【要請レポート】

第34回兵庫自治研集会
第8分科会 都市(まち)と地方の再生とまちづくり

石巻市における震災経験と自治体行政のあり方


宮城県本部/石巻広域連合 高橋 利幸

1. 最初に

 これを書いている現在、2011年3月11日の震災から約1年と3ヵ月が経過して、当時の記憶を思いだし書いています。
 当時は記録を取る等の余裕は無く、時系列も大まかになっています。ただ、自らが体験したことに嘘偽りはありません。また、一個人からみた状況や思いも記載しております。


2. 地震から避難まで

 その日は、午後3時位に仕事に使う切手を郵便局に行って買う予定をしていました。地震が起きた時、自分は前日のお昼にも大きな地震が起きていたのでまたかと思いました。実際、2003年に起きた宮城北部地震を体験していたので、普通の地震位では動じなくなっていました。しかし長い、普段と違い長く揺れています。今の庁舎は元々庁舎として建設した建物ではなく、店舗を改装して庁舎としていたので、このまま立っていると天井のボードや蛍光灯が落下するなと思い机の下に入ろうとしましたが、机の下には書類用の棚があり体が収まりきりません。仕方なく引出を出しなんとか体を隠せました。凄く長い間揺れているように感じました。揺れが収まるとフロア全体が埃立っており、霞んでいました。避難の指示が出るまで時間がありました。私は、建設部下水道課の職員であり、このフロアは建設部のフロアなので、作業服をほぼもっているのが当たり前なので、すぐさま着替えに向かいました。しかしロッカー室は、嵐が通り過ぎたように滅茶苦茶でした。そこをかき分けながら防寒着だけをとり事務室に戻りました。事務室では女性職員などは恐怖で泣いている方などがいました。落ち着かせる為に机にあるアメ玉などをあげたりしていました。食べるという行為で落ち着いてもらえたらなぁ~という思いでした。そうしているうちに庁舎は危険だから避難するようにと聞こえてきました。後になって知ったのですが、このフロアの上6階は議場になっており、そこの天井が落ちていたそうです。
 その後、職員は庁舎脇の多目的広場に避難することになりました。
 外に出ると広場は職員で埋め尽くされていました。防寒着を着ている人、Yシャツだけの人、金庫を抱えている人などがいました。しかし皆、表情は不安の一色でした。
 そこでも指示を待っていると、指示は意外な所から出ました。道路を走っているパトカーから「津波が来るから山に避難しろ」この時初めて、津波が来る、地震で津波が起きるという事を思い出しました。前回、体験した地震でも宮城県内陸地震でもそんな津波は起きなかったので、どこかで地震=津波という発想が無くなっていました。まして今いる場所から海までは数kmありその間に避難しろと言われた日和山があるのに……。またそこで思いだしたのが、下水道課で共に業務を担当している先輩から、旧石巻市の北上川沿いに堤防が無く、現場の帰りに「ここに堤防がないから、何か災害とか起きたら町は飲まれるな」と教えてもらったことを思い出しました。
 パトカーの避難指示が自分の中で確信になっていきました。
 日和山に避難する時に都市計画課で整備した街路樹の根本から泥水が湧き上がっていました。それを見てこれが液状化現象なのかと思いました。


