【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 2008年6月14日午前8時43分発生の岩手・宮城内陸地震、2011年3月11日午後2時46分発生の東日本大震災。わずか3年の内に二度の震災を経験し、過疎地域における震災対応、そして復興。本レポートでは、日本国内どこにでも可能性のある震災時における行政対応のあり方について提言致します。



震災時に於ける行政対応の在り方について
~ 二度の震災を経験して ~

宮城県本部/栗原市職員労働組合・自治研究部 佐藤  渉

1. 地震大国日本

(1) 岩手・宮城内陸地震
① 地震の発生
  2008年6月14日土曜日、いつもと変わらない朝、私は前夜の飲み会の後遺症で自宅二階の和室でまだ布団の中に居ました。農作業をやらねばならぬと思っていた矢先、地鳴りがしたかと思うと大きな揺れ、地震? 天井に下がる灯具が天井にぶつかり、床から突き上げる揺れはまるでジェットコースターに乗っているような錯覚に陥る程、強烈でした。S波P波の区分が明確に無い事、震源が遠くない事で予想されていた『宮城県沖地震』が襲来したのだと私は確信しました。我が家の電気は一瞬にして途絶え、震源地域は何処なのか? いったいどのような状況か? 情報を得る術はありませんでした。無論、家の中は家具や電化製品が倒れ散乱し無残な状況の中、ラジオを探し出すのも容易ではありませんでした。第一、私はじめ家族は皆パニック状態で何をどうして良いものやら……後で冷静に考えれば、車のテレビが有ったではないか! と反省した処でした。震源地に近い栗原市の二つの支所の地震計測器は壊れ観測不能、遠く離れた本庁分庁舎の計測器で震度6強を観測していました。
  私は母と当時6歳と4歳の息子達の安全を確認した後、職場に急行しました。その道すがら、無残な光景が次々と目に飛び込み、地震の凄まじさを目の当たりにしました。やっとの思いで職場に到着したものの、庁舎の中は昨日までの事務室の様子と一変しており、机、椅子、キャビネットは無論、天井や壁が落ち、執務スペースを確保するのも容易ではありませんでした。市役所は町村合併に伴い、他地区より通勤している職員も数多くおり、遠距離通勤が弊害となり、多くの職員はまだ支所に到着していませんでした。
② 指揮系統の混乱
  非常用電源設備のある支所ではテレビを見る事ができ、震源地は内陸部の岩手県奥州市衣川で、想定されていた宮城県沖では無いと判明。余震が断続的に続く中、庁舎内の現地対策本部を設置するため、ガレキと化したキャビネット等を片付けました。当時、私の職場は本庁より15㎞程北西にある支所で、本庁より震源地に近くまた、山間地域であるため、被害は甚大であると予想されましたが、幸い震源地は支所管轄外で、隣の2支所よりその後の対応は容易でした。
  栗原市は2007年に栗原郡内の9町1村が合併し誕生した新しい市です。市では、かねてより想定されている宮城県沖地震に備え、様々な震災訓練をしていましたが、自分の街が被災の中心地になる事は想定していませんでした。国県より指示を受けながら行動する事に特化した訓練は数多くしていました。震災のその時、指揮系統は混乱、本庁、支所の役割、分担や決定など、采配は当初の段階で大きく崩れました。また、災害対策本部も本庁と離れた免震構造の消防庁舎に置く事でシミュレーションしていましたが、多くの決定権を持つ中央省庁の職員、自衛隊、消防庁などの人たちをそこに同居させるには余りにも手狭であることから、本庁の講堂に災害対策本部が設置されました。本庁・分庁・支所方式を採用している当市の問題は、災害時に於ける指揮系統が、光ケーブル、他の通信手段が断裂してしまうと、指示や報告が全く出来なくなる事でした。結局、支所独自での情報収集を行い、災害現場で本庁、支所職員が鉢合わせになったり、状況確認が遅れてしまうことなど、2次的被害が起き兼ねない事態が生じてしまいました。また、他県から応援に駆けつけてくれた皆様に適切な案内が出来ず、本来、応援の必要な場所に派遣出来なかった事も大いに反省すべき点でした。
③ 災害復旧
  岩手・宮城内陸地震時は幸いにも、地震発生日の夕方には多くの地域で電気が復旧、真っ暗闇の夜を避ける事ができました。優先的に復旧作業が行われた基地局、拠点の固定電話が使用可能となり外部とのコンタクトも取れ始めました。しかし、水道は多くの地区で本管が破損し破損箇所の特定や水源地への道路が寸断されたことにより職員が現場まで到達できず、完全復旧まで数ヶ月も要した地区も有りました。私の自宅はまさにその地区に該当し、幼稚園でわんぱくに衣服を汚してくる子どもたちの衣服を近所の川で洗濯、風呂は石油バーナーでしたが、水道管が空の状況で安全機能が作動せず結局風呂は使い物にならず、自衛隊が設営(震災発生から数週間後)した仮設風呂へ車で通う生活がしばらく続きました。さらに、自分が仕事で朝4時から深夜まで給水活動を行っているにも関らず、自宅には飲み水さえ無く結局深夜に我が家の分を汲みに行かなければならない状況は、身も心も疲れ果て涙の出る思いでした。この時期は農繁期でもあり、道水路等の仮復旧と並行して地震により崩落してしまった珪畔(けいはん)の復旧、地割れて水が溜まらない溜め池、以外の方法で水田へ用水を確保しなければなりませんでした。有畜農家への対応などにも苦慮し、大量に必要な家畜への飲料水が確保出来ず、結局家畜も避難させるしか無い地区もありました。その間も余震は断続的に発生しており、山腹崩壊により孤立してしまった地区へ救助に向かうが、余震により新たな二次災害に遭遇する危険にさらされての救助活動でした。

