【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」

 こんにち200万を超える外国人が定住し、その定住化が地方都市にも広がり、〈多文化共生〉社会と呼ばれる趨勢が進行する中で、日本人住民と外国人との〈共生〉問題が避けることのできない課題となっている。2010年7月におこったブラジル人中学生(女子)による痛ましい「事件」は、宝塚市内外の外国人、宝塚市民をはじめ、外国人問題に直面している自治体に大きな衝撃を与えた。本報告は、「事件」を契機に始まった宝塚市におけるさまざまな取り組みを、私たち市民運動の側に主眼を据えて報告するものである。



宝塚市における「多文化共生」課題への接近
――「きずなの家」事業の実践をとおして――

兵庫県本部/NPOともにいきる宝塚 山下 峰幸

1. はじめに

 こんにちの日本社会は、経済・社会・政治のグローバル化が急激に進むなかで、経済の低成長、財政構造の歪み、打ち続く雇用不安、「格差社会」化、急速な少子高齢化、定住外国人の増加、等々の複合的な問題が引き起こす、「解決困難」ともいうべき未曾有の事態に直面しているといっても過言ではない。そこでの諸課題、とりわけ雇用、福祉、医療、教育、環境等の公共的な問題は、「上」から対策を考案し、それに国民・住民を従わせるといった方式によってはもはや有効・有益な解決は得られず、いわんや(自己責任)に解決策を求める方策は既に破綻している。今日、個人は、行政・地域社会・企業・労働組合・家族等の庇護や支援を従来以上に受けにくくなっており、誰もが孤立した存在としての特質を強めている。
 加えて、200万を超える外国人が定住し、その定住化が地方都市にも広がり、〈多文化共生〉社会と呼ばれる趨勢が進行しており、従来の自民族中心主義の社会・教育構造がいやおうなく問い直されている。〈地方自治を地域住民の手に〉〈地域コミュニティにおける「つながり」の創出を〉という課題が、こんにちの自治研活動に求められる由縁であろう。私たちは〈地域住民〉相互の矛盾と孤立化を見据えつつ、「対策」を市行政に丸投げするのではなく、公共的、地域的な教育課題を自らも引き受けようとして、諸活動を展開してきた。その活動は緒に就いたばかりである。 

2. 「事件」の衝撃と「NPO ともにいきる宝塚」の立ち上げ

 宝塚市には3,292人(2009年12月末)の定住外国人が生活を営み、そのうちブラジル人は323人を数え、県下では神戸市東灘区とともに突出していた。宝塚市の小・中学校には毎年ブラジル人をはじめ在日外国人児童・生徒が多数入学、在籍し、学校は事実上「多文化共生」の“最前線”ともいうべき様相を強めていたが、いわゆるニューカマー児童生徒の受け入れや教育対応(子育て支援)における公的条件整備の不備、親(外国人労働者)の不安定な就業実態、家庭における親子間の意思疎通のずれと希薄化、等の下で、外国人児童・生徒の多くは、社会環境や学校への不適応、日本人生徒との軋轢、教科学習の立ち遅れ、挫かれる自尊感情、高校進学の困難性、居場所の不在、孤立化、等々の深刻な問題を抱えていた。2010年7月、「事件」はこうした負の条件の相互関連と累積を背景に起こった。
 ブラジル国籍の女子中学生(3年生)〔4歳時にブラジルから母親と来日。大阪市・京都市を経て小4年次に宝塚市に転居〕が、仲のよかった日本人の級友と相談の上、深夜、自宅に放火し、親子3人が死傷した〔母親は死亡、義理の父親と妹とは重傷〕。放火した生徒は、「供述」によれば、義父から「殴られる」などの虐待を受けていて、母親は日本語の会話力に乏しく、家庭での意思疎通が阻まれていた。両親は大阪市のパン工場で働き、帰宅は午後9時ごろだった。姉妹は「コンビニ弁当」で空腹を癒し、暗くなるまで公園で過ごす日が多かった。長女は来日3年以上過ぎていたため、兵庫県の「多文化共生サポーター制度」の対象外とされていた。母親は「私は高校に行けなかった。だから高校に行って」と強く願ったが、当生徒は漢字が読めず、授業にはついていけなかった。「高校には行きたいけど行かれへん」とあきらめてもいたという。「家を燃やして人生をやり直す」と級友に告げていたのだった。<神戸新聞・記事>