3. 避難先へ

 日和山まで避難しろといわれましたが、具体的な場所までは指示がなく、職員はただただ、山を登っていきました。日和山には職員駐車場があり、そこで職場の人の車のテレビで情報を得ることになりました。「津波は7mの高さです。」など地震の範囲は石巻市だけではなくもっと広範囲にわたって起きていることを知りました。被害の大きかった地区の南浜町に自宅がある職員は、自宅を見に行くとそこで別れました。その後自宅が近い職員は自宅を確認しに行くと別れ別れになりました。私は自宅まで20km以上内陸にあり、帰れる訳もなく、近くの職員から石巻中学校と門脇中学校が避難所になっているから、そこに向かってくれと言われました。
 向かう途中、様々な人達が避難する様をみました。門脇町にある加工場の従業員の人でしょうか、白い作業服に白いエプロン姿の人、工業港にある会社の作業服を着た人など、非常持ち出し袋を背負った人、仏壇を背負った人など、途中のコンビニは窓ガラスが割れ店内では商品を求める人がいたと思います。
 学校に到着すると顔見知りの職員に「体育館が避難所だから誘導して、あと足元が凍っているから融雪剤を撒くから手伝ってくれ」と依頼されました。
 夕暮れが近づき気温が下がってきていました。融雪剤を撒き終わると、避難してくる人を誘導するのが仕事となっていました。そこから2時間位経過しても指示が出なくなっていました。そこで別れてしまった仲間に連絡をしようとしましたが、携帯電話が通じるわけもなく、徒歩で探しに行くことにしました。
 避難所にいる仲間に、他の仲間を探しに行ってくることを告げ、探しにいきました。その時に家族に安否確認をするためにメール歩きながら打つことにしました。「自分は無事です。状況は分からないが、帰宅は困難であり、しばらく帰れない」これを家族全員に送信しました。母は仕事を退職しパソコンの学校へ通っており、その日も行っていましたが、場所が内陸であるので大丈夫だろう、妻は給食の仕事をしており火を使う仕事なので、火事とかにあっていないだろうか、父は工業港の会社に勤めており、危ないかもしれないと思いながら歩いていました。その後、何とかメールが返信されてきました。母からでした、「私は大丈夫で、嫁と一緒にいるから大丈夫」との内容でした。妻はその日、休暇だったのを失念していました。少し不安が解消されました。
 そうしているうちに庁舎近くまで辿りつきました。しかし、人が立ち止まっていました。
 そこは道路のはずなのに大量の水が流れていました。まるで台風で増水した水路や川の様に色々なものを流しながら流れています。
 近くに職場の職員がいて「さっきからこの調子で流れていて庁舎には近づけないから戻れ」、そこで職場の仲間は避難所にいることを告げ、また他の職員を探しに山に戻りました。


4. 再び庁舎へ、そして避難誘導

 避難先の中学校へ戻り、避難誘導などを続けていました。それから、「職員は、庁舎に戻るように」と伝言があり、庁舎に戻りました。先ほど水路のようになっていたところは、水が引き歩けるようになっていました。事務室は散乱しており、それを片づけたりしたり、一部の職員は公用車でパトロールに向かいました。直ぐまた使うだろうと立体駐車場へ駐車していました。そのパトロールがあったからこそ、うちの課の公用車は水没から免れることができました。あたりでは水没した車は、漏電してハザードが点滅してクラクションが鳴り震災当日の夜は、車の断末魔のように鳴り響いていました。
 しばらくは、特段指示などもなく事務室で待機となりました。
 待機していると、仲間から、「今の内に飲み水を汲んでおいたほうがいい、トイレ奥の掃除用の水道がまだ出るかもしれないから」実際、その蛇口はまだ、水が出ていました。食糧は、職員が持っていた飴やお菓子などを分けました。自分は、長丁場になると思い、事務室の隅で横になっていました。
 丁度深夜0時ころでしょうか、事務室が騒がしく、どうやら避難先の学校付近で火災が発生し市民を誘導しなければならないということでした。
 私もその避難誘導する係になり、防災対策室前での打ち合わせとなりました。
 庁舎は、現在一階部分が水没していて、徒歩で現場に向かってほしい。水に浸かることになるが、市民を火災から誘導するという重要な仕事なので、頑張ってほしいとのことでした。
 雨具や長靴を身に着け階段から外に向かいました。懐中電灯で照らし階段を下りていきました。普段であれば、直ぐ外に着くのですが、一階に着くまでが長く感じられました。
 一階の階段には、もう水がきていました。そこを先頭の職員は進んでいきます。一歩一歩足を進めていき徐々に水位が上がってきました。自分の腰付近まで水がきていました。水温は身を切る様に冷たかったです。外に出ると静まりかえっていました。火災が起きている方向の日和山が赤く染まっているのがみえました。歩道を進むと足元には自転車などがあり、障害となり行く手をふさぎました。水から上がると職員が公用車で待機していました。パトロールに出て再び水が流れこみ分断され庁舎に戻れなかったのです。
 説明を受け道路で避難誘導をして下さいとのことでした。等間隔にはなれ、懐中電灯を誘導棒代わりにして誘導しました。空は赤く不気味でした。
 深夜になり気温が下がり濡れた体は、体温を奪っていきました。立っているのに腰が砕け、膝に力が入らなくなっていました。朝方近くに避難誘導も終わり庁舎に戻ろうと歩き始めました。丁度公用車が通り事情を話し乗せてもらいました。庁舎付近の水際で下してもらいましたが、再び水に入り戻る気力はありませんでした。そうしてあたりを見回すと知った顔がハイエースの運転席に乗っていました。一代前の青年部長です。
 事情を話し乗せてほしいとお願いすると、「席は乗れないけど、荷室でもいいか?」「荷室でいいので乗せてください。」この時は、本当に助かったと思いました。
 荷室に乗ると「タオルケットあるから使っていいぞ」との言葉。長靴や濡れた靴下を脱ぎ、タオルで水分を拭うと、ほっとしました。その後、車内が暖かく(外に比べれば)疲れもあり、睡魔が襲ってきました。車自体は、その間も移動などを繰り返し、限られた物資や人員の運搬を朝方まで繰り返しました。夜が明け日が昇り始めた五時頃、職場の仲間と庁舎に戻ろうかと話しましたが、「まだ早い、もう少し気温があがったら帰ろう」「そうですね」……。再びあの冷たい水に入るには勇気が必要でした。七時近くになり、これ以上は待っても同じと判断し、意を決し庁舎へ戻ることにしました。
 乗せてもらったお礼を述べ帰ることを話して、車をおりました。
 昨日は暗く気が付きませんでしたが、庁舎の周りの道路は、ほぼ水没しており、遠くに石巻駅が見えそこも水没しており、映画のワンシーンのようでした。
 帰りは遠回りになるが水位が低い場所を歩き庁舎に向かいました。
 庁舎に戻り報告を済ませ、命令あるまでは、待機となり濡れた服を着替え、休憩していました。


