【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第3分科会 石巻に虹を架けよう~被災地の今を見る、知る、触れる、考える~

 東日本大震災を踏まえた国の想定により、日本最大の津波予想が出された町の苦悩と、その苦悩から見出した新たな町の取り組みについて述べるとともに、町の取り組みの中での筆者の気づきを報告する。なお、本文中の「震災前過疎」とは、筆者らの造語であるため、「"最悪"想定とどう向き合うか~『2つの災害観』と『関係性の再構築』によるアプローチ」、『第34回兵庫自治研集会第3分科会レポート・報告書集』を参照されたい。



東日本大震災と国の想定をきっかけにした
黒潮町の新たなまちづくり
―― ふるさとを、あきらめないために ――

高知県本部/黒潮町職員労働組合 友永 公生

1. はじめに

 34.4mという想定津波高により、私たちの暮らす黒潮町は「存続の危機」にさらされた。
 「津波予測地 転出の動き」「3.11、新想定影響」「地元離れ別自治体、高台へ」「『震災前過疎』を危惧」という言葉が地元紙の1面を飾る事態が起こったのである(高知新聞、2013.2.28)。このように「震災前過疎」という言葉が取りざたされるなど、想定をきっかけにした人口移動が生じたのは事実である。
 加えて言うと、三陸沿岸の水産基地のダメージから生じている人口減少は、大規模な災害等により深刻な産業被害を受ければ、生業を失い生活基盤を移動せざるを得ない事態が発生することを如実に示している。こうした現象は人口移動について「自然減」「社会減」を補完する概念として「災害減」という考え方(もちろん「増」もありうる)が必要ではないかとさえ思える切実さをはらんでいる。人口減少で将来予測が厳しい自治体にとっては、自治体経営の破綻を招く大問題である。
 幸いにして黒潮町はまだ被災してはいないが、近い将来大きな災害が起こるということは、その後の人口流出も激しいものになると予測しなければならない。復旧、復興においても「住まい」が先か「仕事」が先かという、根本的な選択肢が問い直されているのではないだろうか。そして、今何をすべきか? が真に問われているようにも思う。地域社会が体力を失う前に、今しかできないことは何か?
 この前提にたったとき「震災前過疎」なる現象は、自治体の維持存続において大きなリスク要因であり、ひとつの指標となることはご理解いただけると思う。最悪と呼ばれる想定と、予想される事象にどう向き合うか? この難題を打破するためには、当事者意識を持ちつつ、あらゆることに「向き合い直す」ことが必要となる。以下、最大規模の想定を突きつけられた自治体が、どのように町の経営を見直していったかについて、ひとつの取り組みとして報告していくこととする。


2. これまでの黒潮町の防災体制と住民意識

 黒潮町は、県都高知市から約100km西に位置している。気候は温暖で、県内でも風水害が少ない地域であり、実際のところ近年は大きな災害は発生していない。これは高度経済成長期においても、爆発的には人口が増加せず、危険区域に住宅地があまり拡張していないからかもしれない(ただ、急峻な山地を控えた土地柄、油断はできないのは当然である)。
 こうした背景もあり、防災対策と言えば近い将来発生するという南海地震と津波への備えを意味すると言っても過言ではない。東日本大震災以前は、高知県の想定をベースに地震・津波対策を進め、100年災害として安政南海地震(1854年)をターゲットとし、想定する津波高も10m程度と設定して対策を講じてきた。
 主なものは避難対策で、自主防災組織づくり(100%達成)、津波避難計画づくり(全地区策定)等のソフト対策に重点を置き、ハード対策は補完程度に進めていた。
 町の主要施策として防災に力を入れて取り組んできたつもりではあるが、東日本大震災という1000年災害とも呼ばれる出来事を目の当たりにし、町として、住民総体として「本気度」はどうであったか? 当時の防災担当者という意味で、筆者には反省する点が少なくない。


3. 「津波予想高34.4m」の衝撃と防災の町への転換

 東日本大震災を受け、国中の様々な仕組みが大きな変化を求められたのはご案内のとおりである。もちろん、私たちの町でも様々なものが見直されることとなった。
 防災対策で言えば、東日本大震災直後に南海地震対策推進本部を設置し、想定が見直されることを見込んで、避難場所が海抜20m以上の高さを有する避難経路のみ先行して整備することとしていた。ところが、2012年3月に国から示された数値は34.4mである。約1年かけて議論し進めてきたことが、突き崩された思いであった。そして、住民からは「2つのあきらめ」が生じることとなった。
 避難してもしかたがないとあきらめる「避難放棄」という問題と、津波リスクを避けるため町を離れる「震災前過疎」という問題に至ったのだ。
 想定が出ただけでこのような危機的な状況を生んだということは、ある意味「防災意識」は高いのかもしれない。しかし、このままでは弱体傾向にある自治体としての機能が一気に低下し、自治体経営が立ち行かなくなる危惧があった。この「2つのあきらめ」を解消することが大命題となり、町として住民の不安を払拭し、前向きな対策を明確にするため「犠牲者ゼロ」を目標に掲げ、徹底的に防災対策を推進することとしたのである。


