【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第10分科会 「地域力」「現場力」アップにむけた学び合い

 私たち大熊町、そして約11,000町民の福島原発事故による強制的かつ短時間の避難と混乱は、故郷との惜別、感傷さえも許さず、未だ、避難先で愛惜の故郷へ思い、帰還を待ち望んでいます。
 今、脱原発、代替エネルギー転換の世論は、高まっています。しかし、ここまで原発が不可欠となってしまった経過・歴史もあります。この過去を検証し、実行可能な脱原発運動の推進、地方自治の在り方を考えます。



原発とともに歩んできた大熊町のすがた


福島県本部/大熊町職員労働組合

1. 大熊町の発足

(1) 発足までの経過
 大熊町は、旧大野村と旧熊町村が町村合併促進法によって1954年11月1日に、人口8,815人、世帯数1,550戸、総面積78.50平方キロメートルの町として発足した。政府は、1953年10月1日に「町村合併促進法」を3ヵ年の時限立法として施行し、これに先立つ5月に県は「町村合併促進計画」で合併対象を両村とし、「町村規模の適正化に関する助成金交付規程」を制定していた。
 両町村の合併に対する態度決定は、大野村が早く、1954年1月5日に村議会で「合併促進法の期限内に合併することを熊町村に通告、同時に村に特別委員会を設置する」ことを決定した。熊町村からの返事は一向に得られなかったが、3月にようやく同町で合併協議会の開催を決定した。既に、大野村合併促進委員会は、3月9日に村民2,012名に対して意向調査を行い、「賛成 1,941名96%、反対 58名3%弱、以外13名」の結果を得ていた。
 一方、熊町村では分村嘆願書の提出や合併に否定的意見や立場の住民もあり、全村での合意形成は困難を極めていた。しかし、6月に両村協議会で合併を満場一致の決議を受け、大熊町建設計画が進められた。しかし、合併後の「大熊町」の名称に対して、「熊」の漢字を使用することに一部住民からクレームがつけられた。町名の問題は、住民にとって容易に理解しやすく、関心もあることだけに住民感情を煽り、当初「大野町」を主張した住民感情を扇動した。分町問題、町名問題が立て続けに発生した。両村議会は、『町名は「世論反映の結果」とする。』と結論づけ、この決定を受け実施された、1955年10月25日の町議会議員選挙の結果により、現在の「大熊町」の名称となった。分町問題は、福島県合併調整委員長の勧告を受けながら、1957年7月の臨時議会でこの勧告受諾を決定し、決着が図られた。


(2) 合併基本計画構想
【人口、雇用、所得及び生活水準に関する構想】
・人口は急速に過剰を示すとは考えられないが、後述の所得、生活水準よりおして、又町有施設等よりして現状を当分維持させるべく、二三男対策に重点を置き、就業職の斡旋、海外移民等、町外への飛躍を図る。
・地上、地下資源及び立地条件及び既往の政策からおし計るに、大工場、事業の誘致は至難であり、労働力の余剰はその多寡の度合を考慮し、町営事業を悉皆失業対策化して、その救済を図る。
・総合産業における生活費の低減を策し、自給体制を確立すると共に、町外への販路を開拓し、住民救済への安定を図る。
・生活を簡素化にし、勤勉貯蓄の観念を昂揚させ、生活水準の向上を図る。

@ 1955年に大熊町は発足したが、先述の2つの問題が未解決であったため、「新市町村建設基本計画書」作成は1958年にずれ込み、その冒頭の「基本計画の構想」で、記載のような内容が示された。
  このような合併計画書を見る限り、前途多難な合併であったことは推測できる。脆弱な財政基盤での町政運営、その負担や我慢は、町民が担わざるを得ない苦しい状況だったことも容易に想像できる。特に住民の雇用や税収基盤の安定をはかるための工場・事業所誘致は、当初から困難としていた。
A その後の原発建設計画が、容易に進められた背景は、この構想からも読み取れ、特に出稼ぎを中心とした住民にとって、地元雇用の場が提供されることへの期待は高まった。

