【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第11分科会 じちけん入門!! ~じちけんから始まる組合活性化~

 地方本部統一テーマ「戦後70年をふりかえる」と単組推進委員会の取り組み状況を合わせてレポートしました。自治研活動を長く行っているメンバーが新メンバーとともに初心にかえった自治研活動を丁寧に行った経過を合わせることで「テーマ」と「実践方法」の二面的レポートとなりました。まとめは、「歴史の上に、今の私たちの安定した生活がある。私たちの運動の上に歴史(未来)は創られる。」と、しました。



ザ・自治研
―― 戦後70年を振り返る ――

北海道本部/平取町職員労働組合・自治研推進委員会

1. 「起」⇒「戦後70年」

(1) 日高地方本部第36年次統一テーマを考える
① 自治基本条例検証活動の継続を考える
 2009年北海道自治研で「自治基本条例の検証」を報告し、その後3回にわたり検証活動を全国集会に報告してきた平取町職労自治研推進委員会としては「自治基本条例の検証」に思いがあった。職場を見ると、依然として条例が深化していない状況に検証チームとしては苛立ちがあり、特に昨年「第6次総合計画」が策定され、その作成過程において、自治基本条例が活かされたか? それは大いに興味の湧くテーマだった。担当者が、職員が、計画にどうかかわり、どう作り上げたのか。検証集大成の作業としては最高の現場であり、過去、2本のテーマ(自治基本条例とISO)を2班で追いレポートを作り上げたこともあり、そのときは「二兎を追う」自信があった。
② 2015年が戦後70年
 自治労北海道日高地方本部では2015年度の自治研テーマを募集し私たちは自らの「自治基本条例の検証」のテーマのほかに、連合日高地協が前年度から意識して運動を起こしている「戦後70年」に着目した。今、自分たちが役場という職場に勤めて地域で普通に生活をしているが、この平和な社会や安心して生活できる経済環境は、自然に生まれたものなのか、いやそれは、私たちの多くの先輩の努力と汗の上に築かれたものではないか。人生80年といわれる時代、70年の歴史を直視してきた人が少なくなってきている。残された資料を整理し、当時のことを「聞き書き」する。忘れ去られようとしている現象の記録を残すことが大事なのではと、統一テーマ「戦後70年をふりかえる」を決め2年越しの取り組みとなった。

(2) メンバーひとり一人が主役
① ザ・自治研
 スタート当時は、「大人の自由研究=地域の人とつくる役場職員の自由研究」と気軽な気持ちで考えていた。そして、誰でもが簡単にできる「自治研活動」だと自負した。今あるもの、それは施設でも事業でも特産品でもなんでもいい。その「始まり」を調べることで何かがわかる。基本に戻って自治研活動を行う。なにやら最近難しくなってきた自治研活動を基本に戻ることで「誰にでもできる自治研活動」であることを実践しようと「ザ・自治研」という枕詞を考えた。それはまさに夏休み子どもが行う「自由研究」。そして一人ではなく共同で、多くの知恵者(地域の人々)と一緒に楽しく。夢は広がり推進委員も個別勧誘し3人から委員会といえる7人になった。
② ホワイトボードが中心に
 推進委員会は毎回フリートーキング。今日の会議で確認しなければいけないことを明確にして、どうすれば出来るかを全員で考え、ホワイトボードに書き出していった。矢印や空欄がボードに所狭しと書き出された。最後には空欄が埋まり、矢印が着地点を見出していた。それは配られるペーパーに書かれている明朝体の文字より見やすくわかりやすかった。時にはホワイトボードは2台にまたがることもあった。
③ それぞれが、得意分野で頑張る
 8年前から私たちの推進委員会では、推進委員一人ひとりが自分の得意分野で頑張る方式を踏襲してきた。データ集計の得意な者、文書表現の得意な者、パワポ作成の得意な者、日程調整の得意な者などなど。人はそれぞれ得意な分野があり、その集大成がレポートになり発表用スライドになっていく。


2. 「承」⇒「キーワードの選出」

(1) ものごとには、必ず「始まり」がある
① 産業や事業・施設の始まり
 現在の町の姿から想像できるもの、出来ないもの。産業や農林業の現状と歴史。公共施設の建築と活用、街の栄華と衰退。色々な切り口から町を探ることが町を知ることにつながる。「今」には必ず「始まり」があり「始まり」を探るメンバーの旅が始まった。
② 個人毎テーマの決定
 推進委員一人一人がそれぞれテーマを持ち調査する。入社当時の仕事をあらためて調査するもの、実家の農業をしらべるもの、地元に伝わる「摩訶不思議な伝説」を調べる学芸員資格をもつものや町外からきてわが町の歴史をデータ化するものなどなど。個々人が特色あるテーマを調査。

(2) 調査テーマ
① 二風谷ファミリーランド(びらとり温泉)……最初の思いは?
② 特産品のトマトと和牛……誰が思いついたか?
③ ハヨピラ公園……真面目な「空飛ぶ円盤公園」
④ 学校統合の歴史と越境入学……29校から7校、越境とは?
⑤ 軽種馬農家の歴史……川向地区に集中している牧場
⑥ 鉱山の歴史……何処に1,000人が住んでいたのか?
⑦ 戦後70年の年表から見る平取町……時代のキーワードは?

