【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第5分科会 まちムラの見方「見えているもの」と「見えていないもの」

 地域地域には、地理的歴史的素地があり、それぞれ特色がある。その土地の風土や歴史を十分に理解し、調査等により浮き彫りにされてきた『本物・生』の歴史的遺産を、現地に保存し、その特性を活かしながら、地域の方々の協力を得つつ、未来を含めて誇りに思えるまちづくり・ひとづくりを行うことが大事である。本稿では、近年の杵築市における杵築城の発掘調査成果を通して、そのための活動やその模索について紹介したい。



城下町「きつき」のはじまりと2つの杵築(木付)城
―― 近年の調査成果をとおして ――

大分県本部/杵築市職員連合労働組合 吉田 和彦

1. はじめに

(1) 大分県杵築市(きつきし)の紹介
 杵築市は、九州内で東側に位置する大分県の北東部、タコの頭のような形をした国東半島の南部に位置する。この場所は瀬戸内海の西端、九州の東端にあたる。人口は、約30,500人。面積は約280.08km2。東方向の海を見ると天気がいい日は愛媛県が、北東方向の海を見るとかなり天気がいい日は山口県が、浮かんで見える。九州と本州・四国との、境界でもあり、また両者の「窓口」または「出口」の役割も果たしている地域でもある。
 別府湾の一部、守江湾に注ぐ八坂川河口付近に、杵築市中心部は位置する。北側を高山川、南側を八坂川に挟まれた、丘陵と谷部からなり、江戸時代は、城下町として栄えた。
 江戸時代より前、大分県の大部分を含む豊後一国は、大友氏の領地で、杵築はその家臣の木付氏が治めた。しかし、1593年に、大友氏は豊臣秀吉から豊後を追われ、木付氏も途絶える。豊後約42万石は、豊臣系の大名10人程度に細切れに領有されることになる。これは、九州と瀬戸内との窓口という地理的重要性に起因する。そして、それはその後の江戸幕府にも引き継がれることになる。関ヶ原を経て、領主を替えながらも、また細切れに領有され、2~7万石の藩主がひしめく。1人の有力大名に治めさせず、多くの徳川氏に近しい大名(譜代)や、幕府領(天領)で固めた。
 江戸時代当初、杵築は、肥後に移る前の細川氏が治めた。城代は松井氏だった。その後、徳川氏に近しい小笠原氏を経て、1645年以降、同様に徳川氏に近しい十二松平の一つ『能見松平(のみまつだいら)氏』が治めた。ちなみに、現在の『杵築(きつき)』になるのは1712年以降、それより前は『木付(きづき)』。便宜上、1712年以前の場合も本稿では『杵築』を使用する場合もある。
 古代から江戸時代・そして今に至る現在まで、この地理的重要性は変わらない。城下町「きつき」の素地は昔からあるのである。

(2) 問題の設定と導入
 その細切れの結果が、現在の大分県のそれぞれの自治体にも反映されていて、地域の特色や独自性を醸成している土台となっていると思われる。
 杵築市では、近年の杵築城を含む城下町内での発掘調査によって、従来の文献や絵図面等に記録がない発見も相次いだ。また文献や絵図面等に記録があるものも、発掘調査によってその存在がしっかりと確認されたり、良好に残存することが判明したりと、従来の地域の歴史が着々と塗り替えられている。
 これは、発掘調査という新たな視点・新たな切口によって、確認されたものである。これは何も発掘調査だけに限られることではない。従来行われていなかった分野の調査(発掘調査・石垣の調査・民俗学的調査など)を行うことや、また従来行われていたもの、またそうでないものも、市役所内の別の課との連携(国東半島・宇佐地域の世界農業遺産認定・国の重要伝統的建造物群保存地区の指定への取り組み等)や、市民との連携(まちづくり)など、同様に新たな視点・新たな切口を、より複合的に積み重ねることによって、より本質的なものが見えてくると思われる。
 それぞれの地域を、理解し、より発展させていくためには、その土地の風土や歴史を十分に理解し、調査によって浮き彫りにされてきた『本物・生』の歴史的遺産を、現地に保存し、その特性を活かしながら、地域の方々の協力を得つつ、まちづくり・ひとづくりを行うことが大事である。そして、その様なそこに住む人が誇りを持って、自慢できる場所を、現在の人々だけではなく、未来の人々にも守り伝えていくことが大事であると考える。その中で、時にはいろいろな制度による客観的で明確な格付け(国指定史跡など)を行い視覚化することも大事である。
 その様な趣旨のもと、杵築市の紹介を兼ねながら、主に発掘調査の成果を切り口にしつつ、その活動の一端を紹介したい。

