【自主レポート】

第35回佐賀自治研集会
第1分科会 住民との協働でつくる地域社会

 定年が射程内に入ってきた50歳代半ばに差し掛かり、公衆衛生職場で自治体職員として働く自分には、居住地域のなかでどんな役割を担えるのか考えレポートに纏めてみました。



限界集落……に思う


島根県本部/吉賀町職員労働組合 河野 克子

 限界集落とは、「人口の50%以上が65歳以上になり社会的共同生活の維持が困難な地域」……と定義されている。初めてこの単語を聞いたとき、なんと絶望的で未来の展望を断ち切られたような響きをもつ言葉だろうか……と思った。
 私は、2013年2月末現在人口89人、世帯数44戸。うち65歳以上人口50人、65歳以上世帯数34戸。65歳以上人口割合56%の町が指定した「限界集落」で暮らしている。
 高齢化率56%といえ、社会的共同生活はまだ十分維持可能で自治会活動を中心に機能している。自治会組織は、会長と副会長(会計兼務)が1人ずつ、その下に小組み毎に自治委員が数人ずつの体制になっている。具体的な活動としては、年度末の総会(各世帯から1人以上の参加)に始まり、花見会や敬老会の開催、環境整備(空き缶収集、神社集会所周辺の清掃作業、桜並木の剪定作業)、資源ごみ収集日の立会い、必要に応じての臨時の総会などがある。
 他には、神社の維持管理と運営、農業経営(用水路の清掃作業や野焼き作業等)に絡むもの等がある。葬式も地域の共助により自主的に運営しているが、町の斎場等が整備されてからは自宅で通夜葬儀をする家が激減して、それに伴う葬式の料理等も業者委託が加速し、地域による葬儀運営は10年前と比較するとかなり簡略化がすすみ負担は軽減されてきた。自治体職員の私も地域のルールに従い自治組織活動に参加して生活している。参加要請の連絡がくると、せっかくの休日や気忙しい夜を潰される……という感情が沸くが、参加することで地域住民としての責任を果し、一住民として認められるというプラス面もある。 
 都市部では地域ぐるみという社会関係はほぼ瓦解し「個」、「孤」の生活が当たり前になっている。地域ぐるみの社会共同体が破壊しているため、個別化した住民のニード・ウォンツはますます行政へと向けられ、財政難を理由に職員数を削減された自治体はその対応に限界状況になっている……と聞く。
 個の重視、市場経済体制の推進、小さな政府と称して公的責任の縮小と民営化の推進、社会保障制度縮小等で格差社会が増幅され、日本の地域コミュニティや家族の人間関係が破壊されてきた。児童、女性、高齢者、障害者等弱者への虐待問題、家族間の殺人、無差別殺人、一頃問題化した孤独死、メディア依存……等々枚挙に暇がないほど社会問題が発生している。国家としての体制的なしくみを是正することなく対症療法的、いわゆるもぐらたたき的にその対応を合理化される自治体に押し付けるのであるから、いつまでたっても解決しない。
 東北の大震災で職員の半数以上が死亡した自治体では行政機能が麻痺、住民救助どころではなかった。そこで、復興に差が出たのが、日頃から社会共同体としてのコミュニティが機能している自治体と機能していない自治体であったという。平常時から全てを行政依存するのではなく、住民自治が可能な部分は自分達で対応する組織力を住民自身が認識して実践しているかどうかがこういう危機管理状態で浮き彫りにされるということだろうか。
 私の職場は公衆衛生の分野であるが、2012年に厚労省から出された地域保健対策検討会報告書では、今後深刻な高齢化社会―2050年には肩車社会(65歳以上1人を64歳未満が1人で支える)が到来すると内閣府が推測している―に対応するために、ソーシャルキャピタルを活用した自助及び共助の支援の推進、地域特性を生かした保健と福祉の健康なまちづくり、医療、介護及び福祉等の関連施策との連携強化、地域における健康危機管理体制の確保等々を提言している。
 特に住民組織力―横と横の繋がりの重要性を見直した、「ソーシャルキャピタル:社会関係資本または人間関係資本」の醸成、構築を推進することを大きく掲げている。後継者がいない高齢化の進む自治体や地域では、残された住民は皆異口同音に「元気でおらにゃあいけん」という。健康を維持するには個人や家庭だけでは限界がある。地域或いは社会共同体で支えあいながら、心身両面の健康づくり活動や介護予防活動を積み重ねることが健康の維持継続には欠かせない。それは、地域や自治体の存続にも繋がる。つまりは、少子高齢化が一層加速する日本では住民自治による社会共同体の構築が必須ということである。
