【自主レポート】

赤城山に造林されたマツについて(中間報告)

群馬県本部/群馬県庁職員労働組合・森林利用研究会
林政課 小島  正
林業試験場 町田 初男・伊藤 英俊
富岡行政森林部 當間 博之
自然環境課 曲沢  修

1. はじめに

 群馬県の木は、クロマツである。そして今、クロマツを含めマツ林が減少傾向にある。これは、①人為による伐採、②病気による枯れ、③森林の遷移によるものが考えられる。マツ林については、経済・景観・植生等各視点により、評価や管理すべき手法が異なると思われる。そこで、マツ林の歴史、現状をふまえ、マツ林の森林管理方法について検討する。
 本年度は、中間報告として、マツ林の歴史について考察したので報告する。

2. マツ林の現状について

(1) 民有林野における造林面積の推移
   マツ林とは主にクロマツ、アカマツを意味する。昭和9年に群馬県林務課により発行された群馬県の林業、林務部による林業統計書によれば
    明治42年(1909年)スギ601ha、ヒノキ 61ha、マツ 97ha
    昭和元年(1926年)スギ495ha、ヒノキ 73ha、マツ187ha
    平成元年(1989年)スギ122ha、ヒノキ495ha、マツ 3ha
    平成12年(2000年)スギ 49ha、ヒノキ240ha、マツ 2ha
図-1 アカマツの分布
吉岡邦二,1958 から


図-2 クロマツの分布
吉岡邦二,1958 から
   1909年と2000年の造林面積を比較すると、ヒノキを除いて大幅に減少している。これは、木材価格や社会構造の変化等多くの要因によるものと考えられるが、森林の役割が大きく変化していることを表していると思われる。2000年のマツの造林面積は2haと少な く、近年、マツの枯損が報告されているため、マツ林が減少の一途を辿る恐れが強い。

3. マツ林の生態的特徴について

(1) マツの利用について
   昭和30年ころまでは蒔や木炭は、私たちの生活を支えるために欠くことの出来ない大切なエネルギー源であった。当時は、建築などの一般用材に比べ蒔や炭はその2 倍程度の需要があった。特に、蒔は重いので、集落の近くから採取する必要があったと思われる。アカマツは、火力が強いので重宝され、明るいマツ林に生育する灌木類は、柴として利用された。

(2) マツの生態的特徴について
   クロマツはアカマツよりも一般的に温暖地を好む。分布地域は、クロマツは低地(標高10m~300m)、海岸地域であるのに対して、アカマツは比較的、高地(標高100m~1,200m)、内陸地域である。
   また、アカマツ、クロマツは、顕著な陽樹であり、光によって発芽や稚苗の生存や生長なども強く支配される。アカマツは粗末な土壌では良好な生長を示し、重粘な土壌では不良である。
   マツの種子は、風に乗り飛び、山火事跡地や崩壊跡地など他の樹種に先駆けて定着することができる。しかし、暗い林の中では育つことが出来ないし、栄養分が多いところでは他の樹種に負けて生き残れないため、マツ林はやがて広葉樹中心の林になる。

4. 船津伝次平のマツの植林について

(1) 船津伝次平について
   船津伝次平は、1832年に生まれ、1858年(27歳)で、名主となり、植林を行う、また、農業関係で数々の功績を残し、1898年(明治31年)に永眠した。

(2) 船津伝次平が植林した当時の森林の状態について
   富士見村教育委員会「郷土の偉人船津伝次平」では、「当時、赤城の山頂から、南のふもと一帯は前橋藩、大胡藩などの138ヵ所村の入会地(共有地)のはぐさ場(草刈り場)でした。夏になると、ふもとの村の人たちは、馬を引いて、馬の飼料にする草刈りにいきました。それが堆肥の原料になりました。秋になると屋根ふき用の萱刈りをしたり、冬には草を焼いて肥料用の灰を集めました。また、来年よい草が茂るようにと、わざわざ野火をつける者もあり、毎日のように山火事があったので……略……このように山全体が草山でしたので、大雨が降りつづくと、白川などがあふれて大洪水となり、ひでりががつづくと、川の水が減って、田植えの出来ないような年がありました。」と、当時の状況を説明している。

(3) 牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」による赤城の植林の抜粋
   船津伝次平は、1858年原之郷の名主に選ばれた。……(略)……伝次平は、水不足からの争いの愚かさを感じ、周囲の名主に呼びかけ、赤城山麓の植林の必要性を説いたのである。すなわち、白川の水源を確保するためには、広大な原野に植林し、涵養林としての機能を果たさせるしかないとの判断からである。彼は、各名主を説得し、前橋藩に届け出て許しを受け植林に着手した。……(略)……
   松苗については、「造林功労者事績」によれば「伝次平の意見としては郷土付近の自然生苗を疎植せむとせしに、藩は東京西ヶ原より養成苗を運び来り密植し繁茂につれこれきる方法を用ひしめ着手より3年の日子を要して之を完成せり」と記述している。なお、東京とあるは、当時、まだ江戸のはずである。これに対し、「船津伝次平」(昭和58年、富士見村教育委員会刊)という小冊子によれば「苗木は特別に仕立てたものでなく、並木のそばの雑木林や、松の木の下に自然に生えたものを根に土をつけたまま堀とって運んだのですから、各村から労役に出た者の苦労は大変なものでした」とあり、食い違いが見られる。
   植え方は、一反歩(約1,000平方メートル)あたり75本、苗木と苗木のあいだを十分にとった植え方が採用された。これは、従来どおり、まぐさ用の下草を刈り取りための余地を残したのである。
   その結果、3年間かけて完成。芳賀、富士見、北橘、横野の村にまたがる400町歩(約400
ヘクタール)の広大な植林が誕生し、白川の水源涵養林としての機能を果たすことになった。

