年8月15日、日本国は無条件降伏したことにより軍事都市としての「佐世保」は終焉した。
 同年9月13日、連合国軍(米海軍)の掃海艦が佐世保に入港したのを皮切りに、同月26日には佐世保軍政府が佐世保市役所2階に設置され、占領軍政が開始された。その後、1952年4月28日に連合国との間で平和条約が締結されるまで、佐世保では米軍による占領統治が続けられることになる。
 しかし、明治憲法下で「海軍の街として発展した」とされる佐世保にとって、海軍以外での都市設計は出来ないとする意識を払しょくすることは困難だった。
 明治22(1889)年に架橋された「八幡橋」は佐世保川に初めて架橋された固定橋だが、この建設にあたった発起人や寄付者を見ると、少なくとも旧帝国海軍の鎮守府が設置される前からそれだけの資金を拠出できる集落が存在していたのであって、「佐世保は海軍とともに発展してきた。」という通説は一面的に過ぎている。
 明治時代になってエネルギーの主役を担う炭鉱の隆盛とともに水産業、金融業、陶磁器業などを抱えた佐世保は順調に地方中核都市となり、これらの産業発展とともに鉄道や海運業などの運輸業と卸小売業もまた活動を活発化させていった。
 明治政府の下で「軍港」とされた佐世保には、おもに佐世保港を中心に様々な軍事施設の設置が進み、例えば荷役作業に適した海運業用岸壁を整備するよりも軍艦を係留するためだけに使用する岸壁が優先的に整備されるなど、港湾施設の整備もいびつな形で進められていったが、日常的な輸送や物資購入、艦船の修理など周辺の民間産業もそれなりの形を整えていた。

2. 商港としての再出発

 米軍が進駐した当時、日本の主要港湾が戦災で十分に使用できない中、比較的無傷であった佐世保の港湾施設は進駐した米軍用だけでなく貿易港としても有利な位置にあった。
 また、海外の日本占領地に取り残されていた軍人の復員や民間人の帰国(引揚げ)作業が10月から始まると佐世保港も主要な引揚げ港に指定された。上陸場所となった針尾島・浦頭には検疫や税関、通関などの行政機関が設けられ、また引揚げ船を支援するための各種港湾業務も活発になり、佐世保は敗戦直後の日本では数少ない港湾機能の充実した港となった。
 1949年、戦後では西日本で最初の外国貿易港に指定され、同年には日本を含む東アジアを通行する船舶に対する給油を受け持つ燃料基地に指定され、これにより商船の入港が増加していった。外国貿易港に指定されたことで、佐世保港には関税を取り扱う税関や出入国を管理する通関などの国の出先機関、船舶代理業、港湾運送業者、船舶が購入する物品を取扱う商社や船具店、それらの物資を輸送する運送会社や鉄道会社など、関連産業が次々に広がっていった。
 1949年に佐世保港に入港した1,000トン以上の外国船(軍艦など公船を除く)は265隻、総トン数1,204,559トンであった。
 入港船舶の増加は立神岸壁(立神町)と隣接する軍需物資倉庫群を利用した貿易業と付随した港湾荷役業、前畑町の軍需物資倉庫を利用した荷役・倉庫業など、労働集約的な産業として多数の雇用者を生み出した。
 また、GHQ(占領軍最高司令部)は旧海軍工廠のうちの約3分の2にあたる施設の民間転用を許可し、これを受けてドックや鋳造工場を利用して船舶修理業が民間会社「佐世保船舶工業(SSK)」として操業を開始した。
 1950年1月9日、佐世保港は船舶の入・出港時に水先案内人を乗せなければならない強制水先区に西九州地域でいち早く決定し、重要港湾としての位置づけが明確になった。また、同年4月には食糧輸入港に指定されたことにより大豆や小麦など穀物および塩など外国からの援助物資の積み下ろしが急増し、港湾荷役産業と関連する輸送業で佐世保は活況を呈していった。
 1949年に入港した外国貿易船は27隻、船腹合計191,500トン、1952年には105隻、同425,795トンと、急速な発展を遂げていた。
 もう一つ、佐世保の経済を活性化したものは石炭産業であった。
 佐世保市内を含む炭鉱地帯は、「北松炭田」と呼ばれ、日鉄鉱業や住友石炭鉱業など大手を含め、最大時2万人が130以上もの炭鉱で石炭を掘り出していた。また、石炭荷役に従事した港湾労働者も相浦(佐世保市)、臼の浦(小佐々)、江迎(江迎)などの各港で2千人を超えていたという。
 これらの産業に従事している人の消費地が佐世保の商店街であった。
 当時の港の活況と将来への明るい展望は、港湾産業は「集まる商船も日にしげく」であり、石炭産業の隆盛により「世界に伸びる産業の 資源の山にいのち湧く」(佐世保市歌 1952年制定)という雰囲気だったものと思われる。

