【自主レポート】

第34回兵庫自治研集会
第11分科会 地域から考える「人権」「平和」

 コンゴ民主共和国出身の宣教師ロジェ・ムンシ・ヴァンジラ神父は、誰もが通える学校を出身地につくるために日夜努力しておられる。それはDRCが豊かな自然や資源に恵まれているにもかかわらず、富は先進国に搾取されている現実に向き合った時に、教育の重要性を認識したからに他ならない。このレポートは地域から国内にとどまらず人権・平和の種を蒔こうとする活動を報告するものである。



バンドゥンドゥの学校建設
ムンシプロジェクトの概要と経過

長崎県本部/長崎市議会議員 吉村 正寿

1. 発想の起点

(1) ムンシ・ロジェ・ヴァンジラ神父との出会いと彼の発想
 2011年8月16日から27日まで、私はムンシプロジェクト(仮称)視察のために中央アフリカのコンゴ民主共和国を訪問しました。これはその視察記です。
 昨年封切られた「僕たちは世界を変えることはできない。」という、向井理主演の映画があります。主人公の大学生が、カンボジアの子どもたちのために学校建設に奔走するという実話をもとにした映画ですが、カンボジアとコンゴ、場所こそ違えまさに「ムンシプロジェクト」でやろうとしているのは「学校建設」です。
 コンゴ民主共和国(Democratic Republic of the Congo、以下DRCと略)(旧ザイール)は、水と緑、地下資源に恵まれた豊かな国です。しかしその豊かさはDRC国民に還元されるのではなく、旧宗主国のベルギーほか先進国に搾取されています。現在は中国が盛んに投資していますが。DRCの政治家はじめ一部の特権階級はその豊かさを享受していますが、ほとんどの国民は貧しい生活を強いられています。
 国連の調査によればDRCの人口は約6,600万人ですが、子どもたちの中で約500万人が経済的な理由で小学校にさえ行けないということです。その子どもたちを一人でも多く学校に行けるようにしようというのがムンシプロジェクトです。
 ムンシプロジェクトの発案者ロジェ・ムンシ師は、DRCバンドゥンドゥ州出身の宣教師(カトリック神父)で、神言修道会(本部ドイツ、シュタイル)から日本に派遣され、現在名古屋の南山大学で教鞭をとっておられます。
 ムンシ師と私の出会いは、私が所属するカトリック西町教会に彼が助任司祭として赴任してきたことでした。まじめかつフレンドリーな性格で、教会だけではなく、同じ敷地にある長崎南山小学校や南山幼稚園の子どもたちからも慕われて、彼の周りにはいつも人の輪ができていました。
 長崎を離任した後、ムンシ師は博士号を取得するために、東京のカトリック吉祥寺教会で宣教師生活を送りながら大学院に通い、みごと比較文化人類学の博士号を取得しました。その時の研究材料が「長崎の潜伏キリシタン」で、彼は現地調査のためにしばしば長崎を訪れていらっしゃいました。
 ムンシプロジェクトのきっかけは、カトリックの神父となり、なおかつ博士号を取得して大学で教鞭をとっているムンシ師の働きを、彼の出身部族であるサカタ族の首長(チーフ)が顕彰したことでした。この時に首長はムンシ師に、彼の故郷であるバンドゥンドゥ市に32,500m2(約1万坪)の土地をプレゼントしました。
 修道会に誓願を立てたムンシ師は財産を所有することを放棄していますので、この土地を故郷のために使うことを考えました。
 ムンシ師は日本で生活しながらも、常に故郷のDRCについて考えていました。「DRCは豊かな国のはずなのに、国民の多くは学校に行くこともできないどころか、その日の食べ物にも事欠く始末。なぜDRCは貧しいままなのか。ベルギーの植民地から解放されたのちも経済的な発展はほとんどなく、逆に内戦によって荒れている。多くの国民は無学文盲のために今、何がこの国で行われているのかさえ分からない。」この状況を変えるためには、すべての国民が教育を受け、自分たちの力と考えでこの国の政治と行政を変える以外にないと考えるに至りました。
 そこで、ムンシ師はサカタ族のチーフから贈られた土地を学校建設のために使おうと考えたのです。とにかく自分の故郷からでもその芽を育てていこうと行動を起こしたのです。

