【論文】

第34回兵庫自治研集会
第3分科会 自然災害に強いまちづくり~災害から見えた自治体の役割~

 忘れてはいけない「東日本大震災」。しかしマスコミ報道は日に日に減り、原発再稼動の話ばかりが流れている。被災地の「イマ」はどうなっているのか? 自治労の仲間たちは元気なのか? 実際に見て、聞いて、感じるために組合有志による復興ツアーを企画。日本の復興には人の繋がりが大事だと再認識したツアーの報告。
 私たち行政職員は、バッシングの標的にされ厳しい状況にあるが、もっと胸を張って頑張っていけばいい



被災地復興応援ツアーを企画して
~語り継ぐこと。忘れないこと。~

鳥取県本部/鳥取市役所職員労働組合 宮谷 卓志

1. 未曾有の大震災発生

 2011年3月11日に発生した東日本大震災を受け、全国の自治体が復興支援の取り組みを展開している。
 鳥取市においても、地震発生後すぐに建築技師や保健師、事務職員が被災地へと向かい、可能な限りの支援活動を実施した。当初、組合としては原子力発電所事故について情報が乏しい中、組合員の派遣を了承することに躊躇し、組合員からも不安の声が上がっていた。
 しかし、被災して苦しんでいる住民、困っている自治体職員の仲間のことを思い、行政支援にあたる組合員の安全確保について市当局と調整・交渉を行った上で、組合としても最大限の協力をすることとなった。
 そのほか、組合役員自身も、自治労本部主催の支援活動に参加し、避難所運営等に従事。現在では、姉妹都市である福島県郡山市へ税務担当職員を派遣(2012年4~7月)している状況にある。

2. 1年経過~自分の目で確認したい

 震災後、1年を過ぎ、マスコミ報道の頻度も少なくなった。政府は原発の再稼働に向けて動き始め、復興が進んでいる報道も多く見られるようになった。果たしてそうなのだろうか。
 私たち基礎自治体(市町村)で働く者は、いつでも住民と直接触れ合い、会話し、悩みを共有しつつ、業務を進めてきた。
 現在の鳥取市では各種政策についての情報提供のあり方が課題となっているため、組合として今後の支援策を考えるうえで「報道には流れない実態を知るべき」「もっと深い課題、現場に行かないと気づかないことがあるのではないだろうか」という思いを持っています。そして何より「被災地支援として訪れたあの地を、もう一度自分たちの目で見たい。本当に復興は進んだのか確かめたい」という声が組合員から寄せられたことから、『鳥取市職労復興応援ツアー』を企画した。
 訪問先は、多くの組合員が活動した「宮城県石巻市」と姉妹都市の「福島県郡山市」に決定し、参加希望者を募った。企画側としては、3泊4日のうち2泊がバスでの車中泊という強行日程、そして参加費を負担してまで何人の参加者が集まるか不安だったが、総勢25人の申込みがあり、訪問団を結成することができた。

3. 郡山・原発事故の影響は?

原発事故の影響を語る郡山市職の佐藤代表

 5月10日(木)の業務終了後、訪問団は貸切バスに乗り込み、一路郡山市へ。何度かの休憩をはさんだものの、業務終了後からの移動という疲労を感じつつ、明朝8時45分に郡山市役所に到着した。
 到着後、組合四役が郡山市副市長との意見交換を行った。副市長からは「放射性物質の除染に多額の経費がかかり、予算が非常に厳しい」、「何十年かけても市全域を除染することはできない」といった原子力発電所の事故が市財政に与えた大きな影響と先が見えない辛さを語っていただいた。
 一方で「市街地(市役所前)に運動公園を整備し、防災拠点になり得る野球場(防菌の壁、救急室の整備、避難所機能など)の存在が無ければ、もっと混乱し、避難者を受け入れることができなかった」と、ハード面の重要さも語ってくれた。
 その後、郡山市職員労働組合の組合事務所に移動し、組合の佐藤代表から郡山市内の状況をスライドとともに紹介していただいた。
 郡山市の女性団体が作成したスライドでは、「子どもたちの活動する場が失われていること」や、「安全を確認しないまま学校行事を再開したこと」等に触れながら、政府が原子力発電所の再稼働を進めていることに対して、大きな怒りのメッセージを私たちに伝えてくれた。同じ自治労の仲間として、改めて脱原発の取り組みを進める必要性を感じさせられた意見交換となった。

