【自主レポート】

第35回佐賀自治研集会
第1分科会 住民との協働でつくる地域社会

 東京都港区台場、この街はまだ17歳です。そのなかで地域との関係を作りながらひとつの催しを地域と作り上げた過程とどこにでもある出先職場での問題です。異動がある職員と住み続ける住民との関係をうまく築いていくうえで「なにを大切にしていくか」を考えてみました。



生まれた街との協働
―― 協働と思い ――

東京都本部/港区職員労働組合・書記次長 宮本 浩司

1. ~~~生まれた街から生まれたイベント~~~

(1) 台場が街にかわる
 東京港区といえば、都会の真ん中で六本木、赤坂、青山、白金台、台場と賑やかな街が立ち並ぶ印象があると思います。商業的な街並みを感じる方も多いと思いますが、メイン通りの裏側には、それぞれ住居地域もちゃんと存在しています。
 その街のなかで、台場はできてから17年の街です。まだ成人式も迎えてない台場の街が、いかに作られたかを知っていただければと思います。
<台場の歴史>
 東京都は、都心の混雑を緩和するため、東京臨海副都心として臨海部の開発を進めてきました。レインボーブリッジの建設や世界都市博覧会の開催予定により、企業進出が誘致されました。
・1995年(平成7年):世界都市博覧会の中止が決定されました。これによって企業の進出や移転のキャンセルが相次ぎ、13号地は空き地だらけとなったため、発展に暗雲が立ち込めました。
 また、東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発など、この地域を中心に事業を行っていた第三セクターは大幅な赤字となり、事実上破綻しました。そんな中11月1日にはゆりかもめ線新橋―有明間が開通しました。
・1996年(平成8年):臨界副都心開発により新たに「港区台場」が13号地北部に成立しました。これに伴い第三台場・第六台場が港区港南五丁目から港区台場一丁目に変更されました。
・1997年(平成9年):フジテレビが新宿区河田町より移転、また同局のテレビドラマ「踊る大捜査線」などによりお台場の知名度が上がり、りんかい線の全線開通(大崎―新木場・2002年)もあって、商業施設のみならず居住施設やランドマークも続々と誕生しました。余談にはなりますが、当時の都知事、石原慎太郎がカジノ構想を提唱したため、注目度は一層高まりました。
・2007年(平成19年):首都高速湾岸線の13号地出入り口が臨海副都心出入り口に改称されました。また、乃村工藝社本社ビルと台場ガーデンシティビルの竣工をもって港区台場の開発が完了したと言われています。


<脱線エピソード>
 テレビドラマ「踊る大捜査線」で一躍有名になった「湾岸署」は、ドラマ開始時には架空の警察署でした。しかし観光客などが探していたり、問合せが多かったりして知名度が高かったので「湾岸警察署」は、企業や商業地域の発展による昼間人口増加や住宅の増加により後から作られました。2008年(平成20年)2月に完成しました。総工費は約60億円です。
 警視庁管轄の警察署の中では最大の192人を収容できる大規模な留置場や、一時的に留置人を隔離する「留置保護室」も6室が整備されました。通常は1室のみ整備されることを考えると、その充実ぶりが分かります。(何が充実なんでしょうか?)

(2) なぜ「台場」と名付けられたか……
 台場(だいば)とは、幕末に設置された砲台で、要塞の一種です。日本各地に築かれました。
 当初は幕府や各藩において異国船の打払いを企図したものが多く、海岸や河岸に築かれるものが多かったのです。しかし、幕末から明治にかけて起こった戊辰戦争や箱館戦争や西南戦争においては、野戦築城の数々も台場と呼ばれるようになりました。これらは海岸線に限らず、峠・高台・交通の要衝に築かれる事が多々ありました。


全国の台場……
品川台場(品川砲台)(東京都港区)-国の史跡。江戸幕府がペリー来航に備えて築いた砲台。  
 通称「お台場」。
弁天台場北海道函館市)-新選組と明治新政府軍と最後の戦いの場。
堺台場大阪府堺市堺区)-36貫目モルチール砲など大砲8門を設置。堺事件の舞台でもある。
楠葉台場(大阪府枚方市)および高浜台場(大阪府三島郡島本町)-淀川の防衛を目的とした河川台場。京都方面に遡上する敵艦に両岸から砲撃が加えられるように、2基の砲台で1セットとなっていた。
• 明石藩舞子台場跡(兵庫県神戸市)-国の史跡、勝海舟の設計、明石海峡の防衛。
• 徳島藩松帆台場跡(兵庫県淡路市)-国の史跡、明石海峡の防衛。
• 鳥取藩台場跡(鳥取県内8ヶ所)-国の史跡。
• 加賀藩生地台場(富山県黒部市)-富山県指定文化財。
• 丸岡藩砲台跡(福井県坂井市三国町梶)-梶台場、国の史跡。