3. 平和産業港湾都市宣言と商港の発展

 1950年は佐世保市の将来にとって大きな転換をもたらす出来事が相次いだ年であった。この年、佐世保市は市民大会を開いて佐世保市の将来発展の展望として「平和産業港湾都市」としていくことを確認し、「平和宣言」を決定した。また、このことを後押しするものとして旧軍港市(神奈川県横須賀市、京都府舞鶴市、広島県呉市、佐世保市)にある土地、建物、施設などの軍用資産を民生用または公益用資産として無償で譲渡するという「旧軍港市転換法」が住民投票を経て成立し、同年8月に施行された。
 燃料基地となった佐世保には入港する船舶も増加し、横浜、横須賀、神戸、関門とともに、日本を代表する港湾としての発展を展望させる年であった。

4. 朝鮮戦争と佐世保港の再軍事化

 平和産業港湾都市への道を進み始めた佐世保にとって、朝鮮戦争は大きな転換点となる出来事だった。1950年の朝鮮戦争勃発とともに、ようやく国際港湾としての機能が充実し始めた佐世保の港湾施設と水域は国連軍(米軍)に再接収され、停泊水域の使用制限、荷役可能な岸壁の接収、水先業務や給水など補給・支援業務の優先配置、燃料の優先使用などのため、民間港湾としての業務は一時停止状態とならざるを得なくなった。
 一方、朝鮮戦争国連軍の基地に指定されたことにより朝鮮半島への出撃・補給拠点となった佐世保は戦争特需による活況を呈していった。アジア太平洋戦争で経済インフラが破壊された日本全体にとって、朝鮮戦争は軽工業だけでなく重・化学工業にも米国の戦争資金が大量に流入し、日本経済は急速な復活と発展の道をたどるが、佐世保では飲食業や輸送業のみが戦争特需の恩恵を受け、一部造船産業を除けば製造業への波及も進出もなかった。
 船舶業でも佐世保船舶工業(SSK)は朝鮮海域で損傷を受け、あるいは故障した船舶の修理で活況を呈し、急激に売上高を伸ばしたが、朝鮮戦争の休戦協定発効とともに海運景気は急速にしぼみ、SSKは1954年には不渡り手形を出すほどに経営は悪化した。同様に飲食業や輸送業でも休戦協定発効とともに戦争特需は過ぎ去り、米兵相手に賑いを見せていたキャバレーなども相次いで閉鎖した。また、米軍基地で働いていた駐留軍労働者も1953年末の約7,900人をピークに、その後は減少に転じた。
 1952年4月28日、日本は連合国との間で平和条約を締結した。いわゆるサンフランシスコ平和条約である。この条約により連合国軍による占領統治と軍隊の駐留は終了した。