2. 原子力発電所の建設

(1) なぜ? 大熊町に原発が
 大熊町は、日本の電力供給地として純然たる地位を占め、日本の高度経済成長期を支える一方、地域の雇用や産業を創出し、住民や自治体を支えてきた。しかし、一方で住民に建設当時から事故発生までに住民は漠然とした不安を抱えていた。原発が「生活を、町を、自治体を、そして日本を支える。」と言い聞かせた。それは、取りも直さず、過疎地からの離脱・生活補償と危険性との葛藤、その不安を打ち消す砂上に立った自尊心・使命感による結果だったかも知れない。
@ 東京電力株式会社(以下、東電)の原子力発電に関する組織設置は、1955年。1960年に通産省産業合理化審議会原子力部会の答申が1960年に出され、原子力長期化計画の発表と同時に東電は、具体的な候補地選定に乗り出す。福島県も原発誘致を積極的に進め、第2次世界大戦時の航空基地、その後、製塩工場が置かれた大熊町長者原地区60万坪を1960年11月5日に最適地とした。地形も当然ながら、用地買収を円滑に進める上では、条件は好都合だったと言える。
A このような原発設置が地域開発の契機と判断した大熊町、隣接する双葉町は、1961年9月、福島県及び東電に対して両町長名で誘致を陳情し、事業促進に全面的に協力する旨を書面で約束している。翌年に入ると東電が、旧陸軍航空基地跡地の国土計画興業株式会社所有地30万坪の用地賠償に直接あたり、以外の予定地の一般民有地第1期分30万坪及び第2期分36万坪、計66万坪の取得は、福島県開発公社が担当することを決定し、1963年12月から用地買収がそれぞれスタートした。
B これに先立つ同年5月、福島県開発公社は、大熊町及び双葉町の町議会議員により構成された開発特別委員会に用地買収についての基本方針を説明し、協力を求めている。この過程の地権者に対する交渉方法は、以下の3つの案が出されたが、ウの案でいくこととなった。
 ア 町長を表面に立て地権者と折衝させる。
 イ 公社が表に立って(開発特別委員会も含む)がバックアップする。
 ウ 公社と町が共同体制で交渉に当たる。
C 県開発公社は、交渉の円滑化を目的に地権者説明会を開催することとし、全員の参加を得ながら原発建設計画とその誘致計画について説明し、協力を要請した。


【地権者説明会での質問と回答要旨】
ア 放射能の安全性についての懸念
  → 世界各地の原子力による平和利用状況を説明。
イ 薪炭採草地の喪失
  → 町長の責任において国有地の払い下げを協力に進める。
ウ 開拓農家の営農経営
  → 土地代金以外の補償金をもって救済する。
エ 買収土地価格の格差
  → 原則として土地価格の格差はつけない。
オ 税 関 係
  → 特定公共事業の認定を受けるよう努力する。
カ 東電が直接買収する国土計画興業株式会社所有地の買収価格。
 → 民有地と同一価格で買収するよう東電に確約させる。

 当時の地権者説明会のやり取りの要旨は、記載のとおりであるが、下線にあるように、既に一部の町民からは原発の安全性について疑問視する声もあった。
 しかし、論点は原発の平和利用にすり替えられ、土地提供者となる純朴な地権者の自尊心や使命感を擽った。おそらく、県開発公社も原発についての知識もない中で疑問を持つことなく、用地買収の職務を素直に遂行したのだろう。
 そして、県開発公社は、実際の交渉では開発特別委員会、地権者代表及び町長の三者を相手に話し合いを進めたが、交渉が長引けば問題が続出すると判断し、1964年7月に大熊町長の立ち合いのもと、個別交渉で全員の承諾を取り付けた。東電は12月に調査を開始した。翌年、東電から双葉町内の30万坪の用地拡大の希望が出されたが、双葉町は大熊町の地権者交渉を肯定的にとらえていたので、承諾も問題なく行われた。


D この用地買収費は、約320万m2の発電用地について約5億円、約8万m2の社宅地等で2,480万円だった。その用地内訳は、水田11町、畑32町4反、山林原野268町8反、その他1町8反だった。さらに、用地内にあった移転家屋11戸には、宅地込み総額1,500万円の移転補償金が支払われた。 
E 一方で、原発が沿海型で建設される場合、漁業補償が問題となる。この補償は、同時に進行した用地買収と違い、資源的に豊富で地区以外の入会漁船もある海域であったため、漁業権の買い上げは難航した。交渉において、漁民の中に累積される放射能による海水汚染の危険性を理由に反対の意思を示す住民、消滅する優良な漁場を失い、今後の生産活動に不満な住民がいた。東電及び福島県開発公社は、「放射能による危険は無いこと、冷却水の温度差による大きな被害は考えられないこと。」を強調し、共同漁業権の補償は「大量の冷却水による自然海流の変化が考えられるので、それを考慮した。」とし説明し、反対や不安の意見を解消した。その結果、1966年までに漁業補償はまとまり、発電所沖1,500m、横幅3,500m、面積5.4万m2の共同漁業権の消滅及び入漁の補償として、約1億円が支払われた。
F 日本原子力産業会議は、早期の用地買収、原発設置が可能となったこと理由として、以下のような分析をしている。


