【論文】

第38回地方自治研究全国集会
第2分科会 「ラッセーラー」だけじゃない 地域に根付いたねぶた(祭り)

 過疎化の進む大分県豊後高田市では、昭和をテーマにした観光まちづくりにより衰退する商店街の振興が図られた。今では年間40万人が訪れ、地方都市再生の成功例として注目される「昭和の町」であるが、本稿ではこの取り組みについて概観した後、その成功の要因や今後の課題について考察する。



地域資源を活かした観光による振興
―― 豊後高田市における「昭和の町」の取り組み ――

福岡県本部/九州大学 橋永 拓樹、松崎 純奈、松崎 太地、羽根田涼子、田川  優

1. はじめに

(1) 問題意識
 日本は、「人口減少・超高齢社会」の危機に直面している。「国立社会保障・人口問題研究所の推計では、2060年の総人口は約8,700万人まで減少し、高齢化率は将来的に41%程度まで上昇する。こうした傾向は地方部でより顕著であり、東京圏をはじめとした都市部への過度の人口移動も相まって、中山間地域では集落の維持・存続すら危ぶまれる状況にある」(小林2015)。
 近年、そのような地域における「観光」による振興が注目されている。政府も「まち・ひと・しごと創生基本方針2019」において、「地方にしごとをつくり安心して働けるようにする、これを支える人材を育て活かす」の項目で、「観光地域づくり・ブランディング等の推進」を挙げている。ここでは、地方創生のために地域の個性を活かした魅力ある観光地づくりが求められている。
 そのような観光地づくりの特徴と成功に至る背景を探るため、本稿では、豊後高田市の「昭和の町」の取り組みを取りあげる。これは、衰退していた商店街を昭和30年代の街として再現し観光地化した結果、毎年30万人以上の観光客が訪れることとなった取り組みである。 また、豊後高田市には、地域の個性を活かしながら地域力を向上させる必要条件として『産業』『観光』『定住』に注力するという大方針がある。その中でも「昭和の町」は特に観光振興や産業活性化に関わる取り組みとして位置づけられている。
 「昭和の町」は、商店街・地域のマーケティング、社会起業家の役割、交付金の活用、町並み創出などといった観点からも注目されているが、本稿では観光まちづくりに注目して「昭和の町」を分析していく。

(2) 「昭和の町」の概要
 今回取り上げる「昭和の町」は大分県の豊後高田市に存在する。大分県北部、国東半島の西側に位置する豊後高田市は、総面積206.24km2、人口22,668人、高齢化率38%(注1)、豊かな自然と豊富な歴史文化などの地域資源を持つ。その中心市街地、全長550mの商店街は、「昭和の町」として「昭和30年代」の町並みを再現している。昭和の風情漂うまちとそこに住む人々の生活が、独自の魅力をもって外部から人を呼び、現在では年間30万人を超える観光客で賑わいを見せる。
 このまちづくりの動きは、当初中心商店街の活性化を目的に動き始めた。かつて豊後高田の中心商店街は衰退が進み、2000年頃には「犬と猫しか通らない」と揶揄されていた。1992年にこの状況を憂いた豊後高田市商工会議所は、外部コンサルタントに商店街振興の構想作成の依頼を行う。これを契機として、若手を中心とした商店主、商工会議所職員や市職員の間で中心商店街活性化に向けた議論が行われるようになったのが始まりである。「まちならではの個性を活かす」まちづくりを行うという方針を打ち出し、商店街が最も栄えた「昭和30年代」をテーマの下、10年近い時をかけて町の改修を行い、2001年に「昭和の町」はオープンした。年々観光客が増加する中で理解者を増やし続け、空き地や空き家を利用した観光施設の建設や、新たな事業とそれに伴う雇用により、観光による地域の活性化も促している。
 「昭和の町」では「建築再生」「歴史再生」「商業再生」「商人再生」という4つの再生を掲げ、当時の建築の再現やお店に伝わる珍しい道具の展示、自慢の商品の販売、客と店主が会話をする商いなどに取り組んできた。
 現在「昭和の町」では、観光施設としては昭和10年代の米蔵を再利用し建築された「昭和ロマン蔵(注2)」がある。内部に駄菓子屋のおもちゃ展示施設「駄菓子屋の夢博物館」、昭和の時代の体験施設「昭和の夢三丁目館」などの昭和の時代を懐かしむ施設が複数入っており、他の観光施設の中でも「昭和の町」を代表するものである。また、独自の観光ガイド「ご案内人(注3)」が「昭和の町」の人気に一役買っている。「昭和の町」で生きてきた人々による案内は、昭和の時代を観光客がより感じることができる他、観光客の滞在時間が伸びるという効果もあげている。その他にもボンネットバスでのバスガイドなど、観光客を惹きつける仕掛けがなされている。これらの取り組みは、現在は2005年に第三セクター方式で設置された「豊後高田市観光まちづくり株式会社」に引き継がれ経営されている。
 以下はこの「昭和の町」の事例から、「観光まちづくり」視点でまちづくりについての知見を得ようとするものである。

