【要請レポート】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 阪神・淡路大震災と東日本大震災は様々な点で大きな違いがあります。しかし、障害者など「災害弱者」といわれる人たちにとって、根本の部分で同じような問題が潜んでいます。阪神淡路大震災で私なりの体験から、また東日本大震災もあわせ、障害者の人たちの生活状況、当事者たちの活動で見えてきた課題などを通して、これから起こりうる災害に備えて、私たち障害者の地域生活のより望ましい姿を考えたいと思います。



震災時の障害者
地域と当事者ネットワークを活かして

兵庫県本部/障害者問題を考える兵庫県連絡会議 凪  裕之

1. 阪神・淡路大震災の時

(1) 当時の私と阪神間の障害者の動き
 17年前に起きた阪神・淡路大震災、当時私は大阪に住んでいて、実家は淡路島の旧北淡町でした。発生直後、私は実家に電話をかけ、偶然にも父が電話に出て、これから周りの状況をつかむところだと言うことでした。それから数日電話は不通、神戸や淡路島の凄惨な状況がテレビから伝わり、早くに電話が通じてなかったらどうだったろうと身の震える思いでした。また、私は大阪や阪神間のいくつかの障害者の当事者グループの人たちと知り合いで、すぐに「淡路はどうなの?」と連絡をもらいました。そして、その人たちが多くの団体といち早く大阪で障害者救援本部を立ち上げ、神戸から大阪へ避難してきた障害者の避難場所の確保・運営、人・物・金を含めた後方支援などを行い、また、神戸でも被災地障害者センターができたことを知りました。私は障害者救援本部を通じて震災の翌月に西宮へ行くことができ、以後10年ほど、神戸の被災地障害者センターに身を置くことになりました。

(2) 阪神・淡路の障害者たちの活動から
 西宮では、直後に地域で暮らす重度の障害者が避難所の一部でボランティアを集め、自分たちの介護者探しとあわせて他の避難所の人たちのニーズ把握で必要な支援を行ったり、炊き出しで多くの被災者に食べ物を振る舞うなどの活動をしていました。活動の中心は、現在の障害者問題を考える兵庫県連絡会議の代表であり、被災地障害者センター(現在「NPO法人拓人・こうべ」)の代表などでもある福永年久さんと西宮に住む自立生活をしている障害当事者の人たちでした。その活動の背景には、学校の体育館など避難所では車いすでは使えないバリアだらけのトイレや段差などのため、結局は障害者の仲間だけで一室にならざるを得なかったこと、彼らの自前の力や全国の障害者のネットワークによってボランティアなど人材確保を行ったことや救援物資が届けられたことなどによります。しかし、障害者だけ特別扱いのようになっていていいのかという疑問があり、福永さんはこうも言いました。「震災でみんな障害者になったんや」と。彼をはじめ何人かの障害者は身近な人を震災で亡くしたり、自宅を失った状況があったにもかかわらずです。彼らの支援活動は、避難所の都合でやむなく追い出されも、他の場所でも続けられました。
 神戸など他の被災した障害者はどうなったか、自立した障害者や地域拠点と日常的につながりのあった障害者の一部の人は、大阪の障害者救援本部が用意した避難所に行きました。また、障害児の普通学校生活を実現し、長年にわたって実践されてきた先生らが、卒業生の在宅の障害者の連絡先をもとに安否確認を行い、その活動が被災地障害者センターにつながっていきました。そして、地域拠点の中心であった小規模作業所が大きな役割を果たしました。以前から日常的にイベントなど企画を通して地域との関係を築くノウハウを自ずともっていた所が多くあったからです。震災当時、障害者の多くの作業所は、法的な位置づけでなく無認可で、関係者など多くが被災したにも関わらず、障害者の地域生活の拠り所となり、地域と支えあう関係が築かれていたのです。