4. 支援隊として過ごした石巻へ再び

津波に全て流された街 遠くには瓦礫の山が

 郡山市訪問を終え、再びバスに乗車して宮城県石巻市まで移動。昼過ぎに石巻市に到着した。石巻市副市長と意見交換をする前に、石巻市職労の役員の好意によって、石巻市内を案内していただいた。
 うず高く積まれた瓦礫の山(かなり低くなったらしいが)、壊滅した市立病院、船や車から漏れたガソリンで燃えてしまった学校など、テレビでみた光景が目に飛び込んできた。『何も変わっていない……』この日の視察は車窓からであったが、津波の被害を改めて認識するものであり、初めて被災現場を目の当たりにする参加者にとっては、衝撃的なものであった。
 その後、石巻市役所で実施した副市長との意見交換には、組合四役が出席した。副市長は、訪問団の受け入れに対して開口一番、『被災地を見て語っていただくことが、風化させないことに繋がる。ありがたい』とのこと。被災地を訪問して邪魔にならないかと不安に感じていた面もあったので、この言葉でリラックスすることができた。
 被害の状況などをお聞きする中で、私たちから「職員も犠牲になり、復興に向けて職員数が足りないのではないか」という問いに対して、『職員49人が亡くなった。合併以降、職員数を減らしてきたが、見直すことも考えられる』、『津波で流された保育園において保育士の迅速な対応で犠牲者を出さなかった。職員の資質向上は重要』と言われるなど、今後、人員確保闘争を展開するうえで、後押しにもなり得る言葉を聞くことができた。
 また、現在予定している防災訓練のテーマは、「とにかく逃げること」に決定した。『慣れは怖い』、『本当に意識が変わった』などと話していただき、自治体の幹部が高い意識を持つことの重要さを再認識し、本市にも伝える必要があると感じた。

5. 組合役員の葛藤、人の繋がり

 その後、東北労金の会議室に会場を移し、石巻市職員労働組合の畑山執行委員長をはじめ、組合役員と訪問団全員が意見交換を行った。
 畑山委員長は、「組合員は、地震発生直後から自分の家が流されても懸命に働いていた」、「市当局は、職員は市役所に缶詰状態でも仕方ないという雰囲気であったが、組合員は心身ともに疲弊していた。組合が交渉した結果、4月になってからようやく帰宅することができた」と苦しそうに話された。
 「被災者を助けないといけない。自分のことはさておき住民のために頑張らないといけない。」という行政職員としての思いと、「組合員の身体や家族のことを気遣い、過労死やうつ病、労働災害などの2次被害を防がないといけない」という組合役員としての思いが交錯し、葛藤された中で組合として決断したのだろう。
 また、「防災無線が十分に機能しなかったこと」や、「指定した避難所ではなく、想定していなかった避難所が多数できたこと」など、想定外の事態が続出し、その場での判断が非常に重要であると感じたという。自治体に働く正規職員としての判断力や決断力が問われ、奮闘されている職員の皆さんに、ただただ感心させられる中、畑山委員長の「自治労はもちろん、他の自治体からの支援がなければ今はない」と話していただいたことが救いとなった気がする。
 今後の復興計画への関与や職員のメンタルヘルスなど、組合としても重要な役割を果たしていくと思うが、何より「人の繋がりが大事であり、今回のツアーは間違いでなかったこと」を実感した瞬間である。
 意見交換終了後は、石巻市内の飲食店で交流会を開催し、お互いに自治労組合員としての団結を深化するとともに、わずかではあるが地域経済に貢献できたものと思う。

6. 自然に育まれた南三陸の今

骨組みだけになった防災対策庁舎

 次の日は、南三陸町役場を訪れた。津波に流されるまで防災無線で住民に避難を訴え続けた女性職員の話は有名であるが、どうにか助かる方法がなかったのかと感じていた。
 改めてその場を訪れると、役場の防災対策庁舎は骨組みだけ残り、隣にあったはずの役場をはじめ、見渡す限り建物は残っていない。少し海側に大きな病院が流されずに残っているが、屋根には流されてきた船が乗ったままであり、強烈な津波の破壊力の前に生き残る手段が思い浮かばなかった。