4. あきらめさせないための津波対策

世帯ごとの避難カルテには避難ルートも記載

 まずは避難放棄対策として、約200人の町職員を地域の防災担当とする「防災地域担当制」を導入した。地域担当職員が、各地域の懇談会に参加し、ワークショップを運営、まち歩きで避難経路の点検を行い、地域ごとの課題について意見交換を経て整理し、防災担当セクションに集約した。新想定公表から約半年で300路線近くの整備計画を作り上げた。おそらく住民との合意形成を経た点を加味すると特筆すべきスピードで事務処理をしたと言えるのではないかと思う。現在は、その計画をベースに粛々と避難道の整備や避難タワーの建設を進めている最中である。
 スピード感を優先させたが故、本来の防災担当者でない職員による作業となったため、完成度でみれば不十分なのかもしれない。ただ、住民とともに「役場が動いている姿」を知らしめ、地域担当職員が広報と公聴機能を発揮できたことは不十分さを補うに足る効果であった。
 また、早急に計画を取りまとめ、予算確保に傾注できた結果、国や県の有利な財源が確保できるなど、住民(将来の住民を含む)負担の軽減につながったことは、町の経営面からしても有益な効果を生んだ。
 さらに津波浸水予想の全世帯の避難計画を作るべく、「戸別避難カルテ」の収集など、全国でも類を見ない徹底した対策を講じてきた。このカルテ作りは単なる意向調査にとどまらず、「啓発」と「記憶の定着」に寄与するものだと、後になって外部から評価を受けた。その理由は各家庭でカルテに情報を記載してもらう際、個人宅から避難場所までの避難ルートを自ら手書きするという作業があり、避難する際の自らの行動を考える効果があったためである。認知はしていなかったが、結果的に住民が自身の避難対策や避難行動について向き合い直すきっかけになったとも言える。この1世帯ごとに避難計画を作るという徹底さは、町の「本気度」が住民に伝わる効果があり、「避難放棄」はほぼ払拭できたと言える。
 これまでの概念を覆されるような想定を突きつけられた反作用によって、こうした手探りかつ手づくりの防災対策はスピード感を持ってどんどん町中に拡散していった。ただ、かなり強引な「行政主導」である面は否めない。現在は、「防災という営み」を、本来あるべき「住民主体」の活動に戻すべく、地域担当制を活用し、地区防災計画づくりに重点を置いた対策へシフトしている。地区防災計画作りは、行為そのものが「わがこととして」まちづくりを考える営みだと理解しているからである。


5. もう一つのあきらめ対策、新産業創造事業(we can project)

 次に町が取り組んだのは「震災前過疎」への対策である。住民が町から出ていくことは、自治体経営に直接ダメージを及ぼす。
 そもそも町の総生産は過去の約10年(1999年-2009年)で2割も減少した。特に2次産業(主に建設業と縫製業)が激減しており、働く場を求めて人口が流出する構造的な課題があった。また、職がないため都会等からの移住受け入れも困難な状況にある。国の新想定は、結果的にこうした地方の窮状に拍車をかけることとなった。

 座して死を待つか、打って出るか ――
 町は後者を選んだ。一風変わった独自の取り組みが注目を浴び、日本一の想定に翻弄されつつも防災対策を町ぐるみの動きとしてきた町の姿が、多くのメディアで取り上げられるなど注目を浴びていることを好機と捉え、「防災活動」という「地域資源」を活用して勝負に出るべきだと判断したのだ。
 人口流出の抑制や移住促進には、特に若者が就労する場が欠かせない。地理的条件などから民間資本の注入を得難い環境で、この地域の最大の事業所である町役場が、新たな産業(防災関連産業)を興そうと投資を選んだのである。今できることをとことん突き詰めた、ひとつの賭けでもある。
 ポイントを挙げるとすれば、「34m」という日本一の津波想定を「旗印」として会社(株式会社黒潮町缶詰製作所=第三セクター)のシンボルマークに掲げた点である。国に突きつけられた負のレッテルを、「国が認証したブランド」にしてしまおうと発想を転換したのだ。
想定津波高をシンボルマークとした町の「覚悟」 アレルゲン対応の非常食とし、
付加価値を高め市場に参入

 雇用の場を守るべく会社を立ち上げたものの、地域に根のないベンチャーであり、かつ民業に縁のない町役場が経営に主体的にかかわる体制であるため、経営は困難で厳しいものはある。しかし、町として覚悟を決め自立した産業化をめざすからには、まずはしっかりとした製品作りに徹しつつ売り上げを伸ばし、企業体としての基礎体力をつけることが急がれる。
新たな雇用を生んだ缶詰工場
 この会社が売上を伸ばせば、直接雇用だけでなく、原料供給先として地域内の1次産業や加工業者の販路となれる。
 こうした機能を生かし、「雇用」と「外商」という行政目的を担った第三セクターとしての役割をフルに発揮できるよう育てなければならない。町内事業者の販路として、事業者が生業を続けることにつながれば、町の会社としての存在価値を高めることもできるし、町の産業が維持できる。つまり町の未来への「希望」が生まれ、「夢」が育まれることになるのだ。


6. 結びに、まちづくりに夢を

 「震災前過疎」「災害減」など、自治体経営に影を落とす負の要素に対し、何をすべきだろうか。
 成熟、高齢、人口減少社会と呼ばれる現代において人が離れていく理由は、果たして負の要素が「あるから」だけだろうか。そこに「夢」や「希望」があれば、見出せれば、どうだろう?
 憂い、嘆くだけでは事足りない。私たち自治体職員は何かを成し得る立場にいる。自治体を担い、経営する中心に立っているのだから。
 何もしない理由はない。夢を見よう。未来に続く自らのまちをつくろう。そして、今できることを探求し、まちを、暮らしを守ろう。
 空虚なスローガンでなく、重い使命感でもない。もっとしなやかにまちづくりに向き合うべきなのだろう。想定に翻弄されたこの間の町の取り組みの中で、このことに気づけたのは大きな収穫に他ならない。