2. 「昭和の町」の分析に当たって

(1) 分析の視点
 本稿では、まず、豊後高田市の「昭和の町」の取り組みを整理した上で、知見を得るため、国土交通省における「観光まちづくり」のための「5つの着眼点」を参考にする。そもそも「観光まちづくり」とは、「まちに根ざした創発人材が、上述の土壌づくりに継続的に取り組んでいくことによって、遠くからも人が訪れ、小さな経済活動が活発化し、ひいては空き地や空き家などが活用されるなど、地域の活性化と生活の質の向上に資すること」とされる(国土交通省都市局都市政策課2016)。そして、「5つの着眼点」とは、(ア)「外からの視点/都市全体を見渡す視点」~地域資源・既存資産を活用する~、(イ)「担い手」~創発人材が中で変化を起こし続ける~、(ウ)「ビジョン」~内外の人を惹きつける、ありたい姿を掲げる~、(エ)「民間資金・ノウハウ」~事業性を確保し、持続可能な活動を目指す~、(オ)「仲間」~共通する課題を持つ仲間を見つけ協働する~、である(国土交通省都市局都市政策課2016)。以下、5つの着眼点を踏まえて、「昭和の町」の取り組みを分析する。第一に、「昭和の町」誕生の経緯をわかりやすく整理するため、上記5つの着眼点を(イ)「担い手」・(オ)「仲間」、(ア)「外からの視点/都市全体を見渡す視点」、(ウ)「ビジョン」、(エ)「民間資金・ノウハウ」の順に分析する。第二に、(イ)「担い手」と(オ)「仲間」は、「昭和の町」に関わる人々という点で内容が重なってしまうため、まとめて論じる。

