【自主レポート】

第36回宮城自治研集会
第12分科会 ほんとうの住民協働とは? ~地元スペシャルになろう

 労働組合に対する強烈なバッシングの経験をふまえ、市民とともに公共サービスのあり方を考えるため、まちに出てまちの真の姿を知る取り組みを始めた大阪市職。2007年からの大阪市の密集市街地における防災まちづくり活動への市職組合員の参画は、9年間の多様な取り組みを経て「井戸」と「せせらぎ」の完成に至った。その活動の中で見えてきたもの、得られたものは何か。本論では、この約9年間の取り組みについて振り返る。



労働組合と地域との協働で
井戸を掘りせせらぎをつくってみた
~東成区今里地域における9年間の防災まちづくりの取り組み~

大阪府本部/大阪市職員労働組合・都市整備局支部 山添 克裕

1. 活動にいたる背景と経過

(1) なぜ労働組合が地域の防災まちづくり活動に?
 2004年秋頃からの、「職員厚遇問題」に基づく大阪市職に対する強烈なバッシングは、これまでの市職運動のあり方を問い直す契機となった。
 大阪市職では、2006年に「市職市政改革推進委員会」を発足させ、その委員会のもと、現場組合員の日常の問題意識をもとに議論を行う場として、課題別ワーキングチームを設け、約1年間かけて議論を行ってきた。そうした取り組みをもとに、「ワーキングチームの研究活動と地域集会における市民協働の取り組みを結合して、市民とともに公共サービスのあり方を考える『場』づくりに挑戦する。」ことを確認した。
 この方向性をもとに、いくつかの具体的な取り組みを進めることとし、その中で東成区今里地域における防災まちづくりの活動への参画についても確認がされた。
 こうして、「対当局」という内向きな組合運動から一歩踏み出し、組合員が地域の防災まちづくり活動に関わり、市民とともに汗を流すことで、「市民」と「市の担当者」という関係性では見えてこなかった、まちの真のすがたを知る取り組みがスタートした。

(2) 私たちが"踏み出した"まち
 私たちが"踏み出した"東成区の今里地域は、大阪市の東部に位置する下町の住宅街である。まちなかには、戦火をまぬがれた老朽木造住宅が、細い路地に面してびっしりとはり付いている。一方、まちの中央部には、大阪から奈良に至る「暗越奈良街道」が通り、その沿道においては歴史的で落ち着いたまちなみが形成されている。
 ここでは、まちのさまざまなコミュニティが共同して地域防災に取り組むことを目的に、今里連合振興町会と社会福祉協議会を中心として、女性会、老人会、子ども会などで構成される「今里地域防災会議」という組織を結成している。当地域の防災意識は市内でも屈指の高さであり、かねてよりさまざまな活動が行われてきている。


2. まちで学び・まちを知る(2007年~2010年の活動より)

