【要請レポート】
「人間の安全保障」の拠点・形成を
― 「平和・共生・自立」を発信する、沖縄にこそ ―
沖縄県本部
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1. 「人間の安全保障」とは
(1) 新しい安全保障をつくりだす
国際社会において、「人間の安全保障」という概念をはじめて公にとりあげたのは、国連開発計画(UNDP)の1994年版人間開発報告である。人間の安全保障を、飢餓・疾病・抑圧等の恒常的な脅威からの安全の確保と、日常の生活から突然断絶されることからの保護という2点を含む概念である、とした。
1995年、「私たちは、新しい安全保障をつくり出す必要がある。それを人間の安全保障と呼ぼう」、国連開発計画総裁・特別顧問のマブブ・ウル・ハク氏は宣言した。つづけて……
それは私たちの生活に反映されるものであり、私たちの国の武器に反映されるものではない。 安全保障とは、もはや単に領土の安全保障ではなく、民衆の安全保障のことである。
単に武力を通じての安全保障ではなく、仕事、まずまずの生活水準、そして持続的な環境保全などを通じての安全保障である。 単に予測不可能な核のホロコーストに対する防護を意味するのではなく、麻薬、エイズ、不法移民、テロリズムなど、貧困がもたらす国境を越える諸問題に対する思慮深い対応策を意味している。
われわれは過去の考えや武器で人間の安全保障に対する新しい脅威に対抗することはできない。 せんじ詰めれば、人間の安全保障とは子どもが死なないことであり、病気が蔓延しないことであり、女性がレイプされないことであり、民族紛争が暴力化しないことであり、貧しいものが飢えないことであり、反体制者の言論が封じられないことであり、人間の精神が押しつぶされないことである。
人間の安全保障とは武器にかかわることではなくて、人間の尊厳にかかわることである。
(2) 沖縄サミットは、「人間の安全保障」が議題であった
人間の安全保障宣言がされた同じ年の9月、沖縄本島北部において米海兵隊3名が小学生をレイプする事件が発生、県民の燃え立つ怒りは10月21日の県民大会で復帰後最大の結集としてあらわれた。翌96年9月には「米軍基地の整理・縮小と日米地位協定改正」を求める全国初の県民投票が行われた。
沖縄県は基地経済依存から脱出するため、「国際都市形成構想」「基地返還アクションプログラム」「FTZ導入」など、自立を模索していた。自治労沖縄プロジェクトは、市町村合併や道州制論議を先取りし、アジアにおける将来を見据えた報告書「21世紀にむけた沖縄政策提言・パシフィック・クロスロード-沖縄」を、98年2月に大田知事に提出した。
1997年に、大田昌秀沖縄県知事が小渕恵三総理大臣に、2000年「サミット」(主要8カ国首脳会議)の沖縄開催を要請した。①沖縄サミットのテーマは「人間の安全保障」とする、②中国の江沢民国家主席を「特別参加」として招待することを強く要請した。
1999年のケルン・サミットの際、小渕首相は沖縄サミットについて「人間の安全保障」を議題とすると発表、中国へ特使を派遣しへ「親書」を届けた。しかし、2000年6月、万国津梁館で「人間の安全保障」をテーマに開催された沖縄サミットに、大田知事も小渕総理も江沢民国家主席もいなかった。
東シナ海を前に小渕・江沢民による日中首脳会談、クリントンを交えた日米中首脳会談……が、そこから東アジアの「新しい平和」の構築が始まったのでは、と悔やまれてならない。
沖縄戦から半世紀が過ぎた。この間、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガン戦争、そしてイラク戦争の出撃基地であった沖縄から、米軍基地との「共生」を拒否する沖縄だから、「人間の安全保障」について発信を続けなければならない。
(3) 軍拡を煽るブッシュ政権、追随する日本