(2) 東日本大震災
① 地震の発生
  2011年3月11日、3年ほど前の内陸地震の復旧途上の中、またしても大地震が私たちの街を襲いました。東日本大震災です。栗原市は国内観測史上最大震度7を観測し、電気、水道、電話、その他のライフラインを一瞬にして失いました。震災当日、私は固定資産の部署で、支所の会議室で確定申告の業務に従事していました。住民と申告相談をしている最中に揺れはじめ、内陸地震とは明らかに違い、S波・P波の区分ができました。今度こそ紛れも無い宮城県沖地震の到来と感じつつ、「これ以上揺れるな。強く揺れるな」と念じていました。何故なら、住家被害の罹災調査従事の事を思い浮かべ頭がいっぱいだったからです。後で聞くとそれぞれの会場で固定資産職員は、自分の身の安全もさる事ながら罹災調査の事だけ考えていたそうです。祈りはむなしく、揺れはますます強さを増し、シェイカーの中に身を置いた感じで、悪夢は繰り返されました。揺れが一旦収まり、庁舎内に居た住民、職員は外へ避難しました、雪が叩きつける悪天候の中、ある者は地震の恐怖に脅え、またある者は寒さに震えていました。しかし、今回の地震はそんな状況は序の口で、その後沿岸部では、津波の襲来や原発事故と大惨事と化していきました。
② 二度目の震災で指揮系統は完璧だったか?
  前回の内陸地震の教訓を活かし、初動体制は比較的スムーズに行えた様に見えました。職員をはじめとした人の流れ、避難所の開設、物資の流れ等々。しかし、前回の地震と大きく異なったのは、被災地域が余りにも広域であり、近隣地区はもとより、隣県も大きく被災し物資や人員の応援を望めなかった事です。内陸地震の経験を踏まえ、後の災害に備え吟味した工法を用いて復旧した携帯電話基地局など、そのポテンシャルを遺憾なく発揮、地震後、電波が途絶える事はありませんでしたが、肝心の電源の供給が途絶え、翌日の朝には全キャリアの基地局がダウン、水道は断裂し使用不能に、雨水を利用したトイレも長期化する断水で数日後には使用不能となりました。さらに、燃油の供給が途絶え、災害調査、復旧に向かうにも車が使えない事態となりました。もう数日すれば状況は改善するだろうと耐えましたが、来る日も来る日も一向に状況は改善されず、食べ物も種類や量が日に日に減っていきました。ガソリンの入っている公用車に、定員いっぱい乗車して現場に向かい職務。帰路、個人商店のシャッターが少し開いているのを見つければそこにある食料を譲ってもらい職場の皆で分け合って食べる。そんな生活がしばらく続きました。「ガソリンが無いので帰らない、帰れない」「帰った所で闇夜じゃなにもできない。だから庁舎に泊まる」そんな職員が続出していました。
  指揮系統はダウンしていませんでしたが、その命令に従い動く職員が疲労と苦痛で、どんどん動きが鈍っていきました。私のミッションであった住家被害調査にあっても、雪の降る中、寒さに耐え調査、昼に現場に乗り合いで行った公用車の中で、持たせられた小さなおにぎり1個とバナナ1本程度の食料を口にします。もちろんガソリンがもったいないので、エンジンをかけずに身を寄せて寒さをしのぎました。
  震災から1月近く経った4月、一部の地区で電気、電話、携帯電話等ライフラインがある程度復旧しはじめました。しかし、燃油は依然として先行きが不透明で、職員は部署毎、住所地区毎にユニットを組み、自家用車で乗り合い通勤していました。久しぶりにテレビの映像を見る事ができました。津波被害、原発事故による沿岸部の状況と比較すると我が街は、まだましな方だと認識し始めていた中、沿岸部への職員派遣の話が持ち上がりました。自分の街の最低限の復旧も終っていないのに……。と職員の多くはそう思ったはずです。しかし、国も県も、圧倒的に職員数が足りていない状況を鑑み、沿岸部への応援に行かざるを得ない雰囲気でした。そして4月7日23時32分最大余震震度6強が発生、1月近く積み上げてきた復旧の礎がまたしても崩れ去り、街は再び闇夜となってしまいました。
③ 復興に向けて
  岩手・宮城内陸地震の災害復旧も完結していない中での新たな災害。ライフラインが復旧したと言っても使える様になっただけで、本当の復旧はまだまだ先になるでしょう。水道管は断裂箇所を復旧するのでは時間が掛かり過ぎるため、要所要所に貯水枡を設置し露出配管、道路は段差が生じた箇所はスロープ形式に擦り付け、法面崩壊した箇所は土砂を撤去しトンバックを設置、二次被害に備える程度です。廃棄物処理業者はフル操業しても追いつけず、沿岸部より搬入された被災車両が廃業した自動車学校の敷地に山積みになっています。
  今回の大震災による被害総額は約25兆円で被災上位3県の岩手・宮城・福島の県内総生産の合計額に匹敵しています。本当の復旧、復興は何年後になるのか見当はつきませんし、そこに住民が居る限り行政は住民の生活を保障していかなければなりません。

