【自主レポート】

いわき市誕生の軌跡
   14市町村合併後の記録

福島県本部/自治体議員連合・いわき市議会議員 野地登久雄

1. はじめに

 1966年(昭和41年)10月1日、5市4町5村が対等合併し、日本一広い面積(合併当時-1,227.45k㎡)を有するいわき市が誕生した。
 人口は、昭和40年10月の国勢調査によれば、333,881人で全国で24位、東北では仙台市の約48万人に次いで2位、県内最大の都市となった。
 以来、昨年10月1日をもって35周年という節目の年を迎えたが、今日では、市民から当時の合併の是非についての論議は全くない。それほど年月が経過しているということである。
 今日市町村合併問題が論議されているが、合併に至った当時の背景について若干ながら検証してみたい。
 検証にあたっては、昭和42年3月30日に“いわき市総務部文書広報課”が発行した「いわき市誕生の記録」、並びに昭和43年12月1日に“自治労いわき市職員労働組合”が発行した「広域都市“いわき”の診断」の文章等を引用させていただいた。
 また、合併後の旧14市町村単位の人口の推移、いわき市職員数の推移、いわき市職員労働組合員数の推移、財政状況、その他の資料については関係機関にご協力をいただいたことを付記しておく。

2. 14市町村合併にいたる主な出来事

昭和36年 1月10日   広域都市建設促進協議会が発足
(1961) 6月8日   初の5市長懇談会が開催
  8月19日   常磐5市が広域・基幹都市建設計画調査区域に指定
昭和37年 2月28日   常磐炭田内の各市町村が「産炭地域」に指定
(1962) 3月7日   広域基幹都市建設促進協議会が常磐地方新産業都市建設促進協議会と改称
  7月6日   常磐地方新産業都市促進協議会が双葉郡久之浜町、大久村の加入を決定
  9月6日   県議会が常磐・郡山地区を一本化した新産業都市の申請を決定
昭和38年 6月1日   常磐線上野―平が電化開通
(1963)   23日   新産業都市指定獲得県民総決起大会が内郷公会堂で開催
  7月12日   閣議で「常磐・郡山地区」が新産業都市に内定
    14日   新産業指定都市祝賀パレードが開催
  9月20日   常磐地区新産業都市建設促進協議会が常磐地方市町村合併促進協議会と改称
  10月30日   常磐地方市町村合併促進協議会が設立総会
昭和39年 3月3日   「常磐・郡山地区」が新産業都市に指定
(1964) 4月     平―小名浜(鹿島街道)が全線開通(舗装は昭和41年5月)
昭和40年
(1965)
7月29日   役員会・組織委員会の合同会議で、いわき市の合併時期、合併方式、合併の範囲が決定
昭和41年 3月6日   県議会特別委員会が合併調整作業を打ち切り
(1966) 4月27日   常磐地方市町村合併協議会が合併の協定事項等を決議
    29日   遠野町議会が合併を決議
    30日   13市町村議会が合併を決議
  5月4日   14市町村が合併を申請
    16日   県議会が合併を決議、合併の時期は10月1日と決定
    28日   自治大臣が合併を告示
  6月1日   いわき市発足準備事務局が設置
  7月1日   国土開発幹線自動車建設法により、三郷-いわきが建設予定路線に決定
  9月2日   市町村長会がいわき市長職務執行者に勿来市長赤津庄兵衛氏を決定
  10月1日   いわき市誕生・開庁式を挙行。市長職務執行者に赤津庄兵衛氏が就任。
    20日   いわき市長選挙、初代市長に大和田弥一氏
  11月21日   新市初議会(333人)を平市民会館で開催
昭和42年 3月30日   いわき市誕生記念式典を挙行
(1967)      

3. 合併の経過(いわき市発行 ― 「いわき市誕生の記録(昭和42年3月発行)」より ― )