台場地区人口推移(1/1現在統計)
下段 台場2丁目

西暦(年)

人口(人)

世帯数(戸)

1996

3

3

1997

2,998

1,222

1998

3,094

1,243

1999

3,145

1,267

2000

3,143

1,266

2001

3,949

1,600

2002

4,506

1,941

2003

4,502

1,945

2004

4,483

1,942

2005

4,428

1,918

2006

4,408

1,906

2007

4,314
754

1,891
372

2008

4,405
812

1,934
402

2009

4,382
857

1,928
423

2010

4,258
882

1,896
438

2011

4,152
894

1,819
443

2012

4,042
903

1,770
442

2013

4,429
972

1,769
437

2014

4,538
980

1,788
435

 

 

 ※太字部分は、私が台場児童館で勤めてい
 た時期です。

(3) 住環境の整備
 港区台場は、海岸側に台場1丁目があり、大通りをはさみ2丁目がありますが、当初は1丁目が住居や商業地域が並び、2丁目には企業が立ち並び、1996年(平成8年)の3月、1丁目の3番街、4月に5番街の入居がはじまり台場の街がスタートしました。
<住宅>
1996年3月
都営アパート(3番街脇) 297戸
3番街には、JKK都民住宅326戸、UR賃貸383戸
5番街は、JKK都民住宅164戸、UR賃貸114戸の計1,284戸の住宅で台場の街は、はじまりました。
2000年2月に1番街にJKK都民住宅310戸
翌年3月UR賃貸369戸ができる。
2006年5月には台場2丁目に、台場初の分譲マンション527戸が完成して、台場の住環境は終わったと言えます。
港区台場としては、もう建設できる土地がないため。となりの江東区、品川区には余裕があるのに……
<公共施設>
にじのはし幼稚園(当時2年保育)
港陽小学校・港陽中学校(同一校舎)
台場保育園、台場児童館
芝浦港南支所台場分室
芝保健所台場保健相談室
台場コミュニティーぷらざ(ホール、集会室A・B、和室、図書室)
台場高齢者在宅サービスセンター
<増加された民間施設(公設民営含)>
あっぴぃ台場(公設民営)乳幼児親子ふれあい広場
アスクお台場保育園 認証保育園2004・5・1 