① 21世紀の始めの年、ブッシュ大統領の政策展開に各国から「一国主義」と批判が集中した。金大中韓国大統領との米韓首脳会談で、金正日総書記を「信用できない」と批判し、米朝のミサイル協議を「とん挫」させた。
米中軍用機接触事故をめぐるきわどい時期、「一つの中国」を堅持するとしながら台湾防衛のため「何でもやる」と発言し、駆逐艦・潜水艦・対潜哨戒機・掃海ヘリコプター等かなりの武器を台湾政府に売却した。
環境問題では、京都議定書からの離脱、核軍縮の包括的核実験防止条約の形骸化を狙うなど、なりふり構わず「国益優先」にひた走った。
② 第2次世界大戦から半世紀、アメリカの世界戦略の主役はNATO(北大西洋条約機構)、脇役は日米安保であったが、冷戦終焉後はアジアが主舞台になり日米安保が重みを増してきた。分かり易くいうと、アメリカ覇権への唯一の「ライバル」としての中国を明確に意識した日米軍事同盟の強化を急いでいる。
2001年5月の日米安保専門議員交流訪問団に対し、アーミテージ米国務副長官は「小泉首相の集団的自衛権についての発言を心強く思っている。憲法改正ではなく、その解釈変更によるものと感じた。日本が決めることで、われわれが口を出すべきではない。現在の憲法解釈が日米協力の障害になっていることは事実だ」と発言(朝日新聞)した。
さらに、「米海軍が信頼して共同作戦できるのは、その能力と訓練から、英海軍と日本の海上自衛隊だ」「マラッカ海峡からペルシャ湾までという考えもある。ただ集団的自衛権の憲法解釈は変える必要がある」と、現在、安全保障問題担当の高官が昨年(2000年)述べていたとも発言した。
これは、2000年10月の「アーミテージ・レポート」(米戦略国際問題研究所「米国と日本-成熟したパートナーシップに向けた前進」)の重要な部分である。この間、何があったのか振り返ってみる。
③ 1995年2月、「東アジア太平洋地域における米国の安全保障戦略」(「ナイ・イニシアティブ」)が出発である。米政府は、90年・92年・95年・98年と4次にわたる「東アジア戦略報告」を作成している。
1996年4月、橋本首相・クリントン大統領による「日米安保共同宣言」は、これらのことを明確に位置づけてある。一つには、東アジア・太平洋地域の「成長と繁栄から利益を得るために、アメリカは経済・外交・軍事面で全面的に関与し続ける」。二つには、日米安保を通じて「日本の新しい地球的規模の役割は、地域的・地球的な繁栄への日本のより大きな貢献を含む」と。
この共同宣言を「日米安保の再定義」とマスコミは表現した。改めて、東アジア・太平洋における日米軍事同盟の役割を総括的に把握しておこう。
ア 朝鮮危機から「台湾有事」=中国「押さえ込み」が狙いで、そのために
イ 米英軍事同盟の質を「日本軍」に求め、そのうえ
ウ マラッカ海峡からペルシャ湾までと守備範囲を位置づけ、「極東の範囲」とか「日本の周辺」などを、吹き飛ばしたのである。
④ 「負担の分かち合いから『力を共有』する関係に進化の時」(「アーミテージ・レポート」)と、米国に要求され日本が忠実に実践してきたことと、「これから」である。
ア 「達成」した法律など
a 「新ガイドライン」・「物品役務相互提供協定」協定
b 「周辺事態法」
c 「盗聴法」
d 「国民総背番号法」
e 「日の丸・君が代法」
f 衆・参院に「憲法調査会」設置
g 「周辺事態法」
h 「テロ対策特措法」
i 「有事法制」(=戦争法)
j 「イラク特措法」
k 「国民保護法」など有事法制・関連7法
イ 「準備」している法律など
a 憲法に関する「国民投票法」
b 教育基本法の「見直し」
c 憲法の「見直し」
⑤ 米国における「同時多発テロ」は、結果として米国の戦略に乗りやすい状況を日本につくり出した。「米同時テロ対応 我が国の措置」には、情報収集のための自衛艦艇を速やかに派遣するとある。そのためにイージス艦を「マラッカ海峡」・「インド洋」へと派遣させる。それは米空母を中心とした作戦に組み込まれることを前提とした「出撃」であり、集団的自衛権の行使そのものである。「テロ対策特措法」による海上自衛隊の給油艦とその護衛艦が先行した。
