【代表レポート】

川越 ― 伝統を活かしたまちづくりと地域再生

川越市教育委員会文化財保護課 加藤 忠正

 中心市街地の衰退と都市コミュニティーの崩壊が大きな問題となっているが、この打開策の1つとして、伝建地区に代表される「歴史を生かしたまちづくり」が脚光を浴びている。そして、川越市は近年この中心市街地再生のモデルとして全国の注目を集めている。
 蔵造りの町並みを有する「川越一番街」は、町並みとしては初めて平成11年度のグッドデザイン賞を受賞している。受賞理由は、「伝統的建造物が保存されるとともに、伝統を継承したなかにも新しい意匠や素材を使った建築物が加わり、生き生きとした都市空間の創出がゆっくりではあるが、着実にすすんできた。」ことにあり、「川越における試みは、日本における歴史を活かしたまちづくりの新たな可能性を示すことになるだろう」という評価をいただく。まちづくりのプロセスとパートナーシップに対する評価は、そのまま受賞者が「川越蔵の会を中心とした市民団体(一番街町並み委員会等)と専門家グループ及び川越商工会議所」という関係主体の多さにも現れている。
 振り返ること20年。いまも活発な活動をつづける市民団体「川越蔵の会」は当時盛んだったナショナルトラスト運動に触発され、壊れゆく伝統的建造物を買い取る財団づくりを標榜して昭和58年に発足した。当時の集まりのなかで採り上げられた標語に「なぜ、人がこない。なぜ、モノが売れない」というテーマがある。蔵造りの正面を看板で覆い、立派な造作を隠した町並みは、川越駅から2kmも離れ、かつての中心商業地の面影もなく、人通りのない、寂れた商店街にあまんじていた。絶えず観光客が訪れる街へと変貌をとげつつあるいま、この20年を振り返り隔世の感を覚える。

1. 川越の町並み

 蔵造りの町並みは、明治26年の川越大火を契機として生まれた。大火で3分の1以上を焼失したまちの復興にあたり、江戸文化の影響を受けていた川越商人は、当時流行のレンガ造を選ばずに、わが国固有の耐火建築である土蔵造りを採用した。大火のおりに、倉庫としての土蔵のほか、既に数棟建てられていた店蔵も、現存する重要文化財大沢家(1792年)をはじめとして類焼を免れた。これを目の当たりにした川越商人は、こぞって蔵造りを建てる。そこには、店蔵を建てるだけの財力を有していたこともその根底にある。明治40年頃までに形成された川越の蔵造りは、明治の庶民が建てた防火性能にすぐれ、当時の洋風好みも取り入れた商店としてのシンボル性も十分に備えた第一級の建築である。
 大正期になると、銀行に代表される近代洋風の建築物や医院に代表される木造洋館が多く建てられるようになり、その後も昭和に入り、切妻屋根にパラペットをまわし洋風仕立てとした看板建築が多くみられるようになる。
 川越の町並みの特徴は、一時代に偏らず各時代に繁栄し、江戸・明治・大正・昭和と時代を経るなかで、その時々に流行の造作やデザインを採り入れながら建築が共存してきた背景にある。