(1) 地域とともに防災まちづくりを学ぶ
① 地域フォーラム「地域防災を考える~市民協働で考えるまちづくり~」(2007年)
 2007年9月1日「防災の日」。今里地域で防災まちづくりに取り組む市民の方々と大阪市労連との協働の第一歩として、「今里防災ウォーキング」と題したまちあるきと、それをもとにした「防災ワークショップ」を開催した。
 そこでは、今里町会の方々と市労連のメンバーがともに、今里のまちあるきとワークショップを行って、いざというときの避難ルートの安全性確保の観点から「気になる点」や、魅力に感じた場所をマップにまとめた。
 それから3週間後、大阪市労連主催の地域フォーラム「地域防災を考える~市民協働で考えるまちづくり~」を同地で開催した。会場は多くの地域住民と組合員などで埋め尽くされ、改めて当地域の「防災」に対する関心の高さを実感した。
 フォーラムは、大阪人間科学大学教授(当時)の片寄俊秀さんによる講演と、住民・コンサルタント・研究者・組合役員など、多彩な顔ぶれによるパネルディスカッションによって構成された。
 このフォーラムで確認されたものは、「労働組合が地域の防災まちづくりに今後とも参画していくこと」のみであったが、このフォーラムで講師やパネリストから提起された意見は、今後の活動においてヒントを与え続けていくものとなった。
② 東京・横浜の防災まちづくり事例に学ぶ(2008年)
 2008年3月、活動の具体的な展開を考えるにあたって、今里町会の方と市労連のメンバーで、東京・横浜で防災まちづくりに取り組む2つのまちを訪れ、実際に活動されている方からお話を伺った。
 東京都墨田区向島では、「路地尊」という、雨水の貯水機能を持ったストリートファニチャーを設けている。そして、当地の防災まちづくりは「路地尊」の名とともに全国的に知られている。一方、横浜市西区西戸部においては、私たちが訪れる1年ほど前から、横浜市の支援制度を活用して、町内に雨水の貯水タンクやせせらぎの設置などを展開している。
 この2つの地域には、防災まちづくりの啓発と、いざというときのための生活用水の確保を目的として、「水」に着目して活動を展開しているという共通点がある。この見学行では、いずれの地域も「防災」という堅いテーマを、活動では実に柔らかく表現されていることに感心した。そして、この2つの地域で見聞きしたことが、今里地域での私たちの活動に、大きな影響を与えることとなった。
③ 今里での防災まちづくりの展開を考える
 その後、何度も地域の方と今後の活動について話し合いを重ねた。それにより次のような方向性を導き出した。
 「防災『機能』の向上だけを追い求めた取り組みでは、いつか行き詰まる。東京と横浜の活動から感じるキーワード『楽しさ』『美しさ』『まちの文化を大事にする』は今里でも必要である。」という基本認識とともに、「横浜で見た『せせらぎ』のように、子どもたちが、遊びながら防災まちづくりに触れあえるような環境づくりも必要ではないか」というものである。
 この「せせらぎ」とは、横浜市西区西戸部地域で見せていただいたもので、地下に貯めた雨水を井戸で汲み出し、せせらぎ状の水路へ流すという大がかりなストリートファニチャーである。行政の支援を受けつつも、多くの部分で住民の手による施工がなされており、そのプロセスもあって、地域での存在感は高く感じられた。そして、「今里にもこういったものが必要ではないか」というのが、横浜への見学に参加した者の共通認識となった。
 とはいえ、適当な設置場所が今里に用意されているわけではないし、当然、設置にはそれなりの費用も必要となる。インターネットで検索すると、そういった公益活動への助成制度も用意されているが「活動目標がしっかりとしていない段階から、助成制度に乗ることは好ましくない」という片寄先生の助言もあった。熱が冷めないうちに形にすることも大切だが、せせらぎ作りを目的化するのではなく、「せせらぎを作る」という共通目標を通して小さな活動を積み上げていく、そのプロセスが重要であるという結論に至った。

