【自治研究レポート(個人)】

小規模自治体と市町村合併

北海道上川郡風連町職員 桑原隆太郎

はじめに

 今、自治体とりわけ町村のような小規模自治体は、「市町村合併問題」にどう向き合って「答え」を出すかが問われている。合併するならするで、合併しないならしないで、なぜその途を選択するのか、加えてその選択を行うことでいかなるまちづくりの将来設計を描くのかを明らかにしなければならない。とりわけ合併しない途を選択する自治体は、この国の財政難を背景とした「効率の論理」に代わる「自治体経営の哲学とまちづくりの論理」を住民合意のもとで打ち出さなければ、真に主体的な「答え」を出したことにはならない。
 市町村合併問題に主体的に向き合うことは、我がまちの分権改革に連動する。私は、国と自治体との関係を「上下・主従」から「対等・協力」に変える突破口を切り開いた第一次分権を起点にして、住民自治の体現に向けた自治体内の分権改革を進めていかなければならないと考えている。むろん、それには時間がかかる。実践の歩みは遅々たるものになるかもしれない。しかし、我がまちの分権改革の道筋を描く営みは、市町村合併問題を突きつけられたことによって、好むと好まざるとにかかわらず緊急性を帯びてきた。
 決定的に重要なのは、結果としての合併・非合併ではなく、いずれかの結論を出すに至る過程にあると思う。結論に至る過程で、どれだけ真剣に議論ができるかだ。我がまちの現状把握を総力を挙げて行い、行政も議会も住民も共通の現状認識に立って主体的に将来方向を定める議論と合意形成ができるかどうかにかかっている。
 私が住む風連町も、合併する・しないの選択に関して、今年中に一定の方向づけを行うことを目指している。そこに至る過程において、住民の1人であり町職員でもある私はどう主体的に関わるか……。私自身にとっても、今年は正念場になる。その手掛かりとなる論考を試みることにした。

1. 「地方分権を推進するための市町村合併」論批判

 原理的な議論から始めたい。現実問題として市町村合併は小規模自治体を淘汰するための手段である。政府及び政権党の自民党の建前は、地方分権を推進するための受け皿としての市町村は一定の規模と基盤を必要とするから、全国約3,200ある市町村を3分の1程度に統合して規模の大きな市に再編する。そのための手段として市町村合併を推進する……というものである。つまりは、21世紀の日本は「小規模自治体が存在しない国づくり」を目指すということになる。
 この考え方に対する原理的批判をせねばならない。地方分権の推進は当然である。ではこの国は、本気になって地方分権を推進しようとしているだろうか。否、である。国会において地方分権を正面に据えた論戦が行われたことがあるだろうか。地方分権が争点になった国政選挙があっただろうか。この国の政党に、政界再編の対抗軸として地方分権の推進を位置づける見識と構想力があるだろうか。いずれも否、であることは事実が示すところだ。政府・自民党はもとより野党第一党の民主党ですら、彼らの「地方分権の推進」はスローガンの域を出ていない。
 こうした現実にあって、「地方分権を推進するための市町村合併」という理屈を素直に受け入れるわけにはいかない。見え透いた建前でしかないからだ。本音は別のところにあり、つまりは国家財政がもたないから行政コストが嵩んで非効率な小規模自治体は市町村合併で淘汰してしまおうというものだ。
 そもそも自治体への税財源移譲問題1つをとってみても、本来、為すべきことを為さずにおいて市町村合併を進めて小規模自治体を淘汰しようとすることは、筋が通らない話である。順序が違うのだ。真面目に地方分権を推進する中で、小規模自治体では住民の利益を保持できない、というのであれば、そのときは合併その他の手段による自治体再編あるいは小規模自治体に関わる新たな制度設計を行って対応しようという理屈になる。
 現実の政治は、今回の鈴木宗男氏や加藤紘一氏の事件を見るまでもなく、利権と腐敗に満ちており、地方の公共事業が国家予算で行われる中央集権の国づくりが温床になっている。こうした構造的政治腐敗の根を断つ最大の方策は、地方分権の推進による国づくり以外にないにもかかわらず、与野党こぞって手をこまねいており、この国の政治の貧困ぶりに怒りが募る。
 こうした政治状況のもとで、政府が地方交付税の削減という鞭をもってして強力に押し進めている市町村合併は原理的に間違いである。この点は明確にしておかなければならない。しかしながら、だからといって、市町村合併を無視できるほど自治体とりわけ小規模市町村を取り巻く現実は甘くはない。不本意ながらも、合併も選択肢の1つとして視野に入れつつ我が自治体の自己防衛に踏み出さなければならない。