【日本原子力産業会議の誘致に関する分析理由】
ア 福島県は産業振興などでかなり急速な発展途上にあるが、その中で立地周辺は、最も後進的かつ、開発の決め手のない地域であったため、地域開発の契機になる期待が大であった。特に、町の希望が大きかった。
イ 1957年前後に、大熊町では早稲田大学・東京農業大学に依頼して地域開発を目標とする総合的調査が行われ、行政段階での地域開発の歩みがみられる。また、集落組織も、第二次大戦以前に旧来組織を細分化し、行政の下部組織として改組している。この地区への原発誘致が比較的抵抗が少なかったのは、これら社会的背景によるものと思われる。
ウ 隣接地区などは、精農家が多く、生産意欲が大きいための反対運動があるのとは対照的に、特に当該地区は開拓農家が主体で、生産力・定着力が低いという事情にあった。
エ 一次買収地区の主体が、一会社の遊休地であったことも挙げられる。
 この理由に対して、町はその後の町史で最大の理由は『過疎地』であったと解釈している。以下その内容を要約し、記述する。
 敷地の概況として、原発立地点は、東京の北方約220km、福島県太平洋岸のほぼ中央、敷地面積は約320万m2。原子炉設置地点から人家までの距離約1kmで人口分布も希薄、近接した市外地約8.5kmに浪江町人口約23,000人(1965年10月現在)のみ。
  このことからもわかるように、東京から遠いこと、人口稠密の地域から離れていることが立地条件として考慮されていることからすれば、いかに技術的に安全性が強調されても原子力発電の性格が如実に示されていると言わざるを得ない。しかも、浪江町より地元の人口7,629人(当時)の大熊町、隣接の7,117人の双葉町に、11,948人の富岡町があることが、この説明からはすっぽり脱落している事実に気づかなければならない。2万人以上の町なら市街地として扱うが、1万人前後の町は配慮の対象にならないという論法が、原発の立地が東京からの距離の遠さを力説する形で適地の判断がされた。


(2) 原発建設
@ 建設工事は、1966年秋の準備工事着手から順調に進展し、1号機が1971年3月に運転開始されて以降、2号機が1974年7月、3号機が1976年3月、4号機が1978年10月と短期間で次々と運転が開始された。同時に、隣接する双葉町においても5号機、6号機の運転も開始され、双葉地方に「原発銀座」の侮蔑・軽蔑とも言える不名誉な称号が与えられた。
A 本格工事が開始された1969年4月に、福島県と東電の間で「原子力発電所の安全確保に関する協定書」が取り交わされ、放射能測定基本計画、測定結果の提出及び公表、放射能測定の立会い、施設の状況確認を行う者の選任が取り決められた。その後、環境放射能の監視や原子力利用の知識の普及啓発などの業務を担う原子力センターや環境医学研究所が開設される。こうした中、1976年3月22日に、大熊町、福島県、東電との間に原子力発電所安全協定が結ばれた。
B 1979年3月28日、アメリカのスリーマイル島で原発事故をきっかけに町民は、原発の安全性への不安や不信は高まることとなり、双葉地方、浜通りの緊張感は一気に高まった。このため、4月27・28日に国の特別保安監査、大熊町、双葉町による立ち入り調査が行われた。しかし、既に特別保安監査は、この時が初めてではなかった。
C 1973年6月、放射性廃液貯蔵庫から中レベルの放射性廃液が流出する原子力発電始まって以来の事故が発生した。当時、東電は事故発見とともに、放射線で汚染した土壌を除去し、建物内にたまっていた廃液を含んだ水を処理した。しかし、この事故は大熊町に連絡されることはなく、町は共同通信記者の取材で22時間後に知ることとなった。地元住民の安全をないがしろにし、安全協定を破棄した東電・国・県の行為は、町・町民の憤りや不信・不安のきっかけなったことは言わずもがな、東電の隠蔽体質を露呈させた純朴な住民への裏切り行為だった。
D この事故で当時の町役場職員や原発に期待や信頼を寄せていた一部の町民でさえも、原発が耐用年数を迎えた将来、そこが使用不可能な廃墟と化してしまう不安、町の財政面の圧倒的部分となる固定資産税収入が消える危機感が生じ始めたと町史にはある。そのためのポスト原発の必要性を記載している。東電は、この時点で隣接する広野町に火力発電所を建設し、東北電力も原町市・相馬市等で同様に火力発電所の建設計画を持っていた。このような状況も背景に、発電コストが安いと言われた原発神話は崩壊し始め、さらに、第一原発原子炉を造ったアメリカのゼネラル・エレクトリック社の原子力部門からの撤退方針は、原発の警鐘としてなった。


