【自主レポート】

第38回地方自治研究全国集会
第9分科会 「やっぱはまりで、ぬぐだまる」(津軽弁)

 2020年自治研集会をパネルディスカッション方式で企画したが新型コロナ感染拡大により断念、せめてもの思いからパネラーを集め「災害ボランティアを考える誌上座談会」を開催した。直後に襲われた、2020年九州豪雨災害と自身が2017年9~11月に市職労委員長として経験した2017年台風18号災害をもとに、ボラセンを運営する社協と自治体のあり方について



泥だしには土嚢袋を使わない
―― 朝倉方式は津久見方式・2017年台風18号の経験から ――

大分県本部/自治研推進委員会・推進委員長・県本部副委員長 江藤 智章

1. 誌上座談会

 7月17日に竹田市・豊後大野市で予定していた「地方自治研究大分県集会」は、本番にむけた各専門部会の開催が4~5月の新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言発令等によりかなわず、やむなく今年度の開催を見送ることとなりました。全体集会では「災害ボランティアを考えるシンポジウム パネルディスカッション」を企画したものの断念、せめてもの思いから快く返事を頂いていたコーディネーターとパネラー5人の皆さんと誌上座談会を開いたのは、2020年7月豪雨災害、熊本での豪雨が発生した前日の7月3日、一日でも遅ければ、誌上座談会すら開催できない状況でした。大分県内では7月6~8日にかけて日田、玖珠、九重、由布などで河川の氾濫、床上・床下浸水、土砂崩れなどの被害が発生し、結果的にコロナ禍に加えて豪雨災害と2020自治研大分県集会(2020年7月17~18日、竹田市・豊後大野市)は開催に至らない運命だったということです。
 7月4日朝、ホテルの朝食会場で会った誌上座談会パネラーの一人である「松永鎌矢」さん、日田市在住で「NPO法人リエラ」の代表である彼は、災害ボランティア経験の豊富な方で「準備をして状況確認のために人吉に行ってみようと思います」とテレビで流れる被災の状況に目をやりながら私に語りました。ご承知の通り、この後の7月6日から8日にかけて日田、玖珠、九重、由布など、大分県内でも豪雨被害が発生する前のことでした。
2020年7月3日 「災害ボランティアを考える誌上座談会」
大分合同新聞 松尾さん 竹田市副市長 野田さん
大分県社協 森さん 津久見市徳浦区長 織田さん
NPO法人リエラ代表 松永さん        