2. 合併特例法を無視できるか

 一昨年(2000年)の秋に十勝管内芽室町で第14回北海道自治体学会フォーラムが開かれ、分科会の1つに「市町村合併~今、論議を始めよう!」があった。そこに出席した私はコメントを求められた際、合併反対の立場で「合併特例法のメリットなど高が知れている。そんな飴に食指を動かすよりも、行政の民主化と住民参加のまちづくりを進めて自治の質を高めることに全力投球すべきだ」と発言した。強がりではなく、本音で合併特例法など無視して構わないと考えていたからだ。
 しかし、不明にして今は違う。2005年3月末で切れる時限立法の合併特例法を無視できなくなった。理由は、自治体の存続基盤である財政構造の変化であり、その核心である地方交付税による「締めつけ」が現実のものとなったことにある。
 是非論から言えば、昨年度と今年度における、とりわけ小規模町村への地方交付税の大幅な減額は理不尽である。地方交付税が歳入全体の半分以上を占める財政構造にある小規模自治体にとって、数%規模の削減がこの先何年も続けば、「今までとおりにはやっていかれなくなる」のは自明であろう。地方交付税の恒常的削減は、現実問題として市町村合併促進に向けての「兵糧攻め」の効果を産む。
 しかし、理不尽ではあるが現実は現実である。国家財政が崩壊の危機にあり、地方交付税制度は交付税特別会計の借入が限界に達して既に実質的破綻状態にある以上、自治体の立場からいくら「地方交付税は減らすな」と言ってみても空しい。加えて、地方分権の推進に欠かせない、税財源の国から自治体への移譲はいつになったら実現するか見通しが立たない。こういう政治状況のもとで地方交付税の恒常的削減に直面している現実の前には、自治体は自己防衛の途を探らざるを得ない。
 そのとき、合併特例法はボディーブロウのように効いてくる。2005年3月末に間に合わせて合併することで特例法に乗ったところで、合併前と同じだけの交付税が保障されるわけではない。合併しても交付税は減るのであって、その限りでのメリットは無いに等しい。にもかかわらず、合併特例法を無視し得ないのは、合併せずに今のままで行った場合の「じり貧」状態が目に見えるからである。
 「過疎問題」を引きずる多くの小規模市町村に、過疎脱却の展望があるのか、と言えば答えは否、であろう。地域産業の振興による人口増のシナリオを描ける社会・経済状況にはないし、少子化が進行する現実もある。殆ど全ての小規模自治体は、総合計画における人口推計を現実的な数字、すなわち将来人口の減少を盛り込んでいるはずである。
 小規模自治体は、いわば「過疎」を前提として、人口は減っても、このまちに住んで良かった、と言えるいいまちづくりは可能であり、それを目指して頑張っていこうとしているに違いない。そうしたまちづくりの信念を支える現実的基盤は財政である。一定の財政基盤なしには自治は存在し得ない。
 自立できる財政基盤と持続可能な財政見通しを持つことは、自治の条件であり現実である。理念ではない。その財政基盤が、地方交付税の恒常的削減によって大きく揺らいでいる。この現実を直視するなら、合併しないで単独で行く途を選択することの困難さは、合併の途を選ぶこと以上に大きいとすら言える。自治体とりわけ小規模町村は、いわば自治体としての生き残りをかけた模索を始めなければならない。