2. 町並みの推移

 昭和30年代後半から始まった高度経済成長、モータリゼーション、生活様式の欧米化に伴い、商業形態も変化し、大量の製品を明るく展示・販売するには、蔵造りなど町家の店内は暗く、不便なことから取り壊しが相次いだ。残ったものも、近代化という名のもとに、古くさい店舗とみなされ、鉢巻状の看板で軒を隠し、柱や壁を取りはらい、無理やり開放形状に改装されていった。さらに、郊外部での振興住宅の増加等による、鉄道利用中心の人の動きは、商業重心の川越駅・本川越駅周辺への南下をもたらせた。既に求心力を失った街からは、駅周辺へ移転する店舗も多く、蔵造りの町並みは次第に時代から取り残されるようになる。
 専門家による問題提起を受け、それに呼応する市民により、昭和40年代から始まった町並み保存運動は、昭和46年の「大沢家」の重要文化財指定、蔵造りの取り壊し反対運動から、市が旧小山家住宅を購入(昭和47年)するという成果に象徴される、伝統的建造物の保存というかたちで、町並みの評価を明らかにした。(旧小山家は昭和52年から「蔵造り資料館」となる。)
 その後、建築学会主催の街区保存計画の提案コンペや川越青年会議所主催の意識アンケート・シンポジウム等を交えた景観保存運動報告などを経て、昭和50年の伝統的建造物群保存対策調査以降の文化財サイドの取り組みへと引き継がれることになる。この時点では、これまでの運動のなかでも触れられていた“川越の伝統的固有性をまちづくりに活かす”という発想は、理解しがたいものであり、保存=凍結的イメージの高い伝建地区指定は見送られた。しかし、この調査を受けて、昭和56年に蔵造り商家16棟の市文化財指定(現在は22棟)という形で、修理費の半額助成の措置とともに、一応の成果を得た。
 一方、時期を前後して近傍にマンション計画が持ち上がり、町並みを含めた反対運動により撤退するものがある一方で、町並み背後にそびえる高層マンションが現実のものとなる。このことが、町並み保存への警鐘となり、歴史的環境の保全と既定都市計画(商業地域、準防火地域、400/80、都市計画道路幅20m)とのギャップが顕在化する。
 駅勢力圏への商業重心の移動に伴う商店街の地位凋落は、店舗需要を降下させ、代わりに地価が比較的低く、高容積を稼げるマンションには格好のターゲットとなる。昭和50年代半ば、市は都市計画、経済部局も、景観誘導の基になるデザインコードや商業振興策の調査を実施し、対応策の検討をはじめる。
 昭和58年に、地元有志、青年会議所OB、専門家、学識者等で結成された「川越蔵の会」の活動とそれに触発され、昭和60年に「コミュニティ・マート構想」モデル事業の調査を実施した「一番街商店街」の活動のベースには、常に商業力の活性化と健全化に伴う町並み保存と、職住一体を可能にする生活空間の質的向上が目標として存在する。これは、商売がうまくいかなければ、あるいは生活を犠牲にしてまで蔵造りを残せないということであり、ともすると保存と観光化のみが優先しがちな風潮へのアンチテーゼとして、その後のまちづくりをリードしていく。