5. 物資運搬

 震災より二日目、下水道課の職員は、市内の雨水排水ポンプ場の被害状況を確認し、現状では稼働できないことが確認され、国交省よりポンプ車を借り排水作業を行うため、徒歩でポンプ車の誘導を行っていました。その間、交代で休憩を取っていました。
 立体駐車場より見る景色は日常とは違い、水没した街並みが続いていました。職場の後輩とタバコを分け合い喫煙していました。その職員は被害の大きかった門脇町に住んでおり家族と連絡が取れていませんでした。「きっと、大丈夫だよ。」と言いそうになりましたが、これまでの状況からそんな簡単に言葉をかけることもできませんでした。
 丁度正午に近づいてきた頃、物資を取ってきて欲しいとの連絡があり、説明を受け外に出ることになりました。内容は庁舎近くの電気店にある家庭用ウォーターサーバーのボトルがあるので搬入してほしいとのことでした。数を運ぶので、庁舎内にある木製のラックを加工し、イカダとして外まで運び電気店へ向かいました。再び水に入るとやはり身を切るような冷たさでした。普段は5分もかからない場所に30分位かけて歩き、水のボトルを運びました。
 運搬中、飲食店に貼られたビーフシチューの貼り紙をみて、美味そうだなと思ったり、お菓子屋のショーケースにある水没を免れた焼き菓子を見て、持って帰っちゃダメだよなぁとか思いながら庁舎へ戻りました。
 午後は搬入作業や、トイレの水汲みなど(水洗トイレなので、流す為の水を一階の水没している所まで汲みに行く作業)をしていました。その晩は特に野外での作業もなく就寝となりました。しかし、夜の庁舎は寒く中々寝付けないのと、寝ても寒さで目が覚めるということを繰り返しました。


