【論文】

第35回佐賀自治研集会
第1分科会 住民との協働でつくる地域社会

 文化財保護行政や考古学の常識はときとして地域住民とのコミュニケーションを阻害する要因となる。文化財保護の制度や考古学の価値基準は、地域住民には理解できない場合も多い。本稿は、文化財保護行政や考古学の常識に頼り史跡整備を進めた際の地域住民と文化財保護行政・考古学のコミュニケーションエラーの事例をとおして、市民活動支援としての文化財保護行政・考古学のあるべき姿を考える。



市民活動としての史跡の保護と活用
~パブリック・アーケオロジーの視点からみた史跡整備の意義~

北海道本部/桧山地方本部・厚沢部町職員組合 石井 淳平

1. はじめに

 パブリック・アーケオロジーとは考古学が社会に与える影響について考察する営みである。その内容は多岐にわたるが、「教育的アプローチ」、「広報的アプローチ」、「多義的アプローチ」、「批判的アプローチ」の4種に整理されている(松田・岡村2012、p26-28)。本稿では「多義的アプローチ」の視点から市民活動(註1)の成果として史跡整備を進める際の課題を確認したい。


2. 「多義的アプローチ」とは

 先述の松田・岡村(2012、p27)によると「多義的アプローチ」とは「考古学的解釈の多様性」を意味するという。「社会の様々な立場のグループが遺構や遺物をどのように解釈するのかをまずもって理解し、その上で、それらの保存・活用について最もバランスのとれた判断を行おうというのがこのアプローチの主眼である」という。
 筆者が関わっている史跡館城跡では、次に示すように昭和30年代から市民活動として史跡整備の気運の高まりがみられる。こうした市民活動の延長として、平成26年現在では厚沢部町教育委員会が館城整備事業を進めている。市民活動としてスタートした史跡整備事業においては、「考古学的解釈の多様性」がときに深刻な意見の相違を生み出す。また、史跡という「場」の捉え方においては、地域住民と文化財保護行政・考古学(註2)には根源的な相違がある。
 本稿では、こうした相違の実態をパブリック・アーケオロジーの「多義的アプローチ」の視点から明らかにしたい。


3. 史跡館城跡保存整備の歴史

(1) 明治元年~昭和30年代
 館城は明治元年に松前藩の新たな拠点として築城された城郭である。明治元年9月初旬に着工され、同年11月に旧幕府軍の攻撃を受けて落城した。
 落城後の館城は、長く手付かずで放置されたようである。明治19年6月14日に館城を訪れた北海道庁理事官青江秀(『青江理事官北海道巡回紀行』北海道立図書館所蔵)や、明治21年に鷲の巣(現厚沢部町字富里)に入植した二木小児郎(二木1937、p48)らは、落城後廃墟のまま放置された館城の姿を記録に残している。
 明治30年代以降、館城の所有者は松村弁治郎、田口伊右衛門、前川吉三郎と変遷するが、いずれの所有者も史跡の保存に関心を示したという(厚沢部町史編纂委員会1969、p379)。

(2) 昭和37年~43年
 昭和37年に館城跡保存会が発足した。史跡保存会ではばん馬競馬を行い、その収益でサクラの植樹や案内板等の設置が行われたという(厚沢部町史編纂委員会1969、p384)。トドマツやクリ、カラマツの植樹やツツジ、シバザクラなどの植栽も行われたという(註3)
 昭和39年頃から北海道指定に向けた気運が高まり、昭和39年10月には高倉新一郎や大場利夫らによる調査が行われた(大場1969)。この調査成果を受け、昭和41年7月7日に北海道指定史跡となった。道指定を受けて、地域では再び館城整備の構想が高まり、新たな構想で保存会が発足した。昭和43年には開道100年の記念事業として松前之廣揮毫の館城址石碑の建立や「三上超順力試之石」の安置などの事業が行われた。