(3) 調査方法と進め方
① 過去データを振り返る
 町史や総合計画、町政要覧、観光パンフレット、広報誌(広報・週報)など行政資料を自治研推進委員会(労働組合)として閲覧させてもらい過去データを調べる。その中で気づいたことは「私たちの町は本当にアーカイブスを大事にしていない。記録ということを置き去りにしている」と、いうことだ。今、手を付けなければ貴重な過去データが無くなるのでは、と感じるものだった。
② 先輩の話を聞く
 行政資料から不明な点や、紙に記録されていない事実を、リタイヤした先輩から話を聞いた。それは「自慢話」として語りつがれるものだった。その内容は、紙資料に書かれていない真実の背景が浮き上がってくるものだった。びらとりトマトを推奨した北海道の農業改良普及員から当時の話を聞いたり、リタイヤした役場職員の高齢の先輩からは、他町村から引き抜かれて平取町にきた経過や、長期展望にたった「総合計画」、「予算主義に基づく財政運営」など、一緒に仕事をした経験があるのに、知らなかった先輩の苦労話に感心するものだった。そんな中、地域住民が「昭和の証人」というテーマで90歳の町民に「聞き書き」をはじめだした。これらの事で「人の言葉=記録」は「紙」ではなく「神資料」であることがわかった。


3. 「転」⇒「へーそうだったのか

(1) 忘れられている「始まり」
① 企業誘致と労働者憩いの場「二風谷ファミリーランド」
 農村に工業を導入し雇用の場を創出する。撤退した企業の跡地を埋めるべく企業誘致を行いながら、一方で働く人の憩いの場として「公園・温泉」が考えられた。当時の総合計画や執行方針には、首長の並々ならぬ「熱い思い」が感じられる。現在は、リニューアルした温泉施設のみが脚光を浴びているが公園には過去を物語る石庭や池が残っている。40年近い歴史がある広い公園内は今では閑散としているが維持管理は行き届いている。
② プロの発想「びらとりトマト」
 1960年代にはじまった減反政策により、水稲以外で反収の高い作物による転作を模索。沙流川流域の冷涼な気候、春の日照、秋の気候の良さからトマトに着目。そこには農業改良普及員の助言指導が大きな影響を及ぼした。1972年に6戸の農家で始まった「平取トマト」は2015年には生産量12,885t販売額42億75百万円と日本国内でも有数の産地となった。
③ 全国有数の地「日本一といわれた高品質のクロム鉱石」
 町内仁世宇地区の日東クロム鉱山は1917年から採鉱、1960年に閉山。今では住宅も街かげも見当たらない地区に当時人口900人、100棟以上の長屋住宅や映画館、雑貨店、飲食店、郵便局などがあったという。また、鉱山には労働組合もあり、選挙運動に政治家が訪れることもあった。当時働いていた人の話はクロム栄華を伝える。跡地をツアーで見た人は洗浄跡地のコンクリート擁壁や、小高い丘の上からは、その奥にあった立て坑跡地に思いを馳せていた。
④ 信者が造った大建造物「ハヨピラ」
 1964年に団体(宇宙友好協会)が崖を利用して高さ70m幅100mのUFO着陸基地を建造。アイヌの人々の神様「オキクルミカムイ」を宇宙人、降り立つときに乗ってきた「カムイシンタ」をUFOと考えたらしい。現在でも一部の人々にハヨピラは「空飛ぶ円盤の聖地」として言い伝えられており毎年6月24日(世界円盤デー)に集まる人もいると言われている。オキクルミカムイ像の銅盤が戦時中、軍隊に徴収されたという現実的な話も残されている。
⑤ 読んでいない年史「100年史・70年史」
 平取町の年史は、50年史、70年史、100年史と3冊発刊されている。また、地域の年史は5地区(去場地区ほか)で発刊されている。それらは図書館や書棚で飾られており滅多に開かれることは無いのが私たちの現状であった。広島に原子爆弾が落とされてからの年表を中心にピックアップするだけでも町の喜怒哀楽が見えてきた。
⑥ 戦後29校あった小中学校 今は7校
 1945年戦後には平取町に29校の小中学校があった。道路をはじめとする交通インフラが不十分な事、人口が10,000人、二等辺三角形の人口ピラミッドも正常な形で児童生徒が多数おり、それに対応する学校が地域に密着していた。その当時は、今でいう学校区もあいまいさがあり、学区を越えて通学する「越境入学」ということもあったと聞いている。
⑦ 馬産地「日高」における平取の流れ
 日高といえば全国有数の馬産地。ホッカイドウ競馬も日高町の競馬場を中心に昨年は黒字経営となり本年度も順調な経営を行っている。競馬はギャンブルとしてのイメージが強く一部の人に嫌悪感を与えているが、最近では昔と違いスタイリッシュなスポーツとして市民権を得てきている。何よりも、日高管内には多くの軽種馬農家がおり、それに関連する業種で働く人の数を考えると、日高の経済を漁業とともに支えている二大産業と考えてもいいといえる。管内的には平取町の軽種馬人口は小さな比率だが、新冠にあった御料牧場の移転に伴い平取町に強制移転させられた地域があったり、軍馬の生産が盛んだった時代など「馬」のキーワードに興味がわいてくる。