3. 町並み委員会と町づくり規範

 こうしたなかで、川越の特徴である住民が主体的にまちづくりをすすめるきっかけとなったのは、「町並み委員会」の設立であり、その成果としての「町づくり規範」である。国のモデル事業を受けるにあたり、通常であれば、町並み整備に計量的な基準(例えば高さ何m、壁面後退何m等)をもって建築協定をつくり、行政側のチェックに委ね、改装を行うという方法が一般的である。しかし、一番街ではそれをきらい、街のなかに委員会を設け、そこで、規制ではなく、住まうための原則という形で、各々の創意工夫を促すための規範をつくる。個々の行為については、行政手続の前に委員会のなかで助言指導を行っていく。という、ユニークな方式が生み出されたことにあると思われる。また、未だ実現には至っていないが、まちの行為を直接企画運営していく「まちづくり会社」の発想も根底にはある。
 川越の町並みを考えるとき、蔵造りをはじめとする伝統的建造物の保存は当然のことだが、住環境の点からも、高密な商業地のなかにあって、中庭型の建物配置が都市住宅としての最大限の日照・通風等を保障しあっている町家構成の智恵に注目したい。
 表通りに面した家並みが連続する賑わいの商空間と、家並の背後に閉じられた、中庭を囲む静けさの住空間が相互に展開され、それが道路から一定の間隔で、かつ独立した棟の構成で建てられる。また、一見統一的に見える町並みは、屋根勾配と1階の軒高さを除いては、決して統一されているわけではない。かといって逸脱することもない心地よいバラつき感のなかで、一定のフォルムをもって存在し、固有のディテールやデザインを競い合っている。
 一番街商店街では、昭和62年、自主的なまちづくりの推進を図るため、地区の役員と専門家、オブザーバーとして市の関係セクションと商工会議所などから構成する「町並み委員会」を設立した。委員会により検討された「町づくり規範」(昭和63年制定)はこうした町家の特性である構成要素や住環境への配慮、といった敷地内のミクロゾーニングをもとに、地域の都市計画的観点を入れ、建築形態、デザイン要素、さらに店舗づくりなど67項目に及んでいる。
 平成元年から実践に入った個店改装事業は、低利の融資や埼玉県と川越市からのファサード修景補助となる「観光市街地形成事業」(平成元年~5年)等の導入により、町並み委員会の指導のもと、年間数件単位の改装実績を積み上げた。
 地域主導の景観指導には自ずと限界もあり、専門家や市側が実質的なデザイン調整を引き受ける場面が多いのも事実である。しかし、住民相互に主体者であると同時に自己の経験を活かしたアドバイザーともなり得る点で、行政指導にない説得力を持つことができる。
 実際の成果として、初期の修理改装に好事例を提供した、蔵の会内部の商店主と設計者の組み合わせがあげられる。蔵の会の研究会には自身の問題意識やポリシーを語る商店主と、町並みファンとして町家建築の保存活用の有効性をうったえる建築家、研究者達が同席し、交流の場として機能していた。これが後に信頼関係を築き、パートナーとして店舗改装に効果を発揮した。また、建築側の改装にあわせて、店の業態についても、そのコンセプトをがらりと変化させたことも大きな成果となる。蔵造りをはじめとする伝統的建造物を古いものとは考えず、その存在感を活かした現代的な店舗として再生されたものが多い。
 一番街での成功の鍵は、町家敷地の欠点といわれている間口が狭く、奥行きが深いことをメリットに転換している点にあると思われる。短冊状の敷地は、通常の建築計画には効率が悪いとされ、あまり更新されていなかったところへ、町家のゾーニングを踏襲した配置計画と、分割された棟ごとにデザイン処理を加え、また住空間として一般の目に触れなかった中庭を店舗の演出空間に取り込むことが可能となったことである。
 もちろん地区の敷地状況は一律ではなく、方向性も一定ではない。社寺や住宅も地区の大きな要素である。月例で行われる町並み委員会と事前調整の幹事会、これと調整を取る市の窓口の間では、個々の状況に応じた適切な助言指導が求められることになる。

4. 町並み整備と伝建地区

 平成元年から川越市が整備した通称「歴路事業」は、石畳のペーブメントにより一番街周辺の横丁や門前通りをネットし、街に奥行感や界隈を形成する舞台設定として効果を与えている。また、平成4年に完了した電線地中化事業は、蔵造りのフォルムを、より鮮明に印象づけ、来訪者と世間の注目を集めるところとなった。
 しかし、一方で、商店街という限定された取り組みであり、また法的根拠を持たない協定であることから、この間も建て替えや取り壊しで伝統的建造物は失われ、高層マンションの計画は次々に持ち上がるなど、町並み保存に対する歯止めとまではならず、新たな危機感も高まっていた。
 平成7年に、これまでの商店街中心の動きとは別に、かつての城下町エリアにあたる自治会の検討組織として「十ヶ町会」が発足し、改めて広域の景観問題や伝建地区の検討が始まった。
 昭和40年代の保存提案に始まり、50年代のマンション問題や商業振興の課題を受けて昭和60年から街が取り組んだ商業近代化と町並み保存、市が取り組んだ歴史的地区の環境形成と景観形成は、その後平成に入り、都市景観条例施行(平成元年)を契機に、街と市の具体的な事業として実践へ移行した。平成4年の電線地中化は町並み整備の大きな後押しとなり、10年間で50件を超える大小の改装事業が行われた。これら商店街の動きに対して、今度は自治会が中心となった取り組みのなかから、町並み保存の集大成ともいうべき伝建地区の指定が平成11年になされた。全国で54番目の重要伝統的建造物群保存地区として国の選定を受け、蔵造りの町並みを中心とした周囲7.8haのエリアで、現在は住宅等も交えた新たな改装の動機づけにもなっている。
 町並みの基盤となる町割りは1,600年代中期に川越藩主松平信綱によって行われ、現在もなお川越の都市基盤として在りつづけている。城下町の構造が現行の都市計画に沿わないことは事実としても、当時から火除けとなる10mクラスの道路や西・北に寺院を配置し、防御と避難を併せ持つ防災的都市整備を含め、そこで達成されてきた都市環境上の成果は、多いに尊重されるべきであり、また今後も範とされるべきものと考える。
 蔵造りの町並みである一番街は、南北に走る都市計画道路の一部であり、昭和37年の都市計画決定により、幅員20mに定められていた。計画通りに進めば、一番街の通りは現在の約2倍の広さになる。曳家等により蔵造りの建物自体は保存できたとしても、中庭型の生活環境は破壊され、住環境と商業環境の両立を図ろうとする川越式の伝統的建造物の保存は否定されることになる。昭和60年の歴史的地区環境整備街路事業調査から、専門の委員会を設け、長らく検討を続けてきたこの問題も、今回、伝建地区の都市計画決定に伴って、都市計画道路の見直しが行われ、ほぼ現状が維持されることとなった。
 また、周辺道路と歴路についてすでに決定された3路線を延伸し、新たに6路線を決定した。
 これより以降の課題は、市の幹線道路である一番街の交通量抑制と歩車道の分離となっている。また、伝建地区以降、現在も川越方式のまちづくりの担い手である町並み委員会と市との連携の捉え方、地区防災と建築基準法上の保存と緩和の調整、伝建地区周辺エリアでの景観形成等、課題はつきない。