 常磐地区の市町村合併問題は、昭和35年5市合併の気運が高まり、各市から5人ずつの委員(正副議長と議員)を出し合い、審議することに決めましたが、ちょうど勿来市で市長選挙があったため委員の選出がおくれたため、二、三度委員会を開いたものの“勿来市が不参加では”とそのつど流会5市合併も不発に終わってしまいました。
 その後政府が地域開発のために、地方に50万都市、100万都市建設案を練り、最終的に新産業都市建設と名称が変わったのは37年末、本県では常磐地区と、郡山地区が指定獲得に名乗り上げ、全国で43ヵ所にも及びました。当初は指定箇所は数地区に限定される予定だったため、故佐藤知事は本県から2地区が名乗り上げたのでは共倒れになる恐れがあると判断し、常磐、郡山地区を1地区として申請、史上空前の陳情合戦となりました。
 昭和38年6月18日平商工会議所で開かれた新産業都市建設促進協議会総会で、木村代議士(現知事)は常磐、郡山地区は他地区に比べて有利な立ち場にあり、有望であることを力説、次いで6月23日には故大野伴睦副総裁を内郷市公会堂に迎え、新産都市獲得総決起大会を開きました。38年10月30日には常磐地方市町村合併促進協議会を発足させて万全の体制を整え、39年3月に待ちに待った新産業都市建設地区に指定されました。
 合併促進協議会は組織、財政企画、調整、行政の4委員会に分かれ、各委員会はまず先進地を視察し合併上の諸問題を究明するとともに委員会を開いて合併作業を進めましたが、郡山地区はひと足先の40年5月1日に合併を決議しました。
 5市が隣接し合うという特殊ケースだった当地区は、そのころまだ合併の期日も決まっていませんでした。
 このため県は39年8月5日磐城市で開かれた役員会と組織委員会の合同会議の席上40年度中合併を強く要望しました。
 しかし組織委員会の審議は継続審議が永いあいだ続けられましたが、41年7月29日の組織委員会でやっと、①41年6月1日を合併目途とする、②合併範囲は14市町村とする、③合併方式は対等合併という3原則を決定しました。
 しかし最大の問題といわれた都市名、本庁舎の位置、仮庁舎の位置で、またまた大きなカベに当たってしまいました。この3条件について5市と町村部から強硬意見が出たためで、平市は“磐城平市”仮庁舎、本庁舎は平市にと主張、磐城市も“小名浜市”常磐市は“常磐市”勿来市は“勿来市”を主張するとともに他の2条件もわが市へ……という意見です。
 都市名は結局6案が提出され、さらに3条件についてはそれぞれ譲る気はいっさい見せませんでしたが、町村部から“5市間で調整すべきだ”との意見が強くなり、最終案として要望を1点にしぼりましたが、平市と磐城市は本庁舎を要求して対立、常磐市は新市名を“常磐市”それが要れられない場合は本庁舎、勿来市は財政問題の措置と仮庁舎を要望し、委員会はこれらの主張を繰り返しながら41年を迎えたのであります。
 11月中にメドをつけるよう要望してきた県も、まとまらない常磐合併に業をにやし、12月県議会で佐川幸一議員を委員長とする新産業都市建設促進特別委員会を23人の県議団で結成しました。
 合併反対の態度を固守し続けて来た社会党県議を除く特別委の一行20人は、41年1月6日から現地に乗り込み、5班に分かれて事情調査に当たりました。当初13日までの調査日程だったが、合併を阻害しているカベが意外に厚かったため、説得に回った特別委員会の努力も功を奏することができず、結局佐川委員長、高萩副委員長、と各班長だけが現地に残って折衝を続けるとともに佐久間副知事も参加しました。
 このほか菅野出納長、早川農政部長、木村地方課長と県の主脳部が現地に繰り込み、関係者と懇談するなど、合併に協力するよう要望しました。
 自主解決を叫ぶ組織委員会に任せておいたのでは、6月1日合併の実現はむずかしいと判断した特別委員会は各市町村の要望などを勘案し、①新市名は“いわき市”とする、②仮庁舎は平市に置く、③本庁舎は合併後に決める、④その時期と場所については県及び県議会に一任するの4項目にわたる調停案を作成、1月26日に5市長、翌27日に町村長に提示し、31日までに回答するよう要望しました。
 しかし期限までに調整案をのんだのは10ヵ市町村だけで、磐城、勿来両市は保留、常磐市は市名変更を要望、田人村は13市町村がまとまれば合併するといった消極的な態度を明らかにしましたが、その後磐城、勿来両市と田人村が全員協議会で調整案を受けることとし、結局常磐市だけが取り残されました。
 2月6日“常磐市の良識に待つ”という声明書を残して県に引き揚げた特別委員会は、佐川委員長や菅野出納長が2月10日再び常磐市に来て、協力を要請するなど、最後の努力を傾注したが、ついにまとめることができませんでした。
 合併協のなかでの審議、全員協議会のなかでの審議でも、市名が大きな障害となりました。
 2月19日の組織委員会では常磐市は“県の調整案を審議するのではなく、あくまでも組織委員会のルールにのせ、自主的に解決すべきである”と力説するとともに新市名に“常磐市”を主張しました。県特別委員会は2月24日まで常磐市の回答を待つことにしましたが、もめ続ける全員協議会は難航に難航を重ね、回答も伸び伸びとなりました。3月5日の全員協議会でも合併協のルールで審議するなど3項目を確認しただけにとどまりました。
 結局調整案を拒否したため、特別委員会は6日全体会議を開き、調整作業を打ち切り、合併協の動向を静観することを表明しました。そのため23ヵ市町村だけの合併かなどといわれ地域住民をまどわしました。
 新市名と温泉は他市へはやれないと強硬態度を固守し続けた常磐市も、4月19日の組織委員会でこれら2条件を要望に切り替え、合併協がこれを尊重することに決めました。
 これで14市町村が足並みをそろえたことになりましたが、合併協発足以来、2年半でようやく骨組みができ上ったのであります。
 4月27日に各委員会と総会を開き、6月1日の合併を決議、合併が本決まりとなり、30日に関係市町村で議決しましたが、県は合併早期実現という建て前から、5月13日に臨時県議会を招集、16日常磐地区14市町村の合併を議決するとともに、内協議を進め、5月28日自治省から告示され、ここに正式に合併が決定しました。
 しかし結論が出たのが遅かったため、合併の時期は4ヵ月遅れの10月1日となったのであります。