(3) 残された課題・教訓
 介護が必要な障害者にとって日々介護者確保は死活問題で、震災がその追い打ちをかけました。介護者自身も被災して身動きがとれませんでした。今でこそまだまだ不十分ながらヘルパー制度があります。阪神・淡路当時と比べ、当事者仲間の生活を大切にする地域拠点も作業所だけでなく、居宅系サービスを行うとことが多く出てきました。しかし、地方ではなお社会資源が不足し、十分なサービスがなく孤立している障害者が多くいます。都市部でさえ、高齢の家族とだけで暮らし、正直どちらが介護しているかわからないという状況や、地域や障害者グループとの関係もなく、精神的に悶々としながら孤立している障害者も少なくないでしょう。阪神・淡路大震災以後は、地域コミュニティの多くの取り組みや復興住宅での高齢者の孤独死が大きな問題となりましたが、その地域コミュニティから外れた障害者の場合、震災以前からあったこうした問題が震災で浮き彫りになっただけだとよく言われました。今なお、この問題は残っているように思います。人的資源が十分かどうか以前に、家族以外で地域の中で個々の障害者が住んでいることさえ知られていない状況がまだまだ残されているように思います。地域の中での個々の障害者の存在をどう知っていくか、すぐに無理であれば、地域拠点なり行政が関係者のネットワークで点から線へ、線から面へと広げていく取り組みがさらに必要不可欠になっています。
 他方、作業所など障害者の地域拠点は、無認可ながらもフットワークの軽い所は、様々なネットワークを築いてこられました。しかし、近年、法的な事業移行を求められ、身動きが制限されてきました。そういった作業所の地域などに対する取り組みへの評価が十分なされずに、法的な縛りだけを強いる流れになってきたように思います。そんな中でも地域との結び付きをどう保っていくのか、それぞれの事業所の限られた力量の中で自主的な取り組みがより求められます。
 音声付点字案内板・音声ガイドシステム等が設置されているほか、21人用と15人用の大型エレベーターが2機並べて設置されている。プラットホーム・バス・タクシー乗り場もフラット化されている。(阪急伊丹駅エレベーター前)
 また、例えば、交通バリアフリーでは、震災で大きな被害を受けた阪急伊丹駅の再建で、誰もが使いやすい福祉駅として設計段階から地元の障害者を含む検討委員会を行い、当事者参画の「伊丹方式」として注目され、実現されました。兵庫県では既に1992年に全国に先駆けての「福祉のまちづくり条例」が制定されていましたが、県内にエレベーター設置駅が全くなく、1998年の伊丹駅の完成は画期的でした。現在、阪神間のほとんどの駅、地方の主要駅にもエレベーターなどバリアフリー駅になりましたが、乗降客の少ない駅、バス・船などを含めて地方の公共交通機関の利用しづらさは残っています。伊丹駅再建実現以降、私たち障害者グループも集まって、県の所管や「福祉のまちづくり研究所」と議論や実際に様々な施設への調査を重ねてきました。しかし、現在は「広く県民からの意見を聞きながら……」という理由で、私たちの「特定の団体」との話し合いに応じないという県の姿勢になっています。復興計画や自治体の様々な計画も含め、様々な立場の意見を大切にしながらといいますが、本当にその計画を直に必要としている当事者の参画にはまだ壁が厚い状況が続いています。災害時に公共交通機関・施設が麻痺した場合の移動困難者の危険から守る問題意識なども不十分な気がします。地域社会を作り、維持していくシステムの中に、障害当事者の参画していく場がまだ限りなく残されている気がします。