2. 2017年台風18号

 三年前の2017年「非常に強い」勢力となった台風18号は東シナ海を北上し、北東方向へ急カーブして進路を九州地方にむけ、9月17日、中心気圧975hPa、最大風速30m/sの勢力で、12時頃に垂水市付近に上陸しました。私の住む津久見市の東側を台風の中心が通過予定であったために、「雨はふるかもしれないが、風はそんなに吹かない、大丈夫だろう」と考えていましたが、災害対策本部の第2次要員として招集されたため17日日曜日の午前10時からいやいやながら原付に乗り市役所へ出勤しました。午前10~11時頃には激しく雨が打ち付け、その後一旦弱まった雨は、12時30分頃からさらに雨脚を強めました。そうこうしている、14時過ぎに津久見川が氾濫、あっという間に庁舎が浸水、あわてて一階フロアのパソコンのほか重要書類を二階へ運びました。電源を失う中で、コンパネなどを利用して庁舎に入った泥水をかき出し、自家用車が浸水し動かなくなった同僚を臼杵まで送り、帰宅したのは夜中の12時をまわっていました。18日翌日は敬老の日、朝から水に浸かった庁舎を拭き上げ、電源を喪失した一階フロアに明日からの証明事務にかかるシステムを復旧させるために業者とともに2階から電源を引き、住民票や税務証明など一か所に集めて何とか証明が渡せるよう整えました。
 住家・非住家・床上・床下浸水を合わせて1,835棟、市街中心部は一面の土色で泥だらけとなった津久見の町(2017年10月人口17,956人、8,289世帯)の復旧・復興のためには災害ボランティアセンターの開設が待たれます。19日朝は出勤したものの、パソコンも使えず仕事にもならないため、広報設備も不十分で混乱を極める中、断水したライフライン確保のために応援に駆け付けてくれた給水車(福岡市、大分市、日田市)対応の手伝いをしました。しかし広報機材の不足などにより私の担当した地区では給水車を頼る住民はまばら(要するに考える時間があった)で「自分には他にしなければならないことがあるのでは?」と自問自答、ボランティアセンター開設の準備を進める社会福祉協議会職員で市職労執行委員である「小野喬」へ連絡をいれたのはその夜でした。9月19日20:32「ボランティアの要請受付の見通しを分かる範囲で教えて いい時でいいよ」との送信に、同日20:35「とりあえず、実績つくるために、明日にいくつかのボランティア派遣できればと考えとるところです。」との返信、早速電話をした私は、「自治労の仲間は今か今かとボランティア派遣のために準備しているはずだから、明日朝から自分が社協に行くよ」と大見栄を切って、翌日の20日朝8時から社協へ行きました。
市役所前市営グラウンド 本館1階市民窓口
市役所玄関 自治労定期大会
「水、土嚢袋、マスクが不足しています
9月21日県本部定期大会
 私の市役所での業務である人権や交通安全などの啓発活動は、災害時一時的にストップします。私は、市職労委員長で職場はこの職場、加えて2002年社会福祉協議会に組合加入を呼びかけ活動を共にしてきたなど、偶然も重ってこの日から11月初旬まで私の勤務する先が社会福祉協議会「津久見市災害ボランティアセンター」へとなりました。
 翌朝、朝8時からのボラセンミーティングから参加しましたが、ボラセンの立ち上げに先頭に立ってマネージメントしていたのは県社協でした。ミーティング初日は、担当を確認・配置します。ボランティア保険加入、ボランティア参加者シールを配布する受付担当、注意事項のアナウンスと重機免許の有無、トラックの利用提供など資器材の確認をするオリエンテーション担当、資器材の貸与と在庫を管理する資器材担当、ボランティアニーズに対してボランティアを組み合わせるマッチング担当、受け付けられたニーズの状況を把握するために現地調査等を行うニーズ調査担当など、様々な役割について経験豊富な県社協の助言のもとに担当を決めていく作業です。ミーティングでは、私には資器材の担当をするように話がありましたが、私はお断りしました。生意気ですが、一つの場所にいても私の経験は生かされないと思ったからです。私は、自治労・市職労役員として、20年以上経験してきました。私ができることは、一日でも早く、より多くのボランティアに津久見に来てもらうために、何をするか、何ができるかを考え実行に移すことです。朝のミーティングでは、「私はフリーでお願いします」と勝手に宣言し、同級生で幼馴染の津久見社協事務局石田次長からは、「団体ボランティアとの受け入れ対応が手薄になるので担当してほしい」との依頼があったため、それについては快諾しました。私は、その日から私にしかできないことを模索することとなりました。
 早速その日の朝、社協の小野からは、「昼からプレでボランティアを被災住家に派遣したいので、人を集めて欲しい」とのこと、私は昨日の大見栄を後悔しつつもダメ元で親交のある単組へ午前9時頃から連絡、なんと その日の朝の電話にもかかわらず、昼から20人ほどが泥だらけの津久見にボランティアとして駆け付けてくれました。午前9時にダメもとで電話して、午後から3単組約20人が駆け付ける、私はこの時ほど日頃のつながり(飲んだ回数の多さ、無駄に肝臓を傷めてきたわけではありません)の深さを感じたときはありません。
 9月21日は自治労大分県本部定期大会でした。私の車は無事でしたが駐車場が泥につかりだせない、組合公用車は水没、仕方なく親父の農作業用ライトバンで大分市内までむかいました。津久見の窮状を発信するいい機会としてとらえ「ボランティアが足りない、土嚢袋と水とマスクも足りない、津久見を助けてほしい」と発言してそのままトンボ返りして津久見ボラセンに戻りました。……毎日出向くと、役割は見つかるものです。
9月20日13時30分由布市職 市職労事務所浸水
9月20日14時高洲町
竹田市職とろうきん職員
9月20日14時33分
高洲町 宇佐市職

