【自主レポート】

第35回佐賀自治研集会
第1分科会 住民との協働でつくる地域社会

 海士町の第4次総合振興計画は素案づくりに住民が大きく関わり作られた。
 総振に住民参加が行われた背景はなんだったのか。海士町のたどった道を振り返り、いかに住民がまちづくりに参画できる状況になったかを考える。



住民とともにつくった海士町総合振興計画
「島の幸福論」

島根県本部/海士町職員組合

 「島の幸福論」と題された海士町総合振興計画は官民共同で作成されたが、これは、第2次、第3次の振興計画と第3次振興計画中におこった合併問題、交付税削減があったからこそ、住民参加の振興計画はできあがったのである。海士町のまちづくりの路線をまずは振り返ることにする。

1. 第2次振興計画「クオリティライフへの道」

 1989年に発表された第2次振興計画はコンサルタントに依頼し作成したモノであった。住民アンケートも行ったが、町の木、花などを決めたりする程度であった。計画自体は箱物が目立っていた。第3セクターのホテルや交流施設、海中展望船も計画があがり、実際につくられた。インフラ整備はかなり進んだ。

2. 第3次振興計画「キンニャモニャの変」

 第3次総合計画の作成に当たり、第2次総合振興計画期間中にできた箱物の維持費、償還などから、これらを本当に有効に使わなければならない空気が職員間に生まれる。役場職員の自分たちの住む島にあるモノを有効に使うまちづくりをしなければならない。住民が活躍できる舞台を作っていく。そのような意識の下、第3次総合計画づくりは進められた。箱物は極力作らない。あるモノを活かすということに心を配り第3次振興計画「キンニャモニャの変」ができあがった。

3. 合併問題

 平成の大合併の波は当然のごとく海士町にもやってきた。島前地区の知夫村、西ノ島町との合併話である。海士町では14地区すべてで住民との座談会を行い、合併・単独の財政シミュレーション、行政サービスの変化の予想等を住民に提示し、意見をいただいた。
 そして、2003年2月、合併協議会を解散し、単独町制を選択した。

4. 自立促進プラン作成

 単独町制を選択した海士町に今度は地財ショックの大波がやってきた。地財ショックとは「地方財政計画ショック」のことで、国の補助金・負担金の削減。法人税、所得税等の税源移譲。地方交付税の見直しが行われた。
 海士町は2億7,950万円の減額となり、財政破綻も現実味をおびた。そこで、住民代表と町議会と行政が一体となって、島の生き残りをかけた「海士町自立促進プラン」を策定(2004.3)した。この計画は人件費のカット、補助金等の見直し、組織のスリム化、産業振興、定住対策、教育への投資が特徴であった。
 この自立促進プランは、大幅な人件費の削減、わかりやすい少子化対策など、町民にとって役場のやろうとするところが見えやすくなった。「町(島)に対して自分に出来ることは無いか」という思いを持った人のステージが第4次総合振興計画作成へと繋がった。
 第4次総合振興計画策定に当たり、土台となるのは第3次総合振興計画である。先にも触れた第3次振興計画「キンニャモニャの変」とは役場職員により作られた計画である。その内容は、具体的にどんなものだったのか。