5. ベトナム戦争と佐世保経済

 1961年以降、アメリカ政府はフランスの植民地であったベトナムでの民族独立運動に端を発した内戦に「インドシナ半島の共産主義化を阻止する」という理由で政治あるいは軍事に介入し、1965年3月には海兵隊を、同年7月には陸軍部隊を派遣し、本格的な地上戦闘への参戦に発展していき、最盛期には約54万人の米軍が南ベトナム軍に代わって戦闘の前面に立つようになった。
 この戦争に日本は直接の戦闘には参加しなかったが、補給・輸送では最大の参加国であった。ベトナム周辺の東南アジア諸国はまだ工業化が進んでおらず、最もベトナムに近い国で補給・輸送体制を持っていた国は日本以外にはなかった。
 このため日本の米軍基地に加えて様々な製造業もベトナム戦争と深く関係していった。例えば、戦闘で破損した戦車、航空機、艦船の修理、戦闘員の被服など衣料装備品の製造、食糧、燃料輸送などに及び「トイレットペーパーから戦車まで」といわれるほどあらゆる戦闘機材や軍需物資が日本で生産あるいは修理され運び出された。
 ベトナム戦争には米国の巨大な軍事予算がつぎ込まれ、またさまざまな民生品や軍用品が消費されたが、その最大の受益者は日本であった。まだ十分な資本や技術、市場を持たなかった日本経済にとって、ベトナム戦争は経済成長の原動力の役目を果たしていた。日本の重化学工業化と高度経済成長は、ベトナム戦争だけが要因ではないにしろ、この戦争がなければありえなかっただろう。別の見方をすれば、米国は日本の生産力がなければベトナム戦争を遂行できなかった。
 佐世保はベトナム戦争に出撃する米軍兵士の「後方安全地域」での最後の歓楽場所となり、戦争特需で関連産業は朝鮮戦争以来の活況を呈したが、製造業などその他の産業を生み出すなどの波及はなかった。それでも卸小売業への影響は大きく、県北地域での経済の中心として商店街は成長していった。

6. ベトナム戦争終結と基地の縮小

 1975年4月に南ベトナムの首都サイゴンが陥落して政権が崩壊し、1950年代から続いていたベトナム戦争はようやく終結した。
 ベトナム戦争の終結により東南アジアや日本、韓国に配置していた米軍基地は相次いで閉鎖・縮小された。佐世保においても1975年5月になって米海軍佐世保基地の縮小が発表され、佐世保基地は司令部機能を持たない補給廠へと組織変更された。これに伴い基地従業員は1969年末の2,900人から74年末の1,400人、さらに1979年末には660人に削減された。最終的に、佐世保基地は1976年7月に「佐世保弾薬廠」に格下げとなり、米海軍横須賀基地の分署となった。
 一方、佐世保では大規模な兵員や従業員の縮小とともに米軍への提供地域と施設の一部が日本側に返還され、民生用地や公園、産業用地として利用が進められた。
 しかし、返還された用地と施設(16件、289,000m2)のうち約3割は海上自衛隊の施設に編入され、再び軍用地として使用されることになった。
 基地縮小と人員整理に伴って最も打撃を受けたのはもちろん基地従業員であった。そこで労働組合などが中心となって設立した財団法人長崎県駐留軍離職者福祉センター(重田今朝一理事長)は駐留軍関係離職者等臨時措置法を利用して返還された跡地に離職者による「事業村」の設立を計画し、旧軍港市転換法による指定を取り付けて無償で東地区倉庫跡地の用地を取得することが出来た。これにより7社の進出が決まり、佐世保では初めてのケースとして注目された。この事業村は「佐世保立神工業協同組合」として今日に至っている。

7. 東西冷戦の激化と基地の再強化

 インドシナ半島ではベトナム戦争の終結後もカンボディアやラオスなどで内戦状態が続いていた。しかしインドシナ半島の戦乱は地域国家間の対立の様相を帯びたもので、ベトナム戦争のような東西冷戦を背景としたものからは脱却していた。
 一方、西アジアのアフガニスタンで1978年に起きた軍事クーデターは1979年にソ連軍が軍事介入したことで、東西冷戦は再び深刻化していった。
 西アジアから遠く離れた日本の佐世保でも1979年5月以降、旧型の通常動力潜水艦や貨物揚陸艦が順次配備され、米海軍佐世保基地が復活した。1985年7月に港中央部に突き出た崎辺地区を1985年7月、米軍が再び崎辺地区を資材置き場として接収した。
 また同じ時期、針尾島の旧海軍海兵団跡地に長崎県が整備した工業団地は進出企業もなく原野に近い状態となっていたが、この工業団地の一角にある住宅地域を米軍住宅用地として提供を受け、488戸の住宅を建設した。残った工業用地は用度を変更しテーマパーク「ハウステンボス」が建設された。
 その後、東西冷戦は米国、ソ連も国内経済が窮迫したことにより緊張緩和が進んでいくが、佐世保には1985年9月までにさらに揚陸艦や潜水艦救難艦が追加配備されていった。艦船配備数の増加と合わせるように基地従業員数も1983年1月の641人を底に徐々に増加していった。

