【レポート】

第39回静岡自治研集会
第5分科会 コロナ禍の平和運動を探る ~平和運動の原点と未来~

 相模原市内には3つの米軍基地が所在し、市民生活やまちづくりに様々な影響を及ぼしている。このため市民・労働組合と行政は、米軍基地による諸問題の解決と基地返還を求めて今日まで運動を行ってきた。中でも代表的なのは1972年の米軍戦車を止めた「戦車闘争」である。この闘争がベースとなり、その後も反基地運動が高揚し、段階的ではあるが基地の一部返還につながるなど前進している。しかし、50年が経過し「戦車闘争」に直にふれた市民はもう数千人もいない。相模原地方自治研究センターでは、闘争から50年の節目を迎えるにあたり、「戦車闘争」の意義と地域に残したものを検証するとともに、その歴史を後世に承継する事業を展開した。本稿は、その取り組みをまとめたものである。



「相模原における戦車闘争の意義と承継」事業の実施
―― 戦車闘争が残したもの 伝えたい50年前の熱き闘い ――

神奈川県本部/相模原地方自治研究センター 田中  充・阿部あけみ

1. はじめに

 神奈川県北部に位置する相模原市は、2010(平成22)年4月、戦後誕生した市として初めて政令指定都市となり、人口約72万人、面積328.91kmの首都圏南西部をリードする広域交流拠点都市として成長を遂げている。市内には、キャンプ座間、相模総合補給廠、相模原住宅地区の3か所に広大な米軍基地が所在し、市域面積の約1.3%を占めている。いずれも、人口が密集し都市化が進展する市街地に位置することから、市民生活に様々な影響を及ぼし、まちづくりを進める上で大きな障害となってきた。このため、市民・労働組合と市は長年にわたり、基地に伴い発生する問題を解消すべく基地反対運動に取り組んできたが、近年はそのエネルギーも次第に低下しつつあるようにみえる。このことは、市内の基地問題に限らず今日の日本社会における平和・人権等の運動でも同様であろう。
 今から約半世紀前、相模原で「戦車闘争」と呼ばれる米軍戦車の搬出阻止闘争が行われた。1972年夏から秋にかけて、横浜線相模原駅近くに位置する「米陸軍相模総合補給廠」の正面ゲート(西門)から搬出される米軍戦車の移送を阻止しようとした約100日間の熱い闘いである。多くの労働者・組合員や学生、市民が現地に集まり、当時のベトナム戦争反対運動を盛り上げ、平和を求める市民に深く訴えかけ社会にアピールしたという点で、重要な社会的意義を持つ運動である。今日、改めてこの「戦車闘争」を評価・総括し、そこから学ぶことは多いと考えるが、一方でこの闘争に直接に関わった市民はもう数千人も残っていないという実態がある。
 そこで相模原地方自治研究センター(以下「センター」という)は、相模原の戦後史において市民中心の抵抗型運動である「戦車闘争」から教訓を学び、現代と次世代に承継していくことを目的とし、以下の取り組みを行った。

2. 相模総合補給廠と「戦車闘争」の概要

(1) 相模原駅北口に隣接する「相模総合補給廠」

図1 相模総合補給廠と戦車闘争の位置
 相模総合補給廠は、JR横浜線相模原駅から矢部駅までの北側一帯を占める在日アメリカ陸軍の補給施設である(図1参照)。1945年に旧日本軍の相模陸軍造兵廠の敷地と施設を接収して設置された。アメリカの陸軍・海軍・空軍と海兵隊の小銃、糧食、野戦医療セット、工作車両等の各種物資が常時保管され、アメリカの世界戦略を支える重要施設である。敷地内には車両のテストコースを整備するなど当初は約218haという広大な敷地を抱え、横浜線に面する西門が事実上の正面ゲートとして機能し、ここから公道に接続して国道16号線につながっている。この西門前の道路一帯が「戦車闘争」の現場である。

