【要請レポート】

第32回北海道自治研集会
第Ⅱ-②分科会 持続可能な医療体制の確立

地域医療の崩壊を防いだ「金木病院救急再開物語」


青森県/金木病院の救急体制を維持する会 一戸 彰晃

 この国の医療が崩壊したのは医師不足が最大の原因である。発端は医師供給に関する施策「医師供給の見直し等に関する検討会」報告書(1994)にある。人口10万人あたり医師200人を基準として計算すると2017年からこの国は医師過剰になる。蛇口を締めなければならない……しかし、その本音は高齢化が進むにつれ医療費がかさむのを抑制しようとすることにあった。医師偏在など複雑な要素がからむ医療現場を知らない机上の計算がこれほどまで国の医療を窮地に追い込むとは彼等は夢想だにできなかった。
 あらゆる国策の失敗は社会的弱者に最初現れる。医師数が医療法の配置基準を満たしている病院の割合をみると大阪や東京は95%前後と高いが、一方青森県は43%、岩手55%など社会的弱者である東北や北海道は極端に低い(厚労省2006年データ)。そのなかでも、金木病院(注1)の位置する青森県奥津軽・西北五医療圏は県内6医療圏のなかで最も医師数が少なく、即ち日本で最悪の医療現場である。もとより決定的医療マイノリティーである同地域が金木病院の救急体制を失うことはそのまま住民の死を意味した。
 医師は年間1億円以上の仕事をこなすという。医師が不足すると病院の収入はたちまち激減する。まして小泉三位一体改悪により自治体の体力が弱まっているおりから、赤字お荷物病院を切り捨てないことには自治体本体が倒れるという危うい状況にある。そこで考えたのが医療の「効率化」や「集約化」というまやかしである。戦時中この国は、全滅を玉砕、戦死を散華、退却を転戦と巧妙に言い換えたが、ゆめゆめ騙されてはならない。「効率化」「集約化」のもとに元来脆弱な地域医療が切り捨てられることがあってはならない。医師の退職により風前の灯(実際2007年1月1日その灯も消えたが)の金木病院の救急体制を守ることは、老いた両親、幼い子ども、妻・夫……愛する人々の命と自分の命を守る切羽詰まったギリギリの行動だった。日頃寡黙な住民がこのときばかりは意を決して声を上げた。
 当レポートは本州北端で展開された一住民運動の記録である。そして、全国でも他に例を見ない「奇跡」と言われたローカル金木病院の起死回生物語である。

1. 第1期 署名活動

06.11.7 署名活動うちあわせ(目標10,000筆)19:00雲祥寺(参加者12人)
06.11.10 署名用紙区分け、分配(回収日11月25日)
06.11.12 ショッピングセンターELMで街頭署名活動(参加者13人)県内のテレビ・新聞が大々的にとりあげる
06.11.25 署名数20,035筆を達成
06.11.29 署名簿を金木病院管理者五所川原市長に提出。県内すべてのメディアが報道(同日夕刻07.1.1から金木病院の救急取り下げを県に申し出ていたことが読売新聞記者からの情報で判明)

 金木病院の救急が停止になりそうだという噂は夏ごろから囁かれていた。内科医2人が年内で退職し開業するという。常勤医6人態勢がいきなり4人になる。医師の補充はできないのだろうか?市の医師確保対策は?そんなおり、県が組織した西北五地域医療研究会が金木病院ロビーで地域医療フォーラムを開催した。住民は「救急維持」を願い100人ほど参加、口々に金木病院の必要性を訴えた。地域医療研は、なんのことはない、「集約化」を進める県の「第五列」だった。司会のK事務局長は住民の声を封殺するように「署名、署名と言ったって、一体、だれがやるんですか?(だれもできないでしょう?)」と語気を荒げた。フォーラムの正体を知って住民は皆のけぞった。黙ってはいられなかった。
 某市議会議員が署名運動に取り組むことになったが、政治的圧力に屈してあえなく挫折。そこで私が急遽受け持つことになった。代表者無し事務局のみの、正に住民の組織である。会員は署名者全員。金があるものは金を出す。知識があるものは知識を提供する。体力あらば体力を。地域4万人は約1万世帯として、各世帯1名の署名獲得を目指した。町内会、地域の自治労、議員、地域医療を考える共産系団体、雲祥寺の持つネットワーク……あらゆる方法を総動員した。町内会で署名用紙を配布するのが最も効果的だが、ここに大きな障害があった。当地域では町内会長=行政協力員という形が定着している。前者は住民主体、後者は行政主体の役割を担っている。草の根まで貫徹されたこの矛盾した行政システムを乗り越えなければならない。知らんぷりして切り抜けた。町内会長らは皆協力してくれた。
 予想を遥かに超え、たった二週間で2万を超える署名が集まった。むのたけじ氏曰く「横手でできなければパリでもできない。パリでできることは横手でもできる」。うれしかった。その中にひときわ傷んだ署名用紙があった。油ジミがつき皺だらけ、四つ折りにした痕もある。胸がジンとした。この署名簿を書いたのはどんな人なのだろうと思いを致さずにはいられなかった。折り目の痕は署名用紙を持ち歩いたことを伺わせる。知人や親戚に署名をお願いしたのだろう。これほど真剣に署名を集めたのには何か深い訳があるのだろう。それこそ、医療体制の不備が原因でだれかを失ったのかも知れない。その悲しみと後悔をいまだに引きずっているのかも知れない……そう思ったらこのクシャクシャの署名用紙に私の涙がもうひとつシミを付け加えたものだ。
 五所川原市役所市民談話室での署名簿提出後市長と30分話し合った。夕刻、読売新聞記者から電話が入った。署名簿提出のその日、管理者(市長)は水面下で来年1月1日からの金木病院の救急取り下げを県に提出していたという情報だった。愕然としたのは私たちだけではなかった。先刻市民談話室を埋めていた県内の全メディアがこの遣り口にはさすが憤った。「あの30分の対談はいったい何だったのでしょう」と某テレビ局ディレクターは怒りを滲ませた。翌日、メディアは雲祥寺に集まった。そしてカメラとペンを状況報告記事から批判記事に切り替えた。「金木病院問題」は一気に全県に広まった。