第1図 大分県杵築市とその周辺
【大分県杵築市と古代の三つの津(港)
と門司と大宰府との位置関係】
【杵築藩領と大分県の諸藩】

2. 杵築の歴史をさかのぼる ―― その地理的重要性をさぐる ――

(1) 九州・瀬戸内の窓口・出口、1250年前の海上交通事情
―― 今から1750年ほど前~1600年ほど前(古墳時代)の杵築 ――
 今から1750年ほど前、西暦200年の半ば、ときの権力者は、近畿を中心に土を盛った巨大なお墓を造り始めた。これを古墳という。以降、西暦600年の前半までを古墳時代と呼ぶ。その間、鍵の穴の形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)と呼ばれるものや・円形の円墳・方形の方墳など、様々な形の古墳が造られた。また造る者たちも、大王と呼ばれるものから、現在の県を超える範囲を治める者、一昔前の家父長の範囲を治めるものまでと拡がっていった。古墳の大きさは400mを超えるものから、小さいものは10m前後のものまで出現した。古墳の形や大きさは、その政治的能力や、身分差を現すものとして理解されており、当時の日本の大部分が、この約束事にしたがって歴史が動いていた。
 さて、杵築市狩宿に小熊山古墳・御塔山古墳という2基の巨大な古墳がある(第12図)。両者は海を望むような場所に造られている。ひと目で九州や瀬戸内海の海上交通を意識した古墳であることが分かる。
① 小熊山古墳は、古墳時代の初めの方・西暦300年前後に築造された前方後円墳。古墳の大きさは117.5m。大分県最大級で、九州でも屈指の大きさである。九州で一番古い円筒埴輪をもつ。円筒埴輪とは、古墳の周りに並べられた土で造られた筒状の葬送具である。古墳のおおもとである近畿から地方に伝わっていった。それが九州で最初に伝わったのが小熊山古墳である。小熊山古墳の100mを超える大きさ・九州で最古の円筒埴輪を持つこと・海上交通の要所に造られた等から政治的重要性が見て取れる。しかし、この古墳は、海上交通を押さえるためだけのものではない。小熊山古墳からは、大分市や熊本方面の内陸部の平野や山々を見渡せる。一方、陸地の、それも深く立ち入った内陸部から、この小熊山古墳は確認できる。つまり、海上交通だけではなく、陸上交通の上からも重要な立地をしている古墳であることが分かる。いわば、九州コンビニ1号店にして、最強・最大の立地をしていると言え、九州と瀬戸内の窓口として最もふさわしい場所にある。
② 御塔山古墳は、小熊山古墳の600m南の海岸線に近接する古墳である。古墳時代中頃でも最初の方・西暦400年前後に築造された古墳で、大きさは、古墳本体で80m・残存する古墳周囲の溝まで含めると90.5mである。古墳の形は、円墳に出べそを付けた様な、造出付円墳(つくりだしつきえんぷん)と呼ばれるもの。円墳の大きさとしては、全国準最大級。この古墳も、ただ大きいだけではなく、当時の政治的中心である近畿の政治的状況を敏感に感じとって造られた古墳であることが、出土する埴輪から分かっている。
 近畿を中心に、九州では3例しか出土していない塀を模した埴輪や九州で唯一出土の導水施設の埴輪、そして全国でも稀な出土例である革か木製のよろいを模した埴輪などである。
 この様に、当地の政治的重要性は、西暦300年前後から西暦400年過ぎまで大きかったことが分かる。