(2) 現場に触れる
① 過去の歴史に触れる「びらとり歴史・散策ツアー」
 推進委員会で情報が集まる中、「この現地が見てみたいね」と誰ともなく話が出てきたのは必然だったのかもしれない。メンバーで現地見学を行い、組合員に呼びかけ「ツアー」を企画し参加者で見て感じたことを話し合う場をつくろうと、一気に、過去の歴史に触れる「びらとり歴史・散策ツアー」が決定した。ツアーには新入組合員を中心に推進委員を含めて15人が集まった。町外から採用された職員は「こんな歴史が……。」地元採用の職員でも「行ったことも無かった……。」採用から20年の推進委員でさえ「現場経験が無いから初めて……。」と。土曜日の早朝9時にスタートしたツアーは夕方3時まで町内を見学し室内で推進委員から研究テーマの説明をうけて分散会で、それぞれの感じたことを話し合った。
 【当日のコース】町内最古の現存する廃校と擁壁を残す廃校跡地。クローム鉱山の洗浄史跡と跡地。二風谷ファミリーランド公園と温泉施設。円盤公園跡地のハヨピラ。


4. 「結」⇒「先人の苦労に感謝 未来に責任」

(1) ザ・自治研
① レポートの山
 数多くのキーワードから生まれたテーマはレポートの骨格を成すものであったが、調査研究を進める間にテーマひとつひとつがレポートそのものに匹敵する内容になっていった。推進委員7人が7本のテーマで「戦後70年をふりかえる」予定が、時間とともに7本のレポートになりつつあった。それはツアーで各テーマの報告書を作成したとき「A4-1枚で報告を」の確認に対して「表1枚」と「裏表1枚」の2種類のレポートが出されたことでも明らかであった。
② テーマはどこにでもある
 テーマを考えると悩み、それが自治研活動のネックになっているような事があるが、何となく並べる単語や、最近気になる事業や出来事。そんなところから今回のテーマは生まれ、テーマに基づき調査する人は、自分と関係の深いテーマに落ち着いていく。「知りたい」という気持ち願望が全体の中で膨らんでいくと調査は一気に進んでいくが、結局は「やる気」の問題だ。
③ 「始まり」は、「集まり・話し合う」ことから
 ひとりでは何も思いつかないが「自治研」をはじめようとする声掛けに集まり、「何をするか」の少ないキーワードに基づき話し合うことから方向性が出てくる。具体的な実行案件(会議など)も、一人だと諦め避ける事が、みんなで分担し考えていくと実行できるものである。組合員の休日にツアー企画を実行するなど到底一人では諦めていた。やりたい、どうすれば出来るか、みんなで悩むと答えも結構出てくる。

(2) 温故知新
① 振り返ることで、わかったこと(先人の苦労)
 今でこそ当たり前の「総合計画に基づく行政運営」や「予算主義に基づく財政規律」。初めて取り組んだ先輩の話には「この人が、今の財政運営の基礎をつくったんだ」と感心するしかなかった。昔、財政破綻し国の管理下におかれた町村が多数あった、という話がとても身近に感じられた。
② 振り返ることで、わかったこと(未来への責任)
 先輩たちの苦労で今の私たちの平和で安定した生活があると考えると、私たちは、それに感謝しながら、私たちの後輩や子や孫に責任ある社会を残す、創る責任があることに気付いていく。今回の活動で、いま私たちが、行っている仕事や運動は、未来の安心、安定社会の源になるとあらためて確信できた。

(3) アーカイブ「記録に残す」
① 「始まり」は、未来では宝物
 今回の自治研活動は8年追い続けた「自治基本条例」の集大成を思い描きながら、地方本部の統一テーマとの二兎を追う予定でスタートした。結果として地本テーマの「戦後70年をふりかえる」に収斂した。そしてレポートは戦後70年の歴史と自治研活動実践を並列して報告するものとなった。少し厄介なレポート構成になったが、この10年の自治研活動の実践方法の報告を付加することで、このレポートがまた次回のレポートのスタートになる「現在進行形のレポート」になったのではと考える。
 さらに今回「始まり」を振り返ることでメンバーが感じたことは「資料・記録が無い」ことである。聞き書きが重要な情報源であった。小さな町の歴史だがアーカイブスとして残していくことの重要性を身に染みて感じた。今は、大したことではない事柄でも、担当課の文書として編纂されていても保存年限で処分され、将来わからなくなる可能性が高い。今からでも遅くは無く、記録を残すマニュアルの整備、そして過去の出来事の聞き書きを、行政の仕事として位置づけることが大事だと思う。

歴史の上に、今の私たちの安定した生活がある。
私たちの運動の上に歴史(未来)は創られる。