(3) 昭和50年代~平成14年
 その後、館城整備の熱はいったん冷めてしまったようである。昭和60年代に入り、館城復元構想が提案されたという(註4)。現在まで続く「館城跡まつり」がこの頃に始まった。昭和63年~平成2年までの3カ年で十勝考古学研究所による館城外郭線の調査が行われた。この調査成果を元に、国指定申請を行い、平成14年9月に国指定史跡となった。
 この間、平成11年に館観光促進会(註5)が発足し、館城までの沿道にサクラを植樹する取り組みや天守閣状模型の設置などを行ってきた。また、館城南側の丸山丘陵を「身の熟れる森」とする計画を平成11年頃から計画し、町に提案したが採用はされなかったという(註6)

(4) 平成15年~現在
 館城の国指定を受け、厚沢部町では平成17年度から発掘調査を開始した。平成18年度に保存管理計画を策定し、翌平成19年度は史跡指定地全部を公有化した。平成24年度に外郭線の調査を完了したことから、平成17年度から継続してきた外郭線の調査成果に基づき、整備事業を実施する方針を固めた。指定地外に堀・柵が所在することが確認されたため、平成25年10月に西側部分の追加指定がなされた。
 平成25年度に保存整備基本構想を策定し、平成26年度現在は保存整備基本計画を策定作業中である。


4. 対立を生んだいくつかのできごと

(1) 殿舎建築の立体復元
 住民が一貫して求めてきた整備事業として、殿舎建築(註7)の立体復元がある。平成21年度に館城の中枢部分の礎石群について測量調査が実施された(厚沢部町教育委員会2010)。その結果、少なくとも3棟の礎石建物があることが明らかになった。このうち1棟は『館築城図』(「増田家文書」厚沢部町郷土資料館所蔵)にある建物平面図とよく一致することが確認された。この調査以前から殿舎建築の立体復元を住民は求めていたが、この調査成果は、住民の立体復元への期待を高めたと推測される。
 しかし、幕末維新期の遺跡において、史跡指定地内での建造物の立体復元には文化財保護法の規定により、①平面図や立面図等の図面類、②設計図書、③建造物の写真、④それらと矛盾しない遺構の検出が求められるとされる。こうした説明が平成20年度から平成24年度にかけて開催された館城跡調査検討委員会や住民説明会等でなされてきた(註8)。文化庁調査官や北海道教育委員会担当者は文化財保護法125条に基づく現状変更の制限により、十分な根拠のない史跡内での立体復元については現状変更が許可されない公算が高いと説明している。また、専門委員(館城跡調査検討委員)からは、復元については十分な根拠が必要だとの意見が出されている(註9)
 こうした意見に対して地域住民や地元代表の専門委員からは次のような反論がなされている。
 ①調査の結果、現地には殿舎建築の建物が存在した可能性が極めて高いと考えられる。歴史上存在しなかった架空の建造物を復元することを求めているのではないのだから、わからない部分は様々な資料で補いながら復元することは技術的に可能ではないか。②縄文時代の竪穴住居跡や中世館跡に伴う建物の復元例は多い。写真や図面が存在しないにもかかわらず復元が認められるケースがある一方、館城のように同時代の現存する建築を参照できる部分が多くあるにも関わらず、根拠が不十分で復元が認められないという説明は筋が通らないのではないか(註10)
 以上のように、殿舎建築の立体復元を求める地域住民の要望に対して、文化財保護行政・考古学の立場からは、法的問題、復元の精度の問題が示されている。

(2) 「米倉」問題
 平成20・21年度に「米倉」と伝えられてきた地点の発掘調査を行った(厚沢部町教育委員会2009、2010)。かつては炭化米がうず高く積み上がっていたとされる地点である。調査の結果、伝承どおり炭化米や焼土を検出したが、建物遺構は検出できなかった。このことから、「米倉」と伝えられてきた地域は、炭化米が出土することから「米倉」と伝承されたのであり、この場所には建物はなかったと結論づけた。この結論に対して、地域住民から反発が寄せられた。以下のような反対意見がなされている。
 ①「米倉」は単に地元の伝承だけではなく、「館城略図」(前川農場所蔵文書)や「館城略図」(藤枝家文書)などにも記載があり、歴史的な事実ではないか。②このことは厚沢部町史『桜鳥』(厚沢部町町史編纂委員会1969)にも記載があり、これをたった一度の発掘調査で簡単にくつがえしてよいのか。
 これに対して、調査を担当した厚沢部町教育委員会は以下のように反論している。
 ①調査地点の遺構残存状況は良好であり、調査検討委員を含め複数の専門家による現地確認が行われていることから、調査地点に建物遺構が存在しないことはほぼ断定できる。②調査地点は遺跡全体からみて僅かな面積であり、「米倉」は別の地点に存在する可能性がある。③したがって調査結果によって「米倉」の存在そのものを否定したわけではない。以上のような反論で地域住民側が完全に納得したわけではなく、地域の伝承や文献資料に記載のあることがらがたった一度の調査でくつがえされてしまうことへの不信感が残された。

