顔と顔の見える国際協力はチャンス!

奈良県本部/生駒市職員労働組合 田中 明美
 室生村職員組合 河邊 秀香
平群町職員労働組合 北里嘉須美
平群町職員労働組合 神谷 順子

 

1. はじめに

 自治労は結成40周年の記念事業として、1994年「アジア子どもの家プロジェクト」をスタートさせた。ベトナム・カンボジア・ラオスの3ヵ国を対象とし、子どもたちに焦点をあて、経済的自立の支援や民俗的・文化的継承者として能力が培われるように、協力活動を展開してきた。今回の近畿地連でのスタディーツアーに至った経緯は表1を参照。
 ラオスはインドシナ半島の内陸にあって、日本の本州と同じくらいの面積である。人口550万人(推定)、60以上の民族からなる。気候は熱帯気候から亜熱帯山地気候で、雨期(4~10月)と乾季(11~3月)に分かれている。山岳地帯が約8割を占め、メコン川流域にわずかに平地が広がる。かつては豊かな森林(国土の70%)に覆われていたが、外貨獲得のために乱伐が進んだ。公用語はラオ語である。国民の95%が仏教に帰依し、ピーと呼ばれる精霊信仰も根強い。また交通手段は鉄道はなく、バスかタクシー、舟、トゥクトゥク(バイクにリヤカーを付けたようなもの)が主流である。
 ここ2、3年ラオスは激しいインフレに見舞われている。1998年5月に1ドル2,552キープ、11月には4,200キープ、そして私たちが訪れたときには、7,500キープとなっていた。幼稚園の先生の給与は日本円にして月額1,500円程度である。しかしアジア最貧の国とは言え、それを感じさせない大らかさがある。