(2) もっともっとまちを知る
① 防災まちづくりフィールドワーク(2008年)
 まちのことを深く知るために、2008年6月にふたたび大規模なフィールドワークを実施した。今回は、今里町会の方々をはじめ、研究員や市職組合員など約30人が参加した。
 その後、日を改めて、今里でどのような防災まちづくりの展開が考えられるかを検討するワークショップを、参加者を中心として行った。
 ワークショップでは、密集市街地の防災課題の"定番"ともいえる「いえ」や「みち」の改善提案が多くあったが、特徴的だったのは、「井戸などの『水源』の復活・再認識が必要」という案であった。
 というのも、フィールドワークの際、水路や池、井戸など「水」にまつわる話を、まちの多くの方々がされていたため、印象が強かったのだろう。しかしこれで、今里に「せせらぎ」を作ることへの"必然性"を見いだせたようにも思えた。
 これらワークショップの成果については、今里地域での活動開始から約1年間の活動をまとめた冊子(右)に「まちづくりのアイデア集」として掲載し、「このアイデアが、今後のまちづくり活動のヒントになれば……」という願いを込めて、2008年12月に、今里町会へ相当部数を配布させてもらった。
② 防災まちづくりを目的とした歴史研究(2009年)
 これまでの活動の過程で、まちづくりコンサルタントの高橋滋彦氏の協力を得ることができた。高橋氏は、「地域のまちづくりを盛り上げるには、まちの歴史などシンボリックな『背景』が不可欠」と言う。そこで2009年より、「防災まちづくり」という目的は持ちつつ、今里のまちの歴史的なシンボルを掘り当てる取り組みを進めるため、高橋氏のアドバイスのもと、市職組合員が中心となって地域で"ゼミ"的な活動を始めることとした。
 「ゼミ」では、まちの中から消えてしまった「小字」を探りあてることから取りかかった。小字名は往時の地形を表していることが多く、その位置が復元できれば、昔の土地の形が浮かび上がると考えたからである。また、それと合わせて、今里の昔のまちの姿を掘り下げる取り組みも行った。昭和初期の地籍図に、現在の地図を重ね合わせると、曲線的な道の多くは水路と一致し、いくつかの場所では、池の形状を残したまま宅地化が図られているなど、まちの基本的な形状は今でも大きく変化していないことが理解できた。さらに、このあたりは水路・池が多かったことに加え、旧大和川水系のいくつもの分流が当地付近で合流しているなど、今里のまちはかつて「水郷」であったことが分かった。
 この取り組みについては、大阪市政調査会の研究員である西部均氏の協力により、スムーズに進めることができた。西部氏は、歴史地理学の研究者であることから、この手の作業は朝飯前のようだ。
 その後、今里のまちの方々を招いて、市職メンバーと西部氏で研究した「今里のまちの歴史」について発表しつつ、2009年11月には、昔の地図と現在の地図を照合しながら"水郷の面影"を探して歩く、通算4度目となる大規模なフィールドワークを実施した。それらの活動の中で、当地の南側にはかなりの湿地帯があって、大正年間に干上がって宅地化が図られたことなど、地域の方からさまざまな"証言"を追加してもらうことができた。
 2009年12月には、今里小学校で行われた地域のもちつき大会に、市職でブースを出展した。小字を記した昔の今里の地図を広げ、来場者に「うちの家の小字は何だ?」とやってもらいながら、昔の今里についてあれこれ教えてもらおうというのが目的だ。また、蓄音機で昭和の名曲を聴かせる活動をされている、大阪市市史編纂所研究員の古川武志さんを招き、市職ブースの横で実演をしていただいて、ブースへの"集客力アップ"も図った。このとき、おばあさんが、わざわざ家に戻って昔の写真を持ってきてくれたことが印象深い。


3. これまでの"学び"をカタチにする(2011年以降の活動より)

(1) 自分たちで井戸を掘り、せせらぎを作ろう
① どんなものを作るか
 これまでの約3年間の"研究的活動"は、大変意味のある活動ではあったが、一方で、地域・市職のメンバーともに「そろそろカタチにしないと」という思いも、日に日に強くさせることとなった。そこで、いよいよせせらぎづくりに着手することとなった。とはいえ、「どこに」「どんなものを」作るのかは、メンバーの中で漠然なイメージしか持ち得ず、まずはそのイメージを共通のものにする作業を進めていくことした。
 そこで、せせらぎづくりを具体的に検討するために、設置候補地である広場(児童遊園)の「模型」を作製した。この模型は、地元の測量機器のリース業の方の機材をお借りして、市職メンバーが実地測量を行ったデータをもとに、建築模型の製作業を営む活動の中心メンバーである町会長が、無償で作ってくれたのだ。
 そして、2011年10月には、地域の子どもたちによるワークショップを開催した。児童遊園の"最大のユーザー"である彼らに構想段階から関わってもらうことで、せせらぎに愛着を持ち、大切に使ってもらいたいという願いからである。子どもたちには制約をつけず自由に発想してもらったので、大人の事情で実現困難なアイデアも多く出されたが、「広場が何やら楽しい方向に変化するのではないか」ということに対する期待も、高く感じられた。
② どうやって作るか
 次は「作り方」である。もちろん、井戸掘削もせせらぎ製作も、業者にお願いすれば瞬く間に素晴らしいものができあがるだろう。しかしこの一連の活動は、先述のとおり「せせらぎ作りを目的化せずにプロセスを重視する」ため、「自分たちで作らないと」という思いがあった。しかし、もちろんメンバーの誰一人として井戸なんて掘ったことはない。そこで、メンバー各々がインターネットなどで情報を収集し、それを持ち寄って検討を重ねてきたが、その中で有力な情報が得られた。地元の水道業の方が、自社の敷地に手掘りで井戸を作っているというのだ。
 早速その方の井戸掘り作業を拝見するとともに、その方の紹介で、同じように自ら井戸を掘削したという、兵庫県西宮市の現地調査もさせていただいた。そのうえ、井戸掘り道具まで提供してもらうことができたので、工法については思いのほか早く確定することができた。また、せせらぎづくりにかかる各種許可等の手続きについても、東成区役所の協力を得て整えることができ、あとは着工を待つのみとなった。
 なお、余談ではあるが、ちょうどこの頃に橋下徹氏が大阪市長に就任した。大阪市の行政・地域・労組にとっての激動の時代が、幕を開けようとしていた。