(4) 地域とつくりあげた「ビーチフェスタ in Daiba」
 2006年10月下旬に行われた児童館まつりが終わり、地域の方々との反省会の時に、私が異動する最後の年に新しい事業を行いたいと考えることを伝えてみました。せっかくきれいな砂浜があるので、ビーチでの事業を考えていることを、地域の方に話しをしたところ、喜んでくれましたが、課題があるということでした。
 それは、地域でも以前に何度か催しを行おうとしましたが、企業優先でなかなか許可してもらえず諦めてしまっていました。台場に住んでいながらビーチでの活動ができないのは悔しいが、しょうがないと思っていました、とのこと。
 まさかと思いビーチを管理している東京都港湾局に尋ねてみると「新しい街のお台場には多くの人を招き入れたい、できれば公共交通機関を使って外の人を呼び込める事業ならば考えてもいい」とのことでした。
 なかなか、許可がおりないなか、必ず実施しようと強い意志を地域の方と確認しながら、実行委員形式(職員3~4人、地域の方6~8人)で開催準備を行い続けていました。
 コンセプトとしては、「地域のみんなが楽しめる催し、幼児から高齢者まで気軽に参加できる」ことでした。月1回、夜に行っていた実行委員会では、ビーチならではの種目(ゲーム)、どうすれば交流ができるかなどを話し合いました。
 何度か集まっていた時に、地域の方の知り合いの方で都の行政に影響力のある方が知り合いにいるとのことで、なかなか下りなかった専有許可もその方の口添えで、5ヶ月かけてようやく専有許可がおりました。
 開催日が決まると、実行委員からの意見も活発兼実効性のあるものが多くなり、地域の母親グループの"フラダンス"や小学生が運動会で披露している"おだいばソーラン節"を取り入れてみたらとか、暑い時期だから水分補給を考えなければ、体力差が出る種目は年齢別、幼児さんには砂遊びコーナーがあれば楽しめる……等、様々な意見が出されました。
 地域の方との話し合いを進める中で感じたことは、いかに皆さんが意見を言える雰囲気と進め方だと感じました。
 「これでいいですか?」というより「こんな案もありますけど、他に何かありませんか?」こたえが「はい」「いいえ」で終わらせないようにしていくことや、「みんなで考えていきましょう」という姿勢を見せることが大切だと思いました。
 準備を進めていく中で、たまたまお台場のビーチで催し物を開催するために挨拶にみえたNPO「日本ビーチ文化振興協会」の方に、児童館と地域も協力しながらビーチでの催しを進めていることを話したら、協力していただけることになりました。
 2007年(平成19年)6月16日(土)晴天に恵まれ『第1回 ビーチフェスタ in Daiba』は開催されました。
 NPOの協力のおかげで、ビーチフラッグには女性世界チャンピオン、ビーサン跳ばしには協会の会長が世界基準のフィールドを作っていただき、それぞれアドバイスを受けながら和やかに行われました。他にも、ビーチサッカー、麻ふくろリレー、砂浜宝さがし、幼児砂遊びコーナー等のゲームや地域の方や子どもたちによる「おだいばソーラン節」と「フラダンス」の発表なども行われて楽しい時間を過ごし、最後には冷たいアイスを300個用意して全員で食べて無事に終了しました。
 催しの前後には、怪我の防止と感謝の気持ちも含め砂浜のクリーンアップも忘れずに行いました。
 その日の夜、笑顔と歓声の余韻を残しながら、反省会を兼ねた打上げを地域の実行委員と一緒に行いました。
 担当をした私と相棒の2人の中では、やりきった充実感とは別に、準備から当日までかなりハードに動き回り、この事業を他の職員に引き継ぐことには抵抗がありました。
 そんな心配をよそに、反省会の中では、地域の方からは「楽しかった」「やはりビーチでの催しはいい」「来年はどんな種目がいいかなぁ~」など来年の構想がすでに始まっていました。
 その後、恒例となったビーチフェスタは、今年で8回目を無事終了したと聞いています。私が異動したあとには、ビーチ相撲やビーチタッグラグビーを行ったり、ビーチサッカーには日本代表メンバーが来たり……その時折々のブームなども混ぜながら行われています。
 また、第5回目からは、港陽学園PTAが小学校の校庭で行っていた地域向け運動会とコラボすることになり、名称も「ビーチフェスタ&お台場運動会」と変わっています。
 地域の風(声)を感じながら、子どもたちに何をしてあげられるか、していきたいか、体験させたいかを考えながらも、主催者側も楽しめる催しを行うときに、そこの地域の力を活用しない手はありません。単に催しの時に協力を求めるだけでなく、日々の生活の中での在り方が大切だと思います。
 協働で行った催しのあとの慰労会で、乾杯の声、グラスが合わさる音の大きさを忘れずに更なる響きを追い求めていきたいです。


2. 職員の異動で変わる姿

A児童館の利用人数 月~金 (人)

西暦

年号

幼児

小学生

中学生

高校生

大人

2004

H16

4,029

33,879

1,523

847

6,488

46,766

2005

H17

3,598

32,369

1.522

633

7,137

45,259

2006

H18

3,422

28,620

3,162

335

6,505

42,044

2007

H19

3,553

25,801

4,533

116

8,310

42,313

2008

H20

3,298

29,842

2,900

158

8,316

44,514

2009

H21

3,521

26,360

1,718

483

8,155

40,237

2010

H22

3,412

23,069

1,072

189

7,456

35,198

2011

H23

3,605

23,915

849

83

7,530

35,982

2012

H24

2,625

23,532

1,010

141

5,508

32,816

2013

H25

3,662

26,345

1,997

38

4,285

36,327

 