3. ボラセンの車両をタダ(無料)で確保

 津久見社協の公用車は、社協前の駐車場が水没しそのほとんどが使用不能、わずかに残った公用車もシートの半分まで泥水に浸かり、カビのような泥のような独特のきつい匂いを発するシートにナイロン袋をかぶせ、いつエンジン停止してもおかしくない状況で使用していました。被災翌日の9月18日(祝)車屋とラーメン屋経営という珍しい苗字で同じ柔道部の同級生から、「ワンボックスとコンパクトカー持って行こうか? 市役所で使ったら?」とのLINE、要するに市役所公用車の殆どが水没したというニュースを見て、連絡をくれたのでした。私は、折り返し電話し、社協も水没していることから「市役所よりも社協に貸してくれ」と頼みました。ご承知の通り、役所で使用する場合は、順を踏んで手続きや説明が必要となります。例えば総務課などへ決済、損害保険への加入など、せっかくの好意で貸してくれる車両を使用できるまでのその労力と時間は計り知れません。私は、自分が社協のボラセンに来ていることを「くるま屋の同級生」に伝え、同じく幼なじみで同級生の社協事務局次長へ相談、損害保険の環境などを口頭確認して早速、ライトバンを持って来てもらうよう手配しました。結局、22日から無料で借りた車両は軽トラ2台、ライトバン2台、8人乗り乗用車2台の計6台(もっとあったかもしれません)以上に上り、ボラセンで大活躍したことはいうまでもありません。

25日 ボランティアセンター車輌確保
(社協の公用車 11台/11台水没)

4. NPO法人国際ボランティア学生協会(IVUSA)

 9月25日、「先ほどはお電話ありがとうございました。また、こちらの状況がはっきりしましたらご連絡をさせていただきます。」ivusaの担当深山さんから頂いたメールです。私が、同級生の社協事務局次長から「大阪から学生がバス2台で津久見に来てくれる。」として受け入れ対応を依頼されたのは被災直後で、私は、出番だと張り切っていたと記憶しています。しかし、なかなかその後連絡もなく、心配になって私がivusaの担当に電話をすると、「学生がなかなか集まらない」とのことでした。台風18号被災状況は、直後にキー局などで伝えられたものの、報道も少なく津久見の惨状は全国ではあまり知られていませんでした。何とか津久見を助けてほしい、その一心から、「津久見の惨状は私のFacebookで日記のように発信している。是非学生の皆さんに見てもらって、何とか助けてほしい」と深山さんに思いを伝えた後の返信メールです。その後、バス2台で津久見に来るとの連絡が入り、宿泊場所(蓮照寺と企業体育館)確保のための調整をしました。結果、このメールの4日後の9月29日にフェリーで神戸港から大分港に先遣隊8人が到着し、市内の状況を確認、私は学生に同行し、市役所総務課長に接見させ、市職労組合事務所も案内しました。この団体は、とにかく統率がとれ、印象がとても良い。先遣隊は本隊バスが到着するまでの間に、ボラセンから与えられたニーズを現地調査し、機材の準備、人員の配置などすべてを前もって確認し彼らが行いました。若い人が、被災地に行くとそれだけでも被災者は笑顔になります。何より、連絡担当の私に作業が始まって終わるまでの間、問い合わせなど一度も連絡が無かったこと、そのことがすべてを物語っています。

9月29日(金)11時
国際ボランティア学生協会Ivusa宿泊所
太平洋セメント体育館 蓮照寺

Ivusa津久見での活動終了
10月1日 16:30

5. NPO法人日本九援隊

 日本九援隊が入った江ノ浦地区は、被災当初交通網が寸断され孤立状態となり、地区長は行政に対しての怒りを抑えきれない状況にありました。9月21日のメールで「お世話になります。津久見の江藤です。よろしくお願いします」に対して隊長の肥後さんからは「こちらこそよろしくお願いします。私たちが入る予定の地区名を再度お願いします」このようなやり取りが始まりで、日本九援隊のみなさんは9月24日から日曜日の度に福岡駅を出発して計4回、駆け付けてくれました。9月22日、社協のニーズ調査担当とともに江ノ浦地区の状況確認のために面会し、団体のボランティアを入れるという説明と、区長には「ボランティアの皆さんが到着後すぐに作業にかかれるよう、前日の土曜日にスコップなどの機材をボラセンに取りに来ていただきたい」と団体ボランティア受け入れのための地区との調整を行いました。福岡からバスで、しかもこんな田舎に、というだけでも、地元住民は元気になります。しかも、隊員は泥だしのために床下に潜るなど地区住民では考えられない作業を無償でしてくれる。地区長の大西さんは一気に笑顔を取り戻し、行政に対する信頼回復にもつながったことはお察しのとおりです。
江ノ浦区長と日本九援隊 被災住民 徳浦区長 日本九援隊