5つの着眼点のイメージ図(国土交通省「観光まちづくりガイドライン」を参考に作成)
(2) 分 析
① (イ)「担い手」・(オ)「仲間」
 自治体が「観光まちづくり」を推進する上では、まちに根ざした創発人材の発掘が不可欠である。また共通する課題を持つ仲間を見つけ協働することも重要とされる。豊後高田「昭和の町」ではどのような経緯を辿って創発人材が現れ、協働し、どのようにサポートし合っていたのか見ていく。
 1992年の大規模再開発失敗を受けて、商店街の店主、商工会議所の若手職員を含む4人が自分たちの商店街の特徴を活かした商店街の未来について議論をはじめ、大規模店ができる前の懐かしき、「昭和30年代」をテーマとした商店街再生をめざした。その実現に向け「昭和の町再生会議」が立ち上げられた。これは商工会議所まちづくり協議会の一つの部会にあたる。このように同じ考えのメンバーが増え、資料収集、視察を重ね、会議や勉強会を繰り返し、市民レベルでのまちづくりへの見識を深められた。ここにはやがて市職員や大分県職員も、オブザーバーとして参加していった。
 1998年、若手を中心に構想が実現にむけて動き始める。この年に、商工労働観光部長を経験した市長が就任したことをうけて、商工会議所や商店主、工業関係の若手社長たちは商店街再生構想への支援を市長に求めた。その結果、市長は「昭和の町」による商店街再生への取り組みを決断した。これにより市の職員はボランティアとしてではなく、職務として「昭和の町」の活動に参画できるようになった。2005年、市長は、「昭和の町」のマネジメント組織として、第三セクターによるまちづくり会社の設立を決断した。
 以上、「担い手」の観点から見た「昭和の町」の経緯である。これにより、以下の知見が得られた。
 第一に、自らのまちの課題に対して、当事者意識をもち、主体的に課題を解決しようとする、地元に根差した人材の存在である。今や年間40万人が訪れる「昭和の町」は、地元愛から商店街の現状に問題意識をもった4人の若者の動きから始まった。このような地元に根差した創発人材は地域の一課題を解決するのに重要なキーパーソンになることは言うまでもないだろう。
 第二に、行政の積極的なバックアップである。1998年に就任した市長は、県の商工労働観光部長を経験した背景から、「昭和の町再生会議」への理解があった。そのこともあり、住民に比べ多くのリソースをもっている行政が、地域の内側から起こった小さな動きの目を潰すのでなく、人員、資金、知見を与えることで視野を拡げ、発展させたことは「昭和の町」成功の一要因になったのではないか。このように「観光まちづくり」において住民の活動を積極的に支援する行政の役割は非常に重要である。
 第三に、同じ問題意識をもった各主体に対して、適切な役割分担を行えたことである。強い問題意識をもった、少数の地元の若者たちから地域の様々な職種の人々へと問題意識の輪が広がり、適切な役割分担をしながら様々な主体が関わっていった。要因が絡み合った複雑な問題を解決するためには役割分担は欠かせない。
 しかしながら、継続して地域主体でまちを盛り上げるためには、人材の発掘、育成は不可欠である。まちにムーブメントを起こすキーパーソンの発掘の場の欠如、発掘したキーパーソンが周囲を巻き込むためのシステムを構築できていないことなどは課題として挙げられる。
② (ア)「外からの視点/都市全体を見渡す視点」
 観光まちづくりを進めていく上では、地域資源・既存資産など地域の価値を発見し、その価値の質を高めていくことが重要な項目の一つとなっている。そのためには、まず、地域を「外からの視点」で見つめなおすことが必要である。なぜなら、地域住民にとって、住み慣れた地域だからこそ、先入観や長年の慣習が邪魔をし、自力での価値発掘が容易ではないからである。
 そして次に、周囲の資産を丁寧に見直すことで、独自の価値を追求し質を高め、その資産を都市全体で生かす「都市全体を見渡す視点」も必要となる。独自の資源を生かす取り組みを都市全体で行うことで、外部から人を呼び込むことができる。ただ、本事例においては、「昭和の町」の取り組みが都市よりも狭い地域内から始まったため、都市全体ではなく、「地域全体を見渡す視点」という風に捉えなおしたい。よって、「外からの視点」「地域全体を見渡す視点」の二つの着眼点から「昭和の町」始まりの経緯を見ていきたい。(なお以下の経緯については主に金谷氏(2014:37-44)の文献を基に整理したものである。)当初、豊後高田市の商工会議所は、一際衰退していた商店街を復興させようと、地域外の大手広告代理店に商店街活性化構想の作成を依頼した。予算1,000万円を費やし、1年がかりで「豊後高田市商業活性化構想」を完成させた。それは、「空き地にスポーツセンターや文化センターを建てる」「商店街は取り壊し、新たに大規模商業施設を建設し、商店はそこへと引っ越す」、といった内容であった。