(3) 「散兵壕」問題
 平成17年度に行った「散兵壕」とされる遺構の調査も「米倉」問題と同様の結果をもたらした。
 「散兵壕」は昭和43年に館城南側の通称「丸山」で草刈り作業を実施中に発見された(註11)。その後調査等は行われず、発見時の見解である「戊辰の役当時の散兵壕」という理解が定着した。平成14年の国指定の際には「散兵壕」の所在する丸山丘陵一帯を北海道指定時の指定地に加えて指定申請を行っている。丸山丘陵に「散兵壕」が存在することはほぼ定説となっていた。
 厚沢部町教育委員会では平成17年度に「散兵壕」とされるくぼみのうち代表的な3箇所を選定し断面確認調査を行った(厚沢部町教育委員会2007)。その結果、3箇所とも風倒木痕であることが判明した。くぼみに堆積した火山灰が1694年降灰のKo-c2と判定されたことも1868年築城の館城との関わりを否定する材料となった。こうしたことから、厚沢部町教育委員会では他の同様のくぼみについても風倒木痕などの自然の産物であると結論づけた。
 当初、地元住民はこうした調査結果に大きな反応を示さなかった。問題が顕在化したのは、保存整備基本構想策定作業に伴い、「散兵壕」を示す看板の撤去が挙げられたときからである。「散兵壕」看板は地域住民が設置したものだったのである。
 地域住民代表の検討委員は『松前修広家記』(東大史料編纂所所蔵)などに丸山丘陵に松前藩が兵士を配置した記録があることから、丸山丘陵のくぼみを利用した可能性が高いと反論した。「散兵壕」とされたくぼみが自然物であることは認めるが、館城と無関係との評価は適切ではないとの意見である。この意見について、検討委員会では「散兵壕」が館城攻防戦に利用された可能性は否定できないことや地域で伝えられてきた事実を尊重すべきであるとの意見が出されている(註12)。また、これを受けて、厚沢部町教育委員会では、説明看板等の修正により、「散兵壕」と館城との関わりを理解できるように配慮することとした。



5. 対立の根本は何か?

(1) 利害集団
 館城にかかわる利害集団(stakeholders)は次の4つである。
 ①文化庁・北海道教育委員会、②検討委員会、③地域住民、④厚沢部町・厚沢部町教育委員会。
 ①文化庁・北海道教育委員会の立場は文化財保護法125条に基づく現状変更の可否と整備に関わる補助金支出の可否に関する指導を行う立場である。史跡指定地空間の利用方法について、許認可を与える立場にある。
 ②検討委員会(註13)は考古学、環境デザイン、地元住民など複数の立場の有識者で構成される。館城整備事業に関しては、もっとも強いイニシアティブをとる。また、委員のうちわけは考古学3人、環境デザイン1人、地元住民1人となっている。考古学が3人と最も多い。
 ③地域住民は「館観光促進会」を中心とする集団である。地元住民代表の検討委員も「館観光促進会」の代表者が選任されている。旧大字館村を形成していた集落の住民である。昭和30年代から市民活動として館城整備を進めている。遠足で館城を訪れた経験や遊び場として利用した経験があり、現在でも館城を利用した祭りイベントなどを開催している。館城をもっとも身近に感じ、利用している集団である。
 ④厚沢部町・厚沢部町教育委員会は史跡指定地の所有者・管理者であり館城調査や整備事業の実施主体である。

