【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第4分科会 安全な場所・逃げる場所ってどこなの? ~防災を知ろう~

 2007年に発生した中越沖地震により、東京電力柏崎刈羽原発が緊急停止しました。原発構内が地震で広範囲に被害を受け、トラブルが続発しています。原発から半径30キロメートル圏内の自治体においては、原子力災害に備えた避難計画が策定されています。策定された避難計画は有効な計画であるのか、計画を支える多様なコミュニティはあるのか、それが機能する日頃の連携は図られているのか、計画の現状と課題等について検証します。



柏崎刈羽原発をめぐる事故対応と
避難計画の検証について
―― 中越沖地震から学ぶこと ――

新潟県本部/自治研推進委員会第4分科会 石原 正敏

1. はじめに

 阪神・淡路大震災(1995年1月)、中越地震(2004年10月)、東日本大震災(2011年3月)、熊本地震(2016年4月)など、日本列島において、この20年の間に大震災が頻発している。東日本大震災においては、地震直後に発生した巨大津波によって、福島第一原発が壊滅的な被害を受けた。周辺住民の多くは避難を余儀なくされ、復旧・復興は大幅に遅れている。東日本大震災から約5年が経過して、被災地はどう変わり、今後どのような形で復興していくのであろうか。
 新潟県においては、2007年7月の中越沖地震によって柏崎刈羽原発が緊急停止した。その後、1、6、7号機は運転を再開したものの、東日本大震災を受けて、現在、1号機から7号機までの全基が停止しているが、再稼働に向けた動きが活発化しつつある。活断層を含め安全性に問題がある中で、①策定された防災計画や避難計画は有効な計画であるのか、②その計画を支える多様なコミュニティはあるのか、③それが機能する日頃の連携は図られているのか、など課題も多い。柏崎刈羽原発をめぐる事故対応及び住民の避難計画の現状と課題について検証する。


2. 柏崎刈羽原発の沿革

 日本石油(現新日本石油)発祥の地・柏崎は周辺に油田が林立し、かつては「石油の街」と呼ばれた。石油産業を核に、理研関連の企業群も誕生し、機械工業が発達した。しかし、日石が1956年に製油所を北海道に新設したことに伴い、柏崎製油所は徐々に縮小となり、1967年に廃止されている。豪雪にもたびたび襲われ、地元は孤立感にさいなまれたという。基幹企業の移転もあり、人口も減り続けた。隣の刈羽村はさらに深刻だった。財政難のため1964年、「準用再建団体」に転落し、国から財政再建計画の策定を命じられていたという。今でいう自治体の倒産に当たる財政再建団体に近い状況で、学校建設などによって生じた財政赤字は3千万円に迫っていた。当時、柏崎市と刈羽村には、同市荒浜地区と刈羽村にまたがる砂丘地の開発という共通の課題があった。
 そのような状況の中で、東京電力が原発誘致の動きに呼応する形で未開の砂丘地に柏崎刈羽原発の建設計画を発表したのは1969年9月である。1号機は1975年3月に設置許可申請、1977年9月に設置許可、1978年12月に着工、1985年9月に営業運転が開始されている。一方で、1977年10月に同原発に反対する住民らが設置許可に対する異議申し立てを行い、1979年7月には反対住民らが1号機設置許可取り消し訴訟を提起している。柏崎刈羽1号機訴訟は1審の新潟地裁で1994年3月に住民側請求棄却(その後、住民側が控訴)、2審の東京高裁で2005年11月に住民側控訴棄却(その後、住民側が上告)となり、最高裁において係争中である。
 この間に、1979年3月の米国スリーマイル島原発事故、1986年4月の旧ソ連チェルノブイリ原発事故など深刻な原発事故が発生し、国内においても1995年12月の高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏えい事故、1999年9月のJCO東海事業所における臨界事故などが起きている。

