全国へ発信された「多文化共生」の壮大なイベント
― 「三国人」発言をきっかけにした市民・労働組合の取り組みの軌跡と課題 ―

東京都本部/自治労東京都区職員労働組合・新宿区職員労働組合(嘉山 隆司・川原 栄一)

 

はじめに

 2000年8月15日夜、新宿歌舞伎町のどまんなか、新宿区役所「平和の火」の前には雨にも関わらず、多くの人々が集っていた。第1回新宿歌舞伎町・大久保多文化探検隊のオープニングイベント、多言語「花」コンサートが行われるのだ。新宿区役所が現在のように建設されてから35年近くが経つが、ここでコンサートが行われるのは初めてのことだ。このコンサートのメイン企画は、今やアジアのスタンダードになったとも言える喜納昌吉の「花」を多言語で歌おうというもの。作者の喜納昌吉本人もはるばる沖縄からかけつけた。在日朝鮮人の歌手李政美(イ・ジョンミ)らも出演し、まさに「新宿 歌舞伎町・大久保多文化探検隊」の出発にふさわしいコンサートとなった。コンサートは最後に参加者全員が韓国語、英語、ドイツ語、中国語、べトナム語、タガログ語、スワヒリ語、さらに手話でも「花」を歌い、「みんな違って、みんないい」という多文化共生のメッセージの第1歩を発信したのだった。
 きっかけは石原都知事の三国人発言、めざすべきものは、多文化・多民族の街、東京で国籍の違いを超えて、災害時などいざという時に助け合う関係を作りだし、一人でも多くの命を守っていこう、そのためのイベントを行うのが多文化探検隊の目的だった。代表の辛淑玉(シン・スゴ)氏や事務局スタッフの過酷とも言える頑張り、そして市民グループ、ボランティアや連合東京ボランティアサポートチーム、自治労都本部を始めとした労働組合関係者の参加・協力により9月2日の外国籍住民も多く参加した防災実験の成功をもって探検隊は当面の任務を終了した。
 このレポートは、全日程終了後、提出期限までの限られた時間で作成したものであり、取り組みの軌跡、今後の課題の指摘などに止まっていることにご容赦願いたい。組織での討議も含め今後詳細な検討を行っていきたい。

1. 「歌舞伎町に区役所がある」新宿区における外国籍住民の状況

 新宿区は、人ロ28万8千人のうち外国籍住民が2万3千人を占める(約8%)、都内でも1,2をあらそう外国人多住地区である。外国籍住民は、敗戦直後から、植民地支配の結果存在する韓国・朝鮮人や台湾人(いわゆるオールドカマー)が多く住んでいたが、急増したのは1980年代に入ってからである。新宿には多くの専門学校・大学が存在し、そこに留学をめざす日本語学校も多数存在したことから、中曽根政権の留学生増加政策も手伝って、いわゆるニューカマーと呼ばれる韓国人・中国人などが多く住むようになった。
 それまでのオールドカマーと違い、生活習慣や言語も違うニューカマーが多く居住することによって、地域では多くの波紋が広がっていった。
 区内保育園の外国籍在園児は定員3,200名中200名以上に達し、区立の大久保第2保育園では在園児の約半数が外国籍であり、共生への多様な取り組みが行われている。新宿区としては、「わたしの便利帳」(区民向けの住民サービス案内ハンドブック)や保育園の入園案内をはじめ各種パンフレットの英語、中国語、韓国・朝鮮語での発行や外国人向け生活情報ビデオの作成(三ヵ国語)、区役所1階での外国人相談、などの施策を展開してきた。
 社会福祉分野でも、東南アジア等からの外国人女性たちに対する人身売買、強制売春が社会問題化し、性的虐待などで助けを求める女性たちの駆け込み寺(シェルター)が区内にあることから、区担当セクションとの緊密な連携による援助活動など、日本一の繁華街を抱えた新宿区ならではの取り組みが行われてきた。
 まだ充分な成果とは言えないが、現場職員の努力で1歩1歩施策を積み上げてきたと言えるのではないだろうか。