(2) プロジェクトへの参画
 ムンシ師は、出身地のバンドゥンドゥ市に学校を作るために、ご自分の生活費を切り詰め費用をねん出しようとします。また、友人を中心に寄付の呼び掛けをしますが、なかなか資金が集まりません。第1期工事を完成させるために600万円ほど必要だったのですが、それには及ばず、とりあえず集まったお金で施工できる範囲の工事を始めました。
 ムンシ師の呼びかけは長崎にも届いていました。すでにムンシ師と交流のある西町教会の信徒やカトリック長崎大司教区は彼のプロジェクトに賛同し寄付をはじめていました。まさに彼が学校の建設資金を寄付によって調達し始めたときに、日本を揺るがす大災害が起こったのです。
 3・11東日本大震災でした。ただでさえ、なかなか事情を把握できないアフリカの地での学校建設に、理解はしても資金提供までは行きつかないところに、大震災が重なったのでは資金が集まるはずもありません。遠くアフリカに送るよりも、東日本の被災地には困窮している同胞が数多くいるのです。寄付の方向が被災地に向かうのは当然のことでした。ムンシ師ご自身も被災地への義捐金を考えたときに、バンドゥンドゥの学校建設のための寄付金を言い出せなかったそうです。ムンシ師の努力も、甚大な自然災害の前にはほとんど無力でした。そのような中、ムンシ師の学校建設への決意と苦労を感じた私は、ムンシプロジェクトに積極的に協力することにしました。

2. アフリカへ

(1) 決 断
 協力といっても、長崎からできることは寄付、もしくは寄付を募ることです。他にも私ができることは、ムンシ師の活動を長崎市民に広く知ってもらうことのお手伝い、例えば市長への表敬訪問を取材してもらい、マスコミへの露出を手伝うことなどです。実際にムンシ師の活動が現地バンドゥンドゥの写真付きで大手新聞の九州版に掲載されました。しかし、反応は決して良いものではありませんでした。自分が寄付することができる金額はたかが知れています。プロジェクトの中心となるような人を探している事を、記事を掲載してくれた新聞社の長崎支局長に話すと、「何をぐずぐずしている お前がやらなきゃ誰がやる」と叱咤激励されました。まさしく、数年前に政治の世界へ身を投じるときの決断を、今度は図らずもこの支局長の一言によって思いだすことになったのです。寄付金の総額もムンシプロジェクトへの第1期工事の竣工に要する費用には及びません。そこで、自分自身が責任をもって寄付を呼び掛けるために、現地視察をし、実際にこの目で見て、日本の皆様に学校建設に協力していただくシステムを考えることにしました。