3. 原発がもたらしたもの

(1) 産業構造の変化
@ 合併以降、人口・世帯数も増加傾向を示す。特に、原発建設に伴って周辺の環境整備は目覚しく、浜通り地方と首都圏を結ぶ国道6号線の開通、幼稚園新築や小中学校改築は無論、公共施設が次々と建設された。
  そして、浜通りの近隣市町村でも、大熊町の進展の背景にある原発誘致が進められることとなる。
A また、1960年の産業就業別人口調査で、第1次産業に従事する町民は約70%、第3次産業は20%だった就業形態に著しい変化がおきる。1980年に第3次産業への就業割合は、第1次産業の2倍の45%にのぼり、2005年には就業者数の60%となった。
B この就業構造の変化は、町民税の納税者内訳からも読み取れる。1960年の納税義務者内訳は、給与所得者が248人に対して農業所得者1,514人。1970年までは、農業所得者が上回っていたが、1975年には給与所得者が1,902人に対して農業所得者が340人になり、農業所得者の減少傾向が著しい。その後、この差は拡大を続けるが、2008年では4,273人に対して41人にまで減少した。この分岐点となった1970年は、原発1号炉の運転開始の前年にあたる。当然、関連企業も含めて多くの人手が必要となったことも要因として考えられる。
C この原発関連での労働提供の内容は、雇用状況調査からも明らかである。2009年7月現在で、大熊町民1,562人が東電若しくは関連企業で働く状況にあり、双葉郡内で約20%、県内で原発労働者の1割が大熊町民だった。
【人口と世帯数の推移】
基 準 日
総人口
世帯数
1954年11月1日
8,815
4,310
4,505
1,550
1965年10月1日
7,629
3,651
3,978
1,572
1975年10月1日
8,190
4,215
3,975
1,999
1985年10月1日
9,988
5,155
4,833
2,872
1995年10月1日
10,656
5,403
5,253
3,188
2005年10月1日
10,992
5,423
5,569
3,547
2008年4月1日
11,070
5,465
5,605
3,720
【産業別就業人口 総務省統計局 国勢調査報告】
【発電所関連雇用状況 2009年7月1日現在
資料:東京電力株式会社】
区分
発電所名
総 計
県内計
双葉郡計
大熊計



福島第1
1,073
983
866
360
福島第2
723
667
549
59
広野火力
233
156
106
2
合  計
2,029
1,806
1,521
421



福島第1
897
873
751
177
福島第2
2,050
1,933
1,185
216
広野火力
674
651
350
22
合  計
3,621
3,457
2,286
415



福島第1
3,777
3,554
2,381
547
福島第2
1,912
1,650
1,042
176
広野火力
116
102
45
3
合  計
5,805
5,306
3,468
726

福島第1
5,747
5,410
3,998
1,084
福島第2
4,685
4,250
2,776
451
広野火力
1,023
909
501
27
合  計
11,455
10,569
7,275
1,562

(2) 危険性・犠牲の見返りの歳入
 町の税収面でも大きな変化が見られる。固定資産税自治大臣配分の原発関連の調停額は以下のとおり。

*1965年は東北電力(単位:千円)
 
町税調停額
原発関係納付額
割 合
1970年
91,338
47,493
52.0%
1980年
2,155,465
1,792,866
83.2%
1990年
3,435,270
2,816,558
82.0%
2000年
4,741,832
3,716,149
78.4%
2007年
4,001,742
2,597,597
64.9%

 原発は、町財政を支える施設となっていた1972年1号機運転開始には149,820千円が調定され、以降4号機まで大規模償却資産が増額された。85年廃棄物処理設備、91年高温高圧処理設備、98年核燃料共用プール設置など新たな設備導入、また99年からシュラウドが3号機から順じ交換され、その都度調定額も増額された。
 町民の所得増加もさることながら、原発施設、その関連企業からの町税収への割合、歳入割合を考えれば重要な収入源であり、一方で生活や健康を犠牲にした危険な歳入だったことは否定できない。


4. 大熊町の今、そして将来は

  このように原発は、私たち大熊町に経済的余裕をもたらし、高度経済成長期の日本を支える誇りも与えた。
 しかし、町も住民も原発への不安や東電への不信を心のどこかに抱えながらも、後戻りは出来ない環境にあった。そのような中での原発事故。ここまで、原発に痛めつけられながらも、未だ原発への義理を欠くことのない、純朴で実直な一部の住民がいるのも事実である。
 大熊町への帰り道は、迷路のように住民を惑わせ、その住民は将来を見つけることに勇気が持てない。仮の町構想、脱原発が無機質な言葉で新聞におどる。私たちは、このレポートを通じ、脱原発運動は無論、都市間競争における地方の在り方、そして新たな地方都市、そして自治の議論の布石としたい。