(2) いよいよ井戸を掘り、せせらぎを作る
① 初めての井戸掘り
■井戸掘り作業(①と②の作業を何度も繰り返す)
①井戸の枠となるパイプを、継ぎ足しながら埋めていきます。 ②井戸の枠の中に細長いパイプを入れて、泥を掻き出します。
 2012年1月、盛大に起工式を執り行い、まずは井戸掘りから作業を開始した。たいへん体力と根気を要する作業ではあったが、市職のメンバーなどによって掘り進められた。
② 想定外 ――「井戸の水量が少ない
 1か月半かけて掘り進め、深さ12mを越えたところでようやく水脈に達することができた。が、しかし、当初の目論見とは異なり、湧水量が少なく、災害の際に活躍が期待される井戸としては、いささか物足りないものであった。
 そこで、"第2の水源"確保のための検討を重ねた結果、広場内に設置されている町会の倉庫の屋根に降る雨水を、井戸に引き入れることになった。雨水を貯めるためのタンクも設置し、約25m離れている井戸へ接続したが、その配管作業については、大阪市水道労働組合の協力で確実に行うことができ、ついに"ハイブリッド型"の井戸が完成した。
③ せせらぎづくり
 ここまでくると、せせらぎも自分たちの手で作ることについては、誰も疑いを持たなかった。 みんなで大量のコンクリートを練り、煉瓦を積んで、2015年10月、ついにせせらぎができあがった。
 2016年6月、仕上げとして、地域の子どもたちの手でせせらぎの流路にモザイクタイルで装飾を施してもらった。
 せせらぎを永く大切に使ってもらうことを願い、最大のユーザーになるであろう子どもたちに集まってもらったものであるが、この作業にあたっては「関西をアートで盛り上げるNPO『A-yan!!』」の田中やんぶさんのプロデュースのもと、進めていただいた。
 そして、モザイクタイルによって温かさが加えられたせせらぎを囲んで、みんなで盛大に完成を祝った。

(3) 約9年間の取り組みを経て
① ここに至るまでの「時間」
 せせらぎづくりのきっかけとなった東京都と横浜市への見学行から、実際の完成までに8年も要している。特に工事や調整に時間を費やした訳ではないのに、それだけの時間を要した。もちろん、わざと引き延ばした訳ではなく、「プロセスを重視する」という考え方のもと、先述のとおり多様な取り組みをじっくりと展開したからである。それによって、今里はかつての「水郷」であったことが判明し、せせらぎに意義を持たせることができた。
 しかし、町会も労組もそれぞれの目的を持って結成された組織であり、その中で"せせらぎづくり"を最優先に日々活動している訳ではない。また、当然に構成員の入れ替わりもある。そうした中にあって「8年」という時間は、お互いにとっていささか「長すぎた」というのが実感ではないかと思っている。
 活動のモチベーションの観点から、もう少し短いスパンで一定の成果を出していくことも重要であると感じた。
② 地域と労働組合の協働の「カギ」
 自分たちで作製したとはいえ、せせらぎを作るには材料費など一定の費用は必要であるが、これについては、活動当初に設立した「せせらぎ基金」から賄った。「基金」と言うと大げさだが、その主な財源は、会合や活動の後で開かれる"打ち上げ"で"割り勘"をした際の余剰金であり、それをコツコツと積み立ててきたものである。
 今里地域のみならず、地域と関わる取り組みに共通することかもしれないが、「地域と労組との協働」と言いつつ、それは、組織的な結びつきよりも、個人的な信頼関係によるところが大きい。アウトプットの見えない中で始めた取り組みが、このように長い時間継続され、最終的に「せせらぎ」という形に結実したことは、地域側と労組側のそれぞれに"キーマン"が存在し、その信頼関係が継続したことが大きな要因であると言える。この間維持されてきた先述の「基金」は、その「信頼関係」の証であろう。
 最後になったが、私たちのこのような活動を受け入れてくださった今里地域と、これまで、この取り組みにさまざまな形でご協力をいただいたすべてのみなさまに、心より感謝の意を申しあげたい。