【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第9分科会 QOD(Quality of Death)を迎えるために ~地域でできること~

 東日本大震災及び東京電力(株)福島第一原発事故から5年が経過しました。大地震、大津波の被害に加え、人災とも言える原発事故により受けた影響について、発災から今日に至るまでの南相馬市立総合病院における地域の現状を踏まえて報告します。



震災後の南相馬市立病院の現状
~被災から今日まで~

福島県本部/南相馬市職員労働組合 長谷川小百合

1. はじめに

 私たちの住んでいる南相馬市は、2006年1月1日に旧小高町、旧鹿島町、旧原町市の三市町が合併して誕生しました。福島県でも太平洋沿岸の北部に位置します。面積は、398.58キロ平方メートルあり、冬季は降雪量もあまり多くなく、夏も涼しく過ごしやすい所です。
 また、国の重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追が毎年7月の最終土曜日・日曜日・月曜日の3日間にかけて行われるところでもあります。
南相馬市の位置 相馬野馬追(甲冑競馬の様子)


2. 震災前の医療環境

 合併前から旧各市町には医療の中心となる病院があり、旧原町市には、原町市立病院、旧小高町には小高町立病院、旧鹿島町には鹿島厚生病院があり、合併時に原町市立病院と小高町立病院は、南相馬市立総合病院、南相馬市立小高病院という形になりました。震災前の南相馬市立総合病院は、病床数230人、職員数237人、医師は14人、その他に外部委託の方が勤務していました。
南相馬市立総合病院 南相馬市立小高病院


3. 東日本大震災及び東京電力(株)福島第一原発事故

 2011年3月11日14時46分東日本大震災が発生し、南相馬市では、震度6弱の揺れを観測しました。地震のおよそ45分後に8.6メートルを超える津波が南相馬市を襲いました。遡上高は20.6メートルに達しました。
原町区新田川堤防を越える津波 被災した特別養護老人ホーム「ヨッシーランド」
 この津波により、市面積の約1割に達する40.8キロ平方メートルが浸水し、特別養護老人ホームである「ヨッシーランド」が津波により被災し、入所者136人中36人が死亡するという惨事になりました。
 次に東京電力(株)福島第一原子力発電所事故のアウトラインについて、記します。
 3月12日 5:44福島第一原子力発電所から半径10km圏内の住民に避難指示
      15:36福島第一原子力発電所1号機水素爆発
原発事故の影響で物流業者が入らなくなり、ガソリンや生活必需品などの物資が十分に供給されない状況に陥った。
      18:25福島第一原子力発電所から半径20km圏内の住民に避難指示
小高区から原町区に避難
 3月14日 11:01福島第一原子力発電所3号機原子炉建屋水素爆発
      18:22福島第一原子力発電所2号機の冷却水が不足し、燃料棒が全露出
14日の余震と津波警報や水素爆発事故によって混乱が生じ、物資も不足がちとなり、15日以降、全市を対象とした市外避難を実施
 3月15日
  ~17日
市がバスで市内の避難所から市外に避難を誘導
 3月15日 6:00福島第一原子力発電所2号機圧力抑制室付近で大きな衝撃音、4号機建屋の損壊
      11:00福島第一原子力発電所から半径20km以上30km圏内の住民に屋内退避の指示
 3月16日 5:45福島第一原子力発電所4号機北西付近より火災発生
      8:34福島第一原子力発電所3号機白煙が大きく噴出
 3月18日
  ~20日
市がバスで集団避難を誘導(2,725人)
 3月25日市がバスで集団避難を誘導( 142人)
 4月21日 11:00福島第一原子力発電所から半径20km圏内を警戒区域に指示(4月22日0:00警戒区域に設定)
 4月22日 9:44福島第一原子力発電所から半径20km以上30km圏内に指示していた屋内への退避を解除、計画的避難区域及び緊急時避難準備区域を設定


