思考と習慣と

おかげさまで、本誌に連載を書かせていただくようになって、公務員や教職員のみなさまから、講演などに呼んでいただく機会が増えた。
私は大学の教員でもあるので、学生が初等中等教育でどのような過程を経て私たちの前に来ているのかも気になる。
このため、できるだけ教職員組合からのご依頼もお受けするようにはしてきている。
ただ正直に言って、少々緊張する。
なぜなら私は、とてもではないが「学校の先生」に高評価されるような生徒ではなかったからだ。
集団行動自体がまったく駄目で、小学校どころか幼稚園に入ったその日から、先生方の頭痛の種だったように思う。
まず、「園庭に並べない子ども」であった。
幼稚園児はみな紺色の制服を着ていて、今思えば可愛らしいものだったが、当時私はこれが恐かった。なぜか分からないが、「同じ格好をした人が、同じ姿勢で並んでいる」ということが恐くてならなかったのである。
このため、整列させられると腹痛を起こすという情けない有様だった。
何度整列中に腹痛を起こしてしゃがみこみ、正露丸を与えられたか分からない。無理矢理並ばせられたはいいが、恐怖で頭が沸騰してきて、鼻血を流して倒れてしまったこともある。
帰宅時には送迎バスを待つため、並ばせられるのだが、毎日が恐怖とのたたかいであった。耐えかねて、幼児たちの列が消えるまでひたすら隠れていたら、当然バスには乗り遅れた。
まだ暢気な時勢で、点呼もいい加減だったのか。
母は予定のバスに私が乗っていないのに気づき慌てて幼稚園に電話を入れ、教員のみなさまが園内を探し回り、ようやくホールの机の下などに隠れている私を発見し、園長先生の車で帰ってくる……、などということはしょっちゅうだった。
小学校に入ると、この「集団生活不適応症」ともいうべき駄目気質はさらに磨きがかかり、常に周囲の子どもたちから外れた行動を取っていた。
さぞかし、担任の先生には扱いづらい子どもであっただろうことは、想像に難くない。
今どきの学生には、「私はコミュ障(人と上手くコミュニケーションをとるのが苦手)なんです」などと言う人も多いのだが、あえて言おう。
自覚があるだけ、私の子ども時代よりは百万倍マシである、と。
思い返せば、とにかく人と接することが苦手で、以前本連載にも書いたが、小中学生のころは、いつも本ばかり読んできた。
毎日図書館で借りられる上限の2冊を借りて、読んで、翌日返す日々で、将来なりたい職業などについてのさしたる夢もなく、ただぼんやりと「ずっと本を読んだり文章を書いたりして、極力人と関わらずに生きていかれたらいいな……」などと考えていた。
うん。駄目過ぎだ。
親からも先生からも、「なぜ普通にできないのか」とか、えんえんと言われ続けたし、自分でもえんえんと「本当になんでだろう?」と考え続けていた。
普通とは、何か。
普通の人は、この属する社会の中で「普通の行為=その社会の要求する適正な行為」を「自然に」行えるものらしい。
なぜ人は、いちいち考えたり引っかかったりせずに、「普通の行為」を難なく行えているのか(少なくとも、子ども時代の私には、自分以外の人間はすべて超人に見えた)。
その後ミシェル・フーコーが論じた「身体へ加えられる規律・訓練(ディシプリン)」という概念を読み、ようやく腑に落ちた。
通常人は、たとえば学校などの社会性を身につけるべき空間で、社会が要請する規律・訓練を内面化していく。
それはやがてとくに意識されることもなくなり、多くの人は、社会の中で問題なく振る舞うことができるようになるのだ。
そうであるならば、社会とは人間が内面化し、身体化した「習慣の総体」にほかならない。
本来この社会とは、理念としては「自立した個人が、自由意思で参加を決定する」はずのものだが、多くは決定以前に習慣化されているのだろう。
学校とは、子どもたちに思考させる場というよりも、習慣を身体化させるための場なのだろうか。
私ももはや義務教育を受けた時期のことは遠い昔のことになり、すっかり忘れてしまっていた。
だが息子が小学校に上がったころから、再びこんなことを考えさせられるようになった。
私は学校生活がとにかく苦手だったので、息子にはもう少し社会性を身につけ、陽の当たる道を歩んでほしい……と願っていたが、そうは問屋が卸さなかった。
息子もまた、集団行動が苦手で、興味があることしかしようとしない。
マイペースで好きな図鑑ばかり読み漁る、オタク気質な方向にすくすくと育ってしまった。
1~2年生のころは、息子がいかに集団行動がとれないかに関する報告がびっしり書かれた連絡帳を開くのが、大変に恐ろしかった。
読む度に、授業中に立ち歩かない、お友達と仲良くしなさい……と、こんこんと子どもに言い聞かせたが、正直「おまえが言うな」と、自分で自分にツッコミを入れたくなる日々である。
因果応報、私の母が私に手を焼いていたのも無理はない。
ただ2年生のあるとき、息子が言ったことが、引っかかった。
いつものように、悪さをして怒られたという息子が、いつも以上に納得がいかない顔をして、
「すぐに謝りなさい、って怒られたんだよ」
と言う。何をしたの?