2. 新宿区職労における多文化共生の取り組み

(1) 外国人登録法改正運動(1980~1990年代)
 新宿区職員労働組合は、1947年の結成以来、50年以上の歴史を持っている。国際連帯運動、多文化共生の取り組みは、1960年代の日朝・日中友好運動、1970年代の在日韓国人政治犯救援運動への参加など、その時々の時代状況におけるどちらかと言うと政治運動への参加という色合いが強かった。
 しかし1980年、「たった一人の反乱」と言われた在日韓国人の韓宗碩(ハン・ジョンソク)氏の指紋押捺拒否のたたかいは、新宿区職労の国際連帯運動に大きな影響を与えた。
 外国人登録法の指紋押捺拒否のたたかいは、その後大きな広がりを見せ、最盛期の1985年には全国で1万人以上の指紋押捺拒否者が立ち上がった。その結果、いくつかの法改正をへて、2000年4月1日をもって、外国人登録法の指紋押捺制度は全廃された。
 新宿でも、たったひとりで立ち上がった韓さんやそれに続いてもうこんな屈辱的な扱いは許せないと、指紋押捺拒否が相次いだ。新宿区職労としても、自らの仕事を問い直さざるを得ない厳しさを持ち合わせつつも、これまで外国籍住民に多くの苦痛をしいてきた指紋押捺を撤廃させるべく、地区労や学生、市民グループと共に新宿外国人登録法問題を考える連絡会を結成し、対区交渉などに取り組んできた。最初は外国人登録法の指紋押捺をめぐる交渉だけであったが、次第に元号使用問題や民間住宅における入居差別問題など、幅広いテーマで交渉を行うようになった。現在、新宿外国人登録法問題を考える連絡会は休止状態だが、80年代から90年代にかけ、外国籍住民の要求にそう形で市民グループと共に、対区の窓口交渉を行ったことの意味は大きいものがあると考える。今後は、名称の変更や組織のあり方を見直し、対区交渉を再開することが求められるだろう。

(2) 「非定住」外国人に対する生活保護準用を求める取り組み(1990年代)
 ① 緊急医療適用の取り組み
 生活保護の対象は「日本国民」と限定されており、在日韓国・朝鮮人、台湾人など戦前から居住するオールドカマー(定住外国人)についてはその経緯から生活保護は「準用」という形で行われてきた。(「適用」でなく「準用」のため権利性がなく不服申し立てができない)高度成長期になって、いわゆる3K労働をはじめ労働力不足を補うため、世界各国からニューカマー(非定住外国人)と呼ばれる「短期滞在ビザ」等で入国する外国人労働者が増え始め、1990年頃には28万人にも達した。彼ら・彼女らは国民健康保険に加入できず、医療費は全額自己負担となるため、病気になっても通院せず、我慢を重ね、重篤になり、はじめて病院に運ばれるケースが増えてきた。従前厚生省は、これらの人々の緊急医療費(入院)については一定の手続きのもとに生活保護(医療扶助)の準用を認めてきた。しかし、突如として、1990年、「準用は認めない」見解を示し、これ以降、非定住外国人がもっとも多い東京をはじめ全国的に、医療費を払えない患者が診療拒否され、病院をたらい回しされるケースが多発し、又、緊急患者を拒否できない大病院では未集金で経営が圧迫されるなど、社会問題化してきた。
 大学病院等が多い新宿区では、こうした患者が後を絶たず、新宿区職労も緊急医療の適用を求め、所属長を通じ特別区福祉事務所所長会への要請や市民団体と協力し東京都へ要請を繰返し、国段階でも自治労が要請を行ってきた。こうした取り組みのかいもあり、東京では明治時代の法律である「行旅病人及死亡人取扱法」により、一定救済がされるようになり、また未集金の一部を支払う制度もできるようになり、他県にも波及していった。社会福祉基礎構造改革により、生活保護法改正も視野に入ってきたいま、緊急医療について従前どおりの適用を求めて取り組みを続けていかなければならない。
 ② 在留特別許可申請中の人への生活保護準用の取り組み
 1.で記述したように、女性シェルターと区担当セクション(女性相談員)との連携、区の独自施策などにより外国人女性への援護には一定の成果を上げてきた。売春防止法成立以前から女性らの人権を守ってきた女性相談員の高い見識と区の積極的取り組みは、多くの外国籍女性の光となってきた。組合的取り組みは、1968年の正規職員化以外は特筆すべきものはあまりなかった。
 人と人との交流が頻繁になれば当然、婚姻、出産などが問題になってくる。日本人(夫)の配偶者及び日本人の子として出生した者は定住者に準じた在留資格が与えられ、生活保護の道(準用)も開ける。しかし、夫の暴力などにより逃げている女性は在留資格の更新ができずオーバースティ状態になるという実態に合わない仕組みになっているため、在留特別許可の申請をしなければならない。許可がおりるまで生活保護は受けられないため、生活困窮に陥ってしまう事態が生じている。現場などの取り組みにより一定の変化も出ているが、区職労としても取り組んでいかなければならない課題である。