4. いわき市誕生をふりかえって

(1) 合併の背景・目的
   常磐地方は産炭地域として発展してきたが、従来からあらゆる面で極めて一体性が強く住民意識上、共同の連帯感で結ばれており、1つの生活圏・経済圏が形づくられていた。
   昭和37年「新産業都市建設促進法」の制定を契機に、この指定を獲得し工業を中心に地域開発を進めようとする動きとともに、昭和40年には国内的広域行政化の方針のもと「市町村の合併の特例に関する法律」が制定され、合併の機運が一層盛り上がった。
   また、昭和39年3月「常磐・郡山地区新産業都市指定」以後は、当地方の14市町村が合併し、広域行政となることで新産業都市の建設を推進させ、地区住民の福利を一層増進していくこととした。

(2) 合併に向けての市民・経済団体(マスコミの取り組み(動き))
   いわき市の合併は、新産業都市の指定をうけ、一気に盛り上がってきたもので、昭和37年新産業都市指定獲得のため結成された常磐地方新産業都市建設促進協議会(指定には常磐地方の大同合併が前提であった。)及び昭和38年各市町村長、各市町村議会議長、議会議員各5名の委員98名で組織された常磐地方市町村合併促進協議会が、合併の主体となった。このように行政主導で、合併が具体化され、市民、経済団体、マスコミが、合併問題の先導役となることはなかった。

(3) 合併に向けての市民等への啓発
   各市町村において、公聴会、移動市役所、地区座談会などを数多く開いて、合併に向けての市民等への啓発を図った。

(4) 合併による効果
  ① メリット
   ア 合理的な地域開発や、広域的な見地から整備が図られた。
    ・交通通信網の体系的整備
    ・総合的(大規模)な工業団地、住宅団地等の地域開発の促進
    ・福祉、医療施設の整備充実
    ・ごみ、し尿処理施設の整備充実
    ・教育、文化施設の整備充実
    ・上・下水道施設の整備充実など
    ・いわきニュータウン整備事業
    ・21世紀の森公園整備事業
   イ 行政水準の向上と格差の是正が図られた。
    ・清掃事業の一元化、清掃区域の拡大
    ・福祉事業(年金給付、高齢者の医療費給付、福祉手当など)の充実
    ・学校教育の委託・受託の解消、移動図書館の実施など
   ウ 事務処理の能率向上が図られた。
    ・昭和48年5月、新庁舎建設に合わせて、総合窓口を新設(戸籍、住基及び税務の諸台帳を本庁にて集中管理)、証明書等の交付に模写電送装置を導入した。このことにより、各種証明書等の交付が本庁、支所、出張所のどこでも出来るようになった。
    ・昭和55年7月、市民窓口をオープンカウンターとし、同59年8月から電算処理を開始するなど、事務の効率化と合わせサービスの向上に務めた。
  ② デメリット
    本市は、広域合併により誕生した都市であるため、次のような特性がある。
   ア 5市4町5村の対等合併である。
   イ 1,231.13k㎡という広大な面積を有している。
   ウ 都市形態として、多核的構造であり、市街地が分散している。~核の大小はある。
   エ 自然条件あるいは産業経済的にも多様性がある。
    こうした広域都市としての特性に対応するため行政組織が抱える問題として、
   ア 本庁と支所機構のバランスは、組織の合理化と住民サービスのキメ細かさをどう保持するかという点で常に集中と分散の問題がある。
   イ 住民サービス部門においてキメ細かいサービスを確保するため、組織の肥大化、複雑化を招き職員の増加という問題がある。
    本市は、社会情勢の変化に対応した簡素で効率的な行政の確立に向けて、組織機構の見直しや、事務事業の見直し改善に努めている。
    いわき市職員労働組合は、昭和43年12月1日、つまり14市町村が合併してから2年間が経過した時、「広域都市“いわき”の診断」を刊行した。参考資料を含めると186ページに及ぶ力作である。
    私は今次の取り組みに際し、先人が遺してくれたこの貴重な書籍を紐解き、往時のたたかいを振り返ってみた。その一部を以下に紹介する。