2. 第2期 ホワイトリボン運動

06.12.5 「ホワイトリボン運動」展開(新聞折込、ポスター配布)
06.12.23 金木病院の救急体制を守る「ホワイトクリスマスコンサート」開催
(07.2.3 金木商店会「どかまけの日」が「ホワイトリボン運動」に協賛)

 救急停止まで一ヵ月を切った年の暮れ、住民の願いをどこ吹く風と時間は非情に流れる。署名運動はあくまでも目的達成のための一手段にすぎない。「やるべきことはやった」などという自己満足に終わってはならない。そこで閃いたのが「ホワイトリボン運動」だった。各戸が玄関や軒下に白い布を結びつけるのである。白は白衣、白は包帯。すなわち病院を象徴する色である。白ければなんでもかまわない。金木町は作家太宰治のふるさととして知られており、全国から大勢の観光客が訪れる。金木の町に白いリボンが溢れていれば、金木病院問題は否応なしに全国に広まるだろう……署名活動で一息ついた住民に再度活を入れる、と同時に目標達成まで活動を粘り強く押し進める。住民は競い合うように(隣家よりもっと大きい白布を下げようとして競争になった例もある)「ホワイトリボン」を掲げた。町並みは、なにやら怪しい宗教団体を思わせる状況となったものだ。
 12月23日、ソプラノ歌手・渡辺千賀子(注2)さんを招き金木町中央公民館で「金木病院の救急体制を守るホワイトクリスマスコンサート」を開催。救急維持を願って参集した150人の住民は涙を流しながら聴く。奥津軽という、この国の底辺に生きていることの哀悲。なぜ必要不可欠な救急が停止されなければならないのか。私たちは東京や大阪で暮らす人々と同じ国民ではないのか?同じ人間ではないのか……夜、雪しげく降る。雪に願う。願いは祈りとなり、祈りは決意と行動となる。

3. 第3期 住民運動を政治の舞台に。医師アンケート実施

07.1.8 五所川原市議会選挙につき、立候補予定者にアンケート(最終回答率66.6%)
 同月  婦人科医師、金木病院勤務が決定(常勤医5人となる)
07.2.21 県知事に「金木病院の救急体制を復活する要請」を提出
07.2.23 五所川原市議会に「金木病院の救急体制復活に関する請願書」提出(紹介議員:井上浩議員)。同文の請願を中泊町(旧中里町)、金木病院議会へ提出
07.3.1 青森県内総合病院勤務医にアンケートを実施(3月31日集計。1割88人から回答)
07.4.1 S医師、金木病院勤務が決定(常勤医6人となる)
07.4.29 「金木桜まつり」開催中、県立芦野公園で「ホワイトリボン運動」のチラシを配布。(配布協力者10人)
 同月  O医師、金木病院勤務が決定(常勤医7人となる)
07.6.1 I医師、金木病院勤務が決定(常勤医8人となる)
07.6.7 中泊町(旧中里町)議会、救急復活請願を「趣旨採択」