(2) 指定地内における規制
 史跡指定地内においては文化財保護法第125条(註14)の規定により現状変更の規制がなされている。また、史跡整備においては「史跡の本質的価値を構成する枢要の諸要素」を保護することが最低限求められており(註15)、こうした規制は館城整備事業にも一定の制約を与える。しかし、地下の遺構に影響を与えない範囲で行われる復元行為や地表の空間の使い方については明示的な基準は設けられていない。史跡空間全体の利用方法については、法的に明確な基準は存在しないが、現実には文化財保護法第125条の現状変更の制限により規制がされると考えられる。しかし、島田敏男(2006、p116-118)が指摘するように「文化財保護法上では具体的に何を保存するかについては明確に規定されていない」。そのため、「地上の空間全体が保存の対象となっているとすれば、その判断は判断する人の主観に委ねられ、第三者には客観的な判断はできなくなる」という問題を抱える。

(3) 史跡空間をどのように見出しているのか
 「米倉」問題と「散兵壕」問題は、利害関係者間の史跡空間の認識の差異が根本に存在する。特に地域住民とそれ以外で認識の違いが大きい。
 文化財保護行政・考古学にとって、「館城」という「場」は史跡としての本質的価値を見出した時点で認識され、その空間的領域が設定される。山泰幸(2009)は、考古学的な手続きには顕在的、潜在的な二重の機能があり、潜在的には遺跡を創出する行為であるという(註16)。史跡指定という行為は考古学的手続きの潜在的な機能を行政的に実現する行為である。このようにして設定された「場」は、文化財行政・考古学の共同体内部では考古学的な手続きによって創出された価値以上の価値が付与されることはない。
 それに対して地域住民は文化財保護行政・考古学によって館城の歴史的価値を見出される以前から、館城を意味のある「場」として認識してきた。それは、「遠足で焼け米を拾った場」であり、「馬に水を飲ませた場」であり、「水遊びをした場」であり、「ばん馬競馬の会場」である。こうした生活の「場」や思い出の「場」としての価値に史跡としての価値が加わったものが、地域住民にとっての館城の価値である。考古学的な手続きによって創出された価値を至上とする文化財保護行政・考古学の価値観とは相容れない決定的な認識の違いとなる。

(4) 史跡空間の認識と整備手法
 このような「場」の認識の違いは、史跡整備に対する考え方の違いと密接に関わってくる。
 文化財保護行政・考古学が館城の歴史的価値を最大化することを整備の究極的な目的とするのに対して、地域住民は生活の「場」や思い出の「場」に史跡の歴史的価値を付加してその価値を最大化することをめざす。もちろん、地域住民にとっても古くから館城は「松前の殿様のお城があった場所」という歴史的に価値のある「場」である。しかし、その歴史的な価値は、生活の「場」や思い出の「場」としての館城と分かちがたいものである。
 「米倉」や「散兵壕」は、生活の「場」や思い出の「場」としての館城の記憶と強い結びつきを持ちつつ、さらに歴史的価値のある「場」として捉えられていた。そのため、「米倉」に建物がなかったとする調査成果や、「散兵壕」は館城と関わりのある遺構ではないとする調査結果は受け入れがたいものだった。「焼け米」を拾った思い出や、草刈り作業中に戊辰戦争の遺構と思われるものを発見した驚きや喜びが否定されたと感じたとしても無理はない。地域住民にとって、館城の歴史的事実を明らかにすることは至上の目的ではない。生活の「場」や思い出の「場」であり歴史的な価値もある館城に、さらなる歴史的価値を加えて欲しいと願っているのである。

(5) 立体復元と史跡空間の価値
 殿舎建築の立体復元は、歴史的価値を視覚的に表現するもっともわかりやすい方法の一つであろう。少なくとも地域住民はそのように考え、たびたび要請活動を行ってきた。
 この主張に対しては、①「十分な根拠のない史跡内での立体復元について現状変更が許可されない公算が高い」、②「十分な根拠のない復元は史跡の価値を低下させてしまう」という意見が文化財保護行政・考古学の立場からなされている(註17)
 しかし、すでに述べたように、①「十分な根拠のない史跡内での立体復元」については、「十分な根拠」たるべき基準が明確にされているわけではない。地域住民が主張するように国指定史跡においても、検出遺構を直接の根拠として殿舎建築が復元された事例が多く存在する(註18)。先述の島田(2006、p118)が述べるように、「地上の空間全体が保存の対象となっているとすれば、その判断は判断する人の主観に委ねられ」た結果といえる。館城の保存にもっとも尽力してきた地域住民の意見がその判断からスポイルされることに不満を抱くのは無理からぬものがある。
 ②「十分な根拠のない復元は史跡の価値を低下させてしまう」との見解については、なぜ復元によって史跡の価値を低下させることになるのかを論理的に説明する必要がある。極論として、存在しなかった天守閣を復元した愛知県小牧山城の事例が示されることがある(註19)。しかし、地域住民が求めているのは架空の天守閣ではなく、館城に存在した可能性が高いと評価されている殿舎建築である。そのような建築物を復元することが館城の価値を低下させるという論理は理解しがたい、というのが地域住民の言い分であろう(註20)