3. 中越沖地震における対応

 2007年7月16日、中越沖地震によって柏崎刈羽原発で動いていた原子炉が全て止まった。設計時の最大地震の想定を大幅に上回る激しい揺れに襲われ、耐震安全性の前提が崩れるとともに、被害やトラブルが続発した。中越沖地震は、原発構内が地震で広範囲に被害を受けた世界でも初めてのケースとなった。原子炉建屋で最大680ガルを記録、想定値の約2.5倍の揺れとなった。柏崎刈羽原発では、重大な放射性物質漏れ事故こそなかったが、激震が残した傷跡は軽微なものまで含めると、3千件を超えるという。柏崎刈羽原発の7基すべてが止まったのは、2002年に発覚したトラブル隠しによる点検時に続いて2度目となった。
 4基の原子炉が緊急停止(スクラム)したが、原子炉は停止すれば安全というわけではない。炉内には放射性物質を含んだ約280度の高圧蒸気が充満している。7基のうち、動いていた4基すべての炉水温度を100度以下に冷やして初めて安全が確保される。7号機では、冷却用の復水器に蒸気を引き込むためのボイラーが地震で故障し、通常は自動操作で冷やすところを手動でやらざるを得なかった。3号機では想定外の変圧器火災が発生した。柏崎市消防署から、救助要請の殺到を理由に自力での初期消火を要請されたが、消火配管が地震で寸断され、消防隊が到着して鎮火するまでの約2時間、黒煙が上がり続け、地震で避難した地元住民の不安を増幅させる結果となった。6号機原子炉建屋3階の(放射性物質があり得ない)非管理区域の水たまりについても対応が後手にまわった。測定の結果、水たまりから放射性物質が検出された。しかし、放射性物質があり得る「管理区域」で見つかった別の水からは検出されなかったため、「水を取り違えたのではないか」として測定を3度行い、非管理区域への放射性物質漏れを確定するのに5時間以上を要した。放射性物質が検出された水は床下を伝わって地下1階の排水槽にたまり、ポンプで日本海に放出されていた。使用済み燃料プールから地震の揺れであふれた水であることが後で判明した。地震直後の取材などに対し、漏れはないとしてから半日近くが経って、外部への放射性物質漏れを公表したことにより、風評被害が一気に加速した。
 東電はもとより、中越沖地震における新潟県の対応もお粗末であった。自らの放射線管理情報(環境放射線監視テレメータシステム)を持ちながら、住民避難の判断を国任せにしただけでなく、被災自治体への情報提供が遅れたことは、猛省が必要である。また、地震発生当日、安全協定に基づく状況確認のため原発内に入った職員はいなかったという。これは、極めておかしなことであると言わざるを得ない。


4. 中越沖地震から学ぶこと

(1) 耐震安全性について
 これほどの激震に襲われた場所になぜ、原子炉の設置が許可されたのか ―― 。柏崎刈羽原発は、中越沖地震で阪神・淡路大震災と同じ最大で震度7を記録した。国は1977年、専門家による安全審査の審議を経て1号機の設置を許可した。しかし、中越沖地震の揺れは設計時の想定を大幅に超えた。これは、東電が当時、技術的に可能であった海底調査をしなかったことが大きな原因であり、原子力委員会の原子炉安全専門審査会の審査において、活断層研究の知見が活かされなかったことも検証すべき課題である。その後、東電は2・5号機の審査に伴って、独自の海域調査に乗り出しているが、海底に眠る活断層を結果的に見逃がしている。また、柏崎刈羽原発の増設に伴う設置許可申請で4本の断層が逆断層であるにもかかわらず、正断層とするミスを続けていたことも明らかになってきている。1955年に公布された原子力基本法によって日本の原子力利用の歴史が始まってから60年以上が経つが、原発の設置許可申請が国の安全審査で却下されたことは一度もないという。不合格にされる前に、電力会社が「追試」を繰り返し受けていたからだという。これが事実であるとすれば、国の安全審査が非公開という厚いベールに覆われてきたことを速やかに止めて、耐震安全性について最新の知見で評価する枠組みづくりが喫緊の課題となるだろう。
 周辺海域に大規模な活断層の存在が明らかになったことによって、国による安全の保証は大きく傷ついた。「安全神話」が大きく揺らいだと言える。設計時に想定した基準地振動(限界地震)を大幅に超える激震は、商業原発を抱える国内外の電力会社に強い衝撃を与えた。東電は陸・海域で活断層の有無を調べる大規模な調査に着手し、他の国内各社も耐震安全性の見直しを含めた課題に直面している。

