【論文】

第34回兵庫自治研集会
第13分科会 地域で再生可能な自然エネルギーを考える

 函館市の対岸の青森県大間町に世界初フルMOX燃料を使用する「大間原発」が建設中である。函館市は、遮蔽物の何もない目の前に建設されているにもかかわらずEPZの範囲外との理由で蚊帳の外に置かれていた。そのような状況で、建設中止を求め住民に呼びかけながら行った様々な運動の中から、自治労としての今後の脱原発に向けた運動のあり方について提言する。



海峡の向こうの危険な大間原発
北海道から青森の原発を止める

北海道本部/渡島地方本部・自治研推進委員会

1. 大間町と函館市の関係──対岸の町で進む原発建設計画

 青森県下北郡大間町には、世界で初めて商業炉としてフルMOX燃料を使用する原子力発電所が建設中である。通常の原子力発電ではウラン燃料を利用するのに対し、MOX燃料とはウランとプルトニウムの混合酸化物からなる核燃料で、MOX燃料のみを使用するフルMOX炉は、世界的に見ても前例がない。
 青森県大間町は、下北半島の先端に位置する本州最北端の地である。津軽海峡を隔てて函館市戸井地域との最短距離は18km(原発の炉心からは23km)、函館市中心部からは約40kmの位置にあり、大間-函館間はフェリーで1時間40分で結ばれている。
 大間から県庁所在地である青森市までは車で約3時間、隣接するむつ市まではバスで約2時間余りを要することから、大間の生活圏は、大規模病院や商業施設など都市機能が充実している函館市となっている。
 大間町の主産業は言うまでもなく漁業であり、築地市場の初セリで例年高値がつく「大間マグロ」はマスコミでも頻繁に取り上げられ、有名である。一見華やかに見えるがその現実は、漁獲・水揚げ(収入)が不安定で後継者もなく、漁業以外の産業もないため過疎化は進む一方で、町はその打開策として原発の誘致に乗り出した。

表1 大間原発建設をめぐる主な動き
1976.4~ 大間町商工会が大間町議会に「原子力発電所新設に係わる環境調査」を要請
1976.6~ 議会が請願を採択
1982.8~ 原子力委員会が「原子力開発利用長期計画」において電源開発を実施主体とする60万6千kWのATR(新型転換炉-重水減速軽水冷却沸騰水型原子炉)の計画を決定
1984.12~ 大間町議会が「原子力発電所誘致」決議
1985.6~ 電源開発が青森県・大間町・風間浦村・佐井村にATR計画への協力要請
1990.7~ 用地取得開始
1994.5~ 大間、奥戸両漁協、臨時総会で発電所計画同意及び漁業補償金受け入れ決定。漁業補償協定締結
1999.4~ 風間浦村、佐井村が臨時議会を開催、発電所計画などに同意。協定締結
1999.6~ 原子力安全委員会が「改良型沸騰水型原子炉における混合酸化物燃料の全心装荷について」を了承。
1999.9~ 一部未買収のまま、電源開発は設置許可(旧版)申請
2003.2~ 電源開発、未買収用地買収断念を公表、原子炉位置を南に200mずらした設置許可再申請を提出することを公表
2003.3~ 電源開発は着工を2005年3月、運転開始を2010年7月に延期
2003.8~ 電源開発は着工を2006年8月、運転開始を2012年3月に延期することを公表したが、耐震指針改定に伴い、着工時期を2007年3月に再延期。新しい耐震指針を適用した国の安全審査が続いて、2008年5月着工予定となった。
2004.3~ 旧版設置許可申請取り下げ、「現行版設置許可」申請
2005.1~ 原子力安全委員会、第2次公開ヒアリング開催(函館市民4人が意見陳述)
2006.9~ 「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」改定版を発行
2008.4~ 安全審査終了、23日設置許可処分、24日第1回設計工事計画認可申請
2008.5~ 経済産業省が工事計画を認可、着工