4. 発災直後から

2011年3月11日18時33分ごろの外来ロビー
 震災当日の市立病院の外来ロビー、待合室の状況です。たくさんの被災された人が搬送されてきました。津波は当院から東方1キロメートル先のところで収束しました。南相馬市の震災死は636人、震災関連死は485人(2016年1月20日現在)、人口の約1.6%にあたる1,121人となりました。
 前項の時系列にあるように3月12日には、福島第一原発1号機の水素爆発が起こり、同日夕方には、同原発から半径20キロメートル圏内に避難指示が出されました。そのことにより、小高病院からの患者受け入れ要請があり、68人の患者が市立総合病院に搬送されましたが、ベッドが無いために講義室に布団を敷いて対応せざるを得ませんでした。
講義室で緊急対応 小高病院から搬送された患者
 3月14日には、福島第一原発3号機が水素爆発し、職員の避難については、緊急会議が開かれ、個人の判断に委ねられました。この時点で総合病院のスタッフは266人から86人に、小高病院のスタッフは68人から24人に減りました。委託業者のスタッフも避難となり、給食、配膳、清掃、守衛などの業務は全て残った職員の仕事となりました。また、原発から20~30キロメートル圏内に屋内退避の指示が出され、外部から人や物資が入らない状況に陥り、DMAT、救急車両、医師、看護師も同様の状況となりました。マスコミは、原発で水素爆発が起こったときから、市外へ出て行ったため、南相馬市内の現状について、詳しく外部へ伝えられることはありませんでした。
 原発から20キロメートル以内の警戒区域内に自宅があり、戻ることが不可能な組合員、津波により家が流失した組合員、車にガソリンがない組合員などは、病院で寝泊まりしていました。職場で寝泊まりしながら、入院患者のケアにあたっていたのです。


5. 患者搬送

転院先のまとめ
転 院 先搬送患者数
新潟県の病院92人
福島県内福島県立医大16人
大原病院12人
済生会病院9人
福島日赤病院17人
南東北病院12人
その他2人
その他の県2人
合  計162人
 3月18日、防災担当大臣が来院し、その日に原発から30キロメートル圏内の入院患者すべてを転院させる避難指示が出ました。3月19日から20日にかけて、自衛隊による30キロメートル圏外への患者搬送が始まりました。原発から50キロメートル圏内の患者搬送は、すべて自衛隊車両により行われました。救急車両は30キロメートル圏内には入らず、中継地点でDMATのトリアージを受けて、自衛隊が30キロメートル圏外へ搬送し、そこから救急車両に乗り換えて搬送されました。
 入院患者の搬送については、200キロメートル以上離れた新潟県の32の病院に92人、福島県内の病院に68人、その他の県に2人、合計162人が搬送されました。


6. 患者搬送を終えて

2011年4月10日時点避難所派遣職員数
避 難 先 派遣
看護師数
他職種
茨城県 取手市 3人 3人
群馬県 片品村 2人 2人
東吾妻町 3人 リハビリ1人 4人
草津町 1人 リハビリ1人 2人
新潟県 新潟市 3人 3人
長岡市 5人 5人
三条市 3人 3人
柏崎市 3人 3人
新発田市 2人 検査科1人 3人
小千谷市 3人 3人
見附市 2人 薬剤師1人 3人
燕市 2人 リハビリ1人 3人
糸魚川市 2人 リハビリ1人 3人
上越市 3人 3人
聖籠町 3人 3人
宮城県 丸森町 3人 3人
山形県 米沢市 3人 3人
飯豊町 3人 3人
山形市 3人 3人
福島県の県内7か所 24人 24人
そ の 他 6人 6人
合  計 82人 6人 88人
 以後入院患者を受け入れることはできず、市内の病院、薬局はほとんどが閉院、閉鎖されていましたが、当院は、外来は中断せず一時救急、薬の処方を主な業務としていました。
 このころ南相馬市の人口は、県内外への避難のため7万1千人から、一時的にではありますが、約1万人に激減しており、車もほとんど通らない閑散とした状態でした。
 4月に入り、避難していた職員も少しずつ戻り、4月4日から内科、外科の診察を再開し、夜間救急対応を行うようにしました。これまでいた入院患者が市外避難によりいないため、余剰となった職員の身分の確保が必要となり、市に要望して医療スタッフは県内外の避難所19か所(群馬、栃木、宮城、山形、新潟)、福島県内の避難所7か所での南相馬市民の健康管理や市との連絡に携わりました。その他、資料の配布、物資の整理、避難所の訪問診療、保健センターでの在宅患者の訪問診療、医療コーディネートも病院の業務として行ってきました。
 右表は、主な派遣先です。家族と離れて遠くの避難所に勤務するスタッフがほとんどでした。