6. 給油作業の開始

 三日目には、庁舎と外を繋ぐ橋ができました。橋といっても長机等をロープで縛りただ渡れるようにしたものです。でも出来た時には「もう水に入らなくていい」という思いでした。この橋が出来たことで、家族との連絡がとれた人や家族の生死を確認できた人などがいました。また、職員の怪我が少なくなりました。橋が出来る前は、水に入り歩いて移動していたので、足に豆が出来たり、寒さでひび、あかぎれができたりしていました。満足な医薬品がなく、傷口にティッシュをあてがい、その上にガムテープを巻いていたりしていました。燃料を借用する時に開いている店があれば、絆創膏や消毒液などを買ってきました。
 燃料を入れるポリタンクを探してくれと指示がありました。庁舎内を後輩と探しました。その時に六階にいき議場の天井が落ちているのをみました。そうしていると、旧庁舎にタンクがあるとの情報を聞き、管財課の職員にポリタンクの所在を確認し、取りにいきました。
 数が多いので車での搬入となりました。ですが公用車があるわけでもなく、自分のマイカーを使用することを提案しました。丁度水没を免れたので出来たことでした。
 竣工されたばかりの仮設橋を渡り、車へ向かいました。
 荷物を片づけ荷室をあけました。この時内心では、「荷室の下にオーディオの機材が有るんだよなー大丈夫かな~」という思いがありましたが、ここは割り切って旧庁舎をめざしました。
 向かう途中、住宅地の雰囲気は、休日の朝の様な空気でしたが、旧庁舎の下側にある交差点には自動車が道路のガードパイプに引っかかっていたり、異常な光景が目に入ります。タンクをロープでまとめ庁舎へ搬入途中に仮設橋で、同期や顔見知りの職員に声をかけ生きていることを確認できてホッとしました。
 タンクを搬入し終えると、今度は排水ポンプ車の燃料を搬入しなければならないが、どうやって運ぶかとの打ち合わせが行われていました。
 その時に、自分の古巣、石巻広域の衛生センターにダンプがあるので、それを借用すればいいのではないですかと話しました。仮にダンプがない場合は、自宅に軽トラックがあるので、それを使って搬送しましょうと話しました。
 それで頼むといわれ、自家用車を使いダンプを取りに行くことになりました。
 事務室では、アルバイトの子が今朝から調子が悪いので自宅に帰せないかということになっていました。偶然にも衛生センターのある方向に自宅があるようなので、一緒に送り届けることにしました。
 この時に初めて庁舎周辺以外に向かうことになりました。駐車場を出て日和山を登り、大街道方面に下っていくと、大街道は泥だらけでした。道路の両脇には車が重なっていたり、路面は、車線などが見えず泥だらけの道を市民の方は歩いていました。量販店からカートで荷物を運んでいる人や、家財道具を運んでいる人などであふれていました。
 衛生センターへ着くとダンプは二日目に現状把握のために本庁舎へ向かってまだ、帰ってきていないと聞き、戻ってくるようであればまた、借りにきますと説明をし、バイトの子の自宅へ向かいました。
 自宅に送り届けるとそれまで、感情の起伏があまりなかったのですが、家族に再会すると泣いて喜んでいました。
 自宅へ軽トラックを取りに向かうことにしました。その時に衛生センターで種類が一番揃っている工具箱と過去に置いていった私物を持っていきました。
 自宅に到着すると、所定の場所に軽トラックは無く、母に聞くと父が会社に乗って行って今はないとのこと、二軒となりの親戚に軽トラックを借りに行き事情を説明して、軽トラックを借用しました。この時、燃料は1ゲージしかありませんでした。
 ポンプ車の燃料は、市議会議員経由で借用することになっており、他の職員と衛生センターで待ち合わせをし、議員宅をめざしました。
 議員宅に着くと、議員は在宅しておらず、奥さんが対応をしてくれました。
 「河北総合支所へ行っている」との話しを受け河北支所へ向かいました。
 そこで、議員とは会うことができ、事情を説明し、燃料を貸してもらえることになりました。
 60Lポリタンクの燃料4つと手動式ポンプを借り、各仮設ポンプへの給油となります。しかし、運搬作業を行う為の車に燃料が確保できないため、立体駐車場にある、古くて調子の悪い公用車から燃料を抜き取る作業を行いました。最初は給油口からホース等で吸い込んで抜き取る作業を行いましたが、上手くいかず、最終的に、車をジャッキアップし、燃料タンクのドレンから燃料を抜き取りました。持ってきた軽トラックは、水没した庁舎内の立体駐車場にはまだ入れなかったので、私が契約していた月極駐車場に停めていました。ガソリンをタンクに入れ庁舎から、私の駐車場に運ぶには庁舎非常階段を降り、仮設橋を渡り、山を登らなけらばいけませんでした。その途中の非常階段で足を踏み外しタンクを抱えたまますべり落ちてしまいました。その時肘を強打しましたが、「大丈夫です。」と言ってガソリンを運びました。その時は、「行った(怪我したかも)」と思っていましたが、あの状況下において怪我で動けないというのは恥ずかしいと思い黙っていました。実際は打撲程度でした。
 車の燃料の心配も一段落すると各仮設ポンプに給油が始まりました。ポンプは24時間回し続けていました。朝方、午前、午後、夕方、深夜と1日に5回の給油作業を行いました。しかし、現在確保している燃料では、1~2日で底をついてしまいます。
 給油作業の途中に立ち寄った東部衛生センターの副センター長より、「生産組合なら燃料を持っているよ。知り合いがいるから聞いてあげるよ。」とのこと、それからは、その生産組合と、燃料を借用できるように現場にて交渉を繰り返していきました。
 ポンプの稼働が大きく見えてきたのは、数日後でしたが、それまでは、朝起きて給油、日中給油、寝る前に給油というのを繰り返しました。
 海に近い仮設ポンプ場で燃料を給油中に津波警報が出た時は、燃料や器具をそのままに車に飛び乗り逃げました。近くの跨線橋の一番高い所で一旦停車しましたが、不安で近くの山までさらに逃げました。逃げたさきで、30分位は待機し、その後また燃料を入手に行きました。
 燃料を運搬中は、もし市民の方に燃料を分けてくれと言われたらどうしようという話しなどもしていました。「分けてもいいけど、燃料が無くなれば、冠水箇所の水が引くのが遅くなるし、どうしようか?」などと話していました。
 実際は一度も聞かれることはありませんでした。