(2) 原子力災害に備えた避難計画について
 柏崎刈羽原発においては、原子力災害対策特別措置法に定める原子力災害が発生又は発生する恐れが生じた場合に備えた対策が講じられている。原発が立地する刈羽村、柏崎市はもとより、原発から半径30キロメートル圏内の自治体の出雲崎町、長岡市、燕市、見附市、小千谷市、十日町市、上越市などにおいて、いわゆる「原子力災害に備えた避難計画」が策定されている。
 柏崎市がHPで公開している「防災ガイドブック ―― 原子力災害編 ―― 」によれば、原発から概ね5kmまでの範囲をPAZ(Precautionary Action Zone=即時避難区域)、原発から概ね5km~30kmまでの範囲をUPZ(Urgent Protective action Planning Zone=避難準備区域)として、原発からの距離で異なる対応を事前にしっかり確認することや正しい情報で行動するよう促している。即時避難区域は刈羽村のほぼ全域と柏崎市の7地区におよぶ。柏崎市の防災ガイドブックはカラーを駆使して見やすい工夫がされているが、長岡市、小千谷市の計画は100頁を超える大冊のうえ、文字ばかりではっきり言って分かりづらい。各自治体のHPなどで公開されているが、見やすさ、調べやすさの点から見ても及第点には程遠い。
 計画策定そのものが目標であって、策定された計画が住民に浸透しているのか、有効な計画となっているのか、はなはだ疑問な点が多い。計画には日頃からの近所付き合いの大切さや警戒事態となった際に自主防災組織への協力を呼びかける項目があるが、お題目だけにとどまっているのではないだろうか。実際に機能するよう、日頃の訓練やコミュニティ間の連携強化が求められることは改めて言うまでもない。

(3) コミュニティについて
 柏崎市には、概ね小学校区単位に組織された32の地域コミュニティ(協議会)がある。1971年に中鯖石地区が国のモデルコミュニティ事業の指定を受けて以来、集会棟と体育館を備え公民館を併設したコミュニティセンターが順次整備されてきた。地域住民組織がその管理運営にあたるとともに、多くの住民が利用するコミュニティ活動の拠点施設としての役割を果たしている。  
 中越沖地震では、4万棟を超える住宅が損壊し、うち7千棟が全半壊の被害を受けた。余震は少なかったが、柏崎市の中心街を含む狭いエリアに被害が集中している。電気、水道、ガスといったライフラインが大きな被害を受け、電気については地震発生から2日後に復旧したが、ガスが全面供給されたのは42日後であった。小学校やコミュニティセンターなどに避難所が開設され、避難所数は82ヶ所に及んだ。ピーク時の避難者数は1万1千人余りである。それ以外に、特別なケアを必要とする高齢者などのために、福祉避難所が6ヶ所開設された。災害対策本部や自衛隊によって食料の提供や炊き出しが行われ、多くの支援物資が被災地に届けられている。
 地震被害の報を受けて、県内外から延べ2万人を超えるボランティアが被災地に駆けつけたというが、ボランティアに対する柏崎市内のコミュニティの対応は、①コミュニティの自己完結型で、ボランティアは必要ないというもの。活発なコミュニティ活動を展開していて、地域のつながりが強く、地域内の助け合いで地震被害に対処できたケース、②ボランティアを受け入れたが、それによって避難所の運営などがうまくいかなかったもの。「善意」のボランティアが、自助や共助の部分を壊してしまったケースがいくつかあり、③コミュニティでボランティアをうまく受け入れ、協力して災害を乗り切ったケース、の大まかに3つに分類される。柏崎市は全国的に見ても特徴的なコミュニティ政策をとってきた地域である。地震災害は、ある意味、長年培ってきたコミュニティを中心とする地域づくりの成果が試される機会でもあった、といえる。
 熊本地震では、災害時の避難誘導や救助のために町内会などが任意でつくる「自主防災組織」が、発生時に機能しない例がみられた、と報じられた(2016年5月15日の新潟日報)。「みんな自分の身を守るのが精いっぱいで、救助などの活動は一切できなかった」「こんなに大きな地震が来るとは思っておらず、差し迫った感覚がなかった。頭が回らなかった」という。総務省消防庁によると自主防災組織は1995年の阪神・淡路大震災を教訓に設立が進み、組織にカバーされている世帯の割合は兵庫県(95.6%)、愛知県(95.4%)、静岡県(94.4%)の順に高く、全国で8割を超える。熊本県は74.9%、中越地震、中越沖地震を経験した新潟県は82.5%にとどまっている。
 日頃から地域の危険個所の把握や防災訓練などの活動に取り組むことが期待されているが、実働している組織は少ないという指摘がある。専門家らは形だけの組織に陥らないよう要となって動かすリーダーの育成や、構成者が日頃から意思疎通を密にする必要性を説いている。岩手県大船渡市では支援が必要な1人暮らしの高齢者らの家を地図にして共有し、避難や消火、負傷者救出など本番を想定した演習を積んでいたため、東日本大震災で対象者の避難誘導がスムーズにいった事例がある。「普段からの訓練で住民の意思疎通ができていたのが大きかった」「地域ぐるみで備えていれば、避難所生活でのトラブルも少ない。チーム感覚が大事だ」「訓練を積んだ組織がある地域と、そうでない地域では、災害時の被害に決定的な違いが出る」という。学ぶべき点は多い。