5. どうして“いわき市”が生まれたか( ― 「広域行政」の意味するもの ― 自治労いわき市職員労働組合『広域都市“いわき”の診断(昭和43年12月発行)』より)

(1) 権力による合併のあゆみ
   いわき地方の自治体の歴史は、明治以来国家権力による合併と支配層のための地方行政の組織づくりであった。
   明治11年の郡区町村編成法および13年の区町村会法で、自治制度が発足したが、15年の福島事件のように、自由民権運動の拠点になったことから、明治権力は、国会開設以前の明治22年に市制・町村制を施行した(この制度は敗戦まで存続した)。
   それは、国民を支配する道具に自治体をつくりかえ、民主主義運動を圧殺することにあった。このため、外国の歴史にもないといわれる合併政策を打出し、いわき地方でも254村を42町村に再編成し、国民を監視する機関とした(表5参照)。こうして旧村は、いわゆる「自然村」(ムラ)として、自然体の機能を果たさずを得ず、公共事業等を自己負担で行った。一方、新しく合併で生まれた町村はもっぱら徴兵など、国民の義務を監視する国の出先機関としての「行政村」の機能を果たした。
   資本主義の発展とともに、貨幣経済の拡大で、地域間交流が高まるにつれ、町村も住民のものになる傾向も出てきた。その代表的動きが、前述の小名浜町の「強訴」による小名浜港湾修築運動である。
   戦後、明治地方自治制は根本から改革され、地方自治法が新憲法とともに22年制定された。戦後の民主主義運動の高まりの中で、やっと町村も住民自身のものになりつつあり、行政事務配分の準備など、中味を充実する政策も出てきた。ところが、朝鮮戦争を契機に、この民主的改革も中断されるどころか「逆コース」がはじまった。
   その1つが昭和28年施行の「町村合併促進法」だった。こうしていわき地方も5市9町村に再編成された。これは町村制の財源、補助金整理をねらうとともに、農地解放による地主制の崩壊によって、支配層が農民支配を旧町村に期待することができないこと、旧町村のままだと支配層がゆさぶられることにあった。
   こうして、30年代の高度成長の土台がつくられ、旧5市体制が用意された。
   高度成長に入ると、大都市への産業・人口の過度集中がすすみ、その結果首都圏の拡散現象によって小名浜港を中心とする産業基幹整備が財界にとってきわめて重要になり、公共投資が急増することになる。

(2) 新産都市と合併の強行
   37年の新産業都市の実施に先行して、財政の集中化による公共投資の促進と指定区域内の町村合併が必要とされた。この事情について「東京市政調査会」(東京都千代田区日比谷公会堂内)の報告はつぎのようにまとめている。
   「道路、住宅を建設する費用の負担を道路の通る町村だけ、住宅の建つ町村だけの負担にすると、その町村の負担が大きい。しかし、他の町村に負担させようとすると、市町村間に負担区分をめぐって問題が生じる。そこで合併すれば市町村の負担能力も増し、また上記のような利害調整の問題が生じなくなるから、その意味において合併が先決で、現在郡山と常磐の地域で合併が進行中」(「東京からの産業、人口の分散等の実態」昭和38年11月)と。
   もちろん、このうごきは単に、新産都市建設促進という政策のみで進められたわけではない。
   既に33年、内郷鉱廃止をめぐって常磐炭鉱は、旧常磐市と旧内郷市の合併に圧力をかけ、市民の反撃にあって立ち消えとなったし、その後は5市合併について常磐炭鉱出身の市長や議員を通じてPR・運動をすすめていたのである。
  (注) 大村哲也『明るい市政のために-常磐市政の分析』(昭和34年4月)