3. 「合併する・しない」の判断材料

 言うまでもなく、合併する・しないの判断は住民意思によって決まる。では、住民は何をもって合併する・しないの判断をするのか。判断材料はあるのか。この論点について考えてみたい。
 当たり前のことだが、合併する・しないを判断するには、合併するならこうなるし、合併しないならこうなる、という検討素材がなくてはならない。そうした判断材料を共有できてはじめて地に足がついた議論が可能になる。問題は、その判断材料をいかにして用意できるか、だ。
 この問題は、合併議論の仕方に直結する性格のものと私は思う。ここでは論点をわかりやくするために、行政レベルで設置される住民組織の「合併問題検討委員会」を想定して話を進めることにする。
 委員会においては、まずは市町村合併問題が浮上してきた背景について、なぜ国は合併を奨励し、そのための誘導策として合併特例法を設けたのか、特例法の内容はどのようなものか、そのあたりの議論から入っていくだろう。そこでは、国は市町村合併のメリットを強調し、デメリットは克服できるとして奨励するが、果たしてそんなにうまくいくものかどうか、様々な疑問を含めての意見が出されるであろう。
 いずれにしても、この段階の議論は、いわば一般論・入口論のレベルに止まる。もちろん、これはこれで合併論議の土俵に関して一定の共通認識を持つには必要な手順ではあるが、問題は、我がまちの現実に置き換えての議論をどう進めるかだ。
 私が思うには、次なる議論は「我がまちは合併しないとすれば、財政的にどんな将来見通しになるのか。合併しなくても財政的に自治体としてやっていかれるのか」というテーマ設定になるであろう。そして、ここの議論が決定的に大事になると思われる。なぜなら、自治体経営の中核としての行財政運営の在り方を、これまでの延長線上で見直すのではなく、自己決定と自己責任の原則に立って抜本的に見直しすることなくして、どんな将来見通しも、自治体としてやっていかれる途も見えてこないからである。
 その際、委員会での議論・検討に不可欠な討議資料は、当然、行政側で作成しなければならない。討議資料として最優先されるものは、我がまちの現在の財政実態を正直に、かつわかりやすく整理したデータ及び論点整理である。財政実態が明らかになり、どこにどんな課題があるのか、その所在がクリアにならなければ、その先の実のある議論や検討につながっていかない。ここにおいて行政側の覚悟と見識に加えて実務的力量が問われる。通り一遍のデータや資料の提示では済まないのであり、これだけでも相当な力仕事になることを覚悟しなければならない。
 核心を突いたデータ・資料に基づく徹底した議論、住民の視点での留保なき検証を経て我がまちの財政実態と行財政運営全般にわたる問題点の所在に関する共通認識が形成されたら、次の議論は財政の将来見通し・シミュレーションになるであろう。
 シミュレーションは一定の前提事項や合理的な仮定事項を必要とする。ここで問題となるのは、歳入面では地方交付税交付金の額をいくら見込むかだ。2003年度以降も交付税は「かなり減る」ことを大前提にするにせよ、「どの程度減るか」となると具体的な数値を設定し難いのが実態であろう。これは挙げて国の責任だ。そもそも一方で市町村合併を強引に推進しておきながら、「なぜ合併なのか」の有力な根拠になる自治体の歳入見込みに欠かせない地方交付税の具体的な削減額に関わる情報を出さない(出せない)政府の怠慢は糾弾されてしかるべきである。
 とはいえ、確たる情報がないからシミュレーションができない、といって済ますわけにはいかないから、2001年度の削減率や2002年度の削減見込み率などをもとに、たとえば上限・下限・中間といった形での削減率を設定して、それに基づき何通りかのシミュレーションを行う必要がある。
 一方、歳出面では、まずは義務的経費・投資的経費・その他の経費の現状分析を踏まえて、総合計画などで今後想定される大型の新規事業等の事業費や財源内訳を押さえ、さらには歳出全体に占めるウエイトの大きい人件費の動向を見極める必要があろう。こうして歳入と歳出の将来予測・シミュレーションから導かれる全体像がどうなるか、その点についての議論を深めて一定の共通認識を形成しなければならない。ここでようやく「我がまちは、合併しなくても財政的に自治体としてやっていかれるのか」という中心的論点を巡る本格的な議論が可能になる。その中で、もし「このままではやっていかれない」ということになれば、当然次は「では、どこをどう見直して具体的に変えていけば、やっていかれるか」という議論に発展していく。そこにおいて、いかなる自治体経営の哲学やまちづくりの思想に加えて知恵と工夫による具体的にして実行可能な方策等を打ち出すことができるか、あるいはできないか ― ここが、我がまちの合併論議の最大のポイントになるはずである。

