【要請レポート】

第34回兵庫自治研集会
第7分科会 貧困社会における自治体の役割とは

 2008年に起こったリーマン・ショック。その直後から年末にかけて、わが国でも「派遣切り」によって仕事も住むところも奪われる人々が急増しました。人々がハローワークにあふれ、地下道で寝泊りする人々も増える中、空腹で倒れる求職者を見かけた一人の組合員が抱いた問題意識が、大きな支援の輪を形成するきっかけとなりました。その活動は少しずつ態様を変えながら、3年半以上経つ今も続いています。



貧困と向き合う「あったか相談村」


富山県本部/一般社団法人富山県地方自治研究センター 又市 秀治

1. あったか相談村の開村

(1) 「見て見ぬふりはできない」
① 社会問題化していた派遣切り
  2008年の暮れのある日、自治労富山県本部の地域公共ユニオン福祉支部の女性組合員Nさんが、失業手当の手続きのためハローワークを訪れていた。テレビや新聞でも派遣切りが報じられ、社会問題になり始めていた時期、ハローワークには長蛇の列ができていた。そのとき、Nさんの列にいた高齢の求職者が倒れた。空腹が原因だった。
  その頃、ハローワークに程近いJR富山駅の地下道にも、明らかに新規のホームレスの人々が増えていた。「これは大変だ。」そう思ったNさんは支部の会議でそのことを口にした。皆が「見て見ぬふりはできない。何かしなければ。」となった。さっそく福祉支部のS支部長らが中心となって、支援の準備が始まった。
② 一時しのぎでは終わらせない
  当初、「年末年始に炊き出しをしよう。」という意見もあった。一方で、「一時的に空腹をしのぐだけで終わらせていいのか。」という意見も出た。話し合う中で、派遣切りに遭って路上に放り出された人々を中心に、社会復帰を促すための取り組みをすすめることにした。
  そして、個人加盟方式の実行委員会を立ち上げ、幅広くボランティアの実行委員を募ると同時に、カンパや食材の提供も呼びかけた。ちょうどその頃、東京・日比谷の年越し派遣村のニュースが流れ始めていたこともあって、実行委員はすぐに30人を超えた。また、様々な個人や団体からカンパや食材が寄せられた。
  実行委員長に就任したS支部長は「我々は労働組合であり、これは労働問題でもある。炊き出しだけでなく、労働組合だからこそできる取り組みもやらなければいけない」と思いを語った。
③ 労働運動の弱さ
  さっそく彼は、自治労富山県本部、連合富山、富山県労働者福祉事業協会(労福協)に協力を要請し、その約束を取り付けた。「派遣切りなどという状況が生み出された原因は、労働運動の弱さにある。ここで労働組合が立ち上がらないでどうする。」S支部長にはそんな思いがあった。
  こうした組織からの支援は、活動拠点の確保につながった。労福協は、ハローワークに隣接する、ボルファートとやまという建物と、富山北モータープールという駐車場を運営していた。北モータープール前の一角と、ボルファートとやまの1階の空きテナントが借りられることになった。炊き出しに使う米を炊くのも、ボルファートとやまの調理場を使わせてもらえることになった。連合富山からは一定の資金提供を受けることになったし、自治労富山県本部が事務局を担い、物資保管や連絡の拠点の役割を担うことになった。
  こうして2009年1月、第1回のあったか相談村がスタートした。
④ 炊き出しと相談
  当日、あったか相談村で炊き出しをしていることを伝えるため、実行委員が早朝からハローワーク前やJR富山駅でビラを配った。真冬の富山県は、その日も雪が舞っていた。
  炊き出しに集った人々は、北モータープール前に設置されたテントの中で、熱々の豚汁をすすりながら、おにぎりやゆで卵をほお張った。そこに相談員が声をかけ、その人の境遇や思いを聞いた。ちょうどお昼時なので、一緒に食事をしながら相談を引き出した。腹ごしらえが終わると、個々の状況に応じて、相談員はボルファートとやまの中に設けた別の相談窓口に彼らを案内した。そこには、3種類の相談窓口があった。
  健康相談の窓口には、組合員やそのOBで看護師の資格を持った人々が待ち受けていて、問診や血圧測定などを行った。病気の人や負傷した人もいた。健康保険証も金もない人が多かったが、無料低額診療制度を利用し、医療機関に連れて行った。
  労働相談の窓口では、不当労働行為などがあれば対応しようと、経験豊かな役員経験者が相談に当たった。
  生活相談の窓口では、ケースワーカー経験者や福祉の制度について知識を持った人々を配置し、生活保護を受給できそうな人であれば、申請を行うため相談員が市役所に同行した。
  このように、各相談窓口で、自治労ならではの経験とそのノウハウは、その力を見事に発揮した。これこそが、S支部長の言っていた「労働組合だからこそできる取り組み」であり、「相談村」と名付けられた所以である。
⑤ 多彩な実行委員
  こうした相談員以外の実行委員も多彩だった。NGO「アジア子どもの夢」や、薬物依存者の更正施設である「富山ダルク」のメンバーなど、市民グループも加わった。
  「アジア子どもの夢」は、文字通りベトナムなどアジアをはじめ世界的に幅広い活動を行っていたが、こうした国内の貧困という危機に黙っていられないと立ち上がった。
  「富山ダルク」は、薬物依存からの脱却のプログラムに、ボランティア活動など社会貢献を取り入れていた。自分たちが「社会の役に立っている」と思えることも精神的な支柱になるのだという。
  こうした、緩やかながらも幅広い支援者のネットワークは、その後も主婦や学生などにも広がっていった。
⑥ 相談の中で
  相談を進めていく内、意外だったのは、県内出身者が相談者の約8割を占めたことだった。しかも家族が近くにいる人も半数以上にのぼっていた。「なぜ家族のところに行かないのか」「家族の支援を求めるべきだ」と言うのは簡単だったが、借金で家族に迷惑をかけたり、家族に暴力をふるっていた過去があったりと、簡単には関係を修復できない、様々な事情を抱えていた。
  また、相談者は男性が多かったが、女性の姿もあった。家族からの暴力に耐え切れず、あるいは嫁姑問題などで、家を出たものの、仕事も行く場所もなく、車の中で寝泊りしている人もいた。