(2) ベトナム戦争反対運動と連帯した「戦車闘争」
 1945年の終戦の後、戦後復興を経て高度経済成長で変貌した日本は、1960年代に始まった米国・南ベトナムと北ベトナムとの間の「ベトナム戦争」では後方支援基地の役割を担うようになった。沖縄の米軍基地はベトナムに直接出撃する拠点として重要な役割を果たし、間接的であるが日本は米軍側に立ってベトナム戦争に関わっていた。
 相模総合補給廠も、ベトナム戦争で使用される米国陸軍の戦闘車両などの供給基地としての役割を担うことになる。戦場で破損した戦車や兵員輸送車両は日本に運搬され、補給廠で修理された後に横浜港を経てベトナムに送り返されていた。この米軍の直接的な後方支援に対し、平和を望む市民や組合員は戦車等の移送を阻止することがベトナム戦争に反対する自らの意思をアピールするとして、人々の結集による車両移動阻止の運動に発展した。
 最初の実力行使の動きは、1972年8月5日に米軍専用埠頭がある横浜ノースピア(現ノースドック)につながる横浜市道の村雨橋(横浜市神奈川区神奈川2丁目近辺)であった。相模総合補給廠からM48戦車を積載して出発した運搬車5台は村雨橋手前でストップした。この時は、「一定重量・幅以上の車両の通行を禁じる車両制限令」(道路法第47条)の規定に基づき、道路管理者である横浜市長の許可なく道路の通行を禁じることを根拠として、合法的に移送を阻止することが可能となり、2日後、村雨橋前の戦車はやむなく国道を経由して補給廠に引き返した。

図2 戦車闘争:(上)西門前テント村
(下)西門前阻止座り込み
 これをきっかけに補給廠の西門前の道路に戦車移送阻止を求める人々がテント村を設置し、以後11月中旬まで約100日間に及ぶ戦車阻止の闘争が行われる。日本政府は、道路法を根拠とした地方自治体の抵抗に手を焼き、車両制限令は米軍と自衛隊の車両には適用しないという政令改正を強引に実施した。これにより合法的な阻止手段の根拠が撤廃され、物理的な阻止闘争は法的根拠を失い収束を余儀なくされることになった。
 テント村には、主要政党の日本社会党や日本共産党のほか、学生団体、労働組合、市民団体が数多く集まり、テントに寝泊まりしながら抗議活動や阻止行動を行っていた(図2参照)。そこにはベトナム戦争反対に同調する市民や地元住民など様々な人々が現れ、一種の「解放区」が形成されていた。抑圧者であるアメリカ・米軍・南ベトナム側と、解放者として対峙する南ベトナム解放民族戦線・北ベトナムという構図の中で、心情的に解放側を支持する市民の感情と共感である。相模原の戦車闘争の高揚は、こうした当時の日本社会の底流にある動きを抜きにして語ることはできない。この点は、戦車闘争関係者の座談会の中でも繰り返し言及されている。

3. 「戦車闘争」の歴史の教訓から学び、承継する取り組み

 戦車闘争から50年の節目を迎えるに際し、「戦車闘争」から教訓を学び、現代と次世代に承継していくことを目的とする承継事業を実施した。

(1) 映画「戦車闘争」自主上映会の開催
 2020年10月に戦車闘争が映画化されたことにより、今までほとんど語られてこなかった闘争の実態が当事者や専門家などの証言や映像によって明らかにされた。これを受けて、映画を通して相模原で展開された画期的な戦車闘争を一人でも多くの市民に知っていただくことを目的に、2021年4月、無料の上映会を開催した。上映会には、映画の原作者兼プロデューサーの小池和洋氏(相模原市在住)と現在も相模補給廠を監視し続けている相模補給廠監視団代表の沢田政司氏に登壇していただき、映画制作に至った経緯や当時のエピソードなどもお話しいただいた。コロナ禍での開催ではあったが、116人が鑑賞した。

図3 上映会で挨拶する小池プロデューサー
  〇映画「戦車闘争」自主上映会の概要
    日 時  2021年4月16日(金)午後6時~午後8時
    会 場  相模原市あじさい会館 1階ホール 
    上 映  映画「戦車闘争 SAGAMIHARA,YOKOHAMA 1972-20XX」
    登 壇  小池 和洋 (プロデューサー)
         沢田 政司 (相模補給廠監視団代表、センター研究員)
         武田 秀雄 (センター理事長)