8. 冷戦終結以降の米軍基地と佐世保

 第2次世界大戦後の世界を支配していた東西冷戦は、1989年12月の地中海・マルタ島での米国とソ連の首脳会談で終結が確認された。その後ソ連は分解し、米国とソ連をそれぞれの頂点とした東西冷戦体制は完全に消滅した。
 地中海・マルタ島で米国とソ連の首脳会談が行われた同じ月、佐世保市議会は「地球環境保全・平和都市宣言」を市議会で採択し、新たな時代へ向けた意思を明らかにした。
 東西ドイツの分断の象徴であったベルリンの壁の崩壊に象徴される東西冷戦の終焉は地球規模での戦争の危機が遠のいたことを意味し、これからの平和な世界を期待させるものであった。
 しかし、1990年7月に起きたイラクのクウェート侵攻と占領は大規模国家間戦争から小規模地域紛争の時代への転換を意味していた。第1次湾岸戦争後、米本土では大規模国家間戦争に勝利する戦略からの転換を模索する動きが顕著になり、米本土や海外での「基地再編成と閉鎖政策(BRAC)」が始まった。いくつかのラウンドに分けて行われたBRACは、最終的には2006年に米国連邦議会への報告で終了した。
 この結果、アジアに駐留する米軍戦力は約34万人から11万人以下に、ヨーロッパでは約32万人を10万人以下に削減された。
 米本土西海岸の海軍基地でも再編と閉鎖が進められたが、この影響は西太平洋(東アジア)に残された米海軍基地(日本の横須賀、佐世保、沖縄・ホワイトビーチ)に大きな影響を与えることとなった。
 カリフォルニア州ロングビーチ海軍基地は1992年9月、BRACに基づき閉鎖され、施設と用地は地元自治体に譲渡された。この閉鎖に伴いロングビーチ基地に配備されていた強襲揚陸艦などは同年9月末、新たに佐世保基地に配備された。また、1994年4月までにカリフォルニア州とテキサス州の海軍艦隊病院施設が縮小・閉鎖され、保管されていた5セットの野戦病院セットは同年9月以降、佐世保などの米軍基地にそれぞれ分散搬入された。さらにテキサス州では掃海艦隊の大規模基地であったイングリサイド海軍基地が縮小され、配備されていた掃海艦2隻は1996年2月、佐世保基地に母港配備され、また、1997年10月には佐世保基地の中に艦船修理廠(SRF)が復活した。
 その後2005年にはBRAC最終報告が米国議会に報告、承認された。この最終報告にはテキサス州イングリサイド海軍基地の掃海艦部隊閉鎖が含まれ、当地に配備されていた掃海艦のうち2隻はサンディエゴ海軍基地、ハワイ州パールハーバー海軍基地を経て2009年6月、佐世保に追加配備された。
 この結果、佐世保には揚陸艦4隻と掃海艦4隻が配備され、米本土以外では唯一の揚陸即応支隊(COMPHIBRON-11)が編成されて今日に至っている。

9. 基地と経済効果

 日米安保条約に基づいて駐留している米軍と自衛隊の基地を2012年末における数字で見てみると次のようになる。

(1) 米海軍
 基地面積:陸上=約404ヘクタール(佐世保市域の約1%)
      港湾=約2,731ヘクタール(港区水域の約82%)
 所属人員:軍人3,120人、軍属500人、家族2,238人
 主な部隊:米海軍佐世保基地司令部(CFAS)
      艦船修理廠佐世保支所(SRF)
      米海軍弾薬司令部東アジア佐世保支部(ORD)
      横須賀補給センター佐世保支所(FISC)
      第1水陸両用群(ARG1)第11揚陸支隊(PHBRON 11)
      所属(配備)艦船数 揚陸艦4隻、掃海艦4隻