(2) 取り組みから見えてきた課題
① 現場からの声
  手探り状態でスタートした炊き出しと相談は、比較的円滑に、そして和やかに行われていたが、その後の運営委員会では、深刻な表情を浮かべる実行委員もいた。そこでは、次のような意見や感想が出た。
  「仕事も与えずに寮費だけを取り、無一文になったら放り出すような派遣会社が許されるのか。」という派遣会社の実態への怒りもあったし、「あったか相談村を開催していないときに路上に放り出される人をどうするのか。」と心配する声もあった。また、「生活保護の窓口の応対が冷たい。受給させたくないという思いが伝わってくる。」「無料定額診療は金にならないので、怪我で足を腫らした患者に『骨は折れていない』と言うだけで、湿布1枚出そうとしない。」など、全てが相談の現場からの声だった。
  「我々のようなグループや個人では限界がある。やはり行政が一定の責任を果たすべきだ。次回のあったか相談村の前に、県に対して要請をしよう。」ということで一致した。
② 3者連名の要請書
  要請書は、(ア)路上生活者等の実態把握と生活保護等の対応、(イ)生活保護の申請から支給までの期間の短縮、(ウ)住居・所持金のない者への当面の生活費などの援助、(エ)緊急の宿泊場所(シェルター)の確保―という4つの課題について早急に対策を講じるよう求める中身だった。
  実行委員会だけでは重みが足りないと考え、要請は、連合富山会長、自治労富山県本部執行委員長、そして、あったか相談村実行委員長の3者連名で行うことにした。当日は、連合富山の役員も同行した。
  要請書を受け取った県の担当者から返ってきた言葉は、「言っていることは分かるが、窓口である市町村に言ってほしい。」というものだった。S支部長が元々県職員だったこともあり「それはないだろう。」となった。「本来は自治体がそうした人々を把握して対応する必要があるんじゃないのか。我々は、炊き出しにしても、今日の話し合いにしても、みんな無理して休暇を取ってやっているんだ。」
③ 市役所からの苦情
  あったか相談村に対しては、市役所側からも組合を通じて苦情が伝えられた。「せめて事前に知らせてくれれば」というものだった。これは真摯に反省すべき点だった。初回は手探り状態だったとはいえ、いきなり生活保護の申請を行う窓口に何人も押しかければ、窓口も混乱する。逆に、あらかじめ実施日と時間帯を伝えておけば、窓口でもそれなりの準備をしておくこともできるということで、2回目以降は事前に伝えることにした。
  また、一部の実行委員が「クレーマー」化していたことも分かり、「窓口で対応する職員も自治労の組合員だ」と、冷静さを失わないよう戒めた。