6. 結 論

 地域住民にとって、史跡とは生活の「場」、思い出の「場」に歴史的価値を加えて成立している。一方、文化財保護行政・考古学は歴史的価値を見出した後に史跡という「場」を認識している。この違いが、史跡整備における根本的な対立の原因である。
 「米倉」に建物が検出されない、「散兵壕」が館城に関係する遺構ではないということは考古学的事実であるとしても、そのことによって、長年親しまれてきた「米倉」や「散兵壕」の歴史的価値が否定されることは認められないとする地域住民の反発は、遺構の解釈の問題ではなく、なんのために調査を行ったのかという調査の意義の問題である。「館城の客観的な事実を明らかにする、それ以上でもそれ以下でもない」という担当者の姿勢にそもそもの問題があったと考える。史跡整備をまちづくりの一環として行う以上、どのような調査結果であってもそれを史跡の歴史的価値の向上に結びつける取り組みが必要だったのである。土屋正臣(2004)が指摘するように「行政が史跡整備をすすめる正当性は、それがまちづくりと深く係わっていることでのみ成り立つ」のである。担当者が、文化財保護行政・考古学の内部規範のみに頼った調査を行い、その成果に基づいて判断を行ってきたことが対立の根本である。文化財保護行政・考古学的な判断の正当性と、まちづくりを究極目的とした手段としての調査の活かし方は分けて考えるべき問題であった。
 殿舎建築復元問題についても同様の構造を指摘できる。文化財保護法第125条に規定する史跡の現状変更には明示的な基準がなく(註21)、文化財保護行政・考古学の内部規範・倫理に基づいた判断がなされているのが現実である。地域住民の立場からは、過去を明らかにする一学問分野である考古学が、それほどまでに強い権威性をもって、場の規制や価値判断を行えるのか、という疑念が生まれることはある意味当然である。
 地方自治体として文化財保護行政・考古学がなすべきこととその理念は土屋(2004)がほぼ言い尽くしている。「地域の人々に対し、史跡を取り巻いていた歴史的背景から地域の成り立ちを示し、さらにはその将来像を描き、提示することこそ地方自治体の進める史跡整備事業である」と土屋は言う。そのためにはどのような調査成果であっても史跡の歴史的価値を高める工夫をする覚悟が必要である。「『散兵壕』は遺構ではないが、館城攻防戦で利用された可能性がある」という言説は考古学的には無意味である。しかし、館城を愛する地域住民にとってはそうではない。学問的な意義とは別の判断基準がありえる。殿舎建築の復元についても学問的な意義とは別の判断基準を許容する余地があるはずである。
 史跡整備はまちづくりという目的を遂行するための手段である。目的にあった手段の選択という意味で、文化財保護行政・考古学の内部規範とは別の判断基準もありえるのである。文化財保護行政・考古学的な正当性だけでは、行政としてのバランスのとれた判断は行えない、ということを肝に銘じた上で業務を進めていきたい。