24日(日)「日本九援隊」と徳浦住民

6. 9月は小学校運動会

 自治労・連合の仲間は被災3日後の9月20日午後から連日20人以上が被災地津久見に駆け付けてくれました。私は、市職労委員長として自治労を通じてボランティアに参加していただく皆さんのマッチングを担当するようになりました。被災は9月17日、私の居住する地区は、9月30日の運動会開催にむけた練習や準備の真っ最中にもかかわらず、校舎の一階が水没、グラウンドも泥だらけの悲惨な状況でした。ボラセン開設の21日から2日後の23日はあいにくの雨で、一般ボランティアの募集・受付を停止しているにもかかわらず、自治労の仲間が駆け付けてくれたため、私は堅徳小学校平川校長と調整してボランティアを学校に入れる判断をしました。それ以降、市内ではもう一つ、グラウンドが泥だらけとなった青江小学校校長とも調整し、少年野球チームや高校野球チームなど、急遽入った団体ボランティアのほとんどは、小学校のグラウンド復旧に入ってもらうこととなりました。本来であれば、市役所が業者と契約し、泥を除去した後に土の入れ替えなどを行うこととなり、小学校のグラウンドの泥だしはボランティアに頼るべきではありません。ましてや、ボランティアは住家の復旧を優先すべきです。しかし、結果的には相当な人数を学校へ投入しました。背景としての、ボラセン運営での避けては通れない課題は、ニーズとボランティア(マンパワー)のバランスの確保です。ニーズが挙がっていないのに、団体をはじめとする大勢のボランティアが予約なしに来ると、派遣先が無く、当日のボラセン受付、マッチング担当は大混乱となり、ボランティアの皆さんのイライラが増幅されます。大量の人数の受け入れ先があるとなると、そこが調整弁の役割を果たし、それが、津久見の場合は小学校グラウンド復旧ボランティアとなりました。時期はスポーツの秋ですから、スポーツ少年団なども練習をしたいが、市内の悲惨な状況を見ると、練習に気兼ねをしてしまう。したがって、ボランティアをすることで、練習をする心の整理ができる。ボラセンにとっても学校にとっても、スポーツ団体にとっても、プラスに働き、堅徳小は予定通り、青江小は1週間遅れで運動会を開催することができました。もちろん、そこには学校と地域の皆さんの笑顔であふれていました。

9月21日~9月25日までの5日間で

9月30日(土)堅徳小運動会

7. たらい回し ボラセンと行政の役割

 10月に入って、ボラセンのニーズ調査担当から相談がありました。「家のヨコの私有地に土嚢袋が山積みになっているのでボランティアでどけてほしい」との相談、「ボランティアセンターでは対応できませんので、市役所に相談してください」との説明をしたところ「さっき市役所に電話したら、ボラセンに連絡をしたら対応してくれますよ、との説明を受けての連絡でしているのになぜ対応できないのか」とのこと、要するに住民からしたら「たらい回し」です。津久見では、このような災害対応とボランティアセンター運営は初めてのことです。ボラセンの第一の役割は、住家被害の復旧です。人の住んでいる住家をまずは泥だしをして、その後は個人事業主など商店・商家、次に空き家や家の周りや庭などとなりますが、土嚢袋に入れた泥は基本的に行政が処理すべきものです。私は、市職労委員長という立場を使いながら、まずは電話対応をした課の管理職へ事実を伝え、また、災害対策本部を運営する総務課長へ電話し同じことが起こらないように徹底するよう伝えました。立場の弱い市社協からは、市の担当者に伝えることができても課長に直接電話は難しいことは、お察しのとおりです。社協の立場で立ち回り、ボラセンに勝手に押し掛けた意義を感じたエピソードでした。前述のとおり、社協は委託料を市から交付され、地区社協結成など地域づくりや高齢者見守り、障がい者自立支援などのそれぞれの自治体で特色のある事業運営を行っています。しかし、市役所は社協を民間事業者と公務的職場の両方の位置づけをご都合主義で捉え、ある時は民間と競合する事業に関して事業費を絞り、ある時は、市役所が手の届かない事業を押し付けるなど市役所に対して非常に弱い立場です。また、ボラセン開設は、社協が開設しなければならないという法律はありません。にもかかわらず、被災直後の市、社協ともに混乱状態の中で通常業務に加えて社協はボラセンを開設します。津久見ボラセンでは市職労委員長の私が加わったことにより、結果的に役所との対等関係がうまれました。このことは、偶然私が人権などの啓発担当であったことなどによるもので、例えば罹災証明発行の担当課などに配属されていれば叶わなかったことです。