5. 「キンニャモニャの変」とは

 1999年3月。第3次総合振興計画は住民にはこのように紹介された。
 本町では、第2次総合振興計画の実施によって、地域の基盤整備は大きく進展した。第3次総合振興計画では、これらを活かし、産業や文化など住民生活への波及効果を生み出すための取り組みを進めていくことが強く求められる。その為には施設間の連携の充実、地域を活かす事業展開が不可欠である。
 こうした状況を踏まえ、地域の生き残りをかけた大競争時代を生き抜くため、本計画の努力目標を「自らが汗を流して、我が町の自慢になる顔を作ろう」とする。そのうえで、本町に受け継がれてきた民衆の芸能である"キンニャモニャ"にこだわり、その歌詞に秘められている「美しい海士の自然への想い」「島民の豊かな人情」といった海士の心と努力目標を重ね合わせ、本計画のテーマタイトルを「キンニャモニャの変」とする。
 "変"の意味には、これからの海士町を作っていくために「ものの見方」「ものの考え方」など、あらゆる面で変わっていかなければならないという気持ちが込められている。私たちは、良い意味での変化と創造を求めている。
 単なるこれまでの延長では、大競争時代を勝ち抜ける魅力ある海士町を築いていくことは難しい時代状況となっている。本町に住む一人ひとりがいつまでも快適に暮らすことができ、満足できる町へ変わっていくために、私たちははじめの一歩を踏み出さなくてはならない。海士町は行政・住民みんなの行動で「キンニャモニャの変」を起こす。
 海士町のめざすまちづくり。事業展開フローはこのように紹介された。
① 意識改革。一人ひとりが「やる気」を奮い起こす。
② ふるさと再発見。資源を活かした海士らしい魅力づくり、魅力の向上。
③ 交流。人と人、人とまちの出会いの機会増大。
④ 需要の発生。物の需要、サービスの需要、人材の需要。
⑤ 供給体制。循環産業化を可能にする体制の整備。多様な雇用の機会の創出。
⑥ 経済的豊かさ。産業振興による経済的な自立。均衡ある産業構造づくり。
  環境的豊かさ。「保養」「癒し」を提供する環境の維持・向上。定住条件の向上。
  精神的豊かさ。生き甲斐のある暮らし。誇り、自立心のある暮らし。
 そして、町民みんなの力と知恵で、我がまち海士町を変えていく。それは海士らしい人づくり、海士らしいモノ作り、海士らしい健康作り。ただ新しいものを取り入れることではなく、誇れる自然と歴史と文化を活かして“海士らしさ”を追求すること。どこの町とも似ていない新・海士創りを、町民みんなで始めよう。と、シンボル事業の説明となる。
 この時点で、ハード事業からソフト事業への転換。海士らしさの強調と言った単独町制への布石とも思える愛島心がうかがえる。いつまでも、快適で満足な暮らしの島という持続可能社会のイメージもうかがえる。「キンニャモニャ」にこだわるのは、それが島民誰もが踊れる民謡であること。「町民みんなでまちづくりに踊りましょう」という呼びかけでもある。
 ただし、「変」には、これまた海士町のシンボルとも言える「後鳥羽天皇」の「承久の変」のイメージもあり、意識改革への意欲と、頓挫しないようにという意識が入っている。
 シンボル事業は「キクラゲチャカポン計画」というこれまた「キンニャモニャ」の囃子詞「キクラゲチャカポンよって来いよ」が使われている。これは「キクさんもチカさんもみんないらっしゃい」という、「住民参加でやりましょう」という意識づけが行われている。
 シンボル事業の中身はというと……

(1) 人づくり~海士学~カレッジ開校事業
 海士の暮らしの中で育まれ、伝えられてきた技術や文化は、訪れる人々に感動を与える私たち町民の財産である。だから、このまちの素晴らしさを再発見・新発見して、町内外の人々との交流の輪を広げるために、あらゆる海士の達人を育てる。きっとそこに海士町を知る喜びとともに、新しい自分自身の発見があるはずである。
 あのもんだわい(達人づくり)事業では海士の達人づくりを推進し、体験型交流事業の基盤(講師等)となる人材育成を図る。
 人材を育てる体験カリキュラムづくりでは海士の歴史・文化・生産の資源や土地資源を活かした学びの体験カリキュラムを作成する。
 この海士学は、学校に於けるふるさと教育の推進の根拠ともなった。島では20代の人が少ないことから、都市部で活躍する20代の人や大学生との交流事業が生まれ、「人間力プロジェクト」へと発展する。

(2) 物づくり~あま市~キンニャモニャブランドづくり事業
 私たちが普段当たり前に接している自然が、町外の人にとっては新鮮さや驚きであったりする。海士の自然の素晴らしさを、より大勢の人々に発信する。食べておいしい自然、見ておいしい自然、体験しておいしい自然。この海士の自然を町民みんなの誇りとして、愛し、守り、育み、海士ブランドにする。
 市場から注目され、海士ならではの夢のあるモノづくりの実現に向けた取り組みを進める。モノづくりを生産品や製造品だけでなく、自然景観づくりや体験のできる環境づくりなども広義の「モノづくり」ととらえた斬新な発想で、次のようなブランドづくり事業を展開する。
【朝市事業】
 本町で採れる野菜や魚介類は、美味しくて安全性の高い良質なものである。しかしながら、町内で販売・消費されている店頭商品の大部分は島外からの仕入れ品に頼っている状況である。海士らしい食を追求していくためには、地場産品の地元消費を推進していく必要がある。このため、地場産品の良さを再確認できる「朝市」の規模拡大と定期開催化を図り、「つくる・売る・買う」による地域内善循環体制の構築をめざす。
 また、「朝市」は地元消費者に限らず、観光客など、海士町を訪れた人にとっても魅力ある市をめざし、海士の良質な品物を広く紹介するとともに、「ものをとおした交流」を推進する。
【特産品開発事業】
① 生産・製造。特産品の開発は、素材の発掘や商品の開発とともに、安定供給を可能にする原材料の確保や加工作業などにおいて一定の労働力を必要とするものであり、波及効果の大きな産業振興策といえる。そこで、本町の良質な地場産品を使い、価格の高い特産品の開発に取り組むこととする。事業展開に当たっては、調査・検討を進める機関や庁内体制の整備を図り、推進体制を確立することとする。商品化を行った後は、位置づけの確立、生産力向上の必要性などを勘案した上で基盤となる施設の整備についても検討し、事業規模の拡大を図っていく。
② キンニャモニャを活かしたイメージ戦略。海士町民の大多数が踊れる町発祥の民謡「キンニャモニャ」を活かしたイメージ戦略を展開し、商品のブランド化や販売促進に役立てる。また、キンニャモニャを前面に出した祭りの開催、キンニャモニャグッズの作製、キンニャモニャキャラクターの図案化など、いつでも誰でも簡単に踊れるキンニャモニャをPRし、観光資源としても有効活用を図る。
【体験型観光システムづくり事業】
 本町の豊かな自然を生かした島の季節感を味わうイベント、休耕農地を利用した収穫の喜びを味わえる農業体験イベント、和歌、俳句をテーマとするイベント、観光漁業の実践など、海士の自然・産業・文化をはじめとする豊富な資源を活用した体験型観光システムの確立をめざす。又、あま学「カレッジ開校事業」をとおして育成を図る事業の担い手の受け皿となり、育成の場と活用の場の連携体制をつくっていくこととする。
【自然景観保全事業】
 日本海の波がもたらした奇岩や海岸線の美しさや山頂からの眺望など、海士には、他地域の人々に誇れる豊富な自然景観が守られている。また、島としては珍しい稲ハデのある農村夫筌(うけ)を見ることができる。このような古から受け継がれてきた自然景観や産業景観を保全するため、景観保全地域の選定を行うほか、土地利用の規制なども検討しながら、海士らしい自然景観の保全に努める。
 特産品開発は産品名をあげてはいないが、これは「隠岐・海士のいわがき『春香』」の戦略が示されている。体験型観光システムは未だ完成してはいないが、「島まるごと学校」の位置づけとして、Iターン企業が取り組んでいる。自然景観保全は「日本で最も美しい村連合」や隠岐ジオパークが成果といえる。