函館から大間を望む

2. あまりに危険なフルMOX炉

 全炉心にMOX燃料を使用する大間原発で事故が起こった場合、その被害は甚大であり、ウランのみを燃料に使用する場合に比べて中性子線が約1万倍、ガンマ線が20倍、被害面積は4倍になると言われている。
 また、京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏の報告によると、仮に大間原発で事故が起きた場合、アメリカ原子力規制委員会公表の「原子炉安全研究」のBWR2型(格納容器の破壊、炉心溶融の惹起)を仮定すると、函館市方向に風速2mの風が吹き、約4時間後に放射能の雲が40km離れた五稜郭公園に到達した場合、函館市民の約8,000人が急性死、その後、100%の人間が何らかの癌により死亡するとされている(「原子力資料情報室通信№411」より)。
 1998年3月、函館市役所が京都大学原子炉実験所の小林圭二助手を招いて市職員対象の大間原発についての学習会を開いたが、その際にも大事故があれば現在の函館市、北斗市、七飯町、鹿部町、森町の全住民の5年以内の生存率は0%とされた。

3. 蚊帳の外に置かれた函館市(道南)

 このように危険な原発が、遮蔽物も何もない目の前に建設されるにもかかわらず、緊急時計画区域(EPZ=Emergency Planning Zone)の範囲外であることや、同じ都道府県でないとの理由から、函館市をはじめ近隣自治体にはもちろんのこと、北海道にさえ何ら説明もなく、我々を蚊帳の外にしたまま建設工事は進み出した。
 国や建設主体である電源開発株式会社の横暴に対し、函館市内や道南地域の住民は1995年に「ストップ大間原発」を発足させ、建設中止に向けた市民運動が始まった。だが、正直にいえば、当時、我々地元自治労をはじめとした労働組合側の対応は、個々の市民運動への参加程度に留まっていた。函館市民や近隣自治体の住民にとっても、他県にできる原発であること、距離的なイメージが湧かないこと、原発の安全神話が存在していたことから、大間原発が建設されることに関心を示す人は少なかった。
 このような状況でも市民団体は、函館市議会や北海道への呼びかけを行いながら、地道に大間原発の危険性を訴え続けた。大間原発に反対する市民団体も3団体に増え、地元大間の反対住民とも交流を行い活動を展開した(表2)。その後発足した「大間原発訴訟の会」は、現在、国と電源開発を相手に裁判中である。

表2 大間原発に反対する市民運動の経過
1995~ 大間原発がフルMOX-ABWRに変更になったのを機に「ストップ大間原発道南の会」発足
1997.4~ 「大間原発に反対する地主の会」結成(於:青森市)
2005.2~ 大間町在住の熊谷あさ子さんが、同意を得ずに共有地を造成したのは違法であるとして、電源開発を相手に原発建設工事の差し止めを求める訴訟
2006.5~ 「大間の海は宝の海」が口癖だった熊谷あさ子さんが風土病で死亡
2006.10~ 原発工事の差し止めを求める訴訟は最高裁で敗訴の判決。翌年1月に取り下げ
2006.12~ 74名の賛同者を得て大間原発訴訟準備会が発足
2007.7~ 函館市議会が「大間原子力発電所の建設について慎重な対応を求める意見書」を採択
2008.2~ 前年11月から取り組んできた「大間原子力発電所設置許可を出さないことを求める署名」64,222筆を経済産業省原子力安全・保安院に提出
2008.4~ 甘利経済産業大臣が電源開発に大間原発の原子炉設置許可を出したことに対して抗議文を提出。大間原発に反対している4団体(青森県の大間原発に反対する会、ストップ大間原発道南の会、大間原発訴訟の会、函館・「下北」から核を考える会)が共同で電源開発に対して「建設計画の断念を求める要請書」を提出
2008.6~ 函館市、北海道知事に対して要望書を提出(提出を呼びかけ)
2008.6~ 「電源開発株式会社大間原子力発電所の原子炉設置許可処分に対する異議申立書」(4,541筆)を甘利経済産業大臣に提出
2008.9~ 大間町の「あさこはうす」で「第1回大間原発着工抗議集会」
2008.12~ 高橋はるみ北海道知事に対して「大間原発の説明会を求める団体署名」(99団体)提出
2010.7.28~ 国と電源開発を相手に「大間原発訴訟」第1次原告(168人)提訴
2010.12.24~ 第1回口頭弁論

4. 自治労が住民に呼びかけ反対運動を展開

 昨年の3月11日を境に原発の安全神話は崩れ、原発推進派以外のほとんどの国民は原発に対する恐怖・不安を抱き始めたと思う。恥ずかしながら、当初は平和フォーラムに結集するくらいだった我々自治労の運動も、3月11日以降、大きく変化した。自治体労働者の労働組合として「原発が一度事故を起こしたら、そこに住む住民は生活の全てを失い、街が無くなる。既存の原発も新規の原発も建設するべきでない」と考え、また、原発問題を自治労に課せられた課題であると認識し、単組として主体的に運動をする必要性に気づかされた。