(2) 海上自衛隊
 基地面積:約106ヘクタール(佐世保市域の約0.25%)
 所属人員:約4,900人
 主な部隊:佐世保総監部(平瀬町)
      第2護衛隊群(立神町)
      第13護衛隊群(干尽町)
      佐世保教育隊(崎辺町)
 配備艦船:護衛艦14隻(近海型11隻、沿岸型3隻)、補給艦2隻ほか

(3) 陸上自衛隊
 基地面積:約170ヘクタール(佐世保市域の約0.40%)
 所属人員:第3教育団3,700人(年間延べ人数、卒業者数を含む)
      西部方面普通科連隊約660人
 主な部隊:第3教育団(相浦駐屯地)
      西部方面普通科連隊(相浦駐屯地)

 では、「基地の経済効果」とはどの程度のものだろうか。佐世保市の経済構造から軍事基地関連支出との関係を調べてみる。
 まず、金融・保険を除いた佐世保市の経済総額(地域総生産額=GDP)を明らかにすると、次のようになる。

産業種別 構成比率 金 額
商業 75.7% 63,712,900
製造業 20.8% 17,525,055
農林業 0.4% 359,275
漁業水産業 1.0% 853,496
介護・医療 2.1% 1,742,471
合 計   84,193,197
「2007年佐世保市統計書」から(金額単位:万円)

 
 ということで、約8,419億円が佐世保の地域生産額といえる。
 公共支出では佐世保市の歳出額は972億5,418万円で、そのうち人件費を除いた金額は776億601万円で、佐世保市の地域総生産額に対する割合としては9.2%となる。
 一方、佐世保市に西南地域の拠点である総監部を置く海上自衛隊の支出額は2012年度では1,091億円だが、佐世保地区の決算額だけで見ると、662億円となる。また、この中から約5,400人の自衛隊員の人件費や旅費、保険料などを除いた物品購入額は275億円で、このうち佐世保市内業者との契約額は119億1,900万円と公表されている。
 年度が違うので多少の誤差はあるが、海上自衛隊の地域経済への貢献度は1.4%程度にとどまる。陸上自衛隊や米海軍の佐世保基地での決算額は明確ではないが、大きな地域経済への貢献度はない。これは、自衛隊の場合、装備品や武器など中央での一括入札案件が多く、地域で独自に購入する割合が少ないため。米軍の場合は、必要な需要品は大半が本国から搬入するか、在日米海軍司令部(横須賀)で入札により契約するため、米海軍佐世保基地で独自に購入する物品は限られている。
 そのため隊員の人件費(自衛隊)や基地従業員の給料(米軍)が佐世保地域の支出額になる。

10. 戦後の軍事基地と佐世保(総括)

