【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第5分科会 まちムラの見方「見えているもの」と「見えていないもの」

 戦後70年という節目の時にちなみ、私たちの町がどのような歴史を経て現在に至っているのかを振り返り、自治体職員として今後のまちづくりに役立てていきたいと考え、本レポートの内容としました。



新冠町の戦後70年
―― 古きをたずねて新しきを知る ――

北海道本部/自治労新冠町役場職員組合・自治研推進委員会

1. 戦前までの新冠について

(1) 先史時代の新冠
新冠の遺跡から発見された土器
 新冠には、多数の遺跡が所在している。全部で43箇所の遺跡が川沿いに確認され、縄文時代から江戸時代における遺物が多数出土している。このことから、新冠は数千年前から人が住んでいた場所である。
 江戸時代頃は、アイヌ民族が大自然とともにコタン(集落)を形成して生活をしていた。この頃から新冠会所という建物を通じて、和人も出入りしながら、アイヌ民族と交易を行っていた。

(2) 明治~戦中の新冠
戦時中の新冠村役場(昭和16年頃)
 明治になると、本州からの移住者も増え、海岸沿いを中心に市街地が形成され、学校や役場、診療所、商店が建ち並ぶようになる。明治14年に、新冠に初めて戸長役場が設置されたので、新冠ではこの年を開町の年としている。
 大正から昭和初期では、市街地の方でさらに人口が増加したとともに、海に近い場所では、漁業が盛んになり人々が賑わうようになった。
 太平洋戦争が勃発すると、国家総動員の名の下、新冠からも多くの人々が戦地に招集され、97人もの犠牲者を出した。また、7月の北海道空襲の際には、6人もの尊い命が奪われた。


2. 御料牧場と新冠

(1) 御料牧場の歴史
御料牧場時代の新冠(昭和初期頃)
 明治5年、開拓使長官黒田清隆は、新冠郡を含む約7万haの土地を牧場として開設することに決定した。付近に生息していた野生の馬2,262頭を集め、軍馬や農耕馬として飼育し始めた。
 明治27年、日清戦争がはじまると、新冠牧場の馬が戦地へ送られた。明治5年から昭和22年までの長きにわたり、新冠は延々と牧柵が設置され、数多くの馬を生産・飼育することとなった。

(2) 御料牧場の解放と戦後開拓
戦後開拓時代の様子(昭和28年頃)
 御料牧場の存在は、軍馬や農耕馬育成という目的は図られたものの、御料地なので住民が自由に開墾することはできなかった。牧場の敷地内で造田や畑作もできず、あらゆる弊害や不満の声があがっていた。
 やがて、牧場の解放を訴える声が上がった。御料牧場に厳しい条件で使われていた小作人の人や、牧場職員といった方が中心となり、「帰農期成同盟」を組織して解放運動が起こった。また、かつて牧場経営のためにコタンを追われたアイヌの人たちも運動に加わり、大きな力となった。このことから、昭和22年、御料牧場は全面的に解放となり、緊急開拓地として樺太や満州からの引揚者をはじめ、多くの方が入植することとなった。
 この時の先人の苦労が、今日の新冠の基礎を築き上げたといっても過言ではない。日高管内において、最も戦後入植者が多かったのが新冠で、それだけ解放された御料牧場の土地が広大であったことを意味している。うっそうとした原始林を切り開き、新しい時代に向けて開拓がはじまった。


3. 新冠での電源開発

(1) 4つの水力発電ダムの築造
奥新冠ダム
 昭和30年代からは、北海道電力による新冠川上流の発電ダムが工事に取り掛かり、約20年の歳月を要して4つのダムと発電所が誕生、道内でも有数の電力供給地として知られるようになった。
 新冠奥地での大規模工事は、多くの工事関係者がかかわり、工事の間は関係者の人達が形成するひとつの集落のようであったという。戦後になって、伸び行く新冠を象徴する歴史だと感じている。


4. 戦後における新冠の農業

(1) 戦後から昭和時代の農業
 戦前の御料牧場時代は、基本的に牧場に関わる農地の利用しか認められていなかった。
 戦後になって、御料牧場が全面的に解放されてからは、多くの人々が入植し、本格的な農業による開拓がはじまることとなる。米、大小豆、燕麦、ヒエ、アワ、馬鈴薯のほか、ハッカや亜麻の栽培も行われている。昭和40年代に入ると、白菜、キャベツ、スイカ、トマト、メロン、ほうれん草、にんじん、ねぎ、アスパラガスなども栽培された。昭和45年以降は米の生産調整がはじまり、新冠の田畑の多くは軽種馬牧場へと変換していった。日本全体が経済的にも豊かになったことと相俟って、競馬ブームが到来すると、ハイセイコーをはじめとする優秀な競走馬を輩出する町として全国的に知られるようになる。この頃に、新冠の基幹産業となる農業の基盤が培われたと言っても過言ではない。

ビニルハウス

(2) 近年の農業
 近年は農業の機械化やビニルハウスの普及が進み、ピーマン、メロン、ミニトマト、軟白ねぎ、秋まき小麦、かぼちゃが生産されている。特にピーマンは全道一の生産量を誇る。畜産では、乳用牛や肉用牛が盛んに行われ、現在に至る。