5. ポテンシャルの布石

 川越が多少なりとも元気である背景には、町並み保存が大きな要因ではあるが、それだけではなく、むしろ様々な、連鎖的な広域のムーブメントと界隈単位のムーブメントの組み合わせにより、ポテンシャルが拡大していった点にある。大きな変化は平成2年に完成した川越駅の再開発とそれに続く西武本川越駅の開発であり、駅を中心とした若年層に対応したポテンシャル拡大に効果を与えた。
 中心市街地南に位置する川越駅東口の再開発は、百貨店を核としたテナントビルと交通広場、公共地下駐車場を有し、文字通り川越の顔として、蔵造りをはじめとするモチーフをペデストリアンデッキ上のファニチャーに配した。東武・JRの駅舎も自由通路をとおして改造され、乗降客数を大幅に増やした。
 かたや市街地の中心に位置する本川越駅は、駅前にゆったりとしたけやき広場をもち、ホテルとテナントビルを備えたステーションビルとして、カラーコーディネイト等入念な景観協議のもとに、西部新宿線の起点駅にふさわしい整備がされた。これを機に導入された川越カラーの特急「小江戸号」は観光客にも定評がある。
 公共施設としてのインパクトでは、平成2年3月に開館した川越市立博物館がある。川越城二の丸跡に位置し、川越の都市の成立にターゲットをあて、近世・近代をメイン展示に、博物館設立後、分館となった蔵造り資料館とともに、蔵造りの町並みの事前学習に効果がある。現在建設中の美術館が博物館の隣接地に、川越祭りの山車を展示する会館が一番街に近々オープンする予定であり、新たな川越回遊の拠点化を目指してしる。
 川越市には、33万人の人口をベースに倍程度の商圏を有するエリアの中核となる駅周辺の中心商業地と、首都圏のエリアをつかみ、商業観光地としてかつての繁栄を取り戻した感のある歴史的商業地の2核構造を持っている。そして、一見関連のなさそうなこの新と旧の商業地は相互に関連しながら、良い意味でのライバルとしてまちづくりを進めてきた。
 平成9年から進められたモール整備とともに改称された「クレアモール」(新富町商店街、サンロード商店街)は、中心商業地としては狭い6mの道路幅に対し、いくばくかの空間的余裕(最低1m、敷地面積の10%程度を建物前面に空間として確保する。)と建物自体にデザイン的洗練度を求める等の協定を一番街とほぼ同時期の昭和63年に締結し、地元の委員会による助言指導を加えている。もともと路線型商店街であるクレアモール周辺には、両駅の開発以降、飲食系を中心にした界隈が形成されつつあり、若年層や観光リピーターの吸引力ともなっている。
 一番街の南に位置する銀座通りは、昭和30年代に造られた川越唯一のアーケード街であるが、平成4年に振興組合への移行に併せ調査を実施。学識者を入れた委員会を設置し、ワークショップをとおしてアーケード撤去を決め、あわせて一番街より少し緩やかな規範を定めた。平成12年に電線地中化のあと、歴路事業による石畳の道となり、コンセプトである「大正浪漫夢通り」のもとに個店整備がすすめられている。