ごみとふるさとの海

10月13日 高洲町

8. 泥だしに土嚢袋を使わない~朝倉方式は津久見方式~

 10月初め、朝倉から来てくれたボランティアの方と、作業終了後の夕方、立ち話となりました。その方は、その年、2017年7月の北部九州豪雨で朝倉の友人の家が被災して柱と屋根だけになった写真を私にみせながら「被災後の、朝倉では土嚢袋を配らないようにした。土嚢袋は使わなくても泥だしはできるし効果的、津久見でも土嚢袋は使わない方が効果も上がる」と力説しました。私はその話を聞いた時に理解するまで少し時間がかかりました。というのも、これまでの経験から泥や土砂は土嚢袋に入れて運ぶものという固定観念からでした。詳しく聞くと、スコップから一輪車(ボラセンではネコと呼ぶ)へそのまま積み、一輪車の泥は空き地などへ運びそのまま下ろし山を作っていく、作った山にはユンボとダンプを用意し、ダンプへ積む、ダンプへ積んだ泥はそのまま集積場へ持ち込みボタン一つで泥を下ろす。津久見では、市役所前の市営グラウンドが泥の集積場で、そこから、市外の処分場へ運ばれましたが、11月に入って市役所横の集積場から泥を運び出す際に大きなユンボ(パワーショベル)とダンプがきました。処分場に運ぶには、泥や土だけにしなければなりません。せっかく入れた土嚢袋の土は、ユンボで持ち上げ落とし、引っ掛けこすり、土嚢袋の大きな山から土嚢袋を取り出す作業をして、市庁舎のみならず、そこら辺の住宅街にも砂ぼこりを巻き上げながら作業をしていました。加えて、ボランティア作業では土嚢袋に入れるには手間がかかります。一人で土嚢袋にいれるには、底の空いた一斗缶を用意し土嚢袋に入れる。水分を含み重い土嚢袋を持ち上げて、一輪車で運ぶか持ち上げて人力で運ぶか、いずれにしても時間もかかり、力が必要で腰に大きな負担がかかります。スコップで取った泥をそのまま一輪車に積み、山にそのまま運び下せば、その負担とプロセスと時間が省略されます。要するに被災地で、泥は土嚢袋には入れるべきではない。朝倉から来たボランティアの方が教えてくれたのはそのことでした。早速、総務課防災担当と協議し、技術系災害支援団体である風組関東の小林直樹さんに講師依頼をして、市内の自治会長を集めて10月7日、「災害復興学習会」と称して学習会を開きました。学習会では住家の泥を出しただけで放置すると、断熱材の入った壁が湿気を帯び、カビが発生し、いずれ人体へ悪影響を与えること、オスバンなどの消毒液や消石灰の正しい使い方などの説明を受け、私からは「朝倉方式」と題して先ほどの泥だしの際の効率的な作業の仕方や土嚢袋をなるべく使わないことについて説明をしました。これ以降、津久見では土嚢袋を使わない作業にこだわり、10月22日は衆議院選挙投票日でしたが、その際に選挙事務に行った半島部で限界集落と言ってもよい、そのほとんどが高齢者の赤崎地区自治会長から「あんたの言う通りに側溝・暗渠の泥だしを地区でやって効率良かったよ」との報告も、改めてその効果を確認・認識することとなりました。