と聞くと、
「何で怒られたのかよく分からないから、とにかく先生が何で怒っているのか説明を聞いて、先生が言っていることが正当なことなのかどうかちゃんと考えてから謝ろうと思って、一生懸命先生の話を聞いていたら、『黙ってないで、すぐに謝りなさい』って怒られたんだよ」
と言う。
たぶん先生から見たら、息子は注意せずにはおかれないほどの悪さを働いたのだろう。
ただ息子と同様、集団行動にピントが合いにくい子ども時代を送った私には、分かる。息子は本当に、なぜ先生に怒られているのかが、理解できなかったのだと思う。
ただ理解しようと思って一生懸命聞いていたのは、本当だろう。さらに、息子は言った。
「先生が言っていることの意味を何も考えないで、ただすぐにごめんなさいって言うのは、全然謝ってることにならないんじゃないかなあ」と。
考えてみたら、息子には、いつも自分の頭で考えることの大切さは説いて来たつもりだった。
息子のこの姿勢は、大切にしてあげたいとは思う。
ただ、これを貫くには、世の中の常識に沿って、自分の考えを相手に分かるように、説明する技術を身につける必要がある。
「先生には、そう言ったの?」
「聞いてくれなかった」
「聞いてくれるように、ちゃんと説明できるようになろうね」
そう言ったが、息子はまだ納得がいかないらしかった。
ふと、思う。世の小学校の先生は、こういう息子のような扱いにくい子どもたちに、普段どのように接しているのだろうか。かつて私も息子のように、いちいち考えなければ進めない厄介な性分だった。
そして私の親は、「とにかく先生に怒られるということは、おまえが悪い。先生に謝りなさい」の一辺倒だった。
今は時代が変わり、今度は教師に対する信頼感もかつてに比べ失墜しているようである。
子どもたちへの処遇に対し、学校や教師に反発する保護者も少なくないと聞く。
教育現場では、いわゆる「モンスターペアレント」問題も、深刻化が指摘される。
思うに、教師の聖職化も、モンスターペアレント問題も、「思考停止」という極点では、一致しているのではないのか。
相手の言葉の意味を考えずに従うことも、同様に考えずに反発することも、コインの表裏が場合に応じてひっくり返り合うだけで、そこには対話的理性や想像力が欠乏しているように思える。
昨今、教育改革の議論が喧しい。
新しい時代に即応した人材を養成すべし、との要請も多々ある。だが、上述した「乏しさ」の解消は、なされ得るのだろうか。
疑問は尽きない。

詩人・社会学者 水無田 気流
早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程単位取得満期退学。國學院大學経済学部教授。著書に『シングルマザーの貧困』(光文社新書)、『「居場所」のない男、「時間」がない女』(日本経済新聞出版社)ほか。最新刊で上野千鶴子との対談「非婚ですが、それが何か! ? 結婚リスク時代を生きる」がビジネス社から絶賛発売中。
自治労のFacebook公式アカウントにいいね!
自治労のtwitterアカウントをフォローする
@jichiro_hodoさんをフォロー