6. まちづくりの継続性

 近年のキーワードとして重要なのは「サステイナブル」といわれる。環境に負担をかけない開発であり、継続性のあるものということ。これに、これまでの「マネジメント」つまり、都市経営を加えたセンスが今まちづくりに求められている。
 かつて商店街活性化のモデルとして取り上げられた街は、アーケード街やモール化、あるいは共同化店舗や統一改装といったように、完成された時点の評価にあった。が、実のところ、そこをピークとして、その後が盛り上がらないことが問題になっている。これに対し、現在はむしろ創られていく過程、プロセスの評価と持続的なまちづくりの取り組みの方に評価が移ってきている。川越はこのサステイナブルの点に評価をいただくことが多い。
 都市は多様な文化、活動の集積の場であり、その時間と空間を使いこなすプログラムが重要なカギを握る。従来からの観光資源である「川越まつり」や「喜多院」といった行事や施設に公共施設を伴った大小のプロジェクトが、市民と市の実践を通して有機的に積み上げられていくことが市街地再生には不可欠である。また、こうした中心街再生のモデルとして、職住一体を可能にし、人口を定着させる町家システムを再評価したことも重要な点である。
 川越の有利な点は、首都東京から最も近い町並みを残す城下町であり、そのためベッドタウンとしての都市課題を抱える都市でもあるため、早くから建築史・都市計画・社会学をはじめとする様々な分野の大学・研究機関等のフィールドとなり、くり返し研究者や学生が訪れることである。このなかから「蔵の会」をはじめとするボランタリーな活動に参加するものも増え、ここを共有の場とするパートナーシップが生じる。こうした街の側にシフトしたところで、まちづくりの実践者の一人として関わる専門家の客観的なアドバイスが受けられるところが、川越の強みであり、川越方式の所以である。近年はまた、アート分野の関わりも深くなっている。
 川越を訪れる人に「川越は行くたびに変化している。工事中の覆いがしてあると、また次に行く楽しみが増える。」といわれる。川越には持続的なアクションがあるということであり、人に見られることによって、まちは成熟する。川越は首都圏に位置するため、宿泊を伴う観光は少ない。その代わり、日帰りといっても立ち寄り観光とは異なり、たっぷり1日かけての日帰り観光である。現在の観光客数は400万人と発表されている。こうした都市観光では、迎え入れる側の文化的意識、公共的感覚が再訪への決め手となることが多い。今後も実践的なポテンシャルの布石とともに川越感覚の醸成を、と考えるところである。

川越市まちづくり年表











  1965~ S40 専門家による問題提起
70

1971 S46 城下町川越開発委員会
旧万文取り壊し反対運動
  「大沢家住宅」重要文化財に指定
1972 S47 川越市史跡保存協会発足
1973 S48 川越青年会議所報告書
1974 S49 日本建築学会関東支部による「歴史的街区保存計画」コンペが行われる
川越市文化財保護協会発足
1975 S50   伝統的建造物群保存地区保存対策調査
1976 S51 川越環境会議
  伝建調査報告書「蔵造りの町並み」発行
1977 S52 全国歴史風土保存連盟川越大会
1978 S53   蔵造り資料館(旧万文、現市立博物館分館)開館
マンション建設反対運動