註1 個人や団体が自由な意志で行う活動で、主に社会貢献を目的にした活動の意味で使用する。
註2 学問分野としては建築学なども含むと考えられるが、史跡空間の利用を規制すべき内部規範をもつ権威を一括してこのように総称する。
註3 「百間堀の丸山側のヤマザクラは菅家さんが木を営林署から分けてもらって植えた。百間堀の道路側のソメイヨシノは町で植えた。昭和38年頃。たくさんあるトドマツもそのころ。カラマツは市居さんの畑で、町が土地を買収した時からそのままになっていると思う。」(平成25年6月5日開催館城跡本整備基本構想対話集会における佐藤永吉氏の発言)、「町内会でシバザクラやツツジを植えた。シバザクラは消えてしまった。昭和30年代の末頃」(同じく和田利男氏の発言)
註4 「昭和30年代にいろいろとやったが、その後、手をかけなかった。木村福寿さんが城跡を復元しようと提案したのが昭和61~2年頃。そのころから城跡祭りをやっている。」(平成25年6月5日開催館城跡本整備基本構想対話集会における佐藤永吉氏の発言)
註5 発足当初の名称は館観光開発促進会だったという。
註6 「平成11年頃から計画したのは『身の熟れる森』。町に雑木を切ってもらう計画をしたが、議会で反対にあった」(平成25年6月6日開催館城跡本整備基本構想対話集会における和田利男氏の発言)
註7 いわゆる御殿建築である。近世城郭における儀礼や行政、藩主の居所として機能した中心的な建物群を総称する。
註8 「御殿系の建物の立体復元、現地で原寸大で復元するためには、(1)平面図、(2)指図といわれる立面に相当する図面、(3)可能であれば古写真、これらがそろっていることに加えて(4)発掘調査でこれらの資料が裏付けられることが現状変更の許可を受ける基本条件だと考えられる」(平成24年度第1回館城跡調査検討委員会における千田嘉博委員の発言)。なお、館城跡調査検討委員会及び館城跡整備検討委員会、対話集会等の記録は厚沢部町ホームページからダウンロードできる(http://www.town.assabu.lg.jp/modules/sightinfo/content0016.html)。
註9 「復元を行うならば、忠実かつ客観的でなければならない」(平成22年7月21日開催平成22年度第1回館城跡調査検討委員会における藤沼邦彦委員の発言)、(復元的整備を)「やり過ぎると遺跡本来の価値を伝えられない」(平成26年6月4日開催ミニシンポジウム「文化遺産とまちづくり」における文化庁記念物課調査官中井将胤氏の発言)など。
註10 「青森県の三内丸山遺跡では縄文時代の竪穴住居が復元されている。縄文時代の設計図や写真が残っているわけではないので、発掘調査の成果によって復元していると思われるが、館城ではなぜそれが許されないのか」(平成26年2月24日開催平成25年度第3回館城跡整備検討委員会における佐藤永吉委員の発言)
註11 「開道百年記念事業として館城址隣地円山(俗称物見台)を公園地として造成の作業をとりすすめましたところ、戊辰の役当時の散兵壕らしきもの多数発見」(厚沢部町教育委員会昭和43年8月13日付文書)
註12 「『散兵壕』の取り扱いについて、厚沢部町史では、丸山で戦闘が行われたことが記されている。発掘調査の結果、『散兵壕』が遺構ではないということになったが、厚沢部町史の記述と矛盾する。」という佐藤永吉委員の発言に対して、千田嘉博委員から「発掘調査の結果、散兵壕として作られた人工物ではない、ということは認めざるを得ない。しかし、地域で伝えられた伝承や記録は、直接証明することは難しいが、大切な情報であるケースが多い。丸山の戦闘が知られているので、この点を重視するべきだと思う。風倒木痕であったという考古学的事実を述べることも大切だが、地域で伝えられてきた事柄も大切にしていくことが史跡整備を進める上で必要なのだと思う」との意見が示されている(平成26年10月24日開催平成25年度第2回館城跡整備検討委員会)。
註13 厚沢部町では館城の調査や整備を進めるための指導委員会として、平成20年度~24年度まで館城跡調査検討委員会(平成20年4月9日訓令第14号)を設置し、その後、整備事業に特化した指導委員会として平成25年度から館城跡整備検討委員会(平成25年4月9日訓令第13号)を設置している。委員のメンバーには大きな変動はない。本稿では一括して「検討委員会」とする。
註14 文化財保護法第125条第1項「史跡名勝天然記念物に関しその現状を変更し、またはその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、文化庁長官の許可を受けなければならない。ただし、現状変更については維持の措置又は非常災害のために必要な応急措置を執る場合、保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでない。」
註15 「史跡等が有する本質的価値は、史跡等の種別及び性質、立地条件等によって異なる。史跡等の整備は、それらの確実な保存を目的とするものでなくてはならない。」(文化庁文化財部記念物課2005『史跡等整備のてびき』Ⅰ総説編・資料編、p70)
註16 (考古学的手続きは)「潜在的には、それまで遺跡でなかったものを、考古学的手続きによって、遺跡にするという機能である。つまり、考古学的な手続きは、遺跡を創出したのである。言い換えれば、歴史に関する専門的な知識が、さまざまな場所に遺跡を見出していくのである。遺跡があるから発見されたのではない。歴史が遺跡を創り出すのではないか」(山2006、p101)
註17 註8及び註9を参照
註18 青森県根城跡、岐阜県江馬氏城館跡、滋賀県彦根城表御殿、佐賀県佐賀城本丸御殿など
註19 「かつて、中世城郭に本来ないはずの天守閣を建設するような事業が整備事業と称して実施されたことがある。館城跡の場合、建物を復元できるような十分な根拠がそろっておらず、現時点では、推測の上に推測を重ねたような建物しか復元できない。建物の復元に必要な根拠が出そろった上で、復元の可能性を検討するべきだ。」(平成22年7月21日開催平成22年度第1回館城跡調査検討委員会における後藤元一委員の発言)
註20 「平面より立体、縮小より実寸のほうがより印象性は高揚し、同時に展示効果は高まる。実寸大で立体的空間復元を整備法とした遺跡としては、佐賀県所在の特別史跡吉野ケ里遺跡、沖縄県那覇市の史跡首里城跡等が代表例としてあげられ、異次元的非日常性の展示空間が創出されている」(青木2006、p10)と評価されるように、遺跡における立体復元は有効な展示戦略と考えられる。地域住民が館城の殿舎建築の立体復元を求めることも、館城の史跡空間の「異次元的非日常性」を高めようとする戦略の一つと考えられる。そのような展示戦略が史跡の価値を低下させるという文化財保護行政・考古学側の説明が今ひとつ理解しがたいのであろう。その一方で、「もはや踏査対象として『死んでしまった遺跡』が日本列島で陸続と生み出されている」(田中2002、p404)との指摘があるように、復元的整備によって遺跡が観察のフィールドとしての役割を果たせなくなる危険がともなう。
註21 実際には「ベニス憲章」(記念建造物及び遺跡の保全と修復のための国際憲章)や「考古学的遺産の管理・運営に関する国際憲章」に準拠した判断がなされていると考えられる。『史跡等整備の手引 Ⅰ総説編・資料編』(文化庁文化財部記念物課2005、p34)では、「日本の史跡等における復元・再建の問題については、国内外を問わずなお議論が継続しているところであるが、全般的に見れば国際憲章等に示される基本原則の精神において理解し得るものである」としている。