その延長線上に、今日の自衛隊のイラク派兵がある。大・小を問わず、理由を問わず「テロ」を認めることはできないことを明確にしておく。「同時多発テロ」が、世界の政治・経済を一手に握った米国を狙ったこと、世界政治の中枢のワシントンDCで力の象徴ペンタゴン(国防総省)と金融資本センター(国際貿易ビル)のニューヨークであったことから、「なぜアメリカ」なのかと根の深い詮索(=研究)がなされることを求めたい。
米国の「過去」・「いま」・そして「将来」を分析し、「なぜ」が解明されなければならない。
2. 「人間の安全保障委員会」と「報告書」
(1) 日本のイニシアティブで始まった
2003年5月1日、ニューヨークの国連本部で、緒方貞子、アマルティア・セン両共同議長からコフィ・アナン国連事務総長へ「人間の安全保障委員会」報告書が提出された。
人間の安全保障委員会は、2001年1月、日本と国連事務総長のイニシアティブにより創設された。共同議長は、緒方貞子前国連難民高等弁務官およびアマルティア・センケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長(ノーベル経済学賞受賞者)を共同議長とする。
この間の日本政府の関わりを、触れておきたい。
1998年9月、第53回国連総会における小渕恵三首相は、「平和と開発、そのための改革」という題名の演説を行った。その中の「開発問題及び新しい地球規模の問題への対処」の部分で、次のように述べている。
「紛争の根本原因の一つは、経済・社会開発にかかわる様々な問題の存在であります。これを看過するわけにはいきません。わが国が本年1月に開催した紛争予防戦略に関する東京国際会議において、貧困を始め紛争の背景にある諸要因を総合的に把握して問題に取り組むという包括的アプローチの重要性が強調されました。……省略……
更に、今日、環境破壊、人口増加、人権侵害、難民流出、テロ、麻薬、国際組織犯罪、エイズ等、国境を越えて人間一人一人の生活を脅かす問題が深刻化しております。これらの問題については、地球的規模で発生する脅威から人間の安全と尊厳を守るという考え方に基づき、国際社会が連帯し、また政府のみならず市民社会も一緒になって、共通のルール作り等共同で対応する必要があります。特に、本年は、世界人権宣言採択50周年に当たります。紛争に伴って生じる大規模な人権侵害や難民の問題への取り組みは、紛争を防止する上でも不可欠であると考えます」
2000年9月、国連ミレニアム・サミットにおける森喜朗首相の演説である。
「我が国は、『人間の安全保障』を外交の柱に据え、21世紀を人間中心の世紀とするために全力を挙げていく考えです。(中略)わが国はこのことを踏まえ、『人間の安全保障基金』に対して、近い将来、100億円程度を目指して拠出したいと考えております」
(2) 人間の安全保障委員会「報告書」の内容
「人間の安全保障委員会」は、コフィー・アナン国連事務総長が国連ミレニアム・サミットへの報告で「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」、将来の世代が「健全な自然環境を受け継ぐ自由」という目標を21世紀の最優先事項とすべきであるとの提案に応えるものである、と。
人間の安全保障委員会の目標は、①人間の安全保障とその重要性に関する一般の人々の理解を深め、関与と指示を強化すること、②人間の安全保障の概念を各国の政策の立案と実施のために実際的に役立つ手段にまで発展させること、③人間の安全保障に対する広範かつ重大な脅威に対処するため、具体的な行動計画を提示すること、である。
報告書には「10の提言」が位置づけられている。この報告書の提言を後押しし、人間の安全補償基金の運用について国連事務総長に助言するため、2003年9月、「人間の安全保障諮問委員会」が創設された。