80

1980 S55 環境文化研究所による自主研究
1981 S56   蔵造り16棟市文化財指定(現22棟)
1982 S57   「川越の町並みとデザインコード」報告書
1983 S58 「川越蔵の会」発足
  市指定文化財調査報告書発行
1984 S59 新富町まちづくり協議会発足
1985 S60 東京シンポジウム(川越蔵の会)
来街者アンケート実施(3日間)し、アンケート結果のパンフレット発行
1986 S61 川越一番街活性化モデル事業調査(コミュニティーマート構想)
  歴路事業調査
  札の辻ポケットパーク整備
1987 S62   都市景観審議委員会議発足
町並み委員会発足
まちづくり協定の検討
蔵詩句大賞創設(蔵の会建築賞)
埼玉銀行(現あさひ銀行)ポケットパーク整備
1988 S63 「町づくり規範」の制定
新富町まちづくり協定の制定
小江戸川越景観賞設置(川越商工会議所、S63・H1のみ)
1989 H1   都市景観条例施行
  観光市街地形成事業開始
  歴路事業整備開始









90

1990 H2   川越市立博物館開館
  川越駅東口再開発竣工
  川越駅東口広場「公共の色彩賞」受賞
  川越駅東口広場モニュメント「時世」北米照明学会賞受賞
  かわごえ都市景観表彰創設(川越市)
1991 H3 サンロードまちづくり協定の制定
  歴路事業 菓子屋横丁通り整備
1992 H4   歴路事業 養寿院・長喜院門前通り整備
  電線地中化事業(一番街)
川越銀座街並み整備委員会の設置
計画策定に関するワークショップ
1993 H5 「街並み及び環境整備実施計画」策定
十ヶ町会(旧城下町エリア自治会)発足
第16回全国町並みゼミ川越大会開催
1994 H6   電線地中化事業(かねつき通り)
大正浪漫のまちづくり協定の制定
大正浪漫委員会発足
  彩の国さいたま景観賞受賞(一番街電線地中化事業)
  川越市町並み改装事業(~H10)
1995 H7 アーケードの撤去
サンロードモール化計画の検討、電線地中化開始
一番街町並み委員会「まちづくり功労者表彰」受賞
1996 H8 十ヶ町会 住民アンケート実施
  時の鐘 残したい日本の音風景百選選定
  あさひ銀行 国の登録有形文化財に指定される(埼玉県第1号)
1997 H9 大正浪漫夢づくり設計コンペ開催(大野屋)
サンロード商店街側のモール完成
一般公募による道路愛称「クレアモール」決定
  小江戸サミット開催(実行委員会)
  川越ストリートミュージアム‘97開催(実行委員会)
十ヶ町会伝建地区指定の要望書を提出
1998 H10 バリアフリー策定調査
川越商工会議所 登録有形文化財に指定される
  彩の国さいたま景観賞受賞「大野屋」
まちかどミュージアム開催(青年会議所)
  川越市伝統的建造物群保存地区保存条例施行
1999 H11   川越市伝統的建造物群保存地区都市計画決定
  中央通り線の都市計画変更
クレアモールのモール化事業完成
グットデザイン賞アーバンデザイン賞「川越一番街蔵造りの町並み」
  重要伝統的建造物群保存地区に選定される
2000 H12 商店街魅力創出計画策定事業報告書
  都市景観大賞都市景観100選「川後歴史的町並み地区」
  重要伝統的建造物群保存地区一周年記念行事開催
2001 H13   歴路事業 大正浪漫夢通り線完成
  第5回音風景保全全国大会開催
チャレンジショップ夢の市オープン
2002 H14 彩の国さいたま景観賞「大正浪漫夢通り」
20世紀景観賞(埼玉県)特別賞「川越一番街まちづくり」
  歴路事業 行伝寺門前通り線完成
  川越市立美術館開館予定
  (仮)お祭り会館着工

凡  例




無印
外部、民間の動き
一番街及び周辺地区の動き
銀座通りの動き
新富町・サンロードの動き
行政の動き
一 番 街

個店改装・電線地中化前(昭和60年頃)


現在の町並み

一番街から時の鐘界隈


個店改装・電線地中化前(昭和60年頃)

現在の町並み

町づくり規範

中庭を囲む町家の配置形式

大正浪漫夢通り コンペを実施した「大野屋」

敷地の10%を公開空地とする協定をもつ
クレアモール

菓子屋横丁と歴路事業

川越氷川祭り

川越市立博物館

本川越を起点とする西武新宿線を走る
特急「小江戸号」

川越駅東口風景