(4) なぜクロマツを植林したのか?
   1858年以後、数年で植栽されたマツは、現在、100年生以上になっているはずである。赤城白川を下流から上流に向け、クロマツを求めて歩いてみると、龍蔵寺町近くで約100年生のクロマツの伐根を1本発見できた。同様な太さの松が、周辺にあった。クロマツは、海岸に多いマツ
で内陸には少ない樹種である。なぜ、船津伝次平は、クロマツを植えたのであろうか?
   既に記したように、牧野和春著「森林を蘇らせた日本人」では、
   ① 植栽したクロマツは、江戸からクロマツの苗木を運んで植栽
   ② 赤城参道には、クロマツの並木があったことから、その実生苗を堀取り植栽の2説の記録が紹介されている。
   植栽本数は、75本/1,000平方メートルなので、400haでは、75万本必要となり、3年間で植栽したので、1年間では、25万本の苗木が必要となる。25万本を、江戸から運ぶのも、実生で掘り取り、植栽するのも容易なことではない。また、マツは、早春に植栽しないと、活着が悪い樹種なので、3月から5月の2ヵ月間程度で植栽したものと推察できる。クロマツの苗木は、江戸から持って来たのか? 並木近くから掘り取ったのか? 本年度は、結論が出なかった。
   県内でクロマツを捜すと、敷島公園や前橋城跡にクロマツの大木があることから、何かアカマツではなくクロマツを選択する意味が存在したはずである。この問題は、今後の検討課題とする。

図-3 昭和26 年4 月5 日
上毛新聞

5. 第2回全国植樹祭について

(1) 昭和26年当時の上毛新聞について
   昭和26年4月4日に行われた全国植樹祭で、両陛下が黒松の植林を行った。(図-3)植樹祭前日の4月3日の上毛新聞の社説を紹介する。
   「その植林には2つの使命を持っている。1つは国土美化である。あと1つは天然資源を豊富にしようということである。……略……経済地理学者アツカーマン氏の報告によると一億及至それ以上まで増加すると仮定した場合、……略……日本はその生活水準を次第に低め、わずかに生命をつなぐというレベルまで落込むだろう、という見通しである。外圏による経済援助を無限に続けて貰うか、国の富を整備してこれをフルに使えるようにして、貧弱な経済力を補うかである。
   緑化運動は、第2の場合に答えられる適当な資源だ。日本は森林に恵まれた国である。米国とくらべて面積は廿分の1足らずだが経済的利用可能林にある木材の蓄積は……(略)……伐りとだけののもを常に補うことをしなければ森林資源の再生は覚束ない。資源としての森林を保ちながら伐採しつづけるためには、森林が自ら生長する分だけを伐るという心づかいが必要なのである。この生長量を日本の利用可能林についていうと1年間約1億石ということらしいのだが、一時の過伐はいわないとして現在2億石くらいづつ伐られている。しかも造林はこれに追いつかない。造林面積は来る年も来る年も伐採面積に及ばず、戦争当時から現在に至るまで年々マイナスが積み重ねられている始末でなのである。これでは、折角の森林資源も近く底をつくということなのだ。……(略)……」
   昭和26年当時、人々は、燃料や肥料として、林産物(蒔や落ち葉等)を利用していたため、森林の過剰な利用について、警鐘を鳴らすような社説となっている。

(2) 第2回全国植樹祭で植栽されたクロマツの現在の状況について
   写真-1に示すとおり、1951の植樹祭で植栽されたクロマツは、成長しマツ林を形成している。しかし、中に入ってみると、お手植のマツの着葉量が、林縁部のマツ林に比べ少ないような印象を受けた。

写真-1 第2回全国植樹祭(1951)で植栽されたクロマツ

6. まとめ

 本年度は、1860年当時に船津伝次平が植栽したマツと、1951年の全国植樹際で植栽されたマツについて調査した。これらは、マツ林を取り巻く社会情勢や植栽する意義について象徴的な出来事だと思われたためである。今後、マツ林の現在の状況と、管理する手法やマツ林のあり方について検討する予定である。



※参考資料
吉岡邦二、1958、日本マツ林の生態学的研究、日本林業技術協会
群馬県林務課、1934、群馬県の林業
群馬県林務部、1990、2001、林業統計書
牧野 和春、森林を蘇らせた日本人、日本放送出版協会
富士見村教育委員会、1983、郷土の偉人船津伝次平