【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第1分科会 ~生きる~「いのち」を育む・いかす、支えあう

 障がい福祉施策が永年続いた措置制度から支援費制度(2003~2005)、そして障害者自立支援法(2006~2012)、障害者総合支援法(2013~)と目まぐるしく変わる中、自治体思の担当者は翻弄されながらも、障がいのある人、家族の実態・思いに寄り添いながら、地域で当たり前に暮らすことを実現しようとしてきました。



「医療モデル」から「社会モデル」へ


大分県本部/大分県地方自治研究センター・理事・宇佐市民自治研究センター 内尾 和弘

1. 「生きづらさ」に追い打ちが孤立と貧困を生む

 障がいとは生きづらさである。その生きづらさに加え、障がい福祉政策の貧困さ、障がいへの無理解や差別等々が追い打ちをかけ、障がいのある人や家族が地域社会からの孤立や生活困窮状態の中で苦悩しながら暮らしている姿を数多く見聞きしてきました。

 「小2の時、特別支援学級に在籍。同級生から何故かと問い詰められたが、どう答えていいかわからず担任に皆に説明して下さいと頼んだが『はい』と言ったにもかかわらず何もしてくれなかった。皆からのいじめが激しくなり、毎日の様に泣きながら帰っていた。
 親に心配をかけたくないので、涙がかわくまで、歩き続け家に帰った。高校進学の時、始めて親に言う事が出来、支援学校を選んだ。
 今も辛い事があると、その時の事がフラッシュバックしてくる。成人式は、写真を撮って思い出にしたいが、同級生の出る式には参加しない。」

 「私は幼な心にも、周りとは違う何かを感じていた。言葉をうまく発音する事が出来ず、四年生まで言葉の教室に通っていた。その内、いじめの対象となり、鞄に砂、ご飯にチョーク、私を見れば目が腐ると言われ、鏡を見ようとすれば割れるから見るなと言われ、階段から落とされたり、暴力を振るわれる事もありました。
 いじめは高校まで続き、家族ともそりが合わず、家出を繰り返し、ホームレス同然の生活をしていました。」
(第4回市民集会より)

 「私が『健常者の方とこの様な場で同じ立場で話しをしてもいいんですか?』と、誰もが安心して暮らせる大分県条例の地域の話し合いの場で言った事がきっかけで、私の物語を話すことになった。
 3才から38才まで病院、施設で暮らしていた。
 施設では、職員と障がい者の立場しかなく、少しでもトラブルを起こしたり職員に文句を言うと『ここにはおられん。出て行って。』と言われ、他の施設に変わった人達もいました。このように、職員の言い方も強く私はびくびくしながらの生活で、『ありがとうございます。』『すみません。』『お願いします。』『ごめんなさい。』が自然と身に着いた。」
(第6回市民集会より)

 「全盲の夫婦に待望の赤ちゃんが生まれた。
 退院後の生活についてどうするかの支援会議が持たれた。
 病院は、全盲の夫婦に子育ては困難と考え、会議の場に児相を呼んでいたし、どんなに大きなリスクがあるかを並べ立て親子を離そうとした。夫婦は怒り、支援を受けながらも絶対に自分たちで育てていくという思いを出した。
 条件は24時間のサポートだった。市と相談支援事業所、五居宅介護事業所が連携し、24時間サポートをスタート、病院スタッフも加わった10日毎の支援会議を開催した。二人の必死な子育てと支援者の連携で、10日後に12時間、その後も6時間サポートで済む様になった。」
(第3回市民集会より)

2. 私たち自治体労働者も障がい者福祉の貧困さの中で仕事をしてきました

 措置時代は、障がいのある人が地域で「住む」「働く」「余暇を楽しむ」は市町村の障がい福祉担当者は仕事としてあまり考えなくて済みましたし、家族責任で済んでいました。
 家族で見られない場合の申請があれば、施設入所が仕事でした。

 生保のケースワーカー時、精神障がいの方が何十年も入院したままでいる事に疑問を感じ、ある人の地域での生活を実現しようと準備を始めましたが、様々な壁にぶつかりました。その壁の1つが、毎日の生活を支えるホームヘルプでした。市担当に話しにいくと、月~金の8:30~17:00まで毎日は使えないということでした。「それでは生活が支えられない」というと、「一人暮らしを支えていく事を想定してのヘルプではない」と、できん事を持って来ないでという対応でした。それでも、地域で住みたいという本人の希望があり、住まいとして市営住宅を確保、縁を切られた兄弟を説得し、金銭管理と時々の訪問、障がい者施設による訪問と相談、週3日のホームヘルプの確保でかろうじて一人暮らしを実現しました。