(3) 健康づくり
 海士の豊かな自然をたっぷり楽しみながら、誰でもが気軽に健康作りができる。そんな明るい福祉と保養の環境を整える。町民みんなで描く人と自然と施設が心地よくリンクする未来予想図。町民みんなが参加して、町民みんなの力で実現させ、そして、町外の人々にも広く開放する。活気ある健康的な町をめざす。
 あま心。生活水準が大きく向上した現在、多くの日本人の関心は「健康」に向いています。
 こうした社会的ニーズを受け、身体を癒せる環境・心を癒せる環境づくりを追求することとし、保健福祉センター「ひまわり」、海士温泉「承久の湯」、宿泊滞在施設などの既存施設を有効活用する。また、本町は糖尿病対策が充実しており、その管理システムを活かした健康作り事業を構築するとともに、これに基づく健康体験実践プログラムを作成する。さらに、町内宿泊業者には、地元食材を使った健康食メニューの導入を促し、安心して食べられるメニューの提供を図っていく。このように人々の保健と保養に対するニーズを満たす総合的な体制づくりを進め、海士の自然を楽しみながら健康作りができる環境を提供していく。
 町外に情報が出ることが少ないが、様々な試行錯誤が行われている。
 この計画策定前に、当時の係長職員、議員、住民の有志による湯布院視察が行われ、その流れから「中ノ島親類クラブ」というまちづくり団体が結成された。「キンニャモニャの変」には「中ノ島親類クラブ」での議論の影響があるものの、広く人を募り計画づくりをしたわけではない。ほぼ、住民不在の役場による計画であった。みんなでやろうと呼びかけはしているが、浸透するには時間がかかり、それは合併問題プラス財政危機によってようやく理解されたようなものである。