5. まとめ ―― 災害の教訓を未来にどう活かすか ――

 列島にいくつも断層が走る地震国・日本。国内の商業原発は現在、40基余りを数える。中越沖地震や東日本大震災が発した警告は、私たちに「地震国・日本で原発とともに生きるということは何を意味するのか」、という重い問いを突き付けている。2005年8月の宮城県沖地震によって東北電力女川原発の3基の原子炉が緊急停止した。すべての原子炉の運転再開には約2年を要した。また、2007年3月の能登半島地震によって、北陸電力志賀原発の地震想定を超える事態が発生した。同年7月の中越沖地震においては、柏崎刈羽原発構内で1995年の阪神・淡路大震災と同じ最大震度7を記録している。「想定を超える地震は起こらない」とそれまで繰り返してきた東電。そして、東電の想定を認めてきた国による安全審査の前提が崩壊した。人知を超えることが現実に起こることを示し、専門家による議論の限界と科学技術への過信を浮き彫りにした。
 柏崎刈羽原発は原子炉7基を擁する世界最大の集積地である。電力の供給先は、日本の中枢機能が集中する東京をはじめとする首都圏である。柏崎刈羽原発の運転再開問題を電力消費地の人も、そして全国の原発立地地域の人たちも一緒に考えてほしい。中越沖地震における柏崎刈羽原発の事故対応、そして東日本大震災における福島第一原発事故の教訓を未来にどう活かすか、課された課題は多い。①原発周辺の活断層に関する評価は妥当なのか、②強い揺れに襲われた原子炉等の設備・機器類は再使用に十分耐え得るのか、③耐震補強は万全なのか、などについて、じっくり時間をかけて検証する必要があるだろう。そして、「安全に止まったことと、再び動かすことは別の問題として考えるべきである」という意見に今こそ真摯に耳を傾け、脱原発に向けた運動をさらに強化するべきではないだろうか。大規模災害は、全国どこでも起こり得る可能性がある。防災を通じて、地域コミュニティをどのように協働、創生させるのか、10年後、20年後、そして50年後を見すえた対応が求められている。




※参考文献
(中越地震) 
 新潟日報事業社 2005 『新潟日報の168時間 中越地震と新聞発行の記録』
 恒文社 2005 『雪国を襲った大地震 ―― 新潟県中越地震に学ぶ ―― 』
 新潟日報事業社 2006 『復興へ 中越地震』
 新潟日報事業社 2006 『中越地震 復興公論』
 陳 玲ほか 2010 『中越地震後の山古志への「帰村」に関する民俗学的研究』
 長岡市 2015 『リレー講演会「災害史に学ぶ」記録誌』
 新潟日報事業社 2015 『災害メモリアルイヤーの記録 あしたのためにできること』
 十日町市古文書整理ボランティア 2015 『新潟県中越大震災と資料整理』              など

(中越沖地震)
 新潟日報社 2007 『新潟県中越沖地震』  
 新潟県弁護士会 2008 『新潟県中越沖地震 ―― 新潟県弁護士会の被災者支援活動 ―― 』 
 特定非営利活動法人新潟県消費者協会・新潟大学人文学部松井研究室 2008 『新潟県中越沖地震体験は活かされたか ―― 「中越沖地震後の生活についてのアンケート」調査報告書 ―― 』
 新潟日報社特別取材班 2009 『原発と地震 ―― 柏崎刈羽「震度7」の警告 ―― 』講談社
 新潟県防災局危機対策課 2009 『新潟県中越沖地震』
 新潟県農地部 2009 『新潟県中越沖地震~二度目の地震と、その対応記録~』
 柏崎市市民生活部防災・原子力課 2009 『がんばろう 輝く柏崎 さらなる未来へ 7.16中越沖地震記録集』
 まだまだっ 柏崎プロジェクト事務局2009 『復興のススメ ―― 後世へ ―― 』
 松井克浩 2009 「中越沖地震被災地のコミュニティとボランティア ―― 柏崎市比角地区の事例 ―― 」『新潟大学災害復興科学センター年次報告』
 岩手県立大学地域貢献ボランティアサークル風土熱人R 2009 『新潟県中越沖地震災害復興支援ボランティア活動報告書』
                                                など