7. 病院機能の回復に向けて

 震災当時、市立総合病院以外の病院はほとんど閉鎖していました。南相馬市に戻る市民が増えるにつれ救急搬送される患者が増えてきました。
月別救急搬入患者数
 福島県に要望して5月9日から入院稼働のための準備を始め、1週間後の5月16日から入院稼働となりました。入院患者を置くことができませんでしたが、脳外科に限り5床、72時間以内の入院が認められました。
 しかし、72時間を超える入院は認められず、入院して急性期の処置をしてから、福島第一原発から30キロメートル圏外へ搬送せざるを得ない環境であったことから、患者やその家族にとっては不利益な状況が6月20日まで続きました。
 6月20日以降、70床の入院稼働の許可が下りましたが、病床の稼働には看護師の数が関連しているため、院外に出向していた看護師を正規の雇用である病院へ戻すこととなりました。
 病院機能の回復で大切なことは、言うまでもなく看護師数を回復させることです。南相馬市立総合病院の看護師の数は、震災前129人でしたが、震災後は82人まで減り、8月までに60人の早期退職者が生じ、小高病院でも33人から21人に減少しました。その早期退職理由のほとんどが、原発事故による家族の避難、夫の仕事の都合に関連するものでした。また、9人は、メンタル疾患によるものでした。
 早期退職者があった中で、避難所からの帰院、当時閉鎖されていた小高病院の看護師の部署替え、新規・中途採用などで2012年9月には150人の看護師が病院勤務となりました。徐々に看
南相馬市立総合病院の役割
護師の人数が確保され、病床数も増えていき現在の稼働可能病床数は180床まで戻すことができました。看護師の人数は震災前よりも156人増えている現状ではありますが、新卒採用者が多く、経験年数が浅いというのが現状です。
 入院患者数と看護師数及び医師数の動向です。2016年5月16日には、震災後閉鎖していた第4病棟(1フロア36床)が稼働となりましたが、それでも稼働数が震災前に満たない現状となっています。
 看護師人員の確保が困難な理由として、南相馬市は収束していない福島第一原発から約23キロメートルという近い場所に位置しており、現在も避難者が多い地域性が原因の一つだと考えられます。若い世代の人が半数近く戻ってきていません。人口構成を見ても、震災前と比べ、この短期間で南相馬市は少子高齢化となっています。現在は帰還住民老年人口が32.9%に達し、年少人口は8.1%となっています。
 その高齢者率の高い南相馬市ですが、震災後も介護施設などの設備が回復しておりません。その理由として介護職の労働者が確保できない、また、働きたくても市内において居住場所の確保が困難という理由がほとんどです。そのような背景から、高齢者施設の稼働が困難となっています。
 このような地域にある当院は、地域の人のために安心して住める環境の一つとして二次救急までの医療の提供、診療科の整備、内部被ばくの検診などを行っていく必要があると考えます。
 現在も3,300戸の仮設住宅があり、病院スタッフ・医師が2か月に1回訪問して健康講座を開いております。女性の参加率は高いものの、男性の参加率が低いため、「男の料理教室」や「男の木工」などの教室も開いています。
2017年2月全館稼働予定
 他にも、住民の人がこの地域で安心して生活してもらえるように、ホールボディカウンターを設置し、小学生、中学生は年に2回、高校生など18歳以下は、年1回(要申込)、大人は希望者、妊産婦に関しては年に6回まで無料で受診を行っています。
 赤ちゃんや、未就学児については、ベビースキャンを使用し、血液検査も実施しています。
 2017年2月には新たに脳卒中センターが稼働予定となっており、今年8月には外来を開始する予定となっております。病床数は、2フロア100床を予定していますが、看護師が不足しており、施設が完成しても、稼働できるかわからない現状です。現在も雇用年齢の幅を56歳まで拡大し、看護師を40人募集しているところです。


8. 働きやすい職場作りのために

 スタッフ不足の中での勤務は、文字どおりの激務であり、それを理由に早期退職の道を選ぶ組合員も後を絶ちません。私たちは、早期退職者が出ないよう、働きやすい職場作りをめざして活動しています。
 現在、子育て休暇、時短など、育児世代のスタッフが少しでも長く働けるような環境となっていますが、市内の保育園が保育士不足のため全て開園していないことから、子どもを預けるところがなく、職場復帰できない職員もたくさんいます。
 今後、保育施設の設置や、育児時間取得できるような環境となるよう、改善していきたいと考えています。また、フロアを1つ稼働したことにより、各フロアの夜勤者の人数が減少し、1人ひとりの業務量が増加し、激務となっている報告もあります。
 このような状況を把握して業務の改善を訴えて、病院協議会としても活動していきたいと考えています。