4. 年内に合併の方向づけを行うことは物理的に可能か

 さて、一方の「合併という選択肢」に関する議論・検討はいかにして深めていけるだろうか。これについては、実際問題として残念ながら懐疑的にならざるを得ない。理由は単純である。合併するには相手が必要であり、その相手が決まらなければ合併することに伴う様々な検討やシミュレーションを行いたくてもできないからである。
 確かに「我がまちがもし合併するとしたら、どこ(とどこ)とするか」については、道が示した合併パターンがたたき台になるであろうし、住民感情からして常識的な組み合わせは、どこの自治体にも存在するであろう。だが、それらの「合併候補」自治体間で「合併するかどうかの判断は別として、合併の可能性を含めた検討を行おう」という合意がなければ、一定の想定のもとで合併に伴うメリットやデメリットを検討するにせよ、ごく表面的な検討しかできないであろう。
 たとえば、合併に伴うスケールメリットを生かすべく人件費をはじめとした経常経費の節減を図ろうとしても、何年かけてどれだけ職員数を減らせるのかとか、それぞれの自治体でかなりの開きがあると思われる職員給与水準の調整をどうするか、といった極めてデリケートにして重要な問題は、合併候補自治体間で共同検討できる体制が整わないことには手がつけられない。にもかかわらず、この問題を抜きにして実質的な合併のメリットについてシミュレーションすることはできない。
 この点に関して、横道に入るが触れておきたいことがある。普通地方交付税額の算定の特例(合併算定替~合併後10ヵ年度は合併しなかった場合の普通交付税額を全額保障する。さらに、その後5ヵ年度激変緩和措置する。)について、恥ずかしい話だが、私自身が大きな思い違いをしていたからだ。つまり、「普通交付税額を全額保障」と言ってみたところで、たとえば合併直前の2004年度の普通交付税額がそっくりそのまま向こう10年間、保障されるわけではない。仮に三市町が合併するとして、合併前の三市町の普通交付税合算額が100億円あったと仮定した場合、その100億円が合併後の10年間はそっくり保障される(そういう思い違いが私にはあった)のなら、合併しなかった自治体の普通交付税額が毎年毎年減額される(と判断せざるを得ない)こととの比較において、この優遇措置は極めてメリットが大きい。
 しかし、そうはならない。合併後も、合併前の算定方法を採用するというだけのことだから、交付税特別会計の予算の出口ベースでの交付税総額が対前年度比でマイナスになりパイ全体が目減りしたり、小規模自治体への段階補正の見直しその他の要因によって合併前三市町の普通交付税合算額は確実に減る。合併直前の合算額100億円が合併10年後には80億・70億円になるかもしれない、ということだ。合併に伴う財政的な「メリット」は、普通地方交付税額において有利な配分を見込めることにあるのではなく、「規模のメリット」が働くことに伴う人件費をはじめとした経費の削減効果にこそある。だからこそ、その点の突っ込んだ検討が必要になる。
 いずれにしても、実際問題として、「合併したらこうなる(こうする)」という判断材料を、2005年3月末までの合併成立に間に合わせるべく今年(2002年)中に用意することは至難の業である。私の知る限り、今年3月時点で「合併候補」自治体間での実質的協議に入っているところは道内においては数ヵ所しかない。それ以外の市町村が年内に合併方向づけを行うことは、物理的に無理であろう。しかし私たちの風連町も、年内には合併する・しないについて一定の方向づけを行うことを目指しており、時間とのたたかいを伴いながらの難しい取り組みに踏み出そうとしている。
 私自身は、我がまちの合併問題に関して個人的には次のように考えている。すなわち、「我がまちの現状において、積極的な意味での合併機運が広く存在しない以上、まずは合併しないで生き残る途を徹底的に模索すべきだ。その中で、どこをどうすれば、たとえこの先、地方交付税が減り続けても自治体としてやっていかれるか、についてとことん追求しよう。その結果、どうしても駄目なら合併止むなし。迷いなく合併の途を進もう」と。私は、我がまちをはじめ多くの小規模自治体が合併せずに単独自治体として存続し得る途はある、と考えており、その論考を以下で行う。