(2) 海を介して東を向く豊前・豊後
―― 九州・瀬戸内の窓口・出口、1250年前の海上交通事情 ――
 豊前・豊後が、九州と瀬戸内との窓口としての意識が強い証拠となる出来ごと。大分は現在でもその傾向が強い。

◎746(天平18)年
 ・豊前国 草野津(福岡県行橋市草野)、
 ・豊後国 国埼津(大分県国東市)
 ・豊後国 坂門津(大分市)
の3港から、役人や商人が海路で瀬戸内に行く場合、大宰府から関の通行証を得て、豊前の門司で検査を受け、そして出発せねばならないのに、守られていないので、 再度通達を出した。

◎796(延暦15)年
 ・守られないので撤廃

 点検は、摂津(兵庫の一部と大阪の一部)の国司など、船舶の通過や寄港地で行われるようになり、いったん門司へ行く必要はなくなった

(3) 東からのアクション
―― 九州で唯一の鎌倉幕府の将軍家の領地としての豊後と大友氏の下向 ――
 鎌倉時代のはじめ、1185年頃の豊後は、駿河(静岡県)・武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県)・相模(神奈川県)・上総(千葉県)などとともに、九州で唯一、関東御分国(かんとうごぶんこく)、つまり鎌倉殿(源頼朝)の領地だった。
 その後、1196年、源頼朝と近しい関係の大友能直(おおともよしなお)が、豊前・豊後の守護(国の軍事指揮官・行政官)となる。以後、豊後は江戸時代直前の、豊臣系大名による細分まで、大友氏が支配することになる

第2図 杵築市にある小熊山古墳と御塔山古墳


3. 城下町『きつき』の誕生 ―― 過去・現在 ――

(1) 今でも、城下町の風情残る『きつき』 ―― 高低差の美を楽しむ ――
 城下町「きつき」は、北を高山川、南を八坂川に挟まれた八坂川河口付近に展開する。
 南北にそれぞれ東西に走る丘陵上に『武家屋敷』が、その間に挟まれた谷部に『町屋』が展開する。その高低差20mほど。その間を南北にいくつもの坂道がつむぐ。まさに高低差の美が、城下町「きつき」の特徴である(第34図)。
 そして、第5図を見てみる。上は現在の町なみを写した空中写真、下は江戸時代の城下町の絵図面である。
 江戸時代とほとんど町割りが、高低差が、変わらないことが分かる。今も江戸時代の風情を十分に残していることがこの写真からも分かる。

第3図 杵築城下町の特徴を端的に現す
    志保屋の坂(手前)と酢屋の坂
    (奥)
       



 