【引用文献】
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厚沢部町教育委員会 2007『史跡松前氏城跡福山城跡館城跡Ⅲ-平成17・18年度町内遺跡発掘調査事業に伴う発掘調査報告書-』厚沢部町教育委員会発掘調査報告書第5集
厚沢部町教育委員会 2009『史跡松前氏城跡福山城跡館城跡Ⅴ-平成20年度町内遺跡発掘調査事業に伴う発掘調査報告書-』厚沢部町教育委員会発掘調査報告書第7集
厚沢部町教育委員会 2010『史跡松前氏城跡福山城跡館城跡Ⅵ-平成21年度町内遺跡発掘調査事業に伴う発掘調査報告書-』厚沢部町教育委員会発掘調査報告書第8集
厚沢部町史編纂委員会 1969『桜鳥-厚沢部町の歩み-』
大場利夫 1969「北海道檜山郡厚沢部城址」『日本考古学年報』17(昭和39年度)
島田敏男 2006「史跡で、できること、できないこと」『遺跡学研究』第3号
田中新史 2002「有段口縁壺の成立と展開」『土筆』6、土筆社
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松田陽・岡村勝行 2012『入門パブリック・アーケオロジー』同成社
山泰幸 2009「遺跡化の論理」『文化遺産と現代』同成社