5. 小規模自治体はいかにして存続可能か

 市町村合併をめぐる問題状況は、地方交付税が減った分を、どうリストラして収支のバランスをとるか ― といった課題の立て方では解決しない。持続可能な財政運営の構築は必要条件ではあっても、十分条件ではないからだ。従来の「行財政改革の推進」といった次元ではカバーしきれないのであり、自治体の経営そのものに切り込んだ改革を必要とする。議論すべきことは、我がまちのアイデンティティ(存在理由)を問い直す中で、行政・役場が為すべきことを限定してスリムな行政・小さな役場に変えていくとともに、どうしたら住民自身の自治的営みが拡大・深化するか……すなわち自治体内分権をどう進めるか、である。
 かつて行政は、毎年毎年、予算規模が前年度よりも伸びることを前提に新規事業や住民サービスの向上施策を次々と打ち出し続けた。地域社会のインフラ整備が遅れていた「ないないづくし」の時代だったから、高度経済成長時代の豊かな果実が産みだす当然の分配を資源にして地域社会基盤整備の「量的拡大」に力を入れた。職員を増やして行政機構を整備拡充した。小規模自治体もそうしたことが可能な時代だった。その基調は、高度成長時代から安定成長時代に変わってからも続いた。バブル時代には借金を増やすことを厭わずに派手な事業に手を出して、後にツケを残す結果を招いた。
 一度作り上げた行政機構と役場の仕事は既成事実となり「既得権」となって、行政の硬直化が進んだ。その体質と構造によって、バブル崩壊や地方分権一括法の施行といった時代の変化と要請に柔軟かつ的確に対応しきれずに今日に至っている。
 強調されるべきは、行政機構と役場の仕事はもはや部分的見直しというレベルでは根本解決にならなくなっていることである。現在、行政・役場がやっている仕事のすべてが本当に必要欠くべからざるものなのかどうかを徹底的に検証しなければならない。この仕事を止めたら、住民にどんな不利益をどれだけもたらすのか。今まで通りに有った方がいいには違いなくとも、絶対に廃止あるいは縮小してはならないものなのかどうか。無いよりは有った方がベターとする範疇の事務事業をこの先も継続していっていいのかどうか……これらの問いに明確に答えることができない限りは、敢えてその仕事は止めるか別の方法に切り換えることを原則とするべきである。
 その際、行政と住民、さらに住民同士の関係を革新する視点が不可欠になる。「安上がりの行政」にするためではない。住民自治の原則に立って行政の守備範囲を限定的に捉え返す中で住民が担う部分を拡大・深化させるためだ。それが私が考える自治体内分権である。現行の行政作法と役場の仕事ぶりに、きめ細かな住民サービスの継続・拡充や住民要望への最大限の対応を大義名分にした皮相な住民観が染み込んでいるのは否定できないであろう。裏を返せば、何でもかんでも行政頼みで事を済ませようとする、住民の行政依存体質が根強く存在する。
 こうした行政と住民の関係の中で、国がやっているようなバラまき型の事務事業や施策が罷り通ってしまう。その方が、行政にとっても住民にとっても楽だからだ。「財政難で予算が組めない」と言いながら、実際には「無いよりは有った方がまし」的な事務事業への予算付けが広範に行われているように思えてならない。ここに思い切ってメスを入れるには、住民を協働のパートナーとする住民観に立って、「なぜそうするか」を行政がとことん説明し説得すること以外に方法はない。長い間に行政と住民の間に出来上がってしまっている「なあなあ」の気分と関係を突き崩す勇気が必要とされる。
 小規模自治体が新しい自治体観をもって自治体経営に踏み出すには、行政と住民との関係の革新に加えて、地域における住民同士・住民間の関係をいかにして自治型に創り変え育てていくか、というテーマ設定が導き出される。それは、行政頼みの「お任せ民主主義」や自治の担い手たることを忘れた「観客民主主義」からの脱出を目指す道筋にもなろう。小規模自治体に住む者は、地域における濃密な人間関係のなかで日々の営みを行っている。地域福祉に限らず職場や町内会、公民館など様々な場を通じて住民同士が協力しあい相互扶助の精神を発揮している。こうした多彩な住民活動を通じての地域における自治型の人間関係づくりは、大都市に比べるとはるかに進んでいる。
 しかし、一方では田舎のまちでも個人中心的な都市型の生活様式が浸透したことも事実であり、伝統的なコミュニティ活動や相互扶助の在り方がかなり変化してきていることも否定できない。田舎だから、小規模自治体だから大丈夫だ、とは言い切れなくなってきている。言わば自然発生的に培われた田舎の良さに自足するのではなく、地方分権時代の自治観を伴った新しい人間関係の創造や住民活動の革新へと向かわなければならない。市町村合併問題を背景として抜本的な行財政改革を不可避とする新たな自治体経営の途は、あらためて住民自治の深化・拡大を目指す歩みを必要とする。