(3) 生活保護
① 生活を立て直す第一歩
  2回目以降も様々な相談者が現れた。「仕事を紹介してくれ」「お金を貸してくれ」といった、対応できない相談も多かったが、「何とか生活を立て直したい」「路上から這い上がりたい」という人々も少なくなかった。こういう人が生活を立て直すには、まず生活保護を受給するしかない。しかし、彼らには住まいがなかった。
  生活保護は、住まいのない人が申請することはできても、住所がなければ受給できなかった。だからこそ「シェルター」が必要なのだが、そんなものはなかった。アパートを借りようにも、敷金を払うお金もなく、もちろん保証人になってくれる人もいなかった。
② 住まいの確保
  あったか相談村はアパートの手配に乗り出した。富山県庁職員生活協同組合(県庁生協)の特約店になっている不動産会社に事情を説明し、協力を求めた。保証人欄には「あったか相談村実行委員会」と記載することになった。
  また、当面の家財道具も必要だということで、あちこちに提供を呼びかけた。電器店にも相談したところ、回収して修理したものの、売れない中古の電化製品を提供してくれた。冷蔵庫、テレビなどは処分に費用がかかるため「ぜひ持って行ってくれ」と言われた。そのほかにも、家庭で使わなくなった電気コタツ、炊飯器、オーブントースターなどの品々が寄せられた。古くなった布団や毛布、衣類から、食器や鍋など生活用品も集った。
  あったか相談村を開催した後の週末は、入居作業だった。実行委員が手分けをして車を出し、こうした生活物資をアパートに運び込んだ。
③ 受給までのケア
  相談者が入居した後も、ケアが必要だった。まず、受給までの約3週間を食いつないでいかなくてはならない。入居当初、わずかな手持ち現金とともに、支援者から提供された米や野菜、インスタントラーメンやレトルト食品、缶詰などを渡すが、自炊の習慣のない人も多い。週に1回程度、野菜などを差し入れながら、様子を見に行った。
  ちゃんとアパートにいるか、健康状態はどうか、酒は飲んでいないかといったことを確認した。受給まで持ちこたえてもらわなければならないし、アパートの敷金は実行委員会が立て替えていたため、また路上に戻り、行方不明になられては困る。そんな思いもあったが、相談者はこうした訪問を喜んでくれていた。差し入れも感謝されたが、話し相手もほしかったようである。
④ 敷金の精算
  やがて、受給日がやって来た。金融機関で生活保護費を引き出すとき、実行委員が相談者に付き添った。心配な人の場合、事前に通帳やキャッシュカードを預かっていた。そして、引き出した中から、実行委員会が立て替えた敷金を返金してもらって、終了となる。
  「これは、あなたが生活を立て直すためのお金です。屋根のあるところに暮らし、お金も手にできるようになりました。でも、これは本来、社会のお金です。ちゃんと仕事を見つけて、ちゃんと自分で生活しなければ、また元通りですよ。」そう相談者に言って聞かせた。
⑤ あきらめた人々
  もちろん、生活保護を希望する人ばかりではない。炊き出しだけを目当てとする人もいた。ずっと前から路上での暮らしを選択し、既に社会復帰をあきらめた人々だった。彼らにはお腹いっぱい食べてもらい、ラップでくるんだ数個のおにぎりをおみやげとして手渡し、「来月もまたあります。それまで元気でいて下さいね。」と声をかけた。
  実際、この炊き出しは5月まで続けられ、その間の利用者の延べ人数は274人にのぼった。
⑥ 県外からの支援
  6月は食中毒が増える季節ということもあって、炊き出しは中止し、代わりにパンを配布することになった。そのパンも、あちこちに支援を求めたところ、7月、8月には、富山に営業所のある愛知県の製パン会社が菓子パン計400個が提供された。また、こうした活動が認められ、東京の連合本部から100万円の資金助成を受けることができた。
  その後、夏季限定のメニューには、冷やしうどん、冷やしそば、かき氷なども登場していくが、夏の間も、こうした取り組みを続けた結果、アパートに入居する相談者は20人を超えていた。また、あったか相談村をきっかけに生活を立て直すことができた人々も、ボランティアに加わり、手伝ってくれるようになっていた。
  その頃、一定の軌道に乗ったということで、実行委員長は、S支部長からNさんに代わっていた。