 障がいのある子どもとお母さん達の日々は過酷なものでした。
 それこそ家族責任で看るしかなく、あるお母さんから学校の長期休みは子どもと追いかけっこの毎日でした。ちょっと目を離すと家を飛び出し、その後を追いかけ、何かにつけパニックを起こし、どうしたら良いのか解からず落ち込んだりと、お互いに煮えつまる日々でした。そんな悩みを市担当に話しても、在宅でのサービスはないと言われるだけでした。そこで、同じ悩みを持つお母さん達と会を結成してつながったことで、親子とも救われたと言っていました。
 「水泳を子どもに習わせたい」からヘルプを利用できないかと、市窓口で言ったら「税金をそんな事では使わないで下さい」と言われたお母さんもいました。

3. 地域での当たり前の暮らしをつくる
―― 住む・働く・生きる ――

 私は、措置制度から支援費制度(2003~2005)に変わっていた2004年に障がい福祉の担当となり、障害者自立支援法(2006年)に関わり、2009年までの6年間担当しました。
 支援費制度では、自己決定・自己選択によるサービス決定が出来る様になったこと、自立支援法では障がいがあっても、「働く」ということが重要視されたこと、実施主体が県から市町村へ移ったこともあり、自分の所で決めていくことが出来る様になったことは大きな変化でした。
 自分の所で決めていくといっても、障がいのある人や家族の実態や思いなども知らないし、どんな支援がされているのかも知らなかったのです。それに、皆の思いを込めたものを、つくり続けていく仕組みがないと、市担当者は人事異動でいなくなる等々を考えたわけです。
 障がいのある人・家族を中心に置き、事業所、行政機関が集う組織をつくりました。

宇佐市における「ともに生きる」ネットワーク図(2007年当時)

 何を大切にしてきたのかというと、障がいのある方々、家族がどんな苦しい思いを持ち、どんな困難な暮らしを強いられているのかを知り合うこと、そして当事者・家族がその苦労や困難を主体的に担いながら「生きること」を支援していくこと、「あなたはどう考えていますか、どうしたいですか」、自らの「気づき」を大切にし、「変わりにしない、いらぬ世話をやかぬ」支援を心がけてきました。
 困った事、不安、悩み、夢、したいこと等話があったことをそのままにしない。それが、なかなか解決できない事であっても、実現できないことであっても、又一人の困り事であってもです。

 子どもが高校進学なのだが、私の地域に来る支援学校(当時、養護学校)のスクールバスがなくて、支援学校に行くか地元の学校に行くかの選択しかないので困っているという発言が療育・教育ネットで、あるお母さんからありました。聞いてみると今まで何人も個人的に学校へ頼んだが、出来ないといわれたとのことでした。
 「おひさまの会」へこの問題が引き継がれ、その地域でのアンケートの実施、行政・療育機関、おひさまと、発言したお母さんが呼びかけた両院保護者の集いの開催をし、要望書を県教委・支援学校へ提出、県議団へ協力要請等してスクールバスの導入が決定しました。
 あるお母さんは、障がいのある自分の子どもに日頃迷惑を掛けられているのにと、協力してもらえないのではとビクビクして署名のお願いに行ったら快く協力していただき、頑張ってねともいわれた、やって良かったと。

 困り事、夢の中から新たな社会資源も出来ました。家から出て仲間と楽しく過ごしたいからグループ型移動支援「かけはし号(2台)」が誕生、運転・介助ボランティアの協力で楽しい時を過ごしています。
 他にも余暇支援として、音楽、将棋、絵手紙、料理教室も生まれました。そして2年に1回、集大成として、「ピアサポートフェスティバル」が大勢の市民も参加して開催されています。

最後に
 家でひっそりと過ごしていた人達、特に心の病いを持った人が居場所を求め、地域に出てくる様になり、そしていきいきと働いている姿も見られる様になりました。
「生きづらさ」を抱え苦労しながらも、障がいのある人達が持つ「生きる力」を社会が信じ、支える協働が「その人らしく生きる」をつくりだしていくのではないでしょうか。