 この構想に対し、表向きは賛成の声も多かった。しかし、実際に一人ひとり話を聞けば、「一体誰が作るのか」と疑問の声が上がっていた(金谷2014:39-40)。結果的に誰も構想実現に向けて立ち上がることはなく、あっという間にお蔵入りとなってしまった。
 一方で、この失敗は人々のまちづくりへの関心や熱意を引き出すきっかけにもなった。そして、若手の商店街関係者や市職員など20人ほどが集まり、新たなまちづくりに向けて動き始めた。
 有志メンバーは、時代が大都会へ流れていく中、それに逆らうためには地域独自の個性が必要であるとし、まずはその個性を炙り出すことから始めた。具体的には、町の古地図を持ち出し、町の歴史の調査を行った。その過程で、江戸時代には城下町であったこと、近代における大分一の大金持ちによる建物があること等がわかった。しかし、他の都市にはない唯一の個性を追求しようと調査は続けられた。元商工会議所職員の金谷俊樹さんはプランニングの中で最も苦しかったのはこの作業であったと後に語っている。
 「人が住んできて個性がないなどありえない」と調査は進められたが、唯一無二の個性を見つけるのは容易くなく、徐々に人も減り、もう諦めるべきかという意見も出始めていた。そんな中、かつて豊後高田が国東半島の商業拠点として栄えていた昭和30年代に光が当たる。江戸時代など古い時代だけを歴史と言うのではない、その時代を生きた自分たちがまちづくりをすることは唯一無二の個性になるのではないかと、「昭和30年代」がまちづくりのテーマの候補となった。調査開始から5年のことである。
 そして豊後高田のまちづくりは次の段階に移る。本当に「昭和30年代」というテーマに沿ったまちづくりに踏み切って良いか、その根拠を求め、調査を開始したのだ。調査は地域内外に向けて行われた。地域内に対しては、商店街の301店舗全ての歴史と建物の実態調査を行い、更に店にまつわるエピソードや資料も丁寧に調べ上げた。また、地域外に対しては、テレビや新聞、雑誌から、全国の昭和レトロに関するコンテンツ300件を洗い出し、その中でも比較的注目度の高かった100件を手分けして訪ねて回った。外部への調査を開始したのは、博報堂のトレンド予測でニアレトロが発表されるなど、昭和レトロが流行り始めの頃であった。
 結果、地域内の調査からは個々の商店のエピソードが豊富であることがわかり、「昭和30年代」というテーマの質を高めることに成功した。また、地域外の調査からは、現地で昭和レトロが盛り上がりを見せていることを肌で感じ、近く昭和ブームが日本を覆うだろうという確信を得ることができた。そこで、漸く「昭和30年代」がまちづくりのテーマに決定した。
 以上が「外からの視点」「地域全体を見渡す視点」の観点から見た「昭和の町」の始まりの経緯である。これにより、以下の知見が得られた。
 第一に、「外からの視点」は単に取り入れればいいというわけではなく、地域の実情を踏まえていなければならないということだ。構想作成には大手広告代理店という「外からの視点」を取り入れてはいたものの、その内容がバブル崩壊後の豊後高田市の財政規模や地域特性を無視したものであった(注4)ために、住民たちの当事者意識が芽生えず、構想実現に向けて立ち上がる人が現れないまま失敗という結果になってしまった。
 第二に、「昭和30年代」というテーマ発掘において、「外からの視点」を取り入れなかった豊後高田では、妥協しない丁寧な調査が、独自性の追求、その質の向上を可能にしたということである。この過程は、現在多くの観光客を呼び、豊後高田一帯を巻き込む力を持った「昭和の町」のように力強いテーマを探る他の地域にとって、一つの方法を提示するものになるのではないだろうか。
③ (ウ)「ビジョン」
「観光まちづくり」では、関係者が自らの責任で実現したいと考えている「ありたい姿」と、都市全体のビジョンとの関係を明確にすることで、その実現に向けて、関係者が連携し協働できる仕組みが生まれると考えられている。「昭和の町」ではどのようなビジョンが設定されているのだろうか。
 前述したように、「昭和の町」の取り組みでは昭和30年代というテーマを設定してまちづくりを始めた。その結果、2011年には年間観光客数が40万人を突破し、また商店街の売り場面積・従業員数の減少に一定の歯止めがかかるなどの成果が得られた。
 しかし「昭和の町」に取り組んだ最大の理由は経済効果ではなく、「住んでいい、訪れていい町づくり」や「市民が"自分の住んでいる町"に誇りをもてるようになること」であった。その手段として中心市街地の活性化、「昭和の町」の取り組みが必要だったとまちづくり株式会社の野田社長は言う(佐保2016)。この点につき「昭和の町」が商店街として本当に再生するためには、地元の人たちが商店街に帰ってきた時であると考えている。「観光客と地元の買い物客の両者が、商店街に"行きたい""楽しい"と感じるような商店街をめざしていく必要がある」との指摘もある(佐々木2004)。