殉職された行政職員の仲間に思いを馳せる

 犠牲になった自治体職員の仲間に献花し、約30分、各自が周辺を散策した。土台だけ残った建物。地盤沈下してできた水たまり。ひびが入った堤防。どこから手を付けるのか。ここにもう一度町を作っていくのか。行政職員としてどうすべきか。立場を置き換えて考えると途方にくれてしまった。
 先人たちが何十年もかけたインフラが一瞬にして失われた。残っているのは人々の記憶と経験である。この場で生きた、暮らした人の経験なしに復興はあり得ないと感じた。


 その後、「南三陸さんさん商店街(復興商店街)」で昼食休憩をとった。石巻市中心市街地にあった復興商店街は地元住民向けであったが、ここの商店街は来町者向けの造りであった。イベントスペースが設けられ、飲食店(海鮮丼がおいしかった)や土産物が中心であった。そうした中でも、訪問団の皆が足を止めたのは、とある写真店であった。
 南三陸町の今と昔を記録した写真集を多くの参加者が購入した。写真を見ると、南三陸町は本当に自然が美しい町だった。自然の美しさと恵みによって栄え、自然の猛威と破壊力に翻弄されたまち。写真店の店員さんは、「怖くて海の方には近寄れない」と話していたが、「この町に住み続けたい」と言われていた。
 それだけ魅力的なまちだったのであろう。こうした方の記憶がこれからのまちづくりに生かされていくことを切に願う。


 
さんさん商店街の写真店
 
店頭には震災前の南三陸町が

7. 自治体職員として

 南三陸から再び石巻に戻って、石巻災害復興支援協議会の語り部(元市議)から、震災直後の状況を伺った。様々な話の中でも、『自治体職員は、自分も被災者なのに、自分の身を顧みず本当に頑張ってくれた』、『全国の自治体職員が助けてくれたおかげで今がある。本当に頼もしかった。人の繋がりを大切にして、これからもよろしくお願いします』という締めのお言葉に参加者全員が胸を熱くした。
 年々、公務員バッシングが強くなり、自治体職員は削減され、私たちの尊厳や仕事に対する誇りは痛めつけられてきたが、『もっと自信を持てばいい。しっかり住民のために働いているのではないか』と思うことができた。
 松島のホテル大観荘に立ち寄り入浴。訪問団の皆で夕食をとった後、それぞれの思いを胸に鳥取行のバスに乗り込んだ。
 被災地とは陸で繋がっている。たまたま地震や津波が来ただけで同じ日本なのだ。私たちは、この教訓や経験をどの程度共有することができるのか。まちを作るのは人であり、特にまちづくりや福祉、防災に関わる私たち行政職員は、今回の経験を活かしていかないといけないと感じるツアーとなった。
 帰鳥後、「当ツアーの記録集をビデオ編集し集会等で上映」、「組合ウェブサイトに写真を公開」、「市内の女性団体を対象とした男女共同参画研修で講演(報告会)」のほか、「防災担当者と今後の防災計画について意見交換」など、様々な角度から語り継ぎ、体験を活かす取り組みを展開している。
 また、自治労鳥取県本部と連携して、『大規模災害時に行政サービスはどうあるべきか(仮称)』をテーマとした自治研集会の開催を企画中である。
 ただ、こうしている間にも、被災地では多くの方が悩み、苦しんでいる。自治労の仲間も早期に退職し、残された職員に負担が増えて、メンタル不調を訴える方も増えていると聞く。厳しい情勢であるが、できることを一つずつやっていくしかない。今後も、あらゆる角度から可能な限りの被災地支援を継続していきたい。

〇余談
この経験を糧とし、心新たに。
 今回の訪問団には、ドイツの国際交流員も参加していた。(本人の希望によって全額自費負担で参加)
 彼は、ツアーの最後に、「被災地を訪れて本当によかった。ドイツに戻ったらこの経験をドイツの仲間に広めたい」と語ってくれた。石巻の語り部さんが言われた「この状況を知り、広めてほしい」というとおり海外にも広がることを祈る。