① 暴力を伴う紛争下にある人々を保護する
② 武器の拡散から人々を保護する
③ 移動する人々の安全確保を進める
④ 紛争後の状況下で人間の安全保障移行基金を設立する
⑤ 極度の貧困化の人々が恩恵を受けられる公正な貿易と市場を支援する
⑥ 普遍的な最低生活水準を実現するための努力を行う
⑦ 基礎保健医療の完全普及実現により高い優先度を与える
⑧ 特許権に関する効率的かつ衡平な国際システムを構築する
⑨ 基礎教育の完全普及によりすべての人々の能力を強化する
⑩ 個人が多様なアイデンティティを有し多用な集団に属する自由を尊重すると同時に、この地球に生きる人間としてのアイデンティティの必要性を明確にする
3. 「東アジア」、2020年の姿が見えてきた
(1) 「東アジア経済圏」が急がれている
「経済は政治を変える。経済統合は対立の緩和・解消に役立つ。EUにおけるドイツ・フランスの関係が象徴的である」(新井利明著「ASEANと日本」243頁)。
2004年5月、「欧州連合」(EU)は10カ国が新たに加盟した。人口4億5,000万人、経済規模も日本の倍以上、アメリカに匹敵する。01年4月、南北アメリカ34カ国(キューバを除く)の首脳会議は、「米州自由貿易地域」(FTAA)を05年末までの創設に合意した。人口8億人、GDP12兆5,000億ドルの巨大な自由貿易圏が誕生する。
「東アジア自由貿易地域」(EAFTA)形成が2010年前後、人口20億人・世界最大の経済圏である。
いうまでもなくアセアン10カ国と日本・中国・韓国の3カ国で構成される。[ASEAN+3]である。
これは東アジア経済統合への基礎であり、「東アジア共同体」への一歩である。
2003年10月7日、インドネシア・バリ島で、東南アジア諸国連合(ASEAN)の第9回首脳会議が、「ASEAN共和宣言Ⅱ」を採択した。「2020年までに生産基地、モノ、サービス、投資、資本が自由に移動する単一市場になる」、投資・貿易の促進のため「金融セクター統合のロードマップ(工程表)」を施行する、というものである。
首脳会議は、具体的な行動計画に関する「勧告文書」も採択した。
「05年までに、加盟国出身のビジネス客や観光客には域内旅行に対するノー・ビザ(査証の免除)」、「08年までに、法律や医療関係者など主要な専門職資格の相互認証に関する合意完了」である。すでに経済閣僚会議は、11分野の市場統合を2010年に前倒しすることで合意している。
2010年前後の世界は、欧州経済圏(EU)・米州経済圏・東アジア経済圏という「三大経済圏」に。そこまでを展望した安全保障体制の「新たな構想」が求められているのではないのか。
(2) アセアン宣言は、「東アジア共同体」をめざす
東南アジア諸国連合が目指す「ASEAN共同体」は、(1)政治・安全保障 (2)経済 (3)社会・文化の3分野の協力で達成される、としている。「ASEAN共和宣言Ⅱ」の要旨である。
① 安保共同体
ア 安全保障共同体は加盟国の政治・安保面での協力を高い水準に引き上げ、域内の相違を平和的に解決する
イ 防衛条約、軍事同盟や合同外交政策よりは、むしろ政治・経済・社会など幅広い包括的安保原則に同意する
ウ 国連憲章や国際法の原則を守り、内政不干渉などASEANの原則を維持する
エ テロや国境横断的犯罪への対応能力強化に、ASEANの既存制度や機構を最大限活用する
② 経済共同体
ア 2020年を目標に経済統合し、モノ・サービス・投資や資本の流れを自由化。貧困と社会経済格差を低減させる
イ 新たな機構や方策を通じ、ASEAN自由貿易地域(AFTA)など既存のイニシアティブを強化する
ウ 開発格差に対処するため協力し、域内統合を進化・拡大する
③ 社会・文化共同体
ア エイズや新型肺炎(SARS)など感染症の予防・抑制で、協力をさらに強化する