(3) いわき市合併の問題点
   「5市が一体となって強力な自治体をつくり、新産業都市建設をすすめることが、地元の繁栄である。」と、知事も県議会も露骨な圧力を加えた。最後まで抵抗した常磐市議会に対しては、常磐炭鉱が同会社出身の議員を呼びつけて、合併賛成をせまったという。だが、地方自治法第8条でいう都市の要件を果たしてみたしているのか。正しく測量し計算すると、いわき市は町村に転落するかもしれないと考えられながらも、自治省もOKをあたえたものとみられる。(表6参照)。
   こうした国、県、財界一体となった合併促進がもたらす結果は、北九州5市合併問題や、新長野市合併事件でみられるように、市民には増税とサービス切り捨て、市職員には首切りと賃金切下げ、労働強化をもたらし、大混乱をもたらした。わがいわき市の場合でも、当局側は北九州や長野でやった戦術を必ずとってくるだろう。民間委託、公共施設や支所出張所の統廃合を強行し、場合によれば地方公務員法28条による分限免職までやるにちがいない。
   だが、これらは、合併すればかならずおこってくるものであろうか。たしかに傾向はそうであろうが、自然法則とは異なり、階級間の力関係によって、その内容は大きくかわりうる。われわれいわき市職の仲間が、全国の仲間と手を結び、そしていわき市の市民と手をつないで、この政策に抵抗することができれば、その展望は明るい。むしろ、これを転機として、政府に対し現行の矛盾の1つ1つをつきつけ地方財源対策や過疎過密対策にせまってゆくこともできる。
   そして、いわき市で広域合併の後始末問題をめぐって、地域の労働者、農民、市民の共闘によって政府・財界が追いつめられれば、彼らの政策も大きく動揺する。その意味で、政府・財界も必死になって攻撃をかけてくるが、わたくしたちもたたかえば政府・財界の反住民的政策を変えることができるのである。
   たとえば、かつて戦時中に、神奈川県逗子市が軍部の圧力で合併させられたが、戦後のたたかいの中で、再び横須賀市から独立したことがあるが、住民自らが自治体をつくってゆくことが基本である。いわき市でも、磐城地区ですでに「分市運動」が組織され、市会への請願行動も起こされたことがあることを確認しておきたい。
   たとえ分市運動が困難であるとしても、住民から遠ざかったいわき市を、住民の手にとりもどすためには、今後とも民主的な住民組織づくりの取り組みが必要なことはいうまでもない。
   そうでないと、いわき市における自治体闘争は、広域のためますます地域セクトに埋没し易くなり、各地区の問題、例えば公害問題や下水道道路問題などが、市全体の問題としてたたかわれなくなる危険をはらんでいる。逆に、当局から「特定地域や一部のための行政は市民全体の税金でなく受益者負担で」の攻撃がかけられよう。
   たとえば、公害問題にしても、“それはいわき市の一部の問題だ”として軽くあしらわれてしまうおそれが出てくる。また、地域間のアンバランスが、きわめてひどい現状が、合併によってかくされてしまうので、各地区の実情が全体的にとらえることができるような全市にわたる民主的組織が必要となるわけである。
   行政水準のアンバランスをほんとうに是正させるためには、合併後も、こうした地域別の指標をつくらせておくことが必要である。こうしてはじめて、地域間のバランスをとった投資とその対策も可能となるからである。
   もっとも、このこと1つをとっても、大層むずかしいたたかいではあろうが。
   さて、「広域行政」(たとえばいわき市大合併)が、権力側に都合のよい行政システム(行政のしくみ)であり、市町村合併で県の機能がいよいよ変質して、「日本型道州制」(全国を7~8ブロックに分けて、各ブロックを国の総合出先機関とする)導入の途をたどる手段になるといってよい。つまり、県は都市と農村の均衡発展をはかるという機能をもっているのに、都市合併によって農村部まで、都市に担当させることは、結局のところ農村軽視となり、県はもっぱら広域行政そのものとなり、「府県合併」、「道州制」となってくる。
   以上をまとめると、次のごとくであろう。
  ① 広域行政は、自治体を尊重するのでなく逆な方向をとることが明らかであること。
  ② 合併後の後始末が増税、住民サービスの切り捨て、市職員の首切り、労働強化、賃金ストップにあるのであるから、徹底した市民宣伝こそ、市職と住民の共闘をかちとり、反動市政をハネ返すカギとなること。
  ③ 広域行政による地域間のアンバランスの増大に対応してゆくため、1地区の問題が全市的問題として、とらえてたたかってゆける民主的な市民組織の形成が絶対に必要であること。
  ④ いわき市に対する広域行政による合理化攻撃は、政府・財界の政策であり、これと抵抗してゆくことが、日本全体の地方自治擁護の途につながり、全国の仲間と手を結ぶことになること。
  ⑤ こうしたたたかいの中で、はじめて政府・財界のとなえる「広域行政」が、「道州制」につながることをバクロしうること。

昭和41年10月1日(合併時)と平成12年国勢調査時の地区別世帯数と人口の対比

いわき市合併後の職員数の推移