2. 東日本大震災

(1) 阪神・淡路大震災との相違点
 昨年6月、わずか1週間余りでしたが、「ゆめ風基金」を通じて私は宮城県を中心に東北に行きました。その時感じたこと、現地での当事者たちの活動、大阪の「ゆめ風基金」(阪神・淡路大震災以降、緊急に被災障害者など必要な所にお金を迅速に届ける他、様々な支援活動を行っているNPO)や東京の「東北関東大震災障害者救援本部」の継続的な支援から見えてきた提言を参考に挙げてみます。
 ご存じのように、阪神・淡路は直下型で死因は圧死が多く、建物も被害の有無があり、コミュニティもある程度残っていましたが、東北は特に大津波により、沿岸部一帯のコミュニティが根こそぎなくなりました。そのため、行政ごと機能が失われた市町もあり、障害者など災害弱者への支援体制を整えるまでにかなりの時間を要したと言われています。また、原発事故により、様々な思いをもちながらも住み慣れた地域を離れざるを得なかった多くの人たちがいました。
 NHK取材班による「東日本大震災で被害にあった障害者数」(ノーマライゼーション2011年11月号)によると、岩手・宮城・福島の3県27市町村(30市町村のうち陸前高田市、気仙沼市、仙台市の3市は回答できず除く、昨年8月データ)の全体人口に対する死亡率が全体で1.03%に対し、障害者人口に対する障害者の死亡率が2.06%と全体の死亡率の2倍というショッキングですが、「やはり」と思ってしまう悔しいデータがあります。特に身体障害者が際立って多く、精神障害者がやや多くなっています。これは、津波を想定しなかったことによる必要な人に情報が届かなかったこと、必要な人への支援者が確保されなかったことによるとされています。
 東北の障害者福祉の状況をみると、阪神間に比べ施設サービスが中心で、ヘルパーなど在宅サービスが弱いこと、特に沿岸部は大きな社会福祉法人が一つの法人で入所施設やグループホームをいくつも運営していることが多く、1か所が被災しても、同じ法人で他の施設で対応した事例が多いようです。逆に、ヘルパー事業所など多様なサービス事業所がないのが特徴です。
 避難所での障害者はどうだったか、車いすを使う障害者が一旦地域の学校の体育館に行ったけれども、多くの人がいて、トイレにさえ行けずすぐに引き返したこと、知的障害者がパニックを起こし、その人の親が本人共々死にたい思いをした事例など、阪神・淡路の時と同じようなことが起こっているように感じます。また、阪神・淡路以降、福祉避難所の必要性が言われ始めましたが、今回の震災で福祉避難所までたどり着けない障害者がどれだけいたか、これまでの震災の教訓がいかされなかったと言われます。これは、グループホームや災害が起こった時間帯に通所の施設サービスにいることが多い知的障害者や精神障害者に比べ、身体障害者の死亡率の多さとも重なっています。そもそも福祉避難所があっても広範囲に1か所であるだけで、本当に支援が必要な障害者にとって単に避難を受け入れる以前に避難場所までの道筋や支援する機能そのものをどう整えていけるのか、その体制作りが問われてきます。
 また、一般の指定避難所に障害者がいるかどうか、各避難所で十分に把握できていない状況も多いようです。現地の障害者グループが各避難所に回り、調査したところ、避難所の責任者が「ここに障害者がいませんよ」と答えた横で、知的障害の男の子が走っていたという状況があったそうです。本当に支援が必要な人に、日常から必要なサービスや地域の誰かとつながりがあるのか、個々の障害者が孤立せずに地域で存在あるものになっているのかも大きな問題として残ります。

(2) 現地に行って
 避難所から仮設住宅へ移行していく時期に、私は宮城に行きました。石巻など沿岸部を車で走ると、ただ人間の無力さを感じるしかありませんでした。その時すでに3県の盛岡・仙台・郡山に被災地障害者センターができており、それぞれ地元の自立生活をしている障害者の人たちが、被災障害者の支援などの方向性を示し、全国からくるボランティアをコーディネイトしていました。支援のあり方も、緊急・「体当たり」型でやっていく時期から、地域ごとの社会資源を探しながら、支えあえるネットワークを模索していこうとする時期でした。同時に仮設住宅にも多く行くことができました。
 仮設は砂利道が多く私なども歩きづらい上、スロープのある所でも雨などで水捌けが悪く滑りやすい、家の中は狭い上に段差が多い、通院や買い物に行くのがたいへんといった声が多くありました。ある弱視の一人暮らしのお父さんの所にいくと、「こんなことされたらいつまで続くか気になるから止めて」と照れ臭そうに言いました。また高齢の親と障害者本人どちらも支援が必要で、経済的にも苦しく、狭い仮設の生活も難しく、先行きの見えない方もいました。慣れない仮設での生活が始まり、日常的な不自由さをさらに感じている人が多く、すでにサービスを利用していた「被災障害者」ではくくれない要援護者がいました。そうした人たちにどういう制度があり、地元行政なり社会資源とつなげていくことをやっていました。また、センターでは、家にいてサービスをまだ使えていない障害者と出会い、つながっていく活動にも力点を置いていました。サービスを提供する事業所も、私が回った名取市も高齢者対象の所がほとんどで、仙台市を除くほとんどの沿岸部の自治体も同様の状況でした。
名取市内の被害を受けた
障害者事業所
名取市の仮設住宅
荒浜地区(仙台市若林区)