3. 「新宿 歌舞伎町・大久保多文化探検隊」への取り組み

(1) 企画から体制づくりへ
 2.で述べたような取り組みはあったものの、ここ数年は国際連帯運動や多文化共生の取り組みはあまり活発とは言えなかった。そのような状況の中で突如起こったのが、あの石原東京都知事の「三国人」発言であった。この問題点については、他でも触れられているだろうから多くは述べないが、「三国人」という言葉の問題性もさることながら、外国籍住民を「暴動予備軍」と見なし、自衛隊にその鎮圧を呼びかけるという前代未聞の人種差別発言であった。とりわけ歌舞伎町などを指して「歌舞伎町や池袋とか12時過ぎたらどこの国かわからない。ヤクザだって怖くて歩けない」ということは、同じ歌舞伎町に区役所が存在する新宿区職労としては大きな衝撃であった。と言っても大きな取り組みが出来たわけではなく、自治労東京都本部の指令にもとづき、抗議文を提出したに過ぎない。そんなときに、辛淑玉(シン・スゴ)氏から、「多文化探検隊」「多文化防災訓練」(その後、多文化防災実験に変更)の呼びかけがあった。
 6月1日~2日の自治労特区連組織集会(自治労に加盟する特別区職員労組の交流集会)において、辛淑玉氏の特別講演中、多文化探検隊・防災実験の提起を受けた新宿区職労の参加者は、前向きに検討することで意見が一致。6月7日には、辛淑玉氏本人が区職労事務所を訪れ、区職労執行部に協力要請した。区職労としても、前向きに協力していくことを約束。後日、執行委員会で全面的に協力することとし、担当役員として嘉山書記次長と井出会計を事務局メンバーにあてることを決定した。