イ 学者・作家・芸術家・マスコミ関係者の相互交流を進め、多様な文化遺産の保存などを促進する
1976年、バリ島で開かれた第1回首脳会議で域内協力の基本原則として採択された「ASEAN共和宣言」に代わるものである。経済協力を重視してきたアセアンが、安全保障協力を前面に打ち出したことで東南アジアの地域統合が「新たな段階」にはいった。
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、5カ国(タイ・マレーシア・シンガポール・フィリピン・インドネシア)で1967年に発足した。その後、ブルネイ(84年)、ベトナム(95年)、カンボジア・ラオス・ミャンマー(99年)が加盟し、今の「ASEAN10」を構成している。
2003年10月には、日本・中国・韓国の3首脳が「日中韓3国間協力の促進に関する共同宣言」に署名した。それには「3国は地域の平和と安定を維持し、すべての国の共同発展を促進するための責任を共有する」とある。次は、各国首脳の発言である。
日本の首相は「未来に向けた日中韓の協力をエンジンとして地域協力の輪を拡大していきたい」と。中国の国家主席は「東アジアの平和と安定のために3国の協力が重要だ」と。そして韓国の大統領は「繁栄のための協力だけではなく、安定のための協力も重要だ」と、述べた。
(3) 「ASEAN安保共同体」創設を目指す
2004年6月、ASEAN10カ国外相会議と日中韓の外相を交えた「ASEAN+3」外相会議は、重要な節目になった。
第1に、2020年までの「安保共同体」実現などを盛り込んだ共同声明を採択した。
「安保共同体」実現へ向けた行動計画案にも基本合意したことである。安保共同体は、地域の平和や民主主義の達成のため政治的発展を目指すなどとする内容で、非合法、非民主的な政権交代を認めないことや、核兵器など大量破壊兵器の放棄や軍拡競争回避もうたっている。
① 2020年までのASEAN安保共同体などの創設を目指し、(11月の)ビエンチャンでの首脳会議で安保共同体行動計画を承認するよう勧告する
② 安保共同体は域外国との関係を強化し,ASEAN地域フォーラム(ARF)の原動力としてのASEANの役割を強化
③ 機構の枠組み確立のため[ASEAN憲章]の進展に向けた努力で合意
④ 国連総会へのASEANのオブザーバー参加資格の要請を積極的に検討
第2に、東アジア共同体の実現に向け「ASEAN+3」の枠組みを発展させ「東アジア首脳会議」(東アジア・サミット)を開催する方針で合意したことである。2005年11月開催の可能性が高い、という。
4. 「平和・共生・自立」を求める沖縄
20世紀末の10年を振り返ってみると次のような歴史的な分岐点としての特徴がある。
1989年のベルリンの壁崩壊、1990年に東西ドイツが「統一国家」を形成、1991年にソ連邦という「国家の消滅」=ロシアをはじめとする11の共和国が誕生。「国境のない経済圏」を目指した欧州連合が共通通貨「ユーロ」を使用(2002年1月)する。
世紀末の10年を振り返るとき、21世紀の「新しい潮流」を読みとることができる。
この時期、「バブル崩壊」後の日本における政治の混迷も激しいものがあった。戦後政治を「支配」してきた自民党が、政権の座を明け渡したのが1993年、その後は政党の組み合わせが政権維持の常態となった。
このことに最も危機感をもったのが米政権で、冷戦後の軍事同盟の再構築を日本に強く押しつけてきた。「負担の分かち合いから『力を共有』する関係に進化の時」とするアーミテージ報告(2000年10月)は、憲法改正による集団的自衛権の行使を明確に求めている。
この間、沖縄では「21世紀の沖縄のグランドデザイン」をめぐり県民参加で激しい議論があった。2015年を目途に在沖米軍基地「ゼロ」を目指す基地返還APは、軍用地主会の反発もあったが、全県民の課題として議論された。2001年実施を目途とする全県FTZは、「一国二制度」を求めたものだけに経済10団体の論議は当然としても、学生をも巻き込んだ「キャンパス討論会」へと展開した。