 A児童館では、館長を中心に指導員の協力の基で、地域住民との関係を築き上げて良好な運営を行っていました。
 その当時は、館長と地域担当職員を中心に、催しごとに応援職員数を入れ替えながら年2~3回程度の地域との連携事業に取り組んでいました。夜間の打合せも館長や地域担当+1人程度で対応を行い、できる限り多くの職員の顔を覚えてもらうと同時に、職員側も地域の方を知ることに励んでいました。
 2009年4月に館長が異動で変わり数年が過ぎたところで、住民との関係がぎこちない状況に陥ってしまいました。この変化は異動をした職員の耳にも届けられるようになるという状況になりました。(偶然に役所内で出会った時などの立ち話。)
 この状況を生み出した原因と思われるのが、児童館事業の他に地域の催し等で協力を行うために夜間の打合せや土日の事業の参加など、職員の負担が増大してきたのを懸念して、館長が業務整理を行ったことが要因と考えられます。(2009年4月~2013年3月)
 職員の負担を減らすために、協力事業に関しては館長がほとんど参加をして、夜の打合せ等も必要最小程度に館長のみが参加していたということでした。
 それまで、様々な交流ができていた住民にとっては、館長との交流が主になり他の職員と接する機会が減っただけでなく、催しを行う時には、館長に頼む仕事も選ばなければならなくなってしまいました。その結果、住民の不満の声が大きくなり主管課にも届き、前の館長にも相談が寄せられるようになりました。
 主管課は、他の児童館で地域との連携に熱心に取り組んだ館長と地域と良好な関係時にいた職員(以後B職員と呼ぶ)をセットにして異動をさせて立て直しを計りました。
 立て直しの取り組みは、異動してすぐに行われ前年度中に立てられていた当年度計画の見直しと事業担当替えでした。
 地域が絡む事業等には、B職員を中心に組み換え、夜の打合せが必要な催しには館長またはB職員が出席して、必要に応じて他の職員も出て取り組むようにしました。
 また、B職員は、以前良好な関係性を保っていた住民と積極的に声掛けしながら、館長のもとに連れて行くようにしていました。足が遠のいていた住民もB職員の声掛けに応えながら、再度館内に足を運びこむようになり、他の職員との交流も復活してきました。
 地域への働き掛けは、B職員が中心的に行い、日常会話から催しに関して提案し合ったりしてから打ち合せに望み、お互いの意見の統合を図るようにしました。
 ここで気を付けていたのが、検討や決定はできるだけ多くの人が集まった場所で行うということです。ある程度の筋道を立てながら、残りの部分は柔軟な対応で変えられるようにしておくことです。
 打合せの場は、多くの方が参加している意識を持つこと(もたせること)が大切だと思います。報告する場ではなく、話し合いを行う場として意識しながら進めていくことが参加意識を高めていきます。
 しかし、住民との関係が良くなりかけているのに対して、職員の不満の声が聞かれるようになってきたのも事実です。
 通常の児童館業務に加えて、積極的に地域との関係に取り組めば、土日勤務や夜間の超過勤務が増えてきます。今までは、館長が行っていたことを割振られて、指導員の負担が大きくなってきました。
 年度末を迎えた3月、B職員のもとにC職員が相談に来ました。館長のやり方と地域との関わり方に疑問を抱いているということでした。
 具体的には、「地域との関係は大切だとは思うけど、なんでも地域、地域と言うのはどうなのか。」「地域に振り回されて、館の運営が疎かになっているのではないか。」「地域の下請けになっているような気がする。」という内容でした。
 B職員は、「確かに前に比べてしまうと指導員の負担は増えているとは思うけど、それ以上に館長は様々な場面で対応をしている。少しでも指導員が負担して協力し合うのもいいと思う。それが、指導員と地域との関わりを広げることにつながるのではないか」「地域を知ることで、逆に地域を活用する場面も思いつくと思う。」「地域の方とは上下関係があるわけではないのだから、ちゃんと思ったことは伝えていいと思う。」「自分達から壁を作ったり、離れて様子をみたりしたら、地域の人たちは敏感に気がついてしまう。」「行事や催しだけの関係ではなく、日頃からつながっていると思うことが大切。」「ギブアンドテイクの関係がいいと思う。」などと話し合いました。
 言葉は悪いかも知れませんが、「利用されたら利用することも考えてみる。」「賃借的な考えでもいいのかも知れない。」「矛盾を感じることがあり、想いがあるならば隠すことなく伝えあう。」お互いに遠慮をしていては、良い関係は築いてはいけないと思います。
 3~5年で異動してしまう職場で個人が地域との良い関係を維持していくのは難しいと考えられます。いかに継承していくことを考えながら、前向きにみんなと歩む気持ちがあれば、協働・連携は絆となり育つと信じています。
 地域主体の催し、児童館主体の催し、行政や他団体の催しなど参加方法や関わり方など様々だと思います。それに見合った立ち位置や役割分担、意見の出し方などは様々です。お互いの立場を尊重し合い、素直な言葉で接することが関係性を強めると思います。

<参考資料 1>

>>航空写真で見る 台場の移り変わり<<

1963年
(S38年)
お台場(13号地)の開拓は1961年(S36年)から始まりました。当初、お台場は木場として利用されていました。写真左端にあった第2台場は、航行上に邪魔になるとのことで1962年に撤去されました。

1974年
(S49年)
1971年に台場地区の基本的埋め立て工事が終了。材木置き場として活用されていました。

1989年
(H元年)
1987年に着工したレインボーブリッジの橋脚工事が進行中。

1992年
(H4年)
レインボーブリッジの工事が進行中(まだ未完成)。
開通は翌年です。

2000年
(H12年)
1996年に開催予定だった、世界都市博覧会が中止となり低迷時期を迎えていましたが1997年にフジテレビ本社が移転して再び活性化が進みだす。

2007年
(H19年)
ほぼ建物が立ち並び、港区の敷地内では、これ以上の建設は難しいと思えます。

>>>まだまだあるけど 台場に来たら必ず立ち寄るスポット<<<

ビーチフェスタで楽しくゲームに参加する子どもたち





<参考資料 2>