2. 災害に備え何をすればよいか?

(1) 災害初動マニュアル
① 職員初動マニュアル
  前述した通り、栗原市は予想された宮城県沖地震に特化してマニュアルを作成していました。日本国内、どこでも直下型内陸地震は発生の可能性があります。もし震災の中心となった場合、政府直轄の指揮系統の中に組み入れられ、国→県→市区町村とトップダウン形式で伝達される命令系統とは異なり、国が直轄でやること、地方自治体が要望し行う事の使い分けをしっかりしないと現場に混乱が生じます。また、どこの役所においても本庁・分庁・支所等が有り、危機管理部門もあると思います。より迅速な情報の収集、災害に対応するには、危機管理部門と支所職員との連携が重要です。例えば、危機管理部門に大勢の職員が配備されているのであれば、災害発生と同時に一定数の職員を災害対策本部に残し、各支所に危機管理の職員を最低1人は派遣します。支所と本部との連絡は全て危機管理の職員を通し行い、命令、報告、人員要求、人員配備を行います。逆に本部は支所以外の各部門より職員を数名招集し支所からの情報を基に被害の状況を把握し、被害が大きな箇所へ本庁より職員を派遣し、その職員の配備を本部は明確に記録、本庁・支所の職員の重複派遣を防ぎます。より敏速に情報を収集する事は、災害の全容を明らかにする一番の近道で、自衛隊への派遣要請等、より早い段階で判断できると思います。内陸地震時は多くの地区で土砂崩れによる孤立集落が発生し、住民や観光客に多大な不安を与えた事を教訓に、より敏速な情報収集、判断は早い段階で行う事が必要不可欠です。
  また、危機管理部門の職員が少ない場合は、支所災害担当職員のスキルを上げる事が不可欠です。具体的に言うと、危機管理部門の内部を知り尽くし、なおかつ消防団等との調整も同時進行で行わなければならない為、相当程度の高い能力が必要となります。当然、自らが支所の現地対策本部の事務局を掌る訳ですから、適切な人員管理を行わなければなりません。
  以上の通り、災害対策本部と支所との敏速で正確な情報、命令が鍵となり通常業務での役職というより、緊急時においては、危機管理部門の職員を指揮の中心に据えた方がよりスムーズに進むと確信しています。
② 住民初動マニュアル
  地域防災計画等、各自治組織に於いても初動マニュアルがある程度整備されていると思います。住民にあっては、まず自分の身の安全を確保する事、次に災害防災拠点に速やかに移動する事です。震災時は例え自分の家が無傷であったとしても、防災拠点に住民が寄る事により、行政区長、自治会長等が短時間に安否確認ができる事、また、避難時に住民が目撃した被災現場等、情報が容易に集まりやすい等の利点も有ります。併せて、独居老人等住居が被災していた場合など、人手を要する事象が発生したときなど、拠点に人が集ることはとても有効です。
  今回の大震災時も、住居の被災は軽微であったものの、ライフラインが被害を受けていた為、結局、避難所に逃げ込む住民も少なくありませんでした。
  震災時は自助共助が必要不可欠であり、職員のみでは把握しきれない様々な情報を住民から提供してもらう事もポイントとなります。