 「昭和の町」の取り組みは単なる観光・商業活性化政策に留まらず、地域住人と観光客との両方にとって親しみやすいまちづくりを行っていくためのものなのである。
 しかし一方で、市の中心市街地活性化基本計画では地元客の商店街利用の低下が懸念材料として挙げられており、住民にとって魅力的なまちづくりができていないのではないかという点が課題の一つとなっている(豊後高田市2012:62)。
 また市のアンケート調査によると、市民ニーズについて中心市街地の魅力向上のために重要だと思うことについてみると、一般市民では、『病院や福祉施設などが集まった「高齢者、障がい者が住みやすいまちづくり」』、『病院や保育施設などが集まった「子育てしやすいまちづくり」』、『快適な都市環境(まち並み、公園、河川等)が整備された「きれいなまちづくり」』が上位3つを占めており、市民は福祉やインフラ整備を求めているということが分かる(豊後高田市2012:60)。
 以上のように、「昭和の町」は商業・観光を越えて「住んでいい、訪れていい町づくり」という大きなビジョンを目標としている。しかしながら、市民のニーズは別の場所にあるという事実もあり、「昭和の町」の取り組みがそのビジョンにどれほど合致しているのか精査する必要があるように思われる。「昭和の町」のような小さな商店街でまちづくりを行う際にはオーバーツーリズムにも留意しなければいけないだろう。
④ (エ)民間資金・ノウハウ
 「観光まちづくり」の持続性を高めるためには、まちづくり活動が公的資金に過度に依存することなく実施されることが重要である。そこで本章では、「昭和の町」の取り組みを民間資金・ノウハウという観点から分析していく。
 「昭和の町」において、民間の力を活かす存在としては、まちづくり株式会社が挙げられる。
 2001年にオープンした「昭和の町」では、2003年度に観光入込客数が20万人を超えた。しかし、もともと商店の有志と商工会議所でスタートした事業のため、問い合わせなどほとんどの窓口業務が商工会議所に集中した。このため、2003年、2004年には、商工会議所の職員は商工会議所の業務に一切手を付けられない状況になった。またチラシ等にかかる費用を補助金で賄えなくなるなど、諸経費の問題も浮上した。
 これらの課題に対して市は、「協議会でも組合でも形式は何でもいいから、商業者で『昭和の町』の取り組みを行う組織を立ち上げて管理・運営して欲しい」という要望をしてきた。観光客が増えることで同時に増える業務は、その組織で担うのが理想的だと考えての事だった。しかし、商工会議所にも商店主たちにも組織を立ち上げる余裕はなく、最終的に、市長が第三セクターによるまちづくり会社の設立を決断した。
 そして2005年11月、「豊後高田市観光まちづくり株式会社」が設立された。このまちづくり会社は市から5,000万円、商工会議所から500万円、金融機関から2,000万円、一般株主から2,000万円の出資で、資本金9,500万円でスタートした。社長には商工会議所の副会頭が就任し、民間企業の考え方を取り入れて「昭和の町」の取り組みがマネジメントされることとなった。
 このまちづくり会社の設立によって、商工会議所が行っていた「昭和の町」の業務や昭和ロマン蔵の運営は、まちづくり会社が引き継いだ。また、これまで豊後高田市は観光の営業活動をしていなかったが、現在、まちづくり会社が主に岡山県辺りから九州までの旅行会社への営業も行い、観光客や旅行会社のニーズに応える形で新たに事業展開ができるよう企画づくりを行っている。
 まちづくり会社の社長は「観光客が20万人から30万人に増えてお金がかかるようになっているところに、予算主義では絶対に対応できるはずがない。また、お客がたくさん来ている時には営業活動を抑えて、別のところにお金を使うということもある。これも予算主義ではできない」、「稼いだら使えるという発想が行政にはないですから」と語っている。また、「観光は営業しないと、お金にならないんです。行政だったらずっと補助金を使うことになる。これを、まちづくり会社で収益を上げて、次に投資していける仕組みを作ろうと考えている」とも語っている(総務省2009)。
 以上のように、「昭和の町」では公的資金からの自立をめざして、まちづくり株式会社による運営が行われている。まちづくり株式会社が健全な経営を行えているかについてはさらなる分析が必要であり、また第三セクターという手法自体の課題も存在するが、地域振興に伴う観光需要の増加への対策として、マネジメントを行う会社設立が必要になる場合もあるのではないだろうか。