 戦後の軍事基地から見た佐世保の変遷を検討するに当たって、大まかに8つの時期に分けて、それぞれの時期の特徴的な問題を取り上げた。
 第1期は、戦後の混沌とした時代の中にあって、比較的に被害が少なかった旧軍資産を基礎に進駐軍の物資の荷揚げや外地からの引き揚げ業務などで商港としての機能を回復していく時代であった。
 第2期は、佐世保が外国貿易港に指定されるなど商業港としての態勢が充実していき、港湾荷役産業や関連する輸送業で街が発展していく時期であった。加えて、北松炭田の活況により佐世保の商店街が発展していき、県北の商業(消費)の中心都市としての地位が確立していく時期でもあった。
 このころ商業圏は県北一帯から西彼杵郡の一部(現・西海市など)、東彼杵郡(波佐見町、川棚町)、佐賀県の西松浦郡(伊万里市、有田町など)に広がり、県北経済の中心地として確立していく時期であった。
 第3期は、それまでの実績の上にたち「平和産業港湾都市」として「旧軍港市転換法」など制度的な支援もあって港湾都市として形成していくことを決めた時期であった。このことは別の観点からは、背後地にある石炭産業を利用した製造業・化学工業への道を閉ざすものであったともいえる。
 第4期は、朝鮮戦争をきっかけとした佐世保港の再軍事化の時期であった。日本経済にとってカンフル剤的な朝鮮戦争は、戦争で疲弊した工業が復活する契機となった。しかし佐世保においては工業化ではなく港湾産業に傾斜した街造りへ進んでいたため、商業、観光業では一時的な軍事特需に恵まれたが、港湾水域の使用制限など商業港湾機能の停滞という大きな制限を受けるところとなった。
 朝鮮戦争による特需ブームが終わって残ったのは、米軍に代わって駐屯した自衛隊だけだった。サンフランシスコ平和条約の締結により連合軍の占領が終わり、日本は独立国として再出発するが、佐世保では朝鮮戦争の名残のまま米軍が駐留し続けた。このことは今日まで長く尾を引いて、港湾開発にも影響を与えている。
 第5期は、ベトナム戦争と佐世保のかかわりが社会的な矛盾として明らかになった時期だ。1968年1月19日に入港した米海軍の原子力空母に抗議する運動は新しい市民運動の出発と呼ばれ、ベトナム反戦運動の象徴ともなった。しかし一方で佐世保経済は朝鮮戦争特需と同様の「恩恵」しか得られず、折からの高度経済成長による地域開発の機会を活かすことはできなかった。また、ほかの主要港湾が輸送革新船に対応する港湾整備を進めたのに対し、佐世保は米軍への提供施設ということで取り残されてしまった。
 結局、衰退した石炭産業に変わって佐世保の経済を支えたのは蓄積された商業資本と、折からの造船ブームに乗った造船関連産業だったといえる。
 第6期は、ベトナム戦争の終結を受けて米軍基地機能が縮小された時期だった。残念なことに、米軍の接収地のうち返還された港湾施設や倉庫地区はほとんどが海上自衛隊に移管され、引き続き基地とされてしまったことだ。
 それでも立神工業協同組合の設立のように、土地と知恵があれば新しい雇用の機会を作れるのだという事例を示すことが出来たのは、かすかなものだが希望として残った。
 第7期は、東西冷戦の激化と基地司令部機能が再び強化される時期だ。
 特徴的なのは、米海軍佐世保基地がすでに佐世保市の経済に大きな影響を与えることはなくなっていたこと、また新たな接収地の問題もなかったことで、米軍基地に対する市民の関心が薄れていたことだろう。
 確かに、米海軍基地司令部の復活を象徴するように米海軍はいくつかの艦船を佐世保に配備したが、いずれも老朽化した潜水艦や貨物揚陸艦で、とても前線の戦闘に参加できるようなものではなかった。
 第8期は冷戦終結とその後の大規模な米軍戦略の変更が佐世保に大きな影響を与えた時期だ。
 冷戦終結直後から始まった米軍基地の再編と閉鎖政策(BRAC)は米本土の基地を中心に再編・閉鎖された。しかし日本や韓国の場合、手厚い受入国の財政支援でむしろ配備艦船が増加し、また新たな組織が配備された。佐世保でも揚陸艦隊とその司令部、掃海艦隊と爆発物処理分遣隊、強襲揚陸艇(LCAC)ユニット、移動艦隊病院施設(野戦病院セット)などが米本土基地の閉鎖・縮小に伴って佐世保に前方配備された。
 一方自衛隊では、先述したように返還された米軍施設や用地跡に新たな部隊が創設されるケースが多く、佐世保の都市開発にはあまり好影響を与えるものではなかったが、分散して配置されている海上自衛隊基地は港の有効利用という観点から移転・集約が市議会からも求められている。

終わりに

 佐世保を語るとき、「海軍鎮守府が置かれたことで寒村から市に飛躍した。」というのが枕言葉的に語られる。しかし中世には、佐世保港の横瀬には外国交易船が渡来し、キリスト教布教のためイエズス会の宣教師も上陸していた。つまり、昔から天然の良港だったといえる。
 戦後の佐世保を振り返ってみると、幾度か別の道に進む機会があったように思う。今日では「海洋都市群」という構想もある。佐世保では崎辺地区の返還や前畑弾薬庫の撤去・返還も視野に入っている。
 これらの素材をどのように使い未来の佐世保を形成していくのか。今からの私たちの課題ではないだろうか。