10月7日 災害復興研修会

土嚢袋の節約と効率化

9. 2020年7月豪雨

 誌上座談会の翌週、2020年7月7日、パネラーの松永さんが拠点とする日田市では玖珠川の氾濫により天ヶ瀬温泉街が大きな被害を受けるなど、一連の豪雨で日田に加えて九重、玖珠、由布などで河川の氾濫、土砂崩れなどによる大きな被害が発生しました。自治労県本部は、被災した日田市職、九重町職と協議の上で7月14日からのボランティア派遣協力を県内各単組へ要請することとしました。私は、7月12日の日曜日、息子とともに天瀬ボラセンにむかい、バスで15分ほどの「金場」という地区の手付かずの川沿いのお宅にマッチングされました。チームは7人、最年長かな? とも思い、成り行きでリーダーをすることとなりました。現地へ行く前に、ボラセン運営を切り盛りしていたNPOリエラ代表の松永氏から、「まだこのお宅は、ボラセンにニーズがあがったばかりで調査に行けていないので写真をとるなど状況の報告をお願いします」とのこと、現地へ行くとほとんど手つかずの状況でした。高齢者の夫婦二人住まいで、娘さんが復旧のために来ていました。私と20歳の息子、もう一人は40代半ばの地元出身の好青年、あとの4人は短パンにスニーカーの学生でした。家財道具を地元の方と一緒に運びだし、水に浸かった重い畳を外へ、敷板を外す作業をするときは、元に戻すことを考えて油性ペンで番号をふろうとしましたが、泥まみれの板には油性ペンも通用しません。順番が分かるように並べて、洗浄し乾かした後で番号をふる作戦に切り替えました。敷板を取り外した床下には5~10センチの溶けたチョコレートのような泥が溜まっていました。破傷風の危険があることから短パンスニーカーの若い4人には床下に入らずに、泥を取ったバケツと一輪車(ネコ)の作業をさせるようにしました。が、30度を超える気温と湿度によりすぐに限界をむかえました。休憩をこまめにとるなかで、見かねた20代の短パン野郎がスニーカーで床下に降り、スコップを持つまでそう時間はかかりませんでした。私は、「けがをしてないかい?けがをしていたら破傷風の危険があるから」と説明しましたが、内心は交代することを否定しませんでした。話を聞くと、この4人は日田市在住の同級生、初めてのボランティアとのこと、彼らは「ボランティアで長靴履くのは鉄板やな」とチョコレート状の泥をかき出しながら反省の弁を述べていました。短パンだろうと、未経験だろうと人が来ることが被災地には一番の薬ですし、被災者の笑顔を取り戻すことはできます。そういう意味では、彼らは被災者にも私たちにも笑顔をくれました。
 それから、日田には2度県本部ボランティアとともに入り、県本部ボランティア最終日の7月31日に初めて九重に入り、最終段階に入った現地では、住宅の庭と納屋の泥だしがメインでした。リーダーを単組書記長にまかせ、土嚢袋に入れない効率的な泥だしの方法についてイメージをしていましたが、現地の担当者から「集めた泥は土嚢袋に入れて道沿いに出してください」とのこと、ボランティアはそれ以上言うべきではないとの思いから仕方なく土嚢袋に入れて泥を集める作業をしました。しかし、ご想像の通り作業ははかどらず、気温30度以上のなか重い土嚢袋は私の腰を徐々に痛めていきます。お昼前に、担当者が再度来たものですから、私は再度尋ねました。「土嚢袋に入れると効率が悪いので、使わずに泥の山を作って置いたらだめですか?」と、返答はこうです「役場は土嚢袋に入れないと持っていってくれませんので入れてください」結果、私たち総勢40人が入れた土嚢袋は1,000袋近くになりました。被災時の泥だし方法とその処分まで踏まえた判断は、役場・役所との連携とすり合わせが不可欠です。一人のボランティアとして出来るのは、いまそこにある泥を言われた通りに出して集めるだけ、被災時の自治体とボラセンの連携と意思疎通がなければ効率の良い泥だしは実現しません。私は、これまで全国水道集会、九州地連都市交流集会、県本部労働学校など事あるごとに効率の良い泥の出し方についてイメージ図を作成して説明してきましたが、いかに被災していない通常時に被災した時のことを意識して社協ボラセンと自治体が共通認識を持つか、このことの必要性について、改めて感じることとなりました。朝倉からのボランティアの方が熱を込めて私に語った土嚢袋を使わない泥だしの方法「朝倉方式」は、自治体と社協が一体となって初めて実現します。また、効率が悪い泥だしやボラセンの対応によっては、一度来たボランティアがリピーターとなり何度も足を運ぶことにはつながりませんし、離れてしまいます。被災時の緊急時に通常業務をこなしながら自治体・社協ともにギリギリの中で復旧・復興業務に向き合います。労使対等の原則の下、自治労と自治体単組はその交渉力を発揮し、難しい立場の社協の立場で交渉・協議を行い、日常における社協と自治体の災害対応にかかる連携について、積極的議論が望まれます。そのため、自治労・県本部と自治研センターは、専門部会での議論や社協ネットの確立など災害復旧・復興のための課題や成果などを協議・発信し、いつどこで起きてもおかしくない災害に対する備えが必要です。
2017年11月19日 
災害ボランティアセンター 閉所
津久見からの距離 65キロ