7. それからの日常

 初期の段階で、各総合支所とは上手く情報交換が取れていなかったようです。
 被害の大きかった北上総合支所、旧北上町の職員は、「ここは、本庁ではなく石巻総合支所だ」たしかに、初期の段階で本庁は、旧市内の情報は入ってきているようでしたが、旧町、総合支所の情報が少なかったと思います。
 震災から数日後、旧北上町職員で自宅が北上地区にある職員は北上総合支所の支援ということで総合支所に向かうことになりました。
 合併し総合支所は人員も削減されていたので、対応が遅くなってしまったのは、あたりまえだと思います。震災の日は議会が開催されており、支所長などは本庁にきており、指揮系統もどうなっていたかはわかりませんが、人員が少ないなかで、従来と同じものを提供できるかと聞かれたらそれは無理だと思います。実際にある程度人員がいた本庁でさえ、デマが横行したり(北上川にかかる天王橋が落ちた等)普段、無線を使用せず個人の携帯電話に連絡していたため、公用車の無線機はただの飾りでした。事務所で言われた事と現場での状況が違う事が多かったです(某刑事の言葉のままです「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ」)
 そのころには、食べ物もある程度は配給が回ってくるようになっていました。
 初めて出たご飯は、夜の10時頃にビニール袋に入った米をお湯で炊いたものでした。それを2人で分けて食べました。久しぶりに米を食べました。
 配給でおにぎりなども出るようになりました。賞味期限は1日前に過ぎていたりしましたが、平気でした。一回に全てを食べずに1個は残しておき、次に配給された時に一回前に貰ったおにぎりを食べるようにしていました。
 他には、庁舎に仮設の橋が架かった頃でしょうか、近くの飲食店で多分、停電で冷蔵庫が使えず、炊き出しで焼き鳥を提供している店がありました。物資運搬後にそこを通ると「市役所の人もどうぞ」と焼き鳥を差し出されましたが、「いえいえ、大丈夫です。」と断ったりしていました。本当は食べたいのですが。庁舎に戻ってその話しをしていると仲間が「あ、俺それ食べた。」自分のその時だけの高潔さが恨めしく思えました。
 給油作業のほかにも、下水道本管の調査を行い、マンホールを開けチェックして歩く作業や、産業部からの依頼で、各避難所への食糧や物資の運搬。水路の蓋が流失した場所へのカラーコーンの設置などを行っていました。
 この時期は市内各地区の道路に震災によるごみが堆積しており、海水や雨水等の侵入水でマンホールから水が溢れ出したり、衛生面でも良くない状態でした。そういった箇所のマンホール周辺へは、石灰の散布作業も行っておりました。
 携帯電話も徐々につながるようになり、暇をみては家族・知人に連絡を取っていました。宮城県でも県南地区は福島原発に近く、放射能が心配だと言う仲間の内容を聞いて大変だなと思いました。今思えば、福島原発より女川原発が近い石巻が危険だったのではと思います。
 自宅へは、自家用車を公用車の代替えで提供していたのと、自宅までは約20km位あり通勤していたのでは、燃料が足らなくなると考え、まともに帰るようになったのは、4月に入ってからでした。
 職場で同い年のアルバイトの方は、この震災で母と子ども2人を亡くされました。
 丁度、石巻市で火葬ができる最後の日に葬儀をあげることができました。私も参列しましたが、棺の中を見ることはできませんでした。今まで葬儀に参列することはありましたが、一度に三人の葬儀はこれが初めてです。参列していて、悲しみと怒りがありました。しかしその本人は悲しいのは自分だけじゃないし、他の人も同じだからと言っていました。たしかに他の仲間も自宅を無くし、家族、友人知人を亡くされた方も多いです。ですが、みんな「自分だけじゃない、みんな一緒だから」という言葉がよく聞かれました。