 子どもの学びと成長に必要不可欠な〈居場所〉ないし身近な〈支援の輪〉は弱く、彼女たちに届くものではなかったということであろう。「きずなの家」の開設からまだ半年余という短い期間ではあるが、その中で関わり見えてきたことは、ブラジル・ペルー等の外国人労働者親子を取り巻く生活・労働・教育といったものが、あの少女のそれにやはり重なっているという厳しい現実である。
 「NPO法人 ともにいきる宝塚」の「よびかけ」文においてわたしたちは、つぎのように述べた。<いま私たちは、在日ブラジル人生徒や親の、生活と教育の現実、彼・彼女たちの文化と生活実感の現場を見据えて、そこから出発しようと思います。出来ること、着手しなければならないことが山ほどあるなかで、私たちが「ともにいきる宝塚」の事業として、まず取り組む課題は、日本語学習を必要とする子どもたちの協同の学び場=居場所づくりです。……そこで求められている学びは、日本語を自らの生活に引き寄せて、協同で学んでいく営みです。外国人の子どもたちが仲間とつながり、相互に励まし合っていく関係のなかで、生きた言葉を身に付けていけるような学び場を模索・追求したいと願っています。>
 「事件」は、宝塚市民をはじめ、市内外の外国人、外国人問題に直面している自治体に大きな衝撃を与えた。だが、外国人労働者・子弟の問題が顕在化するのは多くの場合「事件」時のみで、やがて忘却されるという歴史が、この国では繰り返され、その度に私たちは「ガイジン」への恐れをためこんできたのではなかったか。私たちは、「事件」の惨痛から今もなお解かれることのないこの宝塚の地においてこそ、新しく発信できる諸活動を地域の諸力、諸運動、行政とも連携しながら、創り出し展開していきたいし、いかねばならぬと、強く思っている。

3. 市行政の対応・支援策

 市は「事件」の背景に「家庭内のトラブル」・虐待があったと見て、いち早く子どもの避難場所(シェルター)の設置、「子ども家庭支援センター」職員の増員を行った。また再発防止のため調査専門委員会を設け、同委員会は翌年5月に「最終報告書」を中川宝塚市長に提出した。「報告書」は、「長女が学校で問題行動を繰り返すなどのサインを出していたが、学校や市の対応が十分でなかった」、「学校や市、児童相談所などの連携が不十分だった」、「外国籍の一家にとって生活しづらい環境があり、支援が不十分だった」という認識の下に、以下のような提言をした。
 ・子どもたちの人権救済のための条例制定 ・行政の対処の仕方について勧告できる第三者機関の設置 ・虐待に対応する職員の増員と常勤化・専門化が不可欠 ・市の担当課は児童相談所と虐待の個別ケースを話し合う検討会議を開く ・外国人が地域で孤立しないため日本語教育の充実
 この「報告書」―提言は、子どもの虐待問題に主眼をおいて「事件」を捉え、「要保護児童対策」、相談活動や家庭の子育て支援に重点を置いていた当初の対応に変化をもたらした。その後、市は、学校教育課、国際文化課、商工勤労課、等の部署を横断する連携の下に、<多文化共生>課題に向かう総合的、多面的な取り組みに着手していった。とりわけ外国籍児童生徒の、地域における〈居場所〉づくり〔市民交流部・「きずなの家事業」など〕や母語(ポルトガル語)と日本語の学習支援体制の確立にむけた条件整備に力点を置き、各「教室」サポーターの「配置時間」が前年比で120時間増やされ、こうした事業への協力と参画が市民にも呼びかけられた。
 こうした市行政の支援施策、諸措置に呼応しつつ、また私たちも「事件」を衝撃とともに重くうけとめ、じっとしておれず、自主的な活動を始めていった。退職教員、現職教員、市職員、市会議員、宗教者を含む市民ボランティア有志が集まり、会議を重ね、行政との連携も密にし、また豊中市をはじめ他市での先駆的な事業とその経験に学びながら、①地域での子どもの居場所づくり、②日本語と母語の学習支援を中心とする、ブラジル人を主な対象とする「寄り場=学習の場」づくりを構想、「NPO法人 ともにいきる宝塚」を設立した。(2011・8月)
 この構想が具体化、現実化していく上で市との協働を抜きにすることはできない。すなわち市が昨年度から始めた「きずなの家事業」を利用、家賃の半額補助を受け、地域の小学校近くに一軒家を借り、「きずなの家 ともにいきる宝塚」を開設することができたのである。いま私たちはそこを拠点に、ブラジル人児童・生徒の「寄り場」「学び場」として活動している。