第4図 東上空から杵築城下町を望む



向かって左右の台地の武家屋敷と真ん中の
町屋とのコントラストが美しい。
第5図 現在の杵築と江戸時代の杵築城下町

(2) 江戸時代の交通事情・土地事情
―― 同じ顔・違う顔・個性豊かな杵築の城下町 ――

 この杵築市の『武家屋敷』と『町屋』との高低差は、従来、武士と町人との身分差を表わしていると言われてきた。
 あとで紹介するが、杵築のお城、通称:杵築城藩主御殿は標高2mと低い場所に建つ。つまり武家屋敷より低い場所にお城の中心建物が建つことになる。高低差は、単純に身分差だけではなく、当時の交通事情、海を介して人や物を集めるということを最優先した結果であるともいえる。
 川の河口を選び、そこに城下町を計画した場合、どうしても土地事情からくる高低差が複雑にからみあってくる。平地にある城下町は、第6図のようにお城や武家屋敷や町を、堀でぐるり周りを囲む。いわば凹みにより外周を囲む。一方、杵築城下町は、南北の台地上に武家屋敷や寺を配し、いわば上方へ凸(突出)することにより城下町を囲む。また南北の武家屋敷の間には東西に長い町屋を、河口の先端の低地や台地には城を配している。高低差を巧みに活かしながら、城下町を造っていることが分かる。
 今も昔も、交通事情と土地事情は密接にかかわって町づくりがされている。
 大分県では小さい城下町がそれぞれ特徴を活かした城下町を形成・町づくりをし、それが現在の生活の中にも密接に深く関わっていると言える。
 平地に堀で囲われた城下町や城をもつ中津や日出や府内(大分市・第6図)、平地に城下町・小高い山に城を配した豊後高田や佐伯や日田、台地と低地を巧みに取り込み城下町や城を配す杵築や臼杵や岡(竹田市)などである。

第6図 府内城と府内城下町(大分市)

4. 杵築(木付)城を掘る
―― 杵築城藩主御殿発掘調査とその成果 ――

(1) 従来の杵築の歴史を塗り替える
―― 杵築城藩主御殿の発見と未知の石垣 ――

第7図 当日のシンポジウム風景
    と資料集


 2014年7月27日、杵築市は『杵築城藩主御殿発掘調査成果報告記念シンポジウム』を開催した。午前中は発掘現場での現地説明会、午後からはその成果の重要性を、紹介するシンポジウム。参加者超満員250人。
 2012年7月から始まったこの発掘調査は、杵築中学校の現地建て替えに先立ち行うもので、発掘調査終了後は、記録保存という形で、現地の遺跡は消滅する予定であった。
 発掘調査の結果、江戸時代に描かれた絵図面にも表現されている藩主の住む御殿の一部や、その下からは未知の石垣が発見されるという大変貴重な発見があった。杵築城だけでなく、杵築城下町全体の政治経済の心臓部が良好に残存することが確認されたわけである。
 記者発表を行った結果、報道でも大きく取り上げられ、杵築城発掘調査指導委員会や、日本考古学協会・九州考古学会・大分県考古学会・杵築郷土史研究会等から現地保存の意見書や要望書も提出された。
 これらを受け、2014年6月の市議会で、杵築市長は、杵築中学校の建設場所を城に近接する北側に移動する計画に変更し、調査地を全面保存することを表明した。
 これを境に、杵築市は、杵築城を未来に伝える貴重な財産として、国指定史跡をめざすことになる。


(2) クローズアップ2つの杵築(木付)城
―― 現在の城下町『きつき』のはじまりの再発見 ――
 前述の杵築中学校の現地建て替えに先立つ、杵築城藩主御殿の発掘調査は、2012年度から始まった。杵築の心臓部であるお城の真ん中を掘るという重要性から、『杵築城発掘調査指導委員会』を設置し指導を受けながら行った。この会は、発掘を担当する杵築市教育委員会生涯学習課(当時)を事務局に、考古学・文献史学・建築学・城郭調査・埋蔵文化財行政等の専門家からなるものであった。
 その中で、第8図をみて分かるとおり、上段左の現在の写真と、上段右の江戸時代に書かれた絵図面を見ても、建物が建っていないだけで、ほとんど地形が変わっていないことが分かってきた。
 また、現在、1970年に建てられた模擬天守閣がある標高20m超の台地(台山)が、城として機能していた時期は、1615年まで。その後、1868年までの江戸時代のほとんどは、北麓の標高3m以下の杵築中学校があるあたり、つまり杵築城藩主御殿の場所が、杵築城として、当時認識されていたことが、改めて確認された。その場所での前項のような発掘調査成果によって、『価値あるホンモノ』が地中に良好に残っていることが分かってきた。
 大分県内で、そのお城自体の歴史的変遷を遺構からたどれるという時間的な広がりお城全体の構造、天守閣や御殿などが一括で良好に残存するという空間的な広がりが、ともに良好に残る城は、杵築城のみである。
第8図 杵築(木付)城あれこれ