(2) アフリカへ
 思い立ったら即実行。たまたまムンシ師がDRCに帰国するというので、その時期に合わせてプロジェクトが行われているバンドゥンドゥ市を訪ねることにしました。妻にアフリカに行くことを話し、家計に大きな負担をかけることを許してもらいました。
 8月16日午前8時に福岡空港を発ち、シンガポールと南アフリカ共和国のヨハネスブルグを経由してDRCの首都キンシャサに到着したのが現地時間17日の14時30分。32時間の長旅でしたがアフリカの大地に両足を着けたときは、その疲れもどこかに吹き飛んでいました。
 飛行機が空港に到着し、入国審査を終えたところで早速トラブルが発生しました。私を含む2人の日本人と2人の韓国人、そしてアメリカ人1人がパスポートを取り上げられ、別の部屋に一時拘束されたのです。一人の日本人はなんとJICAの職員でした。日本大使館のご尽力もあって無事入国できましたが、大変な旅になりそうなことをあらためて感じました。
 入国後早速キンシャサ市内の教育施設や病院などを視察しました。キンシャサ市内の幹線道路は中国の支援によって整備されつつありますが、一歩路地に入ると凸凹道です。ベルギー植民地時代には道路もきちんと舗装されていたそうですが、独立後内戦によって国内のインフラの維持が全くできていないそうです。維持どころか、路地の舗装をはぎ取ってそれを砕き、砕石として幹線道路の路盤材に用いている様子には驚きました。また、キンシャサには多数の市民があふれていますが、働いている様子がありません。ムンシ師によると、これはコンゴの奇跡だというのです。働いてもいないのにこれだけたくさんの人が生きていけることが奇跡だと。訪問した病院では長年アフリカで働く日本人修道女ともお会いすることができました。彼女もアフリカに対する支援の必要性を訴えておられました。
 この日訪問した「LILOBA」(リロバ、リンガラ語で「言葉」の意)という施設では、私の訪問時に家庭内暴力を撲滅するための講座が開かれていて、30組ほどの夫婦が受講していました。この講座はテレビで中継されているとのことで、講師の女性をテレビカメラが追っていました。
 施設の内と外では別世界です。施設の外はごみが散乱し、その中で何をしているのかよくわからない人々が群れをなしていますが、施設の中では人々は整然と机を並べて講義を受けています。この内と外の人々の間には、施設の内と外を隔てている壁だけではなく、目に見えないもっと大きな何かで隔てられているような気がしてなりませんでした。
 そのような中でもあるところにはありました。私はSDカードを購入したい旨伝えると、天井まであるガラスケースの中に数々の商品が並べられたマーケットに連れて行ってくれました。そこで、2GBのSDカードを20ドルで購入することができました。このマーケットの主人は中国人でした。
 食べることも学校に行くこともままならない人々がいるのに、時代の最先端を行くSDカードが売っている。携帯電話も普及している。なんとも奇妙な光景です。現地のビールで喉をうるおしながら、この国が持つ不条理を感じていました。

(3) バンドゥンドゥでの出来事
 バンドゥンドゥは首都キンシャサから東へ280kmほど、飛行機で50分ほどのところにある町です。そこに到着してすぐ、ムンシ師が造っている学校をスタッフとともに見学しました。そこには屋根が乗っていない壁だけの建物がたたずんでいました。視察しているとたくさんの子どもたちが集まってきました。そのほとんどが裸足です。口々にこの学校に行きたいと言っていました。ここの校庭でサッカーをしたいということも。この学校の早期完成を堅く誓いました。
 私が投宿していた修道院にも来客がありました。学校で働きたいという人、中には学校に行くために支援してくれという子どもたちまでいました。彼らに聞くと、学校に行くために制服代と学費で50ドルほどかかるということだったので、二人で100ドルです。支援できない額ではありません。しかし、手持ちの資金が十分にあるわけではありませんので、「その後もっと多くの人がこのような支援の依頼に来たらどうしよう。」「二人にだけ支援して、他の人にできないということになれば、不公平ではないか。」そもそも、100ドルがきちんと学校に行くために使われるかどうかもわかりません。現金で渡すと生活費に消えることは察しがつきます。
 少年たちと話をしていると、学校に行きたい想いがひしひしと伝わってきます。そこで、この二人に限って支援することに決めました。そこで、少年たちに直接現金を渡すのではなく、修道院に100ドルを託し、制服の調達と学費の納付をお願いすることにしました。今頃彼らは制服を着用して中学校に通っていることでしょう。この二人には今年の学費も送ろうと思っています。

3. 帰国後

 帰国後、まず、DRCの状況を報告することから始めました。長崎県職員連合労働組合長崎支部の機関紙「県庁坂」に投稿し寄付集めをお願いしました。また、ムンシ師とともに長崎県職員連合労働組合や自治労長崎県本部などに対して、DRCから私立学校の許可が下りたことの報告と、組織としてムンシプロジェクトに協力していただくことをお願いし、プロジェクトへの協力についてご快諾いただきました。おかげさまで、学校建設の資金が集まりはじめ、本年9月の開校に向けて工事が再開されます。しかしまだ十分な資金があるわけでもなく、備品や施設の拡充を考えたときに不安を覚えます。そもそも教職員の給料など、学校を運営していくための継続的な資金援助も必要となるでしょう。それらを実現するために日本での学校支援組織を立ち上げ、資金獲得とその資金の使い道を明確に報告するためのシステムをつくる必要があります。これから、皆様のご協力のもとそれらの難題に挑む覚悟です。