6. 第4次総合振興計画策定に当たって

 3次総後半、単独町制を選択してからは海士デパートメントストア計画~島まるごとブランド化~という路線補正が行われた。特産品開発からうまれた交流は教育や健康づくりにも分野をひろげ、「人間力プロジェクト」というチームもつくった。
 第4次総合振興計画策定に当たり、3次総の「町民が活躍する舞台づくり」が役所からの一方通行になってしまったことから、住民参加なしでは誰も登らない舞台になってしまうこと。交流から定住した人達は、せっかく移住したからには、長く住める町になって欲しいという希望があること。中高生には帰ってきたくなる町になって欲しい。そのような観点から企画部署ではなく、事務局を教育委員会内の「人間力プロジェクト」に置いた。そして、家島での住民参加型総合振興計画策定に当たったスタジオLの西上ありさ氏をコーディネーターに迎えた。これは、役場プロデュースでは3次総と同じ轍を踏むかもしれないことがあげられる。
 素案策定には中学生からベテラン住民。役場職員は係長以下の若手が参加した。この素案策定の集まりは、「海士町の未来をつくる会」として、4つのグループに分かれて討議していった。
 4つのグループのテーマ、キーワードは以下のとおりである。
① 人に関する視点 キーワード:教育、人口、文化
② 産業に関する視点 キーワード:モノ・交流づくり、連携、情報
③ 環境に関する視点 キーワード:自然環境、生活環境 
④ 暮らしに関する視点 キーワード:豊かさ、医療、健康、福祉
 3次総が3本柱に対し、4本柱に。環境に関する視点が産業から独立した格好である。
 2回目からの会は各チーム毎での話し合いとなる。
 第2回の会では海士町の理想の10年後、未来のビジョンを話し合い、
 第3回は海士町の魅力と不安を出し合う。
 第4回は悩みを解決するための方法について語り合う。
 ここで各チームの有志が集まり2回の勉強会が入る。
 第1回勉強会は各チームの進捗状況を報告。計画全体のテーマを考える。
 第2回は人口減少社会を知ろう。各チームの問題を共有する。
 この2回の勉強会では、各チームの中にチーム内では解決できない、実行できない事例を協働すべきチームに振るということも行われた。
 チーム討議に戻って、第5回は海士町の将来のために「私がしていること」「私がしたいこと」「みんなでしなければならないこと」を整理する。
 そして、各チーム有志による第3回・第4回勉強会兼合宿を行う。チーム毎の重点事業を考える。全体で重点事業を考える。計画全体のテーマ案を考える。
 第6回はチーム毎に重点的に取り組みたいことをまとめ、取り組み方法などを考える(アイデアを出し合う)。
 第7回はチーム毎に重点的に取り組みたいことを絞り込み、提案シートにまとめる。
 最終報告会を一般公開で行い、海士町の未来へ向けた各チームからの提案を発表。計画全体のイメージと今後についての意見交換を行い、報告会終了後、第2部として、各チームの代表4人と各課長らで第1回策定委員会を開き、各チームの提案と各課の取り組みに関する意見交換を行う。
 第2回策定委員会では各チームの重点事業と担当課の意見交換(ワールドカフェ方式)。
 2回の策定委員会を経て、各課別ワークショップを開催。計画策定の進捗状況を共有し、各チームからの提案を紹介。各課の取り組んでいる事業、今後取り組みたい事業の整理を行う。海士町の3大行事の一つ、産業文化祭で総合振興計画の取り組みを発表。寸劇を交えながらの発表は計画と住民の距離を近づける効果もあった。
 第3回策定委員会では基本構想(政策、理念、テーマ)について話し合い基本構想案をまとめる。
 第4回、5回の策定委員会で総合振興計画の全体を通読し、協議、計画全体のテーマを決める。
 町長へ総合振興計画案を提出。2回の審議会を経て、町長へ答申。そして議会での議決を得た。
 2009年4月に第4次総合振興計画発効となる。
 住民との協働作業は素案策定の段階までであったが、参加した職員は一町民という立場と、やはり職員として、現在取り組んでいる事業や予定の事業からかけ離れた案は出しにくいものであった。ただし、現在までの役場の取り組みなどは、広報誌や年1回の座談会では住民に浸透してはいないもので、参加した住民のみなさんには役場の取り組みを理解いただけたと思う。そこで、そういう政策ならこんな事はできないか? もっとこうすればどうだ? と、当事者感覚からの意見が計画に反映できたと思う。
 第4次総合振興計画~島の幸福論~の別冊として、素案策定時に紹介された提案を「海士町をつくる24の提案」と題し配布した。別冊と題しているので、計画策定の副産物と捉えそうだが、策定の過程を見るからに、こちらが4次総の基礎、精神である。一人でできること。十人でできること。百人でできること。千人でできること。この四つはつまり、自分の心がけ、意識でできること。仲間が集まればできること。地区単位やそれなりの予算が必要なもの。町で島で取り組まなければならないこと。である。
 まちづくりは「何でもかんでも町が予算化した事業でなければならない」訳ではなく、色んな単位の中で参加できるのである。また、この冊子において、24提案が役場のどの部署が担当で、関連はどの部署かを示している。住民がやりたくなったらどこに相談に行けばよいかわかるようにしている。
 3次総で訴えた「みんなでまちづくり」は最後の年で役場と住民の歯車がかみ合った。
 隠岐島前高校魅力化プロジェクトのように成果の出ているプロジェクトもあれば、地道に活動する住民プロジェクトもある。幸福論実践も後半戦に突入した。3次総、4次総を牽引してきた職員も役場を去るときが近づいてきている。世代交代を目の前にして、現30代の職員には、自分の所属課のみならず、役場全体の動きも感じながら、次期総振策定に向けて、住民の声を聞く機会を作りながら仕事に向かってもらいたい。40代は人を活かす手法を身につけねばならない。まちづくりに正解もゴールもない。ただ、今よりも少しは良い未来を繋いで行かなくてはならない。