【自主レポート】

熊野市職労におけるまちづくりの取り組みについて

三重県本部/自治労熊野市職員労働組合

1. はじめに

 熊野市は、2005年11月に旧熊野市と旧紀和町との市町村合併により、新たにその歩みをスタートさせました。
 しかし、人口規模でいうと、わすか2万1千人あまりしかなく、県下の都市で最も小さな市となっています。以前は、旧熊野市は林業や漁業といった1次産業で、また、旧紀和町は鉱山や林業で繁栄した地域でしたが、全国平均を上回るペースで少子高齢化が進行し、過疎化も相俟って厳しい経済状況が続いています。
 この地域にとって、「地域再生とまちづくり」は長年の課題であり、新たに発足した新熊野市職労(組合員257人)にとっても、取り組むべき最も重要な課題の一つです。
 活性化を巡って、過去には「原発誘致」問題など市を二分するほどの争いもありましたが、現在は、「熊野古道」の世界遺産登録により、住民が「地元のよさ」を再認識し、地域が一体となって活性化の道を模索している状況です。

2. 「地域再生とまちづくり」に関しての熊野市職労の位置づけ

 合併前の旧熊野市職労においては、「地域振興費」という予算科目を設けて地域発展のための取り組みを行い、旧紀和町職労では「つれもつ会」という組織を作って地域活性化の活動を行うなど、合併前の旧単組時代から地域に対する取り組みを行ってきました。新しい市職労においても「地域と私たちは運命共同体だ」との認識で、地域活性化の取り組みを組合活動の重要な活動のひとつとして位置づけています。
 この活動に力を入れるようになった理由の一つに、原発誘致を巡る動きがありました。旧熊野市では、1972年から1987年まで、原発誘致の是非をめぐって激しい論争がありました。この長い議論の中で「原発抜きでも活性化ができるはずだ」という声が高まり、「活性化のために、市職労に何ができるのか」をテーマに活動を開始し、正式に原発誘致が反対されてから、より一層運動を活発化させました。
 また、旧紀和町では、紀州鉱山の閉山から過疎化と高齢化が深刻となり、閉塞状況を打開するために、紀和町職労が自治労本部の自治研地域活性化モデル単組の指定を受け、地域住民とともに「町づくり」の活動を行い、大きな成果を上げました。
 これらの経験を生かし、新たな熊野市職労においても「地域とともに歩む」をキャッチフレーズに活動を行っています。

3. 「地域再生とまちづくり」の具体的な取り組み

(1) 地元特産品の販売
  ① 特産品の斡旋販売
    まず手がけたのが、地元特産品である「温州みかん」の販売でした。熊野市の大規模農園である金山パイロットのみかんを県内の仲間に紹介したところ、ある単組の組合員が自ら大型トラックのハンドルを握って来市するなど、大きな協力をいただきました。さらに、さんまの干物やたかなの漬物などの販売にも大きな協力をいただき、県内のイベントにも出展し、特産品のPRと販売を行いました。売り上げは、多い年には数百万円にも上り、一定の成果を収めました。
    これらの取り組みは、PMU地域物産センターに引き継がれました。
  ② 「くまの郷土物産展」の開催
    8月17日の熊野大花火大会当日に、観光客へ地元特産品をPRするために市職労で「くまの郷土物産展」を開催し、多くの観光客に販売を行いました。
    当初は、組合員も販売のノウハウが分からず、試行錯誤の取り組みでしたが、組合員のがんばりもあり、「くまの郷土物産展」は賑わいをみせました。2年後には、商工会議所や地元商店も参加することとなり、市民を中心とした物産展へと発展しました。

 