2. 現地での活動

 2000年3月11日~19日の9日間、自治労近畿地連主催で「ラオス子どもの家スタディーツアー」に様々な思いを持ったメンバー計9名が参加した。募集内容が保健分野と言うこともあり、奈良県から4名の保健婦が参加した。事前に保健という分野において、果たすべき支援の内容について何度か話し合いを持った。必要に迫られて情報収集を試みるが、現地とのコンタクトもインターネットを介しての通信であり、専門的な内容や異国の生活習慣など、すれ違いのため、思うように事が進まない。ラオスからのリクエストは、「手洗い・うがい」「歯みがき」などの生活習慣を紹介して欲しいと言うものだった。限られた情報のなか、個々に役割を取り決め出発を迎えた。
 現地入りしてから初めて、どのようなワークショップをしていくのか、という具体的な話をすることができた。日本人スタッフにラオスについての現状も聞いた。①貧富の差があり容易に打開できないこと。②生活習慣一つをとっても貧困層とでは格差があり、一様な生活習慣指導が通用しないこと。③インフラストラクチヤー整備の真ただ中で、しかもそれは公園や図書館などと違って、道路や上下水道といったライフラインのベースを整えている段階であることなどである。主要産業の農業や観光は思わしく振るっておらず、ラオスにとって諸外国の支援は重要である。1日1ドル以下で生活しなければならない人々は世界人口の3分の1、すなわち13億人と推定されている。ラオスもかなりの人々が貧困に苦しんでいると思われる。
 この日から現地での情報などをもとに「明日はどんな内容でいこうか?」と、毎晩ホテルで行われるミーティングが日課となった。連日ワークショップが終わってからのミーティングは大変だったが、やりがいを感じると同時に参加者の結束が日に日に固まっていった。
 ラオス子どもの家には朝早くから、教育省から召喚されて幼稚園の先生たちが集まっていた。幼児教育の取り組みには、近隣地域でありながらもレベルの格差は歴然としている。しかし子どもを思う気持ちはどの地域でも同じであろう。ラオスでは幼児教育のシステムやプログラムを整えて行かなければならないのと同時に、教育者の育成も課題として挙げられているようで、私達は子どもに行う支援内容を同様に先生にも伝達しなければならなかった。先生は子どもが喜びそうな絵や歌や遊びに対して、それほど提供できるものを備えていなかった。熱心に学習した成果を子どもたちの前で実践するまでは、先生が模索しているものを私たちが提供できたかどうかは不安であった。
 翌日は幼稚園での指導であった。そこはビエンチャンでも大きな幼稚園であり、比較的安定した家庭の子どもが来ていた。服装も通りで「物ごい」をしている子どもたちとは雲泥の差がある。日本では貧富の差をこれほどまでに見せつけられることが無いため、複雑な気持ちでいた。
 私達は日本から用意してきた生活習慣・手洗い・うがい・歯みがきの紙芝居をし、歯列モデルを使って歯みがき指導を実演した。子どもの注意を引くために指導の合間に歌や手遊び、体を使ったゲームなどを取り入れた。このことは先生たちから「子どもたちの注意をそらさない工夫があった」と気づきが見られた。しかし日本で常識としていることが、ラオスでは通用しない事が多くある。衛生教育に関しても同じで、ワークショップにおいても日本で行っている事をそのまま伝えてもどこか違和感があり、「やってみよう」とは思ってもらえない。日本の良いところをラオス流にアレンジをしてもらう、そしてその方法を参加者と一緒に考えてみる。これにより、参加者に自分のものとして感じてもらうことができ、ワークショップが終わってからが始まりとして、子どもたちの健康のために、みんなが話し合う機会が出来てくるのではないだろうか?
 ここまでの取り組みではまだ「支援してあげている」という意識はぬぐいきれていなかった。しかし子どもたちと接する機会が増える毎に、少しずつ「指導」から「支援」という立場に近づくことが出来た。そしてビエンチャンを後にしリンサン村に来た時には、すっかり「指導」と言う観念は消えていた。
 リンサン村は大阪府本部が「労働組合の国際貢献」というテーマで、村の総合的な発展を目指し、インフラストラクチヤーの整備と人材育成支援に取り組んできた。技術や物資・お金だけの支援にとどまらず、顔と顔の見える交流を通して親密な関係を築き上げてきた。このような交流があったからこそ、温かく迎えてもらい日本社会では味わえない癒しの時を過ごすことが出来たのだと思う。

3. 指導から支援へ

 ラオスに行く前に抱いていたイメージは「指導」「途上国」「最貧」であった。そして「何かを提供しなければ」「アジアの先進国として」という気負いがあった。いずれも高いところからものを見る視点に立っていたように思う。しかしラオスの国・人・文化に触れることで一歩一歩同じ高さに近づいていった。そして帰国してから本当の国際支援のスタートラインに立つことができた。援助大国日本やエコノミックアニマルなど国際協力に対する日本の態度への批判は大きい。私たちもそのことを他人事のように感じ、一緒になって日本の批判をする前に、このような批判を一人ひとり自分のこととして考えなければならない。
 また、ラオスは日本とは大きく異なり、生活面においても衛生面においても、確かに遅れている。しかし市場経済主義・市場原理の弊害に毒されていないラオスには、日本には失われた何かがある。それはラオスの人々が人との交流を大切にしている事ではないだろうか。日本でも昔から大切にされてきた、地域の交流や家族のつながりは今ではばらばらになり、人間関係は希薄になってきている。私たちはラオスの力を借りて、ボランティアという形で人々が集い交流する場を設けることができれば、と考えるようになった。支援という行為がラオスの人々を助け、同時に私たちも救われる、助け合うアジアの共生の道にまた一つ繋がるのではないだろうか。