(2) 新宿区職労へ課せられた大きな課題
 しかし、辛淑玉氏からの要請内容は、新宿区職労のこれまでの力量からすると厳しいものがあった。区職労は後援という形で参加することになったが、問題は新宿区の後援をとりつけることであった。従来、区職労と新宿区が共に一つのイベントを後援するということはなかった。しかも、このイベントが自衛隊7,000名が参加する総合防災訓練「ビッグレスキュー東京2000」を行う石原知事のお膝元である新宿区としては慎重に対応せざるを得なかったであろう。しかし、「多文化共生防災実験」は新宿区や東京都の防災訓練を「補完」するものとの趣旨が理解され、新宿区は後援を決定した。これによって区役所前広場の使用が可能になり、そのほか多くの便宜をはかってもらえることとなった。区幹部の決断に改めて感謝する次第である。
 ようやく、新宿区の後援をとりつけたが、今度は多文化探検隊の中身をどうつくっていくかである。辛淑玉氏は当初8月1ヵ月の間に「地方参政権についての話」などの硬派なものから「あやしい探検ツアー」など軟派なものまで小講座を100本開催し、9月2日の多文化防災実験につなげていく構想をもっていた。その中で、区職労も企画を20本、1週間以内に用意してほしいという要請であった。区職労の力量では、かなりむずかしい要請であったが、区職労執行部の個人的なつても頼って18本の企画を用意することができた(「高齢者介護コース」「区役所を遊ぼう」「多言語介護保険講座」「保育園見学ツアー」など)。また、最も準備に困難を極めた「多文化縁日」も区職労が担当で取り組むこととなった。それ以外にも、全体で70本以上の企画についても、銀座の人材育成技術研究所内にもうけられた多文化探検隊事務局と連携をとりつつ、膨大な準備作業(特に会場確保、多言語版チラシ印刷等)に取り組んでいった。(資料参照 ハングル版)
 この間、当初は上記の事務局と区職労や自治労都本部など限られたメンバーで実務を行っていたが、インターネット上でのメーリングリストなどの呼びかけによって、趣旨に賛同するボランティアが結集していった。70本以上の講座を限られた人間だけで運営するには不可能であった。この「多文化探検隊」に学生や主婦、失業中の人、労働者などさまざまな人々が協力してくれた。
 また、マスコミ向けに記者会見を開催したところ(8月8日)、「この手の会見で18社も集まったのははじめて」(辛淑玉氏)であり、朝日新聞や東京新聞などが好意的に紹介してくれた結果、当初はどうなるかと思った講座の申込者もだんだん増え、区職員の関心も徐々に広がっていった。
 なお、歌舞伎町・大久保近隣の店舗に、ポスター掲示と「多文化探検パスポート」の委託販売依頼を行ったが、おおむね好意的な反応であった。

(3) いよいよ始まった多文化探検イベント
 8月15日のオープニング以降、多くの講座、フィールドワークが取り組まれていった。走りながらの企画で内容に関しては充分練られたものとは言えないものの、参加する人達の真面目さに押され、予定時間を過ぎても話が続くことも多かった。会場が、飲食店であることも多かったため、和やかな雰囲気で行われた。参加者の感想も、一部に運営の不手際への指摘はあったが、講師の話に感銘を受けたといった、企画全体の意味を高く評価するものが多かった。準備した側として大変うれしいものであった。
 8月20日には、区職労の担当の中で一番大がかりな「多文化縁日」を開催した。自治労特区連の白石氏の協力を得て、ペルー・タイ・インド・インドネシア・韓国などエスニック料理の屋台が並び、区職労組合員の手打ち蕎麦の実演も加わった。舞台では、区役所「つつじ連」による阿波踊り、保育園組合員による和太鼓、韓統連のチャング、さらに区役所裏に店を構え、沖縄の島唄などを歌う「シーサーズ」や長年市民運動を支援し歌う「生田卍」など多彩な出演者を迎えて盛り上がった。好天にも恵まれ、2,000人ちかくの来場者とともに、多文化の町「新宿」を感じ取ることができたと思う。
 8月31日には再び区役所前で、「みんなの思いを伝えよう」として、期間中、区役所玄関脇に置かれた3つのメッセージボックス「会いたい」「ごめんなさい」「ありがとう」に寄せられたメッセージをいろいろな国の言葉で読み上げ、歌うファイナルイベントが行われた。メッセージの内容はほのぼのとしたものあり、真摯なものあり、私的なものから政治に関するものまでが中国語、韓国・朝鮮語、英語、フランス語、スペイン語、関西弁、福島弁、沖縄弁などで読み上げられた。また一部を15日にも登場してくれた東京・多摩地区において市民運動の集会などで活躍している音楽グループ「多摩じまん」が歌にして歌った。その時「多摩じまん」が最後に静かに語った。
 「最近、在日外国人が危険視される傾向がある。知事自らが、先の震災の反省をするどころか、その不安感をあおる。住民の7割がそれを支持する。外国人は、こわい。何をするかわからない、と。だが、ほんとにこわいのは日本人ではないか。震災で、大戦で、罪もない人々を殺した日本人はこわくないのか」
 このメッセージは、多くの人々の胸に届いたのではないだろうか。
 9月2日の「多文化防災実験」は今年一番の暑さの中で行われた。会場の常圓寺では、連合東京ボランティアサポートチームの協力による、応急救護、担架搬送や炊き出し訓練、阪神・淡路大震災のパネル展示、防災ビデオの上映、災害時での多言語放送実験、また新宿消防署の協力による消火器訓練などが行われた。また、並行して「移住労働者と連帯するネットワーク」などによる震災をテーマとしたシンポジウムも行われるなど多様な取り組みとなった。
 翌日行われた「ビッグレスキュー東京2000」とは比較すべくもないが、多くの外国籍住民の参加も得られ、手作りの訓練は行えたのではないか。ステージでは、実行委員会参加メンバーからの挨拶、大阪からフォークシンガーの趙博(チョ・パク)氏の歌、言葉が通じない場合のジェスチャーでの意思伝達法などを紹介した後、最後に「生」の形にしたろうそくを灯し、「生」の大切さをかみしめながら、「花」を歌い、すべての日程を終了した。