(2) 災害に備えて
① 非常時に必要なもの
  ホームセンターやスーパーなどで売っている災害用非常用品は非常に有効です。しかし、商品の多くはせいぜい数日程度の食料品等が詰まっているのが普通で、長期間の対応はしきれません。大半の住民は災害時であってもスーパーやコンビニ等で買い足しすれば良いとか、避難所に逃げ込めば何とかなるだろうと考えていると思いますが、実際はスーパーやコンビニも店員が出社出来ない、電気が無ければ営業出来ない等で買い足しする事は不可能と理解すべきです。私の住んでいる地域は、最寄りのスーパーやコンビニへは車で片道20分程度掛かります。よって、各家庭では、ある程度の食料、飲料水等が常時備蓄されています。近所のある家庭では、大型の冷凍庫があり、震災時、「夕べは冷凍していた刺身が解けかけて来たので食べた。今朝は朝から牛タンを焼いて食った。今夜からは冷凍庫の上から順に冷凍食品を食べるよ。豪勢に食っても1週間程度は食いつなげる」とか、「家の風呂は薪焚きが出来るボイラーだから昨夜も風呂入ったよ。シャワーは水道が使えないので無理だが風呂入りにおいで」などと、不便な地理的要件を逆手にとって災害時に強みを発揮した事実もありました。
  食べ物、飲み物は何が無くとも人が生き延びるために必要で、他力本願的な考え方では立ち行きません。今回の大震災時においても、我が街と沿岸部の被災状況は、避難所で提供された食料にあっても大きく異なったと言えます。そして何より、自分だけではなく、助け合う「共助」の心が必要であると思います。
② 避難所の運営
  家屋が被災し避難所に逃げ込む者、家屋は安全でもライフラインがダメになった者、避難所に避難する者は様々です。そして、今回の大震災では、沿岸部で被災した方々を受入れなければならない事態も生じました。災害発生直後は避難所に駆け込む住民も自分の身が大事、安全な場所に身を置く事で心が落ち着くようです。当然、住民の被災レベルは様々ですが、分け隔て無く平等にサービスを提供しなければなりません。しかし、時間の経過とともに「女性や子どもに配慮してくれ」「プライバシーを確保して欲しい」「避難所間のサービスの比較」等、苦情などの言動がぶつけられ始められます。実際、昼間は自宅に戻り家の片付け、夜は避難所で眠る。食事も無料で提供される避難所で摂る。問題は明らかに軽微な被害であるにも関わらず、避難所が近くにあるので避難とか、食事が無料なので……とか。自己都合で利用しています。しかし、食事を提供するJA女性部の方の自宅は被災、ガソリンも手に入らない中、遠方などから乗り合わせてボランティアの炊き出しに従事し、それを食べるのが大きな被害も無い街中の若い人たち、なんとも腹立たしいとの声も聞かれました。
  行政として、このようなケースの場合は避難者に対し「遠慮願いたい」と言う事は出来ず、あくまで被災住民として平等に扱わなければなりません。民間人員の活用においても、また新たな問題として起きてきます。
③ 復旧がある程度進むと