6. 小規模自治体を巡る新たな制度設計

 ここでは、市町村合併の途を選択しない小規模自治体における個別的な対応とは別に、21世紀の北海道における新しい市町村自治の構築に向けて、小規模自治体が存続し得るための制度設計として、どういうことが考えられるか、その点についての私見を述べてみたい。
 自治体個々に改革すべき視点とは別に、小規模自治体総体の存続を可能にするには、どうしても新たな制度設計に関わる議論を避けて通れない、という問題意識が私にはある。それは、前述した「小さな役場」論に関わる。行政と住民そして住民同士の関係を革新することによって、行政・役場でなければできない守備範囲を限定することを躊躇すべきでない、という持論において、その方法論として広域行政や広域連合という有力な選択肢を軽視するものではないが、それとは別に道・支庁との関係において活路は見いだせないか……という視点である。
 これには前置きの議論が要る。市町村合併の推進論議に付随して浮上してきた「二級町村制」問題をどうとらえるか、という論点である。この問題提起がどこまで現実性を帯びたものかはわからないが、昨年11月に札幌市で開かれた日本自治学会での石原信雄氏(元内閣官房副長官)の発言は、私にとっては衝撃的だった。合併推進により市町村の大規模な再編成を行い、その再編成に乗れない町村については、思い切って都道府県が補完していく前提で全体の地方自治制度を組み立て直すべきとする大胆な提案は、北海道における新しい形での二級町村制を念頭に入れたものであっただけに無視し難いところがある。
 この点の詳細な論考を行う力はないが、結論的には私は石原提案には反対である。小規模自治体にとって困難を伴う行政事務の一部を都道府県が補完するという考え方自体は賛成だし、小規模自治体がぎりぎり生き延びていくための有力な仕組みとして望ましい都道府県との補完関係の構築は是非とも追求すべきテーマであると考えている。
 だがしかし、その補完関係を石原氏のように全国一律の制度として規定することは、小規模自治体及び都道府県の主体性を奪うことに他ならない。いわば上からの、行政コストの効率論から来る新しい二級町村制の導入には断固反対したい。
 その上で、私が構想することは、小規模自治体の自己決定と自己責任を貫く中での道・支庁との補完関係を構築する途である。市町村における行政事務を適切に遂行できることが、自治体成立の絶対条件であることは論を待たないが、どの行政事務を自分でやり、これこれの行政事務は広域行政や広域連合の手法で、という選択があっていい。現に限定的であれ実行されているし、部分的だが道の代行事業も機能している。こうした道・支庁との補完関係の領域を拡大し、内容を充実させることで小規模自治体と道・支庁との連携プレーをもっと本格的に、もっと効果的にできないか ― という発想である。
 この発想を巡って、「地方分権時代を迎えて、小規模自治体の役場は少ない職員数で住民ニーズや社会的要請に十全にこたえられるだけの行政水準を保つことが可能か」という本質的な問いから逃げるわけにはいかない、との思いがある。いわば政府・自民党的発想による合併必要論は跳ね返せても、数少ない職員が広く浅く自治行政全般を担わなければならない現実的制約に着目した合併必然論を頭から否定することは難しい。
 町村のような小規模自治体においては、この国の画一的な地方行政制度に縛られ、職員の絶対数が少ない中で保健・医療・福祉や教育から道路・上下水道といった生活環境、基幹産業の農林・漁業や商工業の振興に至るまで一通りの行政事務をこなさなければならない。それらの日常業務において、別にやらなくてもいいような国・道等からの報告物や調査物が洪水のように押し寄せてくる。無視するなり、手抜きしても構わないようなものだが、「三割自治」なるが故に補助金獲得に悪影響が出ては困るので出来るだけのことはしなくてはならない。これに伴う仕事上の負担は極めて大きい。
 こうした実情にあっては、小規模自治体の職員は兼務が当たり前であり、一人何役もこなさなければ仕事が回っていかない。役場の仕事の仕方が「広く・浅く」ならざるを得ない環境に置かれており、自治・分権時代に必要な、自治体職員の専門性の追求は後回しにせざるを得ない。「だから、合併するしかないんだ」と切り返されると、正直言って詰まってしまう。ましてや「小さな役場」を唱え、さらに職員数を減らす必要があることを持論とする私としてはジレンマに陥る。
 ここは、「総合行政における広く・浅く」という前提そのものを大胆に見直すしかないのではないか。自治体行政が総合性を備えるべきことは正しい。しかし、小規模自治体における「総合行政」は、規模の大きな市のそれとは自ずから違って良いはずだ。手放してならないのは、自治体としてのアイデンティティ(主体性)であり、行政事務の総合性ではないからである。行政・役場が担う守備範囲は限定的であろうとも、「自己決定と自己責任」の原則を貫く限りにおいて、住民自治はなくならないし自治体としてのアイデンティティ(存在理由)が失われることはない、と主張したい。
 こうした小規模自治体における「限定的行政事務」の考え方の延長線上で、「本格的な道・支庁との連携プレー」を構築できるのではないか。決して不可能なことではないと思う。私は、小規模自治体の行政事務の一部あるいは相当部分を道・支庁に移譲したとしてもそれでもって自治体としての主体性が失われるとは考えない。事務移譲する際に、対等な契約関係が成立すれば市町村の主体性は保持できるはずである。もしも市町村としての自己決定権を損なうような事態が起きれば、契約を解除すればよい。もちろん市町村の側ができるだけ身軽になるための方便として安易に事務移譲する姿勢をとってはならない。何をどのように事務移譲するかの判断と選択は、自治体としての自己責任を果たす立場で行わなければならない。
 中長期的な地方分権の推進に向けて一国二制度が議論され、道州制における北海道モデルの実現可能性が想起される時代背景もある。抜本的な支庁制度改革に向けた道自身の取り組みも進んでいる。全国一律とする上からの二級町村制導入論を許さないためにも、合併を選択しない、あるいは地理的条件等で合併を選択し得ない小規模市町村が存続可能な途を模索する上で、自治体個々での努力は当然として、それだけではなく広域自治体としての北海道にとっても、自治体との新たな補完関係の構築は重要なテーマになるはずである。合併問題は市町村が判断するもの、というのはその通りだが、そのことは道としての主体的な政治的判断を免除するものではない。道も市町村も、合併問題を契機として21世紀の北海道自治の構築に道を開く制度設計に着手すべきことを強く思う。