4. 参加しての大雑把な考察と課題

 冒頭にも述べたが、1ヵ月にも渡る大がかりなイベントだったこと、さらにすべての日程が終わってまだ日もなく、総括もまだできない段階だが、概ね「成功」したというのが全体的評価ではないかと考える。まだ整理しきれてないが、各講座やイベントには多数のテレビ、新聞等のマスコミの取材が相次ぎ、そのほとんどが全国報道されるなど、全国的注目を集めたことは特筆できると言える。通常2年はかかるといわれた準備が、辛淑玉氏の「『石原発言』後の状況を見ていると、外国籍住民は生き延びることができない」という危機感からか、2ヵ月で何とか形となって実現した。彼女の馬力と想いなくしてこの企画が実現できなかったのはまちがいないことである。彼女の訴えが多くの人々の心を揺さぶり、多くの人の協力を生み出していったのである。
 今回、私たちは、この多文化探検隊に、冒頭触れた目的とともに大きな期待をもって参如した。それはここ数年停滞している区職労運動を問いなおし、再構築するきっかけを、そしてその仕組みづくりを少しでも学ぶことでもあった。苦労も多かったが得たものも大きかったというべきだろう。以下、取り組みから得た課題などについて若干触れてみたい。

(1) 自発的参加型組合運動への転換を
 多文化探検隊は市民団体・労働組合、ボランティアに参加した人達、多くの思いが重なり合って実現してできた企画である。特筆すべきは、若いボランティアが多く参加したことである。暑い中、雨の中、街頭でのビラまきやポスティングや看板書きに励むひたむきな姿は、自発性に基づくものとはいえ、私たち組合の活動家とは違うものを感じた。従来から言われてきたが、動員型の労働組合活動の限界を感じた。組合員の自発性に基づく活動をどのように追求していくか、古くて新しい課題を改めてつきつけられた感じだ。
 しかし辛淑玉氏の講演会に参加した組合員の多くがボランティアとして名乗りを上げ、各学習会の記録者や多文化縁日の出店に協力してくれるなど、提起する中身しだいでは自発的に動く層がいることが改めてわかった。阿波踊りや和太鼓でのサークルとして「多文化縁日」に参加した組合員もおり、組合員の思いに見合った企画作成により、わずかではあるが、新たな活動が行える余地があることも見えてきた。また、組合の意思の伝達手段はいまだ指令・通達文書、機関紙、ビラ、ポスターなどであるが。民間では日常化しているメールやホームページの設置など早急に検討する必要があることを今回ボランティアから学んだ。長引く不況下で賃上げどころか賃下げが続く厳しい条件下ではあるが、組合離れを高い所から嘆く前に、組合員が自発的に参加できる価値あるものを目的意識的に作っていくことこそが必要だと改めて感じた。「来年やるなら企画段階から参加したい、もっと多くやりたかった、組合がこんなことやるなんてすごい」等の声が寄せられている。来年もしこの企画を行うとすれば、より多様な形で組合員の参加を追求していきたい。