(2) 地域のイベントへの参加
<新潟中越地震炊き出しボランティア>
   地元の市民団体などは、自転車ロードレースや太鼓フェスタ、市民スポーツ祭(市民のための運動会)など、様々なイベントを行っています。市職労も、これらのイベントにボランティアスタッフや豚汁の振る舞いなどを通して積極的に参加し、地域活性化の一助となる活動を行っています。
   これらの活動の中で、豚汁の振る舞いはいつも大変好評で、たくさんの方に喜んでいただいており、自治研活動のアピールの場となっています。また、この豚汁作りのノウハウを生かして、2005年には、「新潟中越地震」の際には、災害ボランティアとして小千谷市まで行き、炊き出しを行いました。ここでも被災者の方に大変喜んでいただきました。

※組合活動PRのためのTシャツ作成
 組合活動で地元のイベントに参加しても、市役所の活動ではないかと見られることがありました。市民の目からみても、市職労としての活動であると理解していただくために、市職労のTシャツを作成し、幟(旗)を購入、「組合員としての活動ですよ」とさりげなくアピールすることとしました。

(3) 熊野大花火大会翌日の浜清掃の実施
   毎年、全国のたくさんの方が喜んでいただいている「熊野大花火大会」ですが、一夜明けると会場の七里御浜海岸は「ゴミ・ゴミ・ゴミ」で大変な状態となっています。
   そのため、花火大会の翌日は、市職労が中心となって清掃活動を行っています。他の団体や一般のボランティアの方もいるので、清掃参加者全員に手袋、ゴミ袋、ジュースを市職労で用意し、「手ぶら」で来ても手伝えるように準備をしています。

熊野大花火ごみ搬入量

年 度
開催日
観客数
可 燃
資 源
不 燃
合 計
2001年
8月28日
15万人
14,880kg
4,270kg
1,890kg
21,040kg
2002年
8月23日
9万人
7,390kg
2,530kg
 800kg
10,720kg
2003年
8月17日
18万人
13,390kg
4,570kg
 890kg
18,850kg
2004年
8月17日
18万人
22,120kg
4,020kg
 870kg
27,010kg
2005年
8月17日
19万人
15,110kg
2,540kg
 410kg
18,060kg
※開催日は、通常8月17日

※疲労を隠せない組合員
 花火大会の翌日は、早朝6時前から清掃作業を行うのですが、花火当日は、行政職員として深夜まで駐車場整理などに従事し、翌朝は、清掃作業に参加し、その後通常勤務もあることから、清掃作業中の組合員は、とにかく疲れた顔をしています。準備物等で少しでもミスがあると、すごい形相でにらまれます。
 しかし、みるみる内に浜がきれいになるので、作業が終わるころには皆さんすがすがしい表情となります。(でもその後仕事があることに気づき、すぐブルーな表情に戻ります。)
 「熊野大花火大会」のあとのゴミの量は、年によって異なりますが、一時期よりも減少傾向にあります。それでも、量は膨大で大変な作業ですが、「七里御浜海岸がきれいになってはじめて熊野大花火大会が終了する」との気持ちで組合員一丸となってがんばっています。

<熊野大花火翌日浜清掃写真>

4. おわりに

 物産販売や地域のイベントへの参加などの自治研活動を行うにあたり、熊野市職労として、気をつけていることは、
① 物産販売については、「きっかけ作り」と「新規ルートの開拓」に力を入れる。
② イベント参加については、あくまで「裏方」として活動する。
ということです。
 これは、物産販売については、イベントの企画や地元特産品のPRや市外への販売ルートの紹介など、「地道」な部分を積極的に行い、その後「うまみ」も含めて地元の方に引き継いでもらいたいと考えているからです。
 また、イベントへの協力についても、市職労が表舞台で活躍するのではなく、実行委員会の指示の下に裏方を担い、「市民が主役で組合も一緒に参加している」という感覚を作りたいからです。
 市民の方からすれば、市職員の労働組合である市職労の活動は、「自分たちの給料を増やすことのためだけに活動している」とか「公務員は組合作れるの?」などと思われがちです。
 しかし、実際は、地域があってはじめて私たちの市職労があるわけで、その意味で自治研活動は市職労活動、自治労運動において極めて重要な活動のひとつであることと考えています。