8. 落ち着き始めて

 庁舎内では疲労の色が濃くなってきていました。廊下を慌ただしく走っていた職員が急に止まり、自分は何をするために走っていたかを忘れたり。これは、自分の課であったことですが、ポンプ車の燃料が大量に確保できたので、庁舎にあるポリタンクを全部持ってきてくれと頼んだら、二人が公用車にタンクを積まずに来るなど、少しずつ疲れがたまっていくのが見えてきていました。
 同期の女子職員は、職場に女性が彼女しかおらず、忙しい部署ということもあり、朝も早くから夜遅くまで業務をしていたと思います。あくる日に廊下で多分保健師さんに脈をとられているのを見ました。そういうときにできたのは、持っていたお菓子などを差し入れすること位でした。
 自分は庁舎内で知り合いと物々交換をよくしていました。手持ちの食べ物や日用雑貨などを交換していました。よく職場では、なんで持っているのと不思議がられましたが、「ある所にはあるんですよ」と話していました。
 来庁する市民の方も、怒りやすくなっており、どこかの窓口で、一人が高声をあげると連鎖反応でフロア全体に波及していくのが多かったと思います。
 震災も初期の段階から抜けると庁舎内は朝から晩まで人、人、人の山に、罹災証明の発行事務、仮設住宅の入居申し込み、庁舎は混乱の極みでした。私自体も、仮設住宅の建築に係る浄化槽設置届の受理など、日常ではあまり遭遇しない事務に追われていました。そのなかで、うちのグループは人員が減らされていきました。
 他の課であの職員さん見ないなと思いその課の人に聞いてみると、「異動になったよ」と言われました。休暇が長期化して、いくらか負担の少ない部署へ異動するというパターンが多かったと思います。
 私は避難所へは行かなかったのですが、避難所へ勤務する職員は、勤務する日は怖くて勤務したくないと話していました。何か起こった場合の事、市民の目が怖いなどの話しをよく聞きました。震災初期の段階では、満足な暖房器具もなく朝になると亡くなられている方がいたとか聞きました。
 暑さが過ぎ、日に日に気温が下がってきた秋口に、職場の後輩がメンタルで休みに入りました。しばらく長い休みを取っていたので大丈夫かなと思っていた矢先でした。その後輩は、震災で自宅を流されてしまったのですが家族は皆無事で、アパート暮らしをしていました。自家用車も流されたので、原付を買い通勤に使用していました。バイクに乗るのは初めてということで、庁舎駐車場で乗り方を教えたりしていました。その後、それがきっかけとなり自動二輪の免許を取得し、ささやかながらツーリング等に一緒に行きました。
 その後輩のグループの職員に聞くと、伝票支払を一人でやっていたと聞きました。そして期限を過ぎてしまい中々言い出せずにいたそうです。そのような事が積み重なり、今回の休みに繋がったようです。


9. まとめ

 今回の震災を受け感じたことは、公共機関は普段「ひまなくらい」が丁度いいと思いました。実際、人員不足が色々な所へ波及していったと思います。避難誘導しかり、災害対応しかり、機材が揃っていたとしても動かすのは人ですから。
 また現地などでは、警察や消防の震災時における活動に対して称賛する声が多く聞かれました。しかし一般行政職員は、避難所や窓口などで怒鳴られたりするなど、やり場のない被災者感情の矢面にたち震災対応にあたらざるを得ませんでした。にもかかわらず、公務員の人減らしを主張する声には憤りを感じざるを得ません。この震災で家族を亡くし、家を失い、それでも職場に出て業務にあたっている職員も多くいます。窓口に来庁される市民の方も被災者、窓口対応している職員も被災者。いる場所、立場が違うだけで、本質は被災者に変わりはありません。自然災害だから、吐露する場所がなく、市役所に対して、公務員に対して言ってしまう。そういったことが見受けられました。
 人員が足りていたらこの災害は防げたかと考えると、難しいと思います。宮城県内の人は地震に対して訓練を行ってきたと思います。宮城県沖地震からの教訓だと思います。ですが私自身そうですが、幼いころより地震に対しての訓練はしてきていましたが、地震によっておきる津波に対してはどこか欠落した考えがありました。地元が内陸であったのもありますが、これまでおきた地震で石巻に津波が到達したのはあまり聞いたことがなかったのと、津波があれほどの威力をもっていることを知らなかったからです。
 今は、大きい地震=津波が来るというのが、体験をもとに体に刻まれています。仕事で海岸線を走っていると、今津波がきたらどうしようと考えてしまい、避難経路はどうしたらいいかとか、今の持ち物で、帰れるかなどを想像してしまいます。