江戸も現在もほとんど地形が変わってない。


台山部分は『台山城跡』、御殿の部分は『御城内』


第9図 杵築城御殿で発掘したもの

発見された藩主御殿の建物跡の一部。
縦20m×横6mの建物。
人が立っている部分が礎石の場所。


標高2mの砂浜のゆるゆる地盤を埋め立てて御殿を建てているため、礎石1つ1つは数本の松杭で支えられていた。

礎石の下の木杭
(クロマツ)の
発見直後。

    

(3) クローズアップ杵築城下町
―― 新視点・石垣から見る 城下町『きつき』のはじまり ――

 実は、杵築市で『石垣』という視点から、調査のメスが入ったのは、2010年度とごく最近である。
 今まで、杵築城はあまり遺構の残存していない城という意識が市民だけでなく、研究者の間でも強かった。今回の発掘に伴う発掘調査指導委員会に意見を聞きながらの、杵築市教育委員会の総合的な調査では、石垣を中心とした城構造の視点からも、杵築城の痕跡は、極めて良好に残存することが分かってきた。
 石垣は、その積み方、石垣に使う石自体の加工状況で、だいたいの時期が分かる。また、積み直しの有無も分かる。
 第10図左上の石垣写真は、杵築城藩主御殿の下から出てきた絵図面にもない、新発見の石垣。何も加工されていない石が積まれているためと、御殿の下からの発見であること等の理由から江戸時代より少し前の時期の石垣だと分かる。
 第10図左下・右は、江戸時代初期に加工したと見られる石を積んだ石垣。これらの石垣は城下町を歩くと今でもごく普通に見られる。
 右は、お城と武家屋敷とをつなぐ勘定場の坂にある石垣。すぐ近所には杵築小学校がある。下段は、城下町・町屋のど真ん中にある水路内にある石垣。この上には和菓子屋がある。
 従来、城下町の本格的整備は、1645年以降の松平氏が入ってきてからと言われていた。しかしこの石垣調査の視点から、江戸時代の初期から、今につながる本格的な城下町の整備・町づくりが行われていることが分かってきた。
 地中に眠るものを発掘調査により新発見することで、歴史が塗り替わるだけではなく、実は地上に現在見えるものも、視点・切り口を変えて見れば、歴史を塗り替える資料になる。

第10図 杵築城下町の石垣


第11図 杵築城の現地説明会資料

A4冊子・表紙には年表とトピックスが基本。
(4) クローズアップ杵築城藩主御殿の庭
―― 思わぬ新視点・アンテナは高く ――

 江戸時代の庭が残っているのは珍しい。調査は難しい。埋蔵文化財的な視点・歴史学的視点・庭園学の視点・造園者の心を読み解く素養等の文化的視点のほか、植物学・動物学等の自然的視点も必要である。しかし後者の視点は、欠落しがちである。
 庭の池には、準絶滅危惧種である『コウホネ』が生えていた。
 杵築城の発掘調査中に10人をこえる各分野の研究者に指導を受けたが、植物の専門家の指導は受けていなかった。先生方からの、また聞きで判明した。視点・切り口を間違えれば、歴史を塗り替え損なう一例である。
 その情報が入るアンテナと、それをすぐさま助言していただける垣根のない人付き合いが大切である。