おわりに

 本稿を執筆しながら、直接のテーマとは別に、「私が、このまちに住み、これからも暮らし続けたいと思っていることの意味」に思いが向かった。敢えて意味付けすることの無意味さを引きずりながらも自問せずにいられなかった。
 風連町は純農村の田舎であり、ここでの暮らしを一生活者の私自身は享受している。これは、役場職員の身分で安定した生活基盤に恵まれていることと無縁ではないから、もし私が役場職員でなかったとしたら、同じ思いを持つかどうかはわからない。だから、以下のように考えることは誤解を招くかもしれないが、正直そう思うことを書く。
 私にとって、このまちで暮らすことの理由は、経済的なものとは別のところにある。経済的に「もっといい暮らし」を求めることを否定するものではないし、この不況下での生活防衛の切実さを思わないわけではない。だがしかし、所得や生活水準の高さを基準にして物を考えたら、ここで暮らすことで得られる大事なものを手放すことになる。それよりも、心豊かに日々を送れるなら、たとえ所得が低かろうが都会に比べて生活水準が低かろうが構わない、という暮らしぶりがしたい。「豊かさ」の基準と価値の尺度を変えることで、田舎で暮らすことの積極的な意味をあらためて想起したいと思う。
 私は、田舎である自分のまちに愛着がある。自分は間違いなくこのまちの一員であることを実感できる。「自分のまち」と「自分の自治体」とは重なり合いながらも、イコールではない。だから仮に合併して「風連町」がなくなったとしても、「自分のまち」はなくならない。合併したときはしたときで、現在とは違った形で「自分のまちをもっと良くしたい」という思いでやっていかれると信じている。合併後における「自分のまち」における「自治」が生き続ける方途はあると思から、私のライフワークたる目標を失うことはない。だから、「風連町が風連町で在り続ける」途を見いだすことに私なりに全力を挙げるが、結果的に合併止むなし、となったとしても、その後のことは楽天的に考えてもいる。