議論に参加した県民の問題意識は、①冷戦終焉後の構造的変化と新たな国際的課題、②ポスト冷戦時代の沖縄基地問題、③急成長を遂げる近隣アジア諸国の動向などを中・長期的に展望……することで、21世紀の沖縄のあり方を自らが「選択」することにあった。
もう少し遡って沖縄を見てみると、1995年9月・米海兵隊(3人)の兵士による「少女暴行」事件があった。大田知事による米軍用地強制収用に係わる「代理署名」の拒否、8万人余が結集した「県民大会」……と、県民は激しく怒り、沖縄が燃えた。そして1996年9月の「県民投票」へと展開した。半世紀にもおよぶ基地の過重負担と繰り返される凶悪事件、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争の出撃基地沖縄を自ら「拒否」し、基地のない平和な沖縄を求める県民の姿を投票の結果は示した。
「21世紀の沖縄のグランドデザイン」はこのような背景からも理解していただけると思う。
沖縄の……東に、世界第1位の富と力を持つ『米国』がある。西に、13億人の消費者と年・数%の経済成長を続ける『中国』がある。南に、経済発展がすすむ『アセアン』がある。北に、1億3千万人・世界第2位の金持ちの国『日本』がある。
その結節点『 結び目 』が沖縄である。
5. 「人間の安全保障」の拠点・形成を
1945年6月23日、沖縄戦終結の日である。50年の節目の9月、米兵によるあの忌まわしい「少女暴行事件」がおきた。10月の県民大会をふまえ、翌年、「県民投票」が取り組まれた。
1996年6月23日の「平和宣言」は、このように決意している。
「私たちは、基地を平和と人間の幸せに結びつく生産の場に変え、来るべき21世紀に向け、若者が夢と希望のもてる“基地のない平和な沖縄”をつくることを決意します。そして、アジア太平洋諸国との長く友好的な交流の歴史と地理的特性を生かし、日本とアジア、そして世界を結ぶ平和の交流拠点となる国際都市の形成に沖縄の未来を託したいと思います」
21世紀・沖縄の目指す「新しい役割」である。①アジア・太平洋諸国と日本を結ぶ「結節点」、②自然特性を生かした「地球環境問題」への貢献、③多元的交流による「アジアの持続的発展と共生」への寄与、である。その実現に向けて考えていきたい。
(1) 考えたい「沖縄のかたち」
①「平和」
ア 「南と北を結ぶ結節点」としての基盤整備
イ 「新たな地域間協力」の舞台づくり
ウ 「魅力ある国際観光都市・保養リゾート」の整備
② 「共生」
ア 「国際貢献拠点」としての機能整備
イ 「環境と共生」をめざす新たなモデル形成
ウ 潤いに満ちた生活空間の形成
③ 「自立」
ア 新しい産業の創出と均衡ある地域の発展
イ 多元的交流を支える基幹インフラの戦略的整備
ウ 地域主権の確立と市民参加のまちづくり
(2) 実現したい「三つの課題」
① 「自立する沖縄」をつくる
ア 政策課題は、沖縄県から「自治政府」へ
イ 「琉球諸島特別自治制」構想を具体化するため「県民会議の設置」
ウ 同時併行で、「自治基本条例」を市町村ごとに制定する
エ 「市町村合併」について、「自治政府」と連動させ検証する
② 「基地のない平和な沖縄」を目指す
ア 政策課題は、(新たな)「基地返還アクションプログラム」の策定
イ 戦略として、海兵隊に焦点・「海外駐留米軍再配置」計画へ
ウ 緊急課題は、「普天間飛行場の『5年以内の撤去』を求める」
③ 「アジア・太平洋の平和拠点・沖縄」を創造する
ア 「人間の安全保障」の拠点を形成
イ 「国連アジア本部」を誘致する
(3) 提起したい運動課題
① 「無防備地域宣言」を全国の自治体で取り組みを開始しよう。
ジュネーブ諸条約第1追加議定書は、第59条で次のように定めている