 去る3月初旬に、単組の配慮で、自治労衛生医療評主催の地域保健セミナーに参加して、益田保健所の牧野由美子所長の講演を拝聴する好機を得ることができた。
 牧野所長は、ソーシャルキャピタルを活用した自助及び共助の支援と保健と福祉の健康なまちづくりの推進が見直された意義について講演され、最後に自治体職員に期待することとして「公衆衛生の窓口から、住民が自らの健康とその決定要因をコントロールし改善することができるようにする仕組みづくり―住民主体の組織体制の整備を、ソーシャルキャピタルを活用して推進することが重要であり、今現在最も必要とされている。
 健康を切り口にした住民組織活動は利害関係が発生しない。公衆衛生に従事する職員は情勢を学習し住民ニーズを施策に反映する責務がある。そのためには常に地域の公衆衛生課題を俯瞰しそのなかで自分の役割を考えることや他部局との連携や都道府県・市町村の連携:仲間作りの分野横断的役割を意識することが求められる。
 (自分は)公衆衛生の視点から民主主義の構築を追求してきた。住民と同じ目線で地域づくりをするのが自治体職員である。民主主義を育てることを認識する住民が増えないと住民自治は育たない。自治体のなかで民主勢力が結集しているのか。民主主義の認識《いけないことはいけないと言える》をもつ国民が増える国づくりが自治体職員の責務である。地方自治体の力量は自治体労働者の力量でもある」と熱く語られた。このメッセージは私の心に強烈に残り、自治体職員の使命と責任の重さを改めて考えさせられる機会となった。
 私の自宅の、いわゆる向こう三軒両隣は70歳以上で若い世代は皆都会に居を構えてUターンの可能性は0に近い。もう20年、30年すれば私が独りになっていくのは眼に見えたことである。高齢の母親が脳卒中を発症し施設入所となってしまったこともあり、老年期になるまでに、町の中心部……医療機関や役場、商店に近い場所に移り住もうかと考えることがある。反面、限界集落とは云え、生まれ育った地元……慣れ親しんだ山野風景や人々への愛着もある。先日も風邪で数日寝込んだら、「あんたの姿が見えないし、自動車が車庫に入ったままで動かないし、病気にでもなったのか?」と隣家から電話がかかってきた。また、我が家の周囲や畑の雑草が伸びると除草剤を撒いてくれたりすぐに調理出来る様に蕗や筍を茹でて届けてくれる。以前には同じ地域に住む幼なじみからは、「あんたが独りになったらどうするのかと家族で話すことがある。他所へ出るのじゃないかと……。淋しいので此処でずーっと居りんさいね」と言われたことがある。有難いことだと素直に思うし、自分も地域のなかで支えられて生活が成り立っていることを痛感する。まさに共助そのものである。
 地域のなかで自治体職員としての期待をされている……という実感は、普段の生活のなかで感じることはあまりない。だからと言って、自治体職員であることを地域のなかで出しすぎるとかえって敬遠される……という、日本の田舎社会の特性がある。自治体職員としての気負いみたいなものは横に置いて、少々煩わしくても自治会活動に参加して一住民として認められることが大切だと思う。それを積み重ねていけば自然と意見や存在が認めてもらえるようになる。まずは自分の居住地域で社会関係資源を醸成・構築していくことが大切ではないかと思う。
 若い頃は仕事と居住地での生活は切り離して考えていた。先に述べた地域保健セミナーの分科会で、首都圏内の自治体から参加していた若い組合員が、「いまさらソーシャルキャピタルを見直そう! と言われても……ピンとこない。ほんとに重要なのだろうか? 第一自分自身も一住民として居住地域の活動に参加することが苦痛であるし楽しいなどと思えない……」と発言していた。この組合員の意見に若い頃の自分であれば共感できた。しかし、加齢に伴い、それではいつまで経っても社会関係資源・人間関係資源の醸成・構築にはならないことが体験でわかってきた。
 老いて便利な新しい土地で「個」「孤」を選択するより、自分の居住地のソーシャルキャピタルを大切にして社会共同体活動へ参加貢献することが集落の存続に繋がり、自治体職員としての責務になる(牧野所長の熱い期待に応えられるかどうかは別として)いうのであれば、先々の事まで深く考えずにここで暮らそうかとも思い直してみたりする最近である。