○あったか相談村 利用状況(2009年1月~5月)
実施日
利用者数
相談者数
生保受給
実行委員
1月28日
40人
10人
3人
37人
2月25日
60人
10人
2人
39人
3月17日
44人
12人
4人
44人
4月23日
80人
11人
3人
32人
5月28日
50人
10人
2人
37人
合 計
274人
53人
14人
189人


(4) 取り組みの見直し
① 路上に戻った人々
  その頃、一度は保護開始決定を受け、アパートに入居しながら、再び路上に戻る人々も現れていた。仕事を見つけて生活保護から脱したものの、お金の使い方が分からなくなっていたのである。せっかく受け取った賃金を一度に使ってしまい、家賃や水道光熱費が払えなくなり、行方不明になった人もいた。
  実行委員長のNさんは、「どれだけ支援しても、思いが通じないことがある」と悔しさをにじませた。
  あったか相談村がケアできるのは、相談から生活保護申請、受給まで、長くても1ヶ月間程度である。しかし、それ以後の期間も、生活指導など日常的なケアは必要なのだ。だが、それは自分たちの限界を超えることだった。
  失意の中でも、炊き出しは続けられた。再び寒い季節を迎え、炊き出しも本格化し、トマト鍋などもメニューに登場した。炊き出しは喜ばれたし、実行委員たちも元気を取り戻すことができた。
② 全国の支援団体との連携
  2011年4月、全国各地のホームレス支援団体が富山市で交流会を開いた。これは、あったか相談村の実行委員会が企画したものだった。東京、京都、福岡、鹿児島など各地から支援団体の代表者たちが集った。
  交流会で話し合われたのは、生活保護後の相談者との関わり方だった。やはり、放っておけば元に戻ってしまいかねない。それをどう関われば、立ち直らせることができるのかということに、多くの人々が悩んでいた。
  また、支援団体どうしが、今後もメーリングリストなどで情報を共有し、連携を深めていくことも確認された。
③ 新生・あったか相談村
  これを機に、活動の見直しが始まった。ボルファートとやまの空きテナントも借り手が見つかり、使えなくなったこともあり、場所も通りの反対側にある、県民共生センターの調理室を借りて行うことにした。そこで始めたのは、単なる炊き出しではなく、料理教室だった。自炊に慣れていない人々に、節約料理術や、簡単メニューを教えるのだ。もちろん相談も行っており、県青年司法書士会のメンバーも加わってくれている。
  この新生・あったか相談村は、開村から3年半以上経つ今も、笑顔あふれる調理室で、貧困と向き合っている。
  その間、立ち直った人の中には、毎回楽しみに通ってくる人々もいる。きっかけさえあれば立ち直ることができ、それを忘れない人もいるのである。
④ 窓口の増員と組織内議員
  この春、富山市の社会福祉課で増員があった。人員増は労働組合も求めてきたことだが、組織内議員が直接指摘して実現したものだった。
  社会福祉法では、ケースワーカーの配置基準を、生活保護受給80世帯に付き1人を目安としているが、富山市は1人あたり100世帯を超えていた。富山市に組織内の市議会議員は3人いるが、彼らも、あったか相談村で、相談に乗ったり、生活保護の申請のために窓口に同行したりした経験がある。そうした経験の中で、行政側の人手不足により、十分なケアや指導ができていないことを知っていたのだ。
  本来は最も連携していくべき、あったか相談村、行政の窓口、市の労働組合は、まだ連携できているとは言えない。しかし今、その潤滑油の役割を市議団が担ってくれている。