(2) 座談会「戦車闘争が残したもの」の開催
 2021年9月、戦車闘争に参加した地域の関係者による座談会を開催した。司会進行は、センターの理事長・事務局長が務め、出席者はそれぞれの立場で当時どんな形で闘争にかかわり、どのような思いで抗議活動に参加したのか、何がエネルギーとなって動かしたのかなどについて語りあった。意見交換の中では、当時のテント村の雰囲気や、ベトナム戦争を背景とした活動している参加者の心情が紹介され、さらに戦車闘争がその後の相模原における米軍施設用地や基地の返還につながった影響についても言及があった。
 座談会の内容は、次項で述べる報告資料集に登載するとともに、広く一般の方にも読んでいただきたい趣旨からブックレットに掲載して多くの読者に手に取っていただくことができた。

図4 「戦車闘争が残したもの」座談会
    日 時  2021年9月18日(土)午後2時~4時30分
    会 場  株式会社ア・ドマニー 3階「清風の間」 
   〈発言者〉 山口 幸夫(原子力資料情報室共同代表、当時「ただの市民が戦車をとめる」会)
         田中 将治(元相模原地区労・組合員)
         沢田 政司(相模補給廠監視団代表)
         志村 英昭((株)ア・ドマニー代表取締役)
    (進行) 武田 秀雄(センター理事長)
   (コメント)田中  充(センター副理事長)
   (全体司会)佐藤 裕司(センター事務局長)

(3) 報告資料集「相模原における戦車闘争の意義と承継」の作成
 戦車闘争から半世紀が経過する中で、さまざまな媒体の資料やデータが拡散し、また関係者が死去したり高齢化したりするに伴い、その記録や記憶は希薄化することになる。センターでは、戦車闘争50年の節目に際し、闘争に関する一次資料を中心に文献等をできるだけ収集し、この出来事の経緯を整理し総括するとともに、闘争が残した意義を改めて検証することを目的に、一般財団法人自治労会館の助成金を活用して報告資料集「相模原における戦車闘争の意義と承継」の作成を実施した。

図5 報告資料集「相模原における戦車闘争の意義と承継」

 収録対象は、これまでに各所に散逸していた紙媒体の報告書や発行紙、チラシ、写真・画像、映像など各種媒体の関係資料を幅広く収集し、項目ごとに整理するなど体系化した。また、当事者の記憶が残るうちに実施した座談会記録も掲載した。これにより、相模原で展開された戦車闘争に関する基礎的資料集として活用可能な形にするとともに、その闘争の意義や価値を今日及び次世代に承継することをねらいとしている。

(4) ブックレット「相模原における戦車闘争の意義と承継」の発刊
 戦車闘争には多くの労働組合員、学生、市民等が関わっている。闘争から半世紀が経つことを契機に、こうした幅広い層が結集した抵抗型運動の意義と評価、そして闘争が相模原にもたらした影響を後世にわかりやすく伝えるため、上記の報告資料集の一部を抜粋し、またセンターが収集したビラや写真等の資料、関係者の座談会の発言録、闘争の経過を時系列で作成した年表を取りまとめ、ブックレット形式(A5版96ページ)に編集して発刊した。

図6 発刊したブックレット
 ブックレットは新聞に取り上げられたこともあり、市内外から多くの反響が寄せられた。2度にわたり増刷し、これまで700部を発行している。購読者からは感想や意見など52件(2022年7月14日現在)の声が寄せられた。
 ○ブックレットの構成
  ・発刊にあたって/武田 秀雄(理事長)
  ・相模原における戦車闘争の経緯と意義/田中 充(副理事長)
  ・座談会記録「戦車闘争が残したもの」 ―― 伝えたい50年前の熱き闘い
  ・当時の資料(写真、ニュース・ビラ、激励電報) 
  ・闘争の年表
  ・あとがき/沢田 政司(研究員)