4. 子どもの〈作文〉との出会い

 その営みの中、ひとりのブラジル人児童が書いた作文を紹介する。
<3年生のある日、お姉ちゃんが泣きながら、帰ってきた。「ガイジンって言われた」。泣くお姉ちゃん。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、なぐさめるお母さん。「なんでお姉ちゃんだけいじめられるんかなぁ」。こっそり聞いてそう思いました。「みんな、おれがガイジンってわかってないんや」そう思ったぼくは次の日、自分もいじめられる、覚悟して、クラスのみんなに、「おれ、ガイジンやで」、同じクラスの子、ちがうクラスの子、一人一人に言いました。でも、みんなの返事にビックリしました。「そうなん、外国語いえるん」、「それでなにじんなん、アメリカ人、ドイツ人」、色々聞かれました。一番おどろいたのは、「あっそ」の一言で終わらせる人もいました。家に帰って、お母さんに今日の事を言うと、お母さんはぼうぜんとしていました。でもお母さんは安心してくれました。/一番安心したのは、ぼくのおかげではないと思うけど、お姉ちゃんが、笑顔で帰ってきた事です。> (「おれは、ガイジンや」)
 この〈作文〉との出会いは、私にとって、小さな、しかしもう一つの「事件」だ。12歳の少年のどこからこのような言葉・表現が生まれ出たのか。衝撃を受けている。
 少年の一家に、ある日突然、深く突き刺さった、小さな、しかし消えることのない「事件」。少年はそれを書く。過剰な感傷の言葉はどこにもない。ただ、「泣くお姉ちゃん」と「なぐさめるお母さん」、不安に息つまらせ二人の話を「こっそり聞いている」ぼく、その事実だけが切り取られ、そこにある。
 わずか12歳の子どもが、この国の「日本人」と「ガイジン」とがぶつかり合う断層、激しいズレと軋みの只中に、おののき震えながら、こらえて立っているのだ。
 私たちはいま、日本語の学習・習得が同時に外国人児童の自尊感情をはぐくみ、日本人児童との関係を編み直していく営みでありたいと、切望する。

5. 「多文化共生」ネットワークの形成へ

 外国籍住民がその固有の文化・歴史・言語、等を「後ろめたく」感じ、「不遇な」属性として自ら忌避することのない社会――外国人と日本人との共生関係――をどのようにして築いていくのか。私たちは今、住民相互の交渉・交流・<ちがい>の承認といった生活の場における<町づくり>を遠望しつつ、その困難な取り組みに一歩踏み出した。現実には「異質な他者」を排除・排斥していく傾向がないわけではない。「国際理解」や「共生」を掲げていても、外国人(のトラブル)をめぐる諸問題は「外」へ提起されにくい現実がある。この間、私たちはあらためて小・中の学校現場・教師との連携・協議の場を介し、相互信頼の回復を模索してきた。また、行政の諸分野とつながり、協力を得ながら、地域住民・自治会への働きかけや、外国人労働者が多数働く企業との協力関係、あるいは地域の児童館活動、人権文化センターとの連携など、ゆるやかなネットワークがいま形成されつつある。
 私たちの多文化共生諸課題への取り組みにとって決定的に重要な意味をもっている地域コミュニティは、住民の生活の場であり、また子どもにとって、そこは〈居場所〉〈学びの場〉となりうるし、日本人と外国人との関係を共生に向かって開いていく場ともなるだろう。


ブラジルに帰るファビオ君のお別れ会
きずなの家で勉強する子どもたち