  ライフラインが復旧し始めると住民は当然自宅に戻り始めます。そうすると、被災した住居やその他の施設に関して「いったい行政は何を補償してくれるのか」「罹災証明の発行対象となる位被災しているので何か助成をしてくれ」等、被災者との認識のうちに、ありとあらゆる案件に関し行政補償を求めてくるケースが否めません。また、私が水道設備の復旧現場に赴いている折、復旧済地区で漏水していると住民から連絡が有ったので急行してくれとの命、現場に行ってみると……60代後半と見える夫婦が水道の蛇口をいっぱい開けコンクリートを錬っていた。「水道が漏水しているとの連絡を頂いたのですが」と話すと「あっ、ここ、ここ」と案内されたのは道路を隔てて走っている農業用水路、「地震前から大量の水が流れると少し漏るんだよね。地震で傷口が広がったかな」と悪びれる様子も無く語った。「防災無線でさいさん呼びかけていますよね? 水道が完全復旧していない中、節水に協力願いたいのですが。水路は申し訳ありませんが後日対応でお願いできませんか?」と話すと「漏水で土手が軟らかくなっている。落ちたら行政で責任とってくれるのか?」と勇んで語る。結局、肥料袋を水路脇に埋設し土手に水が浸透しないよう応急処置をしてきた。とても災害時の状況とは思えない傲慢な方だなぁと思いつつ、行政でいくら呼びかけても自分勝手な方は存在する。そして、避難所でもいえる事ですが、住民はそれぞれの生活を誰にも邪魔されない空間を早く取り戻したい、一刻もはやく元の生活に戻り安心したいと考えているのだと感じました。

(3) 行政は何ができるか?
 我が国は地理的に地震が全国どこで起きても不思議では無い事は皆様もご承知のとおりです。政府はこれまでの大震災で何を教訓としてきたのか? ローカルエリアは地方公務員同士の相互支援にて解決すべきと考えているのだろうか? 私はタイプの違う二度の震災を経験して、震災の規模により政府の思案する通りに事が進むもの、そうでないものに分けられると考えます。特に、大震災時は人員をメインとするありとあらゆる物資、ライフライン、そして2次的被害、それらを地方で賄え切れなかった現実を踏まえれば、国は何らかの方策を考えていかなければならないと考えます。沿岸部の町役場から被害報告・情報が来ない……、庁舎は津波で被災し職員の多くも津波の犠牲になっていました。完全に機能ダウンしている中で、国や県、近隣市町村へ支援・応援要請を発信する事さえ不可能な状況を踏まえると、そこに生き残った住民の安全を確保してゆくのも非常に困難であると言えます。
 日本は、高度経済成長を遂げ、多くの国から先進国と認められている国です。様々な経験を基に多くの難題も解決し発展して参りました。災害にあってもそれを克服し、そして復興していかなければなりません。
 私たちがこうしている今、明日、いや、この瞬間に宮城県沖地震、あるいは関東大震災、東海地震が発生するかも知れません。政府は先人の知恵として、国民を守ってくれるのでしょうか?
 多くの大震災が予想されている中、震災時における一早い対応と国民の安全を真剣に考え直さなければならない時期と考えます。今、地方自治研究全国集会において、私の経験を報告し、大規模災害時の「国民・住民」の安全確保に向けた提言を皆さんと共に考えて頂きたいと思います。