 2007年元旦早朝、新年の鐘を撞く。もちろん撞木には「ホワイトリボン」を結び付けてある。40年以上にわたり地域住民4万人の命を守ってきた金木病院の救急体制が今日から停止になる。私は命を尊ぶ仏教者である。寒風吹きすさぶ山門上、耳目が痛い。どうすることもできない非力さに嘆きつつ、ひたすら元旦の鐘を撞く。響けどこまでも、金木病院救急復活の願いの鐘声。
 2007年、青森県は選挙に明け暮れた。市議会議員選挙、県議会議員選挙、県知事選挙、参議院選挙。そのつど住民は立候補者が金木病院を守るのか守らないのかを真剣に見定めた。県議会議員選挙では「集約化」を掲げる候補者と地域医療を守る候補者の対決となった。不利と噂されていた地域医療を守る候補者が勝利したのは大きい。住民の声が政治を動かした。選挙イヤーはまさに天佑だった。併せて五所川原市議会、中泊町議会、病院議会に請願を提出。中泊町では7人の紹介議員の協力を得て、請願が採択された。
 東奥日報・陸奥新報は、金木病院問題を粘り強くかつ頻繁に採りあげてくれた。その報道に触れ、金木病院の惨状と住民の取り組みを知ったH市のS医師が金木病院勤務を志願した。この時、流れが大きく変わったと思う。彼の友人もまた金木病院にやってきた。中泊町長の御子息も県病から金木病院に赴任してきた。あっと言う間に常勤8人体制となった。夢のようだった。一旦潰れかけた金木病院が息を吹き返した。閑散としていた病院に活気がよみがえり、駐車場は満車となった。あとは救急再開を待つのみとなった。
 住民運動に並行して、全国から広く意見を求める為、私はブログ(注3)を開設し情報を発信していた。激しい妨害に見舞われた。それも医師からである。「金木病院は潰した方がいい」「医者が足りないならお前が医者になれ」……。この暴言をどう捉えればいいのか、私は戸惑った。そしてたどりついた結論が、医師も疲弊しているという現実である。「立ち去り型サボタージュ」(注4)……連続30時間を超える過酷な勤務で、鬱病に侵された医師もいるという。山陰と北海道の医師からの提案を受けて、医療現場の実態を知るために県内すべての総合病院の勤務医にアンケートを行った。想像を絶する内容だった。「医師になったことを悔やんでいる」「子どもは絶対医師にしない」「土日も休みなし、家族と過ごす時間などない」「疲れがとれない」「へき地医療は大切だが、自分が病気になったときだれに看てもらえばいいのか」……。金木病院が抱える問題の根の深さを見た思いがした。

4. 第4期 救急再開と今後の課題

07.7.26 五所川原市長が10月1日からの救急再開を公表
07.10.1 金木病院の救急が復活
07.10.2 「救急の適正利用」を訴えるチラシ1万枚を地区17ヵ寺に配布、協力を願う
07.10.5 救急再開コンサート開催(女性デュオ・サエラ。金木中央公民館、参加者200人)

 救急再開の報に町は湧きかえった。みな喜びに充ち溢れていた。金木病院とともに住民もまた絶望の淵から生還したのである。
 金木病院救急復活の取り組みの中でこの国の医療の実態を学んだ。医療現場を戦場に例えれば行政・医師・患者は戦友であると某医療評論家が言う。同感だ。三者が一体とならなければとても医療は維持できるものではない。行政は採算性を、医師は楽な仕事を、患者は完ぺきな治療を求める。しかし、それぞれが別のものを見ているようではいけない。住民が戦友となるには果たさなければならない義務がある。例えば脆弱な救急体制を維持するには、医師の負担軽減に努めること、すなわち「救急の適正利用」に努めることである。
 金木中央公民館に救急再開を祝って200人の住民が集まった。10ヵ月前には悲嘆に暮れていたこの会場が、今度は喜びに溢れた。お上を相手にしたたたかいが勝利することはめったにない。私は「狭山事件」に取り組んでいるが、45年経っても司法は再審の扉を1ミリも開けてくれないほど固陋である。しかし、いつも負けてばかりではない。たまには勝つこともある。メディアの協力、選挙イヤーなどの僥倖は否定しないが、金木病院の救急が再開し、「願いは叶う」という実に貴重な経験をさせていただいたことは大きな感動だった。金木病院よ、ありがとう。当レポートが全国で私たちと同じような住民運動に取り組んでおられるみなさまの一助となれば幸いである。




(注1) 青森県五所川原市金木町にある、旧金木・旧中里町の二町によって運営される病院。市町村合併により現在、管理者は五所川原市長。ベッド数180、適正医師数12人ほどの中規模病院。常勤医師12人体制当時(2000年度)の営業収益は25億4千万円で一億程度の黒字を出していたが、その後医師の減少により赤字に転落。2007年度の不良債権見込み額は約10億円。五所川原市金木町以北(北は津軽半島北端まで)の地域4万人の医療を担う。救急実績は年間およそ700件。
(注2) 三重県在住のソプラノ歌手。ご自身が被差別部落出身であることから人権に取り組む。「小さな手のひらコンサート」と銘打ち、全国で人権コンサートを展開。主な曲目は「手紙(岡林信康)」「夏の風(原爆を歌ったオリジナル)」「竹田の子守唄(京都被差別部落の民謡)」など。
(注3) ブログ『金木病院』http://blog.goo.ne.jp/kinbyou
(注4) 小松秀樹『医療崩壊「立ち去り型サボタージュ」とは何か』2006朝日新聞社