(2) 「多文化たんけん隊」から「自治研活動」の活性化へ
 区職労は数年前まで都職労地区協(新宿区内の都庁の清掃局や労政事務所、都税事務所などの事業所と区役所の組合の協議体)と共に区内公園での青空自治研を行い、区民の好評を得てきた。福祉、保育、保健、年金、税金などの相談、清掃組合によるリサイクルバザー、綿あめの屋台など行政の専門家集団を抱える組合ならではの取り組みであり、それぞれ土曜日(当日は休日)にもかかわらず、保健婦・ケースワーカーなど専門の組合員が多く参加し、組合員からも評価されてきた。組合自らが地域に飛び出し、住民の要望や相談を受け、政策提起することを狙いとしたが、相談がきっかけで、その後行政サービスに繋がった人はいたものの、政策提起には結びつかなかった。あれから数年がたった1996年から、新宿区は「ふれあいトーク宅配便」と銘うち、区民の要望により、区の担当職員が地域に出向き行政施策を説明するシステムを始め、特に介護保険などは「注文」も多かったようで、それは今も継続されている。あの青空自治研が先駆的取り組みであったことは間違いないであろう。この多文化探検隊をきっかけに自治研活動の再構築を図っていかなければならない。

(3) 実践、そして政策提起を
 かつてのような防災訓練で多言語の住民たちを安全に避難させることができるだろうか。阪神大震災の時には日本語の不自由な外国籍住民が水や医療や避難所の有無もわからず、長い間、取り残されるということが実際あったという。宗教上の問題から支給された食事がロにできなかったり、思想信条とは別に火葬されてしまったり、多くの課題を残したと言われている。こうした中で、多文化共生防災実験も、9月3日の「ビッグレスキュー東京2000」ではできないものを行い、ささやかながら「補完」することができたと思う。応急救護訓練に参加したフィリピン人男性は「とても簡単だった。日本語ができず、地震の時に何か放送があってもわからないので、こういうイベントで情報の集め方や救急処置を習うのはとても役にたつ」と話していた。今回の実験では日本語でルビをふった多言語の原稿を日本人が読み上げたが、参加した外国籍住民の一部にはなかなか伝わらなかったこともわかった。さらに食事について、十分な説明をしたが、宗教上の理由から食べられなかった例もあった。
 実験の問題点等は事務局が今後整理、検討を加え、マニュアルにまとめ全国の自治体に配付されることになっている。

(4) 多文化共生の街づくりへネットワークの構築を
 JR山手線と中央線にかかる大久保通りの両側に約800軒の店が並ぶ多文化の街、新大久保商店街では若い商店主たちが外国人とどうつきあっていくかについて積極的に取り組んでいる。エスニック料理店のマップを作成して配付するなど、街の活性化も視野に入れた取り組みになっている。早稲田地区では商店街が中心となった「エコサマーフェスティバル in 早稲田」が今年で5回目を数え、リサイクル、ごみゼロ実験など全国的に注目を集めている。行政の手を借りず、いずれも地元商店主たちが主体的に取り組んでいるのが特徴だ。
 今回の講座の中で、東北地方に住むアジアの女性が姑の介護に悩んでいるという新たな問題も起きていることがわかった。外国籍住民が多い新宿においても早晩、そのよう問題も起きるかもしれない。
 いま何ができるか、簡単に答えは出せないが、アンテナを高く張り、今回共に頑張った市民グループ、ボランティアらと情報交換しながら、少なくとも現実に起きている問題の把握、正確な理解だけでもしていくべきだろう。