(3) その後
岩手県宮古市の被災地障がい者センター
 昨秋頃から沿岸部各地で被災地障害者センターができ、ゆめ風基金の取り組みによると連携拠点も含めて12ヶ所あります。地域資源の調査から、被災地域の障害者自身への活動に移っていきました。沿岸部のほとんどの拠点も地元の当事者や以前から活動していた地元の団体が担っています。石巻では地元の車いすの障害者が中心で、日々の要援護者の支援、地元のバリアフリーの調査状況などの情報発信をされています。彼らは、震災以前は自宅での生活がほとんどでしたが、仙台のセンターの自立している障害者とつながることによって、石巻での活動のきっかけになったと言われています。また、岩手県では、障害者派遣プロジェクトという、阪神間の自立した障害者が一定期間岩手に行き、現地の障害者とつながり、様々な企画を通して、障害者が町に出て生活できるような取り組みを続けているそうです。


3. もしも身近での災害が起こった時……

 私は6年前から出身の淡路市で、知的障害者が地域で昼夜生活をしているNPOの事業所で働いています。
 私たちの基本的な考え方は、震災があろうとなかろうと、地域の中での共生の取り組みだと思います。
 もしも私の身近で災害が起こったらどうか、私自身、正直地域への愛着がかなり薄い、弱い人間だと思います。しかし、各地で数多く災害が起こるにつれ、地域とつながっておきたいという気持ちは少しはあります。
 淡路3市は人口の減少と高齢化が進んでいます。さらに淡路市は財政が非常に厳しい自治体で、ほとんどの福祉活動も社協さんに委ねられている状況です。私自身、市内の障害者の状況を十分に把握していませんが、色んな地域活動に長けた人たちと接点をもち、機会あるごとに私なりの問題性を伝えている状況です。その上で、地域活動をしている人から、「○○さんという障害者が地区にいるんだけど」と聞くと、何らかの接点を求めていけたらと思います。また、淡路は消防組織や地区ごとの結束が強い所ですが、そういった所との連携も必要です。それ以前に、自分たち障害者のことを考える仲間を増やし、発言力を高めていかなければという自省の念はありますが。
 障害者が震災から自らの生活を作っていくには、本当に長い時間がかかります。「復旧」や「復興」だけでなく「復活」だと言われる所以です。そして、そのことを理解し、支えあう力を作っていくのは、すぐにはできません。阪神・淡路の時の障害当事者、そして今回仙台で障害者支援している当事者も言っていた共通の言葉があります。「頑張る」じゃなくて、息の長い活動をしていきたいと。被災地した時、本当に弱い立場にいる人間が一番辛い思いをしなくていい社会は、日常から特定のその分野に長けた人たちだけが頑張り過ぎるだけでもいけない、自宅にいても地域の誰かとしっかりつながっているかどうかで左右されるだけでもいけない、その両輪が必要な気がします。個人情報との関係で要援護者リストをどこまでの関係者が把握できるのかという問題もあります。また、私は淡路島で狭い地域の中で誰それがどこで暮らしているか、かなり顔の見える地域の中にいると思いますが、孤立した人にどう支援が行き届くのかという問題もあります。さらに、日常的につながっているように見えても、災害時にはそれどころじゃない、己で精一杯なんだということにもなりかねません。そういうことを繰り返してはならないように、日常の地道な地域とつながっていく取り組みと、障害者など自分たち仲間のネットワークの両方が必要です。