ア 紛争当事国が無防備地域国を攻撃することは、手段の如何を問わず禁止する
イ 紛争当事国の当局は、軍隊が接触している地帯の付近又はその中にある居住地で、敵対する紛争当事国による占領のために解放されているものを、無防備地域と宣言することができる。無防備地域は、次のすべての条件を満たさなければならない。
a すべての戦闘員並びに移動兵器及び移動軍事施設が撤去されていること。
b 固定した軍用の施設又は営造物が敵対的目的に使用されていないこと。
c 当局又は住民による敵対行為が行われていないこと。
d 軍事行動を支援する活動が行われていないこと。
② 第159通常国会は、1949年8月12日のジュネーブ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書について、武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会で審議し、全会一致で採択した。しかし、第59条について政府は、自治体は当事国の当局や地域=宣言主体に該当しないとして提案を行わなかった。このことは、ジュネーブ諸条約が規定する考え方を政府が一方的に誤った解釈を行っていることは明白である。
③ 沖縄戦から考察する「無防備地域宣言」の意義
太平洋戦争末期の1945年3月26日、54万人の米軍は慶良間諸島に上陸して29日には諸島全域を支配、4月1日から沖縄本島中部の西海岸に上陸、5日ごろまでには中部一帯を制圧した。その際、慶良間諸島では日本軍の強制による「集団自決」事件が起こり、米軍は沖縄本島上陸前の1週間で4万発の砲弾を打ち込み、1,600機の艦載機で爆撃や銃撃を行った。6月23日に牛島満司令官と長勇参謀長が摩文仁で自決し、日本軍の組織的な抵抗を終わるまで数多くの生命や財産が失われた。
沖縄中が米軍により、陸海空からの鉄の暴風と形容される無差別攻撃が行われている中、慶良間諸島渡嘉敷村前島は砲弾をあびることなく、真空状態のまま残された。その理由は、上海事変で陸軍上等兵だった比嘉清儀分校長(当時)が、軍人時代の体験から「兵がいなければ相手方の兵隊は加害しない」という信念に基づき、前島に駐屯するために住民を動員して陣地構築をしていた鈴木常良第三基地隊長に命がけで撤退交渉を実施し、およそ100人の駐屯部隊を撤退させたからである。
1945年3月下旬か4月上旬、米兵約150人が前島に上陸、日本兵や軍事施設がないことを確認して去った。米兵は島を去るとき、船上から住民にスピーカーで「この島には一切の砲撃を加えないし捕虜もとらない」と放送した。
(藤中寛之氏 地域研究所所報 第30号所収 2003年10月発行)
④ 沖縄戦に学徒隊として参戦した大田昌秀前沖縄県知事は、「敵が上陸した以上、狭い沖縄で逃れるすべはない。自らが死ぬか敵を海中へ突き落とすしかない」と述べている。また、2003年8月7日、稲嶺恵一沖縄県知事は、各県知事を集めた国民保護法制の意見交換会の場で、「沖縄は島であり、他の県に逃げるわけには行かない」「沖縄戦の経験から、有事の際に国民保護が困難。有事が発生しないよう不断の外交努力を」と政府に求めた。
渡嘉敷村前島の教訓から、ジュネーブ諸条約59条に基づき「無防備地域宣言」を行い、平時より非難地域が準備でき、その非難地域を拡大することは、「軍縮に向けた日常の努力」に結びつき、「人間の安全保障」の実現に向けた運動となるからである。
鈴木隊長から地域防衛の実質的な権限主体を任された比嘉分校長に代わって、「住民の福祉の増進を図る」行政を「国民保護を自主的かつ総合的に実施する」という役割を担っている自治体に、ジュネーブ諸条約追加第一議定書59条を宣言させるため、自治労が地域住民と一緒に取り組みを開始することを提言する。
人間の安全保障基金
(表紙、1、2)
(3-①)
(3-②)
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