5. 戦後における新冠のまちづくり

(1) 新冠「町」の誕生
 戦後開拓によって急激に人口が増え、昭和30年代には1万人を超えた。昭和36年には町制が施行されて新冠村から新冠町になり、様々な分野で発展を遂げる。
 学校が各地域で整備され、公営住宅や生活館、上下水道設備、各種公共施設など、急速に町づくりが進んでいった。また、生活の多様化から、文化団体やスポーツ団体、青年団体、女性団体といった活動が盛んになり、発展していく町に呼応して住民も活気づくようになる。経済状況が右肩上がりだった戦後から平成までのこの時代、新冠においても各産業が発展し、現在の町としての基礎が築かれたと歴史を調べると感じる。

(2) 平成時代の新冠
レ・コード館
 平成時代に入ると、少しずつ人口減少の兆しが見え、農業においては後継者の問題から離農する農家も増えていった。また、バブル経済が崩壊し、競馬ブームも去ったことから、軽種馬牧場の経営は以前のような繁栄は難しくなってきた。若者は様々な企業がある都市部へ就職する人が多くなり、過疎化の地域が見られるようになった。
 そのような中、平成9年に「レ・コード館」がオープンし、以来、各種コンサートやミュージカル、吹奏楽クリニック、ジュニアジャズバンドなど、レ・コードと音楽による町づくりを推進して、全国的にみてもユニークで活発な活動をしている。また、温泉開発や企業誘致、学校の統廃合に伴う施設の利活用、定住移住促進などを行って、新しい地域住民へのサービスが構築され、工夫をしながら各種事業を展開している。最近は食肉センターが創業し、多くの従業員が新冠町に住むこととなった。日高管内で最も人口減少率が低く、今後のまちづくりに更なる期待がかかる。


6. まとめ

(1) 新冠の人口と主な出来事やまちづくりの推移
・レ・コードと音楽によるまちづくり
レ・コード館を拠点としたユニークな音楽事業

・道の駅開設と新冠温泉開設
観光客増加をめざす

・定住移住の促進
温泉周辺のニュータウン化、人口増加が期待できる大規模な工場の誘致

・学校の統廃合と利活用
廃校となった学校の利活用をインターネットで公募
・馬産地としての繁栄
競走馬ブームにのり軽種馬生産がさかんとなる

・各種施設の設置
町民センター、スポーツセンター、各地域の生活館、診療所などが設置される。

・森林公園の整備
判官館を森林公園として整備、観光に力を入れる

・市街地再開発
市街地の整備や宅地の造成
・軍事統制下
国民学校配置や配給制

・御料牧場の解放
戦後入植者が多数入地し戦後開拓はじまる

・人口の増加
戦後入植が続き人口が増加する

・新冠町となる
昭和36年に人口が11,283人となり町制が施行される

・新冠川電源開発
新冠川水系を利用した大規模な電源開発がなされる
・漁村の繁栄
節婦地区に漁師の入地が増加

・アイヌコタンの移住
御料牧場の経営により平取に強制移住

・御料牧場の解放運動
広大な土地の利用を求める

・新冠村となる
二級町村制の施行
・新冠会所時代
アイヌ民族と和人とのかかわり

・御料牧場開設
大々的な軍馬の育成

・明治期の入植
徳島、広島等から市街地に入地し開拓がはじまる。

・新冠の開町
戸長役場設置される

(2) 新冠の歴史を振り返って
 新冠のこれまでの歴史を辿ると、古くは大昔から人々が住み、大自然とともにアイヌ民族が生活してきた。そのような中、本州から多くの人が移住するようになりながらも、やがて軍馬を育成するために御料牧場が設置され、独自の発展を遂げてきた。しかし、明治から戦中までは、幾度の戦争により、多数の軍馬を輩出したとともに、戦地に新冠の人々が赴き、多くの犠牲を払った。その裏で、御料牧場経営のためにもともと住んでいたアイヌの人たちがコタンを追われたことも知った。
 戦後は、御料牧場の解放に伴い、樺太や満州から移住者が来て開拓の鍬をおろした。時がたつにつれ、日本経済の発展とともに、新冠においてもあらゆる産業が発展し、住民もそれに呼応して生活形態が変貌して多様な文化が生まれた。
 近年はバブル経済の崩壊、若年層の都市部への流出により、人口減や産業形態にも変調が見られるものの、工夫を凝らした自立した町づくりを模索している。
 このようにこれまでの歴史を辿ると、当時の日本の情勢により、小さな地域でも大きな影響を受けてきたことがわかった。特に戦後は、日本の歴史を振り返ってみても、かつてないほどの急速な変貌を遂げた。わずか70年の間であるが、年数以上の重みがあることを知った。
 これからの時代は、未来がどのように変貌するか不透明な所がある。これまでの歴史のように、今後もあらゆる変化や痛みをこうむるかもしれない。しかし、先人が様々な困難を乗り越えてきたように、今度は若い世代がこれからの未来を創生しなければならない。そのためには、地域の人たちの思いに耳を傾け、私たち自治体職員が工夫を凝らして発展していくことが大切だと感じた。今回の歴史の振り返りは、このような思いを認識する良い機会だと思った。