5. 終わりに

 「歌舞伎町は怖くて、やくざも歩けない」という石原都知事の発言は残念ながら広く伝わり、人々の怯えを招いたようだ。組合事務所で「多文化探検パスポート」を販売していたが、購入した市民から「歌舞伎町は夜歩いていても大丈夫ですか?」と尋ねられることがあった。「通常夜道を歩く警戒心は必要ですが、必要以上に怖がる必要はありません」と答えた。早計は禁物だが、これも石原発言の一つの影響と考えられる。だいたい資格外就労者など「超過」滞在している人たちは、警察と関わることをおそれて、犯罪の被害に遭っても届けでないことも多いと聞く。一つの事例をあげてそれで全体化することは慎まなくてはならない。むろん犯罪を犯す人間がいないというつもりはないが、犯罪は犯罪として取り締まるべきであり、「○○人は犯罪を犯すから取り締まるべきだ」としてレッテルを貼って全体化することが過ちなのである。
 多文化探検隊の一連のイベントの中で、特にトラブルがあったとは聞いていない。夜の歌舞伎町を探索した参加者の多くは、夜の歌舞伎町を歩くことはあまりない人たちではないかと思われたが、「外国人が多くて怖い歌舞伎町」から「いろいろな国の人がいるから魅力的な歌舞伎町」へと一人でも感じ方が変われば、この企画は成功だったと思う。今後この企画を端緒に地域ぐるみで石原都知事の排外主義に抗して、多文化共生の町新宿を作りだしていければと思う。
 三国人発言に対し、抗議声明を送った以外独自の取り組みもない中での、辛淑玉氏の要請に、私たちは久々に感性を呼び起こされ「やらなければならない」と強く感じた。彼女の「石原発言とその後の居直りは日本社会に内在する差別意識をあぶりだし、差別することにお墨付きを与えた。すこしでも多くの生命を守りたい。今やらなければ意味がない。来年では間に合わない」との隠やかながらも叫びにも似た訴えに、どうして組合が、ましてや住民の生活と生命を守るべき自治体の労働組合が応えずにいられただろうか、と今も思っている。
 「正しい人が正しいことを言い続けるだけでは勝てない」と一貫して主張してきた辛淑玉氏のたった一人から始まったこの取り組みが、多くの人々の良心の受け皿となり、結果として、三国人発言に対する最強の対抗軸になったことはマスコミの報道ぶりを見てもまちがいないだろう。そして、日本の民主主義の危機を救う一つのきっかけになったと確信している。
 4月9日の陸上自衛隊練馬駐屯地での挨拶で石原都知事は「治安維持を目的とした訓練」をめざしたが、今回の「ビッグレスキュー東京2000」では彼の意図した治安訓練は実現できなかったと思っている。これは石原都知事の「敗北」であり、多文化共生をめざす多くの人々の「勝利」だ。来年度以降も決して油断はできないが、石原都知事の目に見える歌舞伎町とは違う、「多文化共生のまちづくり」を行うことで、一つの答えとしていきたい。
 多くの反省点はあるが、今の時点でのささやかな総括として、このレポートを読んでいただければと思う。最後に、協力していただいた自治労都職労、自治労都本部の組合員のみなさん、連合東京ボランティアサポートチームのみなさん、多数の市民団体、労働組合のみなさん、快く会場を貸してくれた常圓寺、飲食店などのみなさん、ボランティアに協力してくれた市民のみなさん、そして探検隊に参加してくれた全てのみなさんに感謝を申し上げこのレポートを終えたい。