(1) 住民喚起と学習の場づくり
 活動に取り組むにあたり、三つの柱のもとに運動を進めることとした。一つ目の柱は、住民へ積極的に呼びかけ、学習の場をつくることである。我々労働組合だけの取り組みだけに自己満足せず、住民喚起をしてこそ大きな成果があがるとの考えから、まずは大間原発が他の原発よりも危険だということを認識してもらうため、住民に呼びかけ学習会を開催した。原発事故直後の5月の開催ということもあり、住民 200人の参加があった。
 また、街に出て訴えることが必要だと考え、組織内議員とも連携しながら街頭宣伝行動で、チラシ配布や署名活動も展開した。函館市以外の人通りの少ない町でも街宣を行ったほか、各自治体議会で原発に関する決議や意見書採択に向けた取り組みを行った。
 さらに、実際に現地に足を運び、現地がどのようになっているのかを自分の目で確認した上で運動を進める必要があると考え、現地視察を実施した。函館側から大間町を見たときの普段見慣れた風景と異なり、大間町から函館側を見ると距離がより近く感じられ、参加者からも、今までの価値観が覆されたとの感想が寄せられた。

函館の汐首岬(左)と大間岬(右) 大間から見た函館

(2) 運動を北海道全域に広げる
 二つ目は、この運動を全道的な運動として位置付けることである。海を隔てていることや他県の原発であるということ、距離的な問題から、反対運動は道南地域だけの課題・運動となりかねない。それでは運動の広がりがつくれないことから、北海道全体の課題として受け止めてもらうために、道南地域平和フォーラム加盟の産別による北海道本部の機関会議などで、大間原発の危険性を訴えることを意思統一した。その結果、建設中止に向けた全道署名を行うに至り、全道で 157,660筆を集め、今年1月、北海道知事に提出したところである。北海道知事宛の署名としたのは、北海道が大間原発問題の当該自治体として、国や青森県に主体的に建設中止を求めていくようにとの主旨からである。
 また、全国1000万アクションの取り組みと連動して「やめるべ、大間原発 10・29北海道集会」を初めて函館市で開催した。当日は、全道各地や青森県内から 1,500人が集まり、集会は成功を納めると同時に、大間原発を全道的な課題として位置づけることができた。

(3) 北海道から青森県への働きかけ
 最後の三つ目は、青森県の世論喚起である。北海道が建設中止に向けていくら一枚岩となったとしても、青森県側が原子力に依存した自治体運営を間違いだと受けとめなければ何の意味もない。これらのことから、青森県側との交流を開始し、北海道と青森県の住民の原発に対する意識について意見交換を行った。
 大間原発をはじめ下北半島にある原子力施設は、人口が集中している県庁所在地の青森市から山間部に挟まれ90km以上離れている。そのため、青森県の住民は函館側より原発の危険性を実感できないのかもしれない。また、県自体が原子力に頼った自治体運営を行っているため、原発を容認する風土が自然と培われ、脱原発について県内では発信しづらい雰囲気であるのではないかと感じられた。下北半島には、大間原発以外にも原子力施設が集中している。道南地域はそれら施設からも 100km圏内であることを考えると、今後、青森県への要請行動も模索していかなければならない。

5. 脱原発こそが持続可能な社会への道

 福島原発事故から1年以上が経過し、5月5日、泊原発の停止を最後に、国内にある全ての原発が停止した。原発に関する国内議論は既存の原発のみで、建設中の原発をどうするかの議論は全くされていないが、国民の大半は脱原発に向けた社会の実現を望んでいる。様々な意見や思惑があるにせよ、日本が脱原発へと向かうならば、建設中の原発の建設中止を国として判断することは必然であると考える。
 その一方で、原発を基軸としたまちづくりを模索してきた建設地のことも考えなければならない。そこには可能な限り国の手当が必要となる。脱原発と同時に、地元自治体の支援も進めなければならない。ただ脱原発を訴えるだけでなく、両方の視点で運動を進めてこそ自治労だと思う。
 いまなお厳しい状況下にある福島を思うとき、脱原発こそが北海道の住民も青森の住民も安心して暮らせる持続可能な社会を作りあげることだと確信している。様々な現状を認識した上で、今後も脱原発運動を進めていく。