5. 公開と活用 ―― 教科書どおりでもジレンマ ――

(1) 現地説明会に込める思い ―― 説明会は、水もの、生きもの ――
 発掘調査の現地説明会をするときに心がけることがある。遺跡の重要性をただ伝えるだけではなく、その郷土の生の資料が、日本の歴史全体の中でどう位置付けられ、どう地域の特色を持つのかということを伝える資料かどうかである説明会資料を作成する場合、A4冊子・表紙には年表とトピックを載せることを心がけている
 杵築城藩主御殿の現地説明会は、重要な発見があり次第、記者発表をした後、行った。その数、3回に及んだ。
 1回目は、2013年5月25日(土)。今でも、その衝撃を忘れない。暑い日で、散り散り木陰にいた人たちがいざ発掘現場に入ると、長蛇の列。2組に分けていたものの後の祭り。見学者250人。大分での現地説明会は100人来れば多い方。
 2回目は、2013年8月25日(日)。雨に祟られた。現地説明会案内にある(少雨決行)は、雨でも絶対やりますよ という強い意志。結局、傘をさすほどの雨の中、150人。
 3回目は、前述のシンポジウムと抱き合わせ、写真で人が少なく見えるのは、1回目の長蛇の衝撃に懲りて、3班に分けたため。一応、4班案まで存在した。250人参加。
 開催時間は、諸事情許す中で、遠方からの見学者への対応も視野に入れている。遠方の見学者は埼玉・神奈川・大阪など。
第12図 現地説明会風景

【衝撃の1回目の説明会。250人】

【映像もあり。空中からの映像等(3回目)】
(1回目は3D映像)

【大雨の2回目の説明会。150人】

【出土遺物も展示(3回目)】


(2) 特別展に込める思い ―― ちょっとひと工夫 ――
 現地説明会・シンポジウムと短期公開の次は、特別展による長期公開。2015年8月4日(火)~2015年9月23日(水)に、杵築城にまつわる特別展を、きつき城下町資料館で行った。杵築城の紹介だけではなく、大分県内の他の城下町出土資料も借用した。これは、他の地域と比較して杵築の特色を再認識してほしいという意味から。また織田信長や豊臣秀吉の城(小牧山城・岐阜城・安土城・大坂城)の資料も借用した。これは日本史レベルで杵築城の意味を紹介したいという思いから
 上記の思いとは裏腹に、他の所の資料はいい、杵築の歴史をもっと知りたいという意見や、一方で大分合同新聞のコラムでも紹介されたため、杵築城以外の資料に興味があって来館する人もいた。難しい
 会期中は、シンポジウムや外部講師による講演会・他課との提携による展示解説等を行った。
 なお、ポスターは、2015年度資料館が行う2つの特別展事業費を足して1つとし、掲示期間を長くするように、また郵送費も足してより多くの場所に郵送するように工夫。チラシの表は、そのまま図録の表紙とした。会期終了後も事業周知は大切。

第13図 特別展での活動あれこれ

【ポスター、ニコイチ】

【第7図シンポジウム表紙と
図録の表紙は、筆者作。
 似ているようで違う。?】
【講師による展示解説】講演終了後に依頼。5.(2)下線の一例。内容は講演の補足、信長・秀吉資料の説明など。市職員は、杵築城等の御当地説明。 【滋賀県立大学 中井均教授による講演終了後の展示解説】展示室がいっぱい。約100人。左が講師・その右が市長・さらにその右が教育長。 【杵築市ジュニアリーダーへの展示解説】 場所がイメージ出来るように地元のお好み焼屋の名前までとぶ。他課との提携。