図7 ブックレットの記事:読売新聞2022年2月17日

ブックレット読者の声 2022年7月14日現在52件

(5) 次世代に伝える「戦車闘争」の承継事業:青少年向けマンガの制作
 戦車闘争のブックレットは関心ある幅広い方の手に届き、熱心に読んでいただいたが、やはり中高年の年代層が中心である。若者世代には、50年前の出来事について関心も薄く、情報を届けるのは難事であった。だが、戦車闘争の精神が今日の日本社会につながり、その結果が相模原の基盤づくりに寄与してきたことを考えると、その経緯や評価について、改めて次世代にも発信し、受け止めていただくことは大いに意義深いと考える。
 センターでは、こうした次年代の若者にも理解しやすい媒体を提供する試みとして、マンガ「戦車を止めろ 市民の闘い」の作成に取り組んだ。本稿執筆時点(2022年7月下旬)では作業中であるが、完成形としてマンガの小冊子、動画、展示用パネルでまとめる予定である。展示用パネルは、2022年8月6日~8日開催の「戦車闘争50周年事業 戦車闘争 ―― 50年前、相模原で何が起きたか」に出展し、来場者に発信する。

(6) 資料等の提供・協力
① 鴻上尚史氏演出舞台「アカシアの雨が降る時」に戦車闘争の資料を提供
 舞台「アカシアの雨が降る時」は、戦車闘争を背景にした1972年と2021年をつなぐ、時と記憶を巡る家族3世代の物語である。2021年4月、(株)サードステージよりセンターHPを見て戦車闘争資料の借用依頼があり、当時の映像・資料などを提供・協力した。舞台は2021年6月に開演され、物語の随所に資料をもとにしたセリフや舞台背景に映像が使われた。エンドロールにも協力団体としてセンター名が記録されている。後日、センター関係者と座談会メンバーによるDVDミニ上映会を実施した。
② NPO法人「ここずっと」に戦車闘争の資料を提供
 「ここずっと」は、相模原を拠点に市民活動に携わる人や行政と連携し、まちづくりのための事業とつながるための中間支援を行っているNPO法人である。2022年3月、このNPO法人よりセンターHPを見て戦車闘争資料の借用依頼があり、当時の映像・資料などを提供・協力した。地域情報紙「ここずたうん」特別号用に、市内で市民活動を展開してきた人物を称える記事に戦車闘争時の資料・画像が掲載された。

4. まとめと今後の展開

 「戦車闘争」に関するセンターの取り組みは、以上の6つを柱に活動を展開してきた。すべてコロナ禍での活動となり、入場制限や非公開で行うなど制約はあったが、WEB方式を利用するなど工夫によりウィズコロナの中で対応することができた。主な成果を要約すると、次のようになる。
① 映画上映会では116人の市民が参加し、映像を通じて戦車闘争の現場や当事者の声を理解することができた。
② 報告資料集「戦車闘争」を取りまとめ、闘争に関する各種資料等を体系的に整理することができた。
③ 様々な立場の当事者による座談会を行い、当時の運動への思いや心情、現場の実態など生の声を引き出すことができ、その内容は報告資料集およびブックレットに収録して、多くの関係者に読んでいただいた。
④ ブックレットは手に取りやすい冊子形式とし、相模原市内だけでなく神奈川県内の近隣市や都内の在住者、研究者など、多くの関心ある人に購読していただくことができた。その反響の大きさは、52件もの読者の声が寄せられたことに表れている。
⑤ 幅広い世代への発信として、若者が手に取りやすく、その内容が理解しやすいような工夫としてマンガの制作に取り組んだ。この活用と展開は今後の大きな課題である。
⑥ 映画制作に伴う資料等の協力、演劇舞台公演への資料提供、NPOへの資料提供など、戦車闘争に関する情報センター的な役割を担うことにより、収集資料を有効に活用するとともに、戦車闘争の正しい情報の伝達とその意義の普及などに努めた。
 上映会は、当日夕方1回の上映としたが、より多くの方に鑑賞していただくためには日中も上映するなど上映回数についての課題はあったものの、座談会やブックレットの発行は大きな反響を呼び、読者からは当時を振り返っての回想や現在のロシア・ウクライナ情勢と当時を重ねた感想、意見など多数の声が寄せられた。戦車闘争から50年を迎えることにあわせて実施した事業であったが、こうした闘争の意義を継続して語り継いでいく取り組みの必要性が高いことは、改めて認識させられた。
 また、今回の取り組みに賛同したり反応したりした人の多くは、当時を知る中高年の市民等であった。引き続き承継事業を実施していくにあたり、今後は戦車闘争を知らない若い世代に浸透していくような事業に注力していくことが重要であると考えている。