4. おわりに

 今回のスタディーツアーでさらに交流を深めていくために学んだことは、大きく分けて3つある。
① 今回のツアーとして個人の学習だけでなく、お互いの交流を含めて意義はかなり大きかった。そして今後もこのようなツアーを継続的に企画することが必要だと感じる。また保健部門だけの企画ではなく、歯科衛生士、栄養士、看護士、保育士、事務職など、あらゆるスタッフがラオスの子どもたちに何ができるかということを考えると、より良いものになって行くのではないか。そして、今回の参加者は次回のスタッフと一緒になって、ラオススタディーツアーに参画することが必要であり、それによって2倍3倍の実りあるツアーになると考える。
② ラオスの子どもたちのいきいきとした姿を見てから、この子どもたちとずっと関わっていたいと思うようになった。帰ってからもツアーメンバーで集まり、「何が出来るだろう」と話し合いをし、月1回大阪で行われているマイペンライ(日本語でドンマイという意味)の活動に参加している。アジアの絵本事情はとても悪く、子どもたちは本を読みたくてもなかなか手に入れることが出来ない。マイペンライでは、古本にラオ語訳を貼ってアジアの子どもたちに送るボランティア活動をしている。今、私たちは大阪マイペンライでの活動に参加し、毎月自分の作った本を読んでくれる子どもたちの姿を思いうかべながら、楽しく作業をしている。奈良県でもこのような活動をしていくよう少しづつ準備しているところである。またラオス・カンボジア双方の活動を共有するため、近畿地連スタディーツアー報告会を4月に持ち、情報提供や意見交換を行った。今回のような顔と顔の見える国際協力は、組合活動の幅を広げる有意義な体験であったと振り返ることができ、参加者一人ひとりが自治労運動を身近なものとして認識することができた。さらに室生村でも6月に「ラオスの夕べ」と題して報告会を行った。実際の顔と顔の見える国際協力を経験したことは、自分たちが今まで考えていたボランティア活動を見つめ直す良いきっかけであったことを報告した。そしてツアーに参加できなかった組合員の人たちからも深い理解と共感を得て、ラオスを身近に感じ分かち合うことができた。また、この活動が組合の活動のみにとどまらず、一般の人々も巻き込んで広げていくために、社会福祉協義会のボランティア団体にも声かけをしている。これはボランティアの場を求めている団体に対して、コーディネーターの役割を担っていくものである。
③ 今回一番の成果は、スタディーツアーを通して知り合った仲間を持てたことである。ツアーが終わってからも何度か顔を合わせ、みんなで仕事のこと、色々な事を話し合った。「相談できる仲間」はこれからの自分たちの生活や仕事においても、大切にすべき宝物である。そして私たちはラオスで経験してきたことの意味について、見つめ直す機会を持った。ゆっくりとではあるが、日々の生活から一歩外の周りを観る目を養うことが出来たと思う。
  若い世代の私たちは日本社会の生ぬるい環境で生活しているため、本当の不便さを知らずにいる。水は蛇口をひねると出てくることになれ、「湯水のように…」などの日本独特の言い回しがあるが、水不足の国からすれば理解しがたいことであろう。ラオスは昔懐かしい日本のようであるらしいが、そのことすらも歴史のなかに埋もれてしまい知る機会も少ない。しかし日本も通ってきた道であるのならば、様々な支援を受けて、今日の日本の姿があることを考えさせられる。今私たちに出来ることは、繰り返す国際協力の輪を絶やさないことではないだろうか。国連開発計画(UNDP)の事務局長ジェームス・グスタフ・スペス氏は「人間開発報告書(1997年)の最も重要なメッセージは、貧困はもはや不可避ではないということです。世界は1世代の間に貧困から解放された世界を現実のものにするのに必要な物資、天然資源、ノウハウ、人材を持っています。これは漠然とした理想主義ではなく、実際的で運営的に達成可能な目標なのです」と述べている。つまり進歩の平等な分配は可能なのである。
  対外的には援助を惜しまない援助大国日本ではあるが、実際は国内でも登校拒否や人間関係の希薄など様々な問題が山積している。今回のように顔と顔の見える国際協力を行うことが、その両方を好転させる良いチャンスではないだろうか。

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