(3) その他のPR活動
―― 見えないものは価値が高く、見える模擬天守は現代のもの ――

 2016年2月23日(火)、杵築城跡(藩主御殿跡)は、大分県指定史跡に選定された。前述のとおり、ここが、江戸時代の大部分、杵築城とされた場所であるが、埋蔵文化財のため、視覚的には弱い。そのため、まだまだ周知不足である。杵築城と言えば1615年に破却された天守台跡に建つ、昭和の建造物である模擬天守閣が有名である。杵築城全体の本格的な遺跡整備は何らかの補助金に頼りながらでないと、杵築市の財政規模では厳しい。現在、国指定をめざすとともに、地道に、ときには大胆にPR活動を行っている。
① 第14図左上は、杵築郷土史研究会主催の講演会。1632年まで細川氏のもとで、木付(杵築)城の城代であった松井氏子孫の方に、杵築市教育委員会の協力で講演を依頼した。2014年10月16日(金)開催、参加者70人。
② 第14図右上は、旅行会社主催のツアー案内で当日配った資料。杵築城等の最新資料を可能な限り掲載。A3・カラー資料・37ページ。2016年3月30日・4月4日の2回開催。やや城好き向けのツアーであったため、杵築市観光協会より相談を受けた。杵築市教育委員会で対応。参加者両者で70人。
③ 第14図下段は、定期刊行雑誌の取材。2008年7月刊行の5号に十数ページにわたる杵築藩特集がある。杵築城や城下町の最新資料を惜しみなく提供するため、4号での掲載予定を、5号にずらしてもらう。

第14図 活動アラカルト

【現当主:松井葵之氏(熊本県八代市未来
の森ミュージアム館長)講演風景】

【当日配布資料。1回目を受けて2回目で
は微妙に内容を変えている。】
 

6. 城下町『きつき』と・文化財と・今後と
―― 未来へつなぐ ――

 以上、杵築市における埋蔵文化財の活動を、近年、発掘調査を行ってきた杵築城を基軸して紹介してきた。①発掘調査、②重要遺跡については調査指導委員会の設置、③報道機関への公開、④現地説明会、⑤調査成果の紹介(シンポジウム・特別展)、⑥冊子の刊行、⑦観光客への資料提供と対応、⑧雑誌社への最新成果の提供など、活動自体は、文化財担当課として行うべきことを、教科書どおりに行っているだけである。一方で、文化財は、『自然』と『モノ』と『ヒト』とが、織りなすもので、地域地域によって特徴特色がある。またそれらは人と人との対話によって、後世に守り伝えられていくものである。よって、教科書どおりに計画しても、住民等の反応はそれぞれ違うし、地域によっても反応の傾向は違う。それを敏感に感じ取り、寄りそう努力が様々な場面で必要であることは、上記活動からも明らかである。
 2016年3月18・19日、杵築市で開催された第57回地方自治研究大分県集会は、私にとって有意義なものであった。私は、杵築市に埋没する文化財的原石に関し、専門の立場から調査成果を付加することにより、それら原石に命を吹き込んでいるものと思っていた。同会で『城下町地区まちづくり協議会』の方と一緒に城下町を歩く機会に恵まれた。同協議会の町なみの説明を聞くと、例えば、昔は勘定場の坂でこういう遊びをした、杵築小学校に現存する藩校の門で卒業式の日にアーチを作った等、その説明は、そこにある文化財的資料と関わる人の生の歴史が語られ、説得力がある。私たちは、地域の歴史の流れを紡ぎ説明するだけではだめで、時には、住民の方々と協力し、現在に生きている文化財に、そっと歴史的な価値を吹き込むことにより、生命が宿り、またすくすくと育っていくと痛感した。歴史的な流れ「面」を踏まえつつも、例えば、何気にある石垣はこういう加工の仕方、積み方なので江戸時代初期のものですよという具合に、住民の日常に溶け込んでいる文化財に関し、少しメリハリをつけるお手伝いをする。1~2分程の説明で「点」に置き換える作業も大事であると考える端緒となった。
 以上の経験を踏まえ、文化財には、そっと寄り添いながら見守り後世に伝えるべきものと活用しながら命を吹き込んでいくものの、両者があると考える。今後も様々な視野を柔軟に持ち、そしてそれを活かしながら、文化財保護を行っていきたい。

第15図 発掘現場空撮 第16図 文化財保護の概念
隣接地調査の折、杵築幼稚園児による
人文字「きつき」

図:文化庁記念物課監修 2005
『史跡等整備のてびき』同成社刊を改変