3. おわりに

 以上、豊後高田市における「観光まちづくり」の経緯を5つの視点から見てきた。そのプロセスでは、地域住民に当事者意識を呼び起こし、ともすれば取り壊されかねなかった商店街を粘り強い調査によって、観光資源に昇華することができた。
 しかし、住民側の努力だけではまちづくりはなしえない。行政が彼らの活動に理解を示し、支援したからこそ「昭和の町」の取り組みは成功したと考えられる。両者が役割分担を行い、それぞれの強みを生かしていくことが「観光まちづくり」には必要である。
 最終的に何をめざすのか、という観点からは「昭和の町」では最終的なビジョンは掲げられているものの、住民ニーズとの乖離が懸念される。住民と観光客との利益調整がまちづくりの中で課題になり得ることが明らかになったのではないだろうか。
 「昭和の町」の取り組みはまちづくり会社の設立によって、民間的手法によるマネジメントの段階に入った。そして現在まちづくり会社を中心として、地域外との連携による地域全体で協働したまちづくりをめざし始めている。一方でマネジメントにはまだ不安がある他、今後を担う人材育成などについては課題が見受けられる。
 全国的に観光による振興を推進する地域は数多く存在している。他の地域が豊後高田のやり方に沿って「観光まちづくり」を進めても、必ずしも成功するというわけではない。しかし、豊後高田の事例における失敗と成功、その要因や背景を知っておくことで、課題に直面した際に、その解決の糸口を探る一つの足掛かりになるはずである。
◯参考文献
・金谷俊樹(2014)「豊後高田『昭和の町』物語 ―― 犬猫商店街に奇跡が起こった」『地域と経済第7号』、 大分大学経済学部地域経済研究センター
・国土交通省 都市局 都市政策課(2016)「観光まちづくりガイドライン」
(http://www.mlit.go.jp/toshi/kanko-machi/pdf/hontai.pdf)
・小林味愛(2015)「地方創生のための観光まちづくり (1)眠れる宝の発掘」日本総研
・佐々木真治(2004)「豊後高田『昭和の町』づくりについて~商業と観光の一体的な振興をめざして~」『日本不動産学会誌/第18巻 第2号』
・佐保圭(2016)「第3回 大分県豊後高田市 ――『昭和の町』は3つの戦略の1つ」新・公民連携最前線
・総務省(2009)「商業と観光の一体化による中心市街地の再生 ――『昭和の町』(大分県豊後高田市)」『平成20年度優良事例集』
・内閣官房まち・ひと・しごと創生本部事務局、内閣府地方創生推進事務局(2019)「まち・ひと・しごと創生基本方針 2019」
・豊後高田市(2012)「第2期豊後高田市中心市街地活性化基本計画」(2016年11月29日改訂版)
(https://www.city.bungotakada.oita.jp/js/finder/upload/files/freepage/kikaku/kikaku4/%EF%BC%88%E5%85%A8%E4%BD%93%EF%BC%89%E7%AC%AC%EF%BC%92%E6%9C%9F%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%BF%83%E5%B8%82%E8%A1%97%E5%9C%B0%E6%B4%BB%E6%80%A7%E5%8C%96%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E8%A8%88%E7%94%BB%EF%BC%88%EF%BC%A828.11.29.pdf)
(URLは最終アクセス2019年10月11日)



(注1) 2019年4月末時点(豊後高田市「住民基本台帳/世帯数」〈https://www.city.bungotakada.oita.jp/page/page_01507.html〉より)
(注2) 明治から昭和にかけて大分県切手の豪商であった野村家の倉庫(昭和10年代頃建築)を改造し、「昭和の町」のランドマーク(中核施設)として建設、2002年にオープンした。内部には昭和を思い起こす展示が複数用意されている。中でも「駄菓子屋夢博物館」は日本一の駄菓子屋のおもちゃコレクターである小宮裕宣氏を館長として福岡県太宰府市から招き、コレクターの考えに基づき運営されていることが特徴的である(豊後高田市HP参考)。
(注3) 「昭和の町」独自のガイドとして活躍している。「昭和の町」では各店に残る昭和の資料や、伝統の品を「一店一宝」、「一店一品」の考えに基づき店舗ごとに並べている。知識紋切り型のガイドではなく、交流型のガイドによって昭和の商人のエピソードとともにそれらを紹介する「ご案内人」は「昭和の町」を代表する取り組みの一つである(豊後高田市HP参考)。
(注4) 平成初期、全国各地でも同様の活性化構想が作られていたが、そのほとんどが地域の実情を踏まえず、大型商業施設やスポーツ施設、コミュニティーホールの建設等バブル期特